続・七姫物語 清田編

02

が自分の行く末を案じつつ旅を続けている頃、彼女のすぐ上の姉である第4王女は、やはり北へ向かう楽団の馬車に揺られていた。彼女の母親は既に亡く、少人数で別れる際にちょうどいい組み合わせがなかったので、病弱でほとんど外に出たことがないにも関わらず、ひとりである。

楽団は主宰を筆頭に全部で7人ほどの小さな団体で、そのうちふたりは用心棒と世話役の女性なので、演者は5人だけ。というか世話役の女性がいたことと、彼らの本拠地である北の聖都は高度な技術を持つ医療施設が多いのも、病弱な王女がここに預けられた理由でもある。

病弱なのに寒い地方はどうなんだろうか、などと言っていられる状態ではなかったので、王女は楽器用の箱型馬車の中で毛布でぐるぐる巻きになって震えていた。

「お姫さ……じゃなくて、お嬢、ええと、何だっけ、アリスだっけ」
「今は誰もいませんし、なんでも結構ですよ」
「ごめんねえ、あの人頭固くて」
「とんでもないです。私の方こそとんだお荷物で」
「それくらい軽かったら荷物のうちに入らないよ。そこのピアノの方が何倍も重いんだから」

この箱馬車は本来は楽器専用で人間は幌馬車なのだが、王女が病弱なので特別に詰め込まれている。国を出て数日、今のところ変調はないが、体が弱いと聞かされているので、世話役の女性はこうしてこまめに声をかけてくれている。若くはないようだが年寄りにも見えない、不思議な女性だった。

彼女は名をリートと名乗ったが、それはどうも本当の名ではないらしい。というのも、王女が自分の名を名乗ろうとすると、楽団の主宰である男性がそれを止めて、どうせ王女は長ったらしい名だろうから、短く呼べる名を考えろと言われてしまった。

王女は大変な読書家で創作物語には目がないが、さてそんな自分に名をつけるなど考えてみたこともなく、また根が真面目なので考え込んでしまった。すると主宰のピアニストが「じゃあアリス。山にへばりついてるグラキアリスっていう白い花だ」と名を付けてしまった。そういうわけで実際長ったらしい名前の王女は数日前から「アリス」になった。

「リートさん、聖都までは2ヶ月ほどと聞きましたが、途中どこかに立ち寄ったりするのですか?」
「そりゃ、そうしないと食料が底をつくからね。何か欲しいものでもあるの?」
「いえ、手紙を出したいんです。妹がカイナンへ向かっているので、近いところで送れたらと」
「おお、なるほどね。あの座長さんのところだ。もう書いたの?」
「はい、ノーテンさんが便箋と封筒をくれました」

距離が開けば開くだけ手紙の到達には時間がかかる。まだどちらも目的地には着かないけれど、それでもが身を寄せた一座の本拠地に宛てて手紙を出しておけば、いずれは消息が知れる。ひとりで楽団に混ざることになってしまったけれど、心配をかけたくなかった。

アリスは旅を開始してからすぐに用心棒であるノーテンと仲良くなった。ノーテンはアリスと同い年で、背が高く筋骨隆々、用心棒とともに重い楽器の運搬も任されている。が、彼は主宰いわく幼い頃に捨てられた過去があり、しかもその時頭にひどい怪我を負っていたそうで、言葉が少なく、考えることが苦手のようだった。

だが彼は弱々しく青白いアリスにとても優しく、急ぐ必要のある時にはすぐ抱っこをしてくれるので、じいやくらいしか直接男性に触れたことのない彼女は毎回顔を真っ赤にしていた。

一方、王家の女を引き受けると了解済みのはずの主宰はアリスに対してやけに冷たい。リートいわく普段から明るい方ではないと言うが、楽団の音楽家たちも彼に遠慮してかアリスとは距離をおいている様子だ。実際、全員の名前がまだ分からない。

「うーん、手紙か。私たちとどっちの方が早いかな、どうだろう」
「聖都に着くのが、ですか?」
「うん、いやね、聖都に戻ったらまずは病院に入るでしょ。報せておいた方がいいかなと」
「誰かご病気なんですか?」
「えっ、病院はあなた」
「えっ、なんでですか?」

アリスとリートは首を突き出しあって目を剥いた。

「なんで、ってお嬢、具合悪いんでしょう」
「ええと、何か病を患っているわけでは」
「そうなの!?」
「ノーテンさんみたいに頑丈に育たなくて……。食べ物も合わないものが多いし、疲れやすくて」
「はあ、そういう体質ってわけね」
「そうです。だから病院は風邪でもひかない限り大丈夫です」

リートはうんうんと頷き、親指と人差し指で丸を作って見せた。

だが聖都に到着したあとのことは何も聞かされていない。座長からは、落ち着く先が決まったらカイナンへ報せを寄越すことと言われているだけだ。座長はその報告をまとめて、あの時一緒に逃げ出した人々が今どうなっているかを再度送り返してくれるだろうが、そこまでだ。

投獄されたまま、利用価値もないはずなのに無駄に監禁されているよりはと皆逃亡を決意したけれど、逃げた先に何があるかなんてことは何も考えていなかったし、彼女たちを引き受けてくれた人々も確信があったわけじゃない。

その中でせめて行くあてがあったのは故郷に戻れる可能性が高いの母親を含む元側室3人だけ。故郷に入ることさえ叶えば、おそらく実家が引き受けてくれるのではないかと考えられる。もっとも、万が一「出戻りなど言語道断」という姿勢の家であればそこまでだが。

アリスは考える。はどうしているかな、だけどじいやも座長もいるし、何よりあの王子様がいるからあの子は心配ないわ。彼は照れて何でもすぐ冗談にしたがる感じだったけど、を大切に思ってくれているのが私でもわかったから、カイナンにたどり着ければもう安心。

妹に思いを馳せていたアリスだったが、箱馬車の前方の扉が開き、例の主宰が顔を出した。

「雲行きが怪しい。リート、そいつを連れて馬で先に行ってくれないか」
「えっ、お嬢、馬は平気?」
「座ってりゃいいんだから平気も何もないだろ。さっさとしろ」

楽器を運搬している以上、この箱馬車は出せる速度に限界がある。だが雲行きは怪しくなってきたし馬車は大きいし、立ち寄る予定の町の総門が閉じられてしまうと面倒だ。先に話をつけておいてもらいたい、ということのようだ。冷たい物言いに反論しようとしたリートだったが、彼はすぐに顔を引っ込めて扉を閉めてしまった。

「まったくもう……馬、大丈夫?」
「あの、私はここでも構いません」
「面倒くさくてごめん、あの人あれでも気を使ってるつもりなんだよね」
「はあ」
「私の馬なら雨が来る前に町にたどり着けるし、そしたら暖かいところに早く行かれるでしょ」

リートは苦笑いでアリスの羽織る毛布をまとめる。馬車が止まり、揃って立ち上がるとアリスは思わずリートを見上げた。アリスが小柄というせいもあるが、リートはとても背が高くて振り仰いでしまう。昔は歌手だったらしいのだが、最近はほとんど歌っていないという。

「庇いたいわけじゃないんだけど……あれでも悪い人じゃないんだ」
「もちろんです。皆さんには本当に感謝しています」
「彼のことは……いずれわかってくると思う。長い目で見てやってくれると、嬉しい」

リートは長い髪をぐるぐるとまとめてフードの中にしまい込む。アリスはそれを見ながらぼんやりと考える。ここの楽団の人たちはが身を寄せた一座と違って、なんだかみんな色んなことを隠している感じがする。本当の名だけでなく、過去や考えていることも、ああしてフードの中にしまい込んでいるんじゃないだろうか。

ちょっと間が空くとすぐに沈思黙考してしまうアリスにリートはまた苦笑いをしながら、ぎゅっと毛布を巻きつけ、フードからはみ出た後れ毛を隙間に詰め込む。

「クラヴィアとお嬢は、ちょっと似てるんだよね」

この楽団の主宰であり代表であるピアニストはクラヴィアと名乗った。リート同様、きっとそれも本当の名ではないんだろう。彼の言う通り文字にして書くと何行もかかってしまう本当の名を持つアリスはまたぼんやりと考える。

リートさんは、クラヴィアさんのことが好きなんだろうか。そういう風に見えるけど、間違いかな……

「えー! どうしてだよ! 今更だろそんなの!」

遠く北へ向かうアリスから絶大な信頼を寄せられている信長は、町の宿屋で駄々をこねる子供のような声を上げた。じいやからこの町に滞在中、とは別室だと言われてしまったのである。

「今更ですが、今更なので尚更ふたりきりにするわけには参りません」
「ちょっと待って意味わからん」
「カイナンに到着するまで数ヶ月、今後の見通しが立っていないのに何かあっては困ります」
「何かってなんだよ……
「それがわからないのであれば同室にする必要は本当にありませんね」
「いやいや、じいや、もう姫と従者じゃないだろ、の意志でだな」
……私もそれは困る」
「嘘!?」

ただでさえカイナンに到着してからの処遇については不安が残る。それが何も解決していないというのに、万が一妊娠でもしようものなら話は余計にこじれる。しかもはまだ16で、今は旅の途中だ。の体を考えるとそれは絶対に譲れないじいやは厳しい顔で立ちはだかっているし、本人も愛情だけではどうにもならない危険を犯す気にはなれなかった。

「ごめん、自分の体のことだし、簡単に済むことじゃないし、そういう後先考えないのは怖い」
「そ、そうか……そうだよな、ごめん」
「信長と一緒にいるのが嫌なわけじゃないからね」
……寝るまでは一緒にいてもいい?」
「それで王子が我慢できるならどうぞ、お好きに」

表情が変わらないじいやはそう言い残して立ち去り、信長はその場で呻いた。どう転んでもつらい。

……ごめんね」
「いや、お前が謝ることじゃないだろ。それは確かにふたりの言う通りだよ」
「もし子供が出来て、結婚はダメって言われたら、どうしたらいいか」
ごめん、そんなつもりじゃなかった、すまん」

宿屋の片隅で信長はを抱き寄せるとゆっくり背中を撫でる。

「あの時、これでもう二度と会えなくなると思って、それで部屋に行って、きっとは自分を受け入れてくれるって妙な確信があったんだよな。だけどそんなことはなくて、小屋に戻って花火をぼーっと見上げながら、まあ王子って言っても田舎の小国の世継ぎだし、こんな大きな国の姫なんかもらえるわけないだろって言い聞かせてた。自分の意志で人を好きになることが出来ただけでよしとしねえとなって」

この大陸の南部では未だ王族貴族に自由恋愛の習慣がない。東西北部はそれほど厳格ではないそうだが、基本的には10代のうちに親や支配層の都合で結婚させられることがほとんど。稀に銀国のように一夫多妻の習慣があっても、それでも結婚は政略であるのが普通。

これもが不安に思っていることのひとつだ。

ただし、の1番目の姉は春市に訪れた遠方の国の王子に見初められたのが縁で嫁いでいった。本人もたいそう乗り気で、年若い王子と王女の恋愛結婚は両国で大変歓迎された。というように、自由恋愛による婚姻がないわけではないが、とにかく前例が少ない。

信長曰くカイナンは小さくて地味な国だから、大国ほど規律やしきたりに縛られる体質でないと言うが、それでも王家だ。返す返すもこの件に関してだけは王女の身分があやふやなことが悔やまれる。

「もう二度と会えないと思ってたし、襲われたあとに目が覚めた瞬間、やっぱり戻ってをさらいに行こう思ったんだ。だから、こうやって取り戻せたってことを実感したかっただけなんだよ」

それはも同じだ。も花火を見上げながら信長のことを思って泣いていた。

……許してもらえると思う?」
「それはなんとも……。両親も当然政略婚だから」
「普通そうだよね……私の母親なんか14で嫁いできたし」
「ずいぶん早いな。いくつでお前のこと産んだんだ」
「18。嫁いできたはいいけど相手にされなくて、4年もかかった。その上女が出てきた」

この16年間というもの、の母親も城の中で立場がなかった。次は男の子を産んでみせますと言ったけれど、王子なら既に3人もいたし、銀国国王は王妃たちを誰も愛してはいなかった。彼が愛していたのは先代国王から引き継いだ侵略戦争と領土拡大である。そりゃ無差別攻撃も受けよう。

、だけどオレはお前のこと諦めないからな。お前がもう王女じゃないんだとしても、オレはお姫様が欲しくて連れてきたわけじゃないし、だけど本来は王女なんだから、資格は充分にあるし、だいたいオレの国なんて王子が誰と結婚しようが何も変わらないんだから」

自信に満ち溢れた信長の言葉は安心できる。は彼の胸に頬をすり寄せながら頷く。だけど、不安が取れるわけではない。南部では16歳の王子王女の結婚は珍しくないし、その年代ですぐに子供が出来ることもよくある。そんな風になれたらよかったけれど――

の脳裏に家族の顔が浮かんでは消えていく。14で嫁いできて18でを産み、以来16年間城の中からほとんど出ることもなく過ごしてきた母は、故郷に帰れるかもしれないと知って目を輝かせていた。心が踊って胸の高鳴りが止まらないと興奮気味に話していた。故郷はカイナンのように小さくて素朴な国だというし、きっと実家は彼女を受け入れてくれるに違いない。

4番目の姉はどうしただろうか。親しく過ごした時間はとても短かったけれど、それでもにとっては血の繋がった家族だった。体が弱く読書家で、そのぶん少々現実離れしていたけれど、何に対しても真摯に考える真面目で誠実な人だった。寒い国で体調を崩していなければいいが。

他にも異母弟妹が数人。誰も彼もたまにしか会わないような関係だったけれど、どうか安全な場所で暮らしていかれますように。は信長の体にぎゅっとしがみつきながら、それを祈った。

そしていつかまた会えることを願った。

銀国での事件は緊急事態だったのだし、何もかもが無計画だったことは仕方ない。逃げ出した先に安心安全の保証がないことよりも、地下牢から外に出ることを選んだのだ。

アリスだけは逃亡の足手まといになるから残ると考えていたが、信長に強引に連れ出されて外に出ると、あの暗くてじめついた地下牢に残るなど、なんて馬鹿なことを言ったんだろうと思ったくらいなので、逃亡した計18人は誰も後悔していない。

しかしちょっとばかり問題のある大国の国王の嫁子供、どこへ行っても歓迎されるとは考えにくい。

ひとまず皆に先駆けて海路から故郷へ帰ったの母は、国王である兄に迷惑をかけまいとすぐに身分を捨てた。のちに生計のために貴族の娘向け淑女教育の学院を開き、またその頃に遠縁に当たる寡夫と所帯を持つことになり、なんとそこから4人の子供を授かることになる。ともあれ、故郷で教師としての一生を送ることになった。

その他の弟妹たちも母親の実家にそのまま入り、しかしやはり身分を捨てることで銀国との一切の関わりを絶ち、それぞれに平民のように自由に生きた。1番幼かった王女など、あなたは姫君の生まれだと言われて育ったけれど、生涯一度も信じなかったという話だ。

なので、ひとまずここではとアリスの物語を追うことにしよう。

逃亡した18人の中でも、は1番困難な場所へと逃げ込んだことになる。しかも王子である信長と恋仲。簡単に言えばその「恋仲」を正式に認めてもらうことが目的だが、信長の両親である国王と王妃がどんな反応をするかは、当の息子でもわからない。

そんな不安定な状態で万が一子でも出来てしまったら、と警戒するあまり、旅の間にもふたりは抱き合ってキスするくらいが精一杯の関係を続けざるを得なかった。途中の村や町に立ち寄るたびに興行を打ち、宿を取っても、はいつも一座の女性と一緒、信長とは一度も同じ部屋で眠らなかった。

そしては一座が打つ興行のありとあらゆるお手伝いを始め、この一座の中で一体何が出来るのかということを模索し始めた。座長は決して見捨てないと言う。それに応えたい。例えカイナンに着いてすぐに王子の婚約者か何かとして認められたとしても、それまでは出来る限り働きたかった。

それにプロメテ座は芝居を打つ旅の一座、が何より大好きな芝居小屋の世界だ。

は幸せだった。体中をどす黒い不安が満たしているけれど、それでも幸せだった。