続・七姫物語 清田編

14

城下の各地区はまだ夏市最後の夜を楽しむ人々で溢れかえっているが、信長はとじいやを連れて急いで城に戻った。そこに座長も呼び出され、城の会議室で声を潜めていた。

「銀国春市の王宮前広場で芝居を打つのには、出身国の正式な身分証明書と、詳細な演目の事前審査が必要です。なので広場で小屋を立てられるのは全員身元の確かな一座ということになります。ですが、広場は出入りが自由ですから、いわゆる大道芸人にはその審査がないんです。なので長年の顔見知りもいれば、毎年初めて見る人もいる、そんな状態でした」

春市の王宮前広場については座長が一番詳しい。かれこれ20年近く王宮前広場を経験してきている。が、件の奇術師は「知っているようで知らない」人物だと言い出した。

「姫もよくご存知の通り、彼は素顔を晒したことがないんです。奇術師は顔より手元を見てほしいとかなんとか、あるいは表情や視線を悟られないようにとか、なんだかそんなことを言っていた気がしますが、とにかく全面、あるいは上半分は必ず覆い隠していました」

衆人環視の中で信長と熱いキスを交わして照れたは、ついちらりと視線を信長の肩の向こうに逸した。すると広場に続く階段の中ほどに昼間見かけた男性が佇んでいるのが目に入った。彼はひとりポケットに手を突っ込んで広場を見下ろしていて、その瞬間は爆破事件の日のことを思い出した。

が奇術師に薬を嗅がされて連れ去られた、ということを目撃したのは、実は座長ひとりだ。真昼のことで、各小屋は子供や若者向けの芝居をやっている時間帯だったし、阿鼻叫喚の混乱の中でを見つけたけれど、逃げ惑う人の波に遮られて手は届かなかった。

そしてはというと、奇術師に挨拶をしていたら爆発が起こり、座長の声は聞こえたけれど混乱でぼんやりしていた。なので強く腕を掴まれた次の瞬間には奇術師の腕の中で彼の素顔を見ていた。目と唇をにんまり歪めた奇術師は、にもよく聞こえないような声で「ごゆっくりお休みください、姫君」と囁き、薬を染み込ませた布を顔に押し当ててきた。

「彼を最初に認識したのはたぶん、じいや同伴で初めて夕方の上演を見た時だと思います。私が10歳のときなので、8年前。すらりとしたかっこいいお兄さんていう感じの装いで、いつも跪いて薔薇を差し出して、ちょっとした奇術を目の前で披露してくれました。でもそれだけで、名前も知りません」

座長にしてもにしても、奇術師は他の多くの大道芸人と変わりなく、春市で顔を合わせては「やあ久しぶり、元気でしたか」「おかげさまで」などという挨拶を交わしてきたに過ぎなかった。なのでなぜ彼がを攫ったのか、そもそも彼は誰なのかということは一切分からないままになっていた。

「ちょっと待った、じゃあもしかして『花の香りのお茶』を売ってたやつと同一人物か?」
「えっ、ええと、ごめんそれは覚えてない……けど、そっか、その時も薬を……
「ちょっと待ってください、何の話ですか」
「話してなかったか……

じいやが怖い顔で首を突き出してきたのでと信長はため息とともに肩を落とした。もう済んだことだと思ってすっかり忘れてた。斯々然々こんなことがありまして私たち出会いました!

「なぜすぐに言わなかったのですか!!!」
「だからそうやって怒られると思ったからでしょ!」
「その頃はまさかあんな事件が起こるなんて思ってなかったし……

事後報告でもこの剣幕なので、「花の香りのお茶売り」の件が直後にじいやの耳に入っていたらは確実にあの年の春市を部屋に監禁されて過ごしたことだろう。だから言わなかった。結局無事だったので、あれは事件というよりもふたりの出会いの思い出として美しい記憶にすり替わっていた。

「オレもちゃんと顔を覚えてるわけじゃないんだよ、蹴り飛ばして伸びてたし、背格好も別に普通というか、不審なところはなかった。ただ暗い路地に王女を引きずり込んでるからヤバいやつに決まってる、っていうだけで。年の頃はなんとも言えないけど、オレたちよりは確実に上だ」

も頷く。奇術師とお茶売りが本当に同一人物かどうかは分からないが、どちらも「に薬を嗅がせようとした、嗅がせた」という点で共通している。すると王妃がスッと手を挙げた。

「ということは、さんだけ2度襲われているのですね?」
「そういうことになります」
「それも何故でしょう。信長の密書を確認するまで、爆破の計画はなかったはずなんでしょう?」
「確かに、その時点で様を拐かしたところで、どうにもなりません」
「奇術師とお茶売りが同一人物ならばの話ですが……かといって別人でもお茶売りの行動は解せません」
「大通りの花茶の店は確か人気の店で、一座の女の子たちもよく行っていました」
「そこに紛れ込んでたのか、奇術師とは全く無関係なのか」
「ご本人を前に無礼な話ですが、そもそも姫は取引材料としては弱い」

王妃とじいやと座長があれこれ話している横で信長は腕を組んで考えていた。何かが微妙に噛み合っていない。奇術師やお茶売りの行動も不可解すぎる。そしてちらりと顔を上げると、真正面に父親の顔があった。父子は一瞬ひたと見つめ合い、そして父はゆっくり頷いた。息子には、それが「お前は間違ってないから言ってみろ」と信頼されているように感じた。

まだその「何か」をはっきりと掴めていない。けれど信長は思いきって手を挙げてみた。

「王子、どうしました」
……爆破事件の計画は本当に一本道だったんだろうか」
「どういうことです」
「本当に学者たちの救出と国王襲撃だけが目的だったのか、って話」

座長がひょいと首を傾げる。だって途中まで仲間だと思ってた学者たちの家族が……

「お茶売りが無関係だとすればを攫う理由がない。王女だと知らなかったのだとしても、広場でウロウロしてる女の子に素人が薬を嗅がせても何も出来ない。まずそこが変だ。でももしそれが奇術師と同一人物あるいは仲間だとしても、初日にすぐを襲うことと学者たちの救出は辻褄が合わない」

じいやがぼそりと「何しろ姫は価値がないですからな」と言ってに小突かれたが、いくら王女でも5番目でまだ子供だった。父である国王が娘を大層可愛がっていたならともかく、それもなし。じいやの言うように侵略戦争の阻止に関係した事件だったのなら、「を狙って攫う」ことに意味がない。信長の声が鋭くなる。

「つまり、初日の時点では爆破関係なく『を攫う』ことが目的だったんじゃないか?」

今度は王妃が首をかしげる。

さん個人を狙ったってこと? そんな恨みを買うような……
「母さん、それ。つまり、に何も問題がないのなら、周囲の人間だ」
「父は私のことなんか……母だって王宮から出ることなんかほとんどなくて」
「そうやって消去法で潰していくと、ひとつだけ可能性が残る」
「可能性?」

両側のと王妃から詰め寄られていた信長は手でそれを制して頷く。

「じいやだよ」

の「まさか」という囁き声とかすかな笑い声は会議室の沈黙に吸い取られて消えた。

のじいやになって13年、とは言うけど、元の経歴はあの銀国の諜報部だろ。本人に遺恨があろうがなかろうが、敵にとっては『銀国の諜報部員』でしかない。もしかしてあんたが発端なんじゃないかと思ったんだけど、どうかな」

じいやが空虚な目で自分の膝を見つめているので、陛下が口を挟んできた。

「私は信長のように長期間外国へ出たこともないし、うちの長老に報告を受けたに過ぎないが、確かにこちらのじいやには色んな過去がある。確かに私はそれをお前たちより把握している。じいやの個人的な過去だ。けれどそれは今の問題とはまったくの無関係かもしれない以上、勝手に話すわけにはいかぬ」

あるいは長老とふたり、裏で協力を約束させていることへの義理として表明しただけだったのかもしれないが、陛下はひとまずじいやの過去については第三勢力または爆破事件との明確な関連性が見つからない以上喋らない、ということを宣言した。じいやの肩が少し落ちる。

「でも……私を攫ったところで、じいやが困ることなんて」
「13年仕えて育てた王女ですもの、大事な姫君だと思いますよ」
「そ、それにしては彼は厳しくて、私はしょっちゅう怒られていて……

どうにもは「自分がじいやの弱点になる」ということが理解出来ないようだ。少なくとも3年前の春市の頃のじいやは何かというとガミガミ叱る養育係といった存在だった。お小遣いも少ししかくれないし、の芝居趣味にはあまり理解もなかった。

するとぼんやりした表情のじいやが顔を上げた。

「確証が……ないのです」
「無数の心当たりのどれが全てに関わっているか、いないか、がか?」
「そうです。諜報部員を退いて13年、遠い記憶しか手がかりがない」

じいやは疲れた顔をぺろりと撫でると、顎髭をしごいて長く息を吐く。

「例えここだけの話だったとしても、私の記憶などという曖昧な情報をばら撒きたくないのです。そんな不確かな情報で混乱させるべき状況ではありません」

代表会議に持ち込んだとしてもひとつひとつ精査する時間は残されていないし、じいやの過去を知っていたとしても信用に値する情報ではないかもしれない。

「確かに私には無数の『心当たり』があります。それは事実です。姫の養育係より、諜報員として働いていた時間の方が長いですし、それだけ思い当たる節はあります。しかしそれら全て一番新しい情報でも13年前のものです。何かしらの確証がなければ現在に直結させるべき情報ではありませんし、私の思いつく心当たりなら、こちらの長老殿は全てご承知のはずです」

じいやは淀みなく話しているが、信長はまた少し疑っていた。じいやが原因なのではと考え始めたら他の可能性の説得力が消え失せてしまったような気がしていた。じいやはしきりと古い記憶であることを気にしている様子だが、今「読む」必要があるのは現在の出来事ではなく、3年前の銀国の事件にあるような気がした。

あの頃、信長は代表会議の特命を受けた潜入捜査隊のひとりだった。当時の目的はとにかく銀国主導の侵略戦争を阻止することであり、同盟国でも相次いだ学者の行方不明事件が銀国の仕業であることを突き止めるのがひとまずの任務だった。

信長とが出会ったのは代表会議の編成による第四次調査の最中であり、その都度捜査隊の責任者は変わっていたが、の父親と祖父が中心の企み以外の問題など誰も把握していなかったように思える。そうでなければ自分は襲われなかったはずだ。

あの襲撃も今にして思えば不審な点が多い。信長が密書を届ける役目を任せられたのは、あの時銀国内で任務にあたっていた捜査員の中で一番体力があって身軽、そして他の捜査員に比べて「玄人の匂いがしない」若者だったからだ。中継点まで出来るだけ早く密書を運ぶためには信長が最適だった。

なので信長は単身銀国から送り出され、指示通り中継地点まで昼夜問わずに走り続けた。そこで次の捜査員に密書を託したら近くの村で待機、新たな指示がなければ座長たちの到着を待ってそのままカイナンに帰還、と言い渡されていた。捜査員としては充分に任務を果たしたが、仮にも唯一の後継者、それ以上の任務は認められなかった。

だが中継点にいた人物は行方不明の学者家族を名乗り、それを不審に思ったことが顔に出たか、密書を手渡した途端に襲われ、気付いた時には近くの村で包帯を巻かれて寝かされていた。わけがわからなかった。銀国に戻ったのはのためだったけれど、戻ってきた信長の報告に捜査隊も頭を抱えた。

なのでたちを救出するのに時間がかかってしまったわけだが、当時捕縛された実行犯たちは誘拐された学者や技術者の家族だと名乗り、信長の持っていた密書に家族の死亡が記されていたので報復として爆破事件を起こした、としか言わなかった。

じいやが記憶しているように言葉もバラバラ、とりとめのない組織はおそらくそのほとんどが地下牢に閉じ込めたたちを忘れて逃亡しており、潜入捜査隊に捕らえられたのはごく一部だった可能性がある。それらは代表会議に引き渡され今も捜査が続いているが、本当に学者や技術者たちの家族かどうかは確かめきれないでいるらしい。

本当に被害者家族の報復だったんだろうか。

信長はずっと考えていた。じいやが何かというと人の心を読めと言うので、物事を考えるのではなく、物事を構成している人間の行動やそれに繋がる思考を探る癖がついてしまっていた。

銀国はよからぬ企みをしていた、そのために大陸中で学者や技術者が行方不明になり口を封じられた、その家族を名乗る集団が報復のために爆破事件を起こした。その三段階の隙間や後ろには本当に何もなかったんだろうか。が2度襲われた意味とは。

最初は「自分は隊の中のひとり、情報をまとめて指示を出すのは代表会議」だと思っていた。だから余計なことは考えずに自分の能力を活かして任務に当たればいいと思っていた。

でも、代表会議はを知らない。じいやの現在を知らない。

このふたりが事件に関係する欠片かもしれないことは、自分しか把握出来ていないような気がした。

……いや、もうひとりいる。じいやだ。

信長はあれこれと可能性を探る両親や座長に混じって話しているじいやを見つめながら、腹の底にじわじわと溜まりつつある重苦しい感情の正体を受け入れられないでいた。

どうしても彼が気になる。もう3年も一緒に任務に当たって寝食を共にし、様々な手ほどきを受け、彼の知識を学んできたけれど、もう純粋な心で彼を見られない気がした。それは取りも直さずじいやが信長に授けたもので、3年前の彼は持っていなかったもの、疑う心だ。

例えどれだけ親しい人物でも目的のためには心を殺して相手を疑い、一切を信用せず、信頼に値する情報を見極め、動きを予測し、先に手を打つ。それを3年かけて信長に植え付けたのはじいや本人だ。もはや信長が心から信頼しているのはひとりだと言ってもいい。

いや、正確にはだけを信頼しているのではなく、だけを信頼することにしている、である。どれだけ愛し合っていたところで、の気持ちが信長から離れてしまう可能性は必ず残る。それでも現状唯一「絶対に疑わないことにしている」のがだけということだ。

だが、じいやは違う。少し前までは彼の全てを受け継いだ気になっていたけれど、彼の本当の心は幾重にも重ねられた鍵に守られて厳重に隠されている気がした。自分がこれまで接してきたのは「のじいや」であって、銀国の元諜報員ではない。

そして信長はある事実に行き当たると、全身が一瞬で氷のように冷たくなったように錯覚した。

オレ、じいやの名前、知らないんだけど。