続・七姫物語 清田編

22

信長が気付くと、顔がやたらと固いものに当たる感触がした。しかも冷たい。全身が痛んだけれど、無理矢理手足を曲げて起き上がってみると、蠢く魔術師と手に石を掴んで這いずっているじいやが目に入った。信長は深呼吸がてら大きくため息をつくと、まずはじいやの石を取り上げた。

「何、するんですか」
「こいつこれでも死なないんだから、どうせなら星国にくれてやれよ」
「そんなこと、しても」
「例のクラヴィアの義理の祖父さんはもういねえんだろ。正しく裁かれるって」
「そんな保証は」
「あのなあ、ここでひと思いに楽にしてやる方が親切だと思うぞ。生かして辱めてやれよ」

わざとらしい煽りだったが、じいやは信長の呆れた説得に折れ、またその場にひっくり返った。3人は川に流され、しかし無事に山間の狭い河原に打ち上げられたようだ。全身ずぶ濡れで体が氷のように冷たい。今のところ3人とも生きているが、早めになんとかしないと全員死にそうだ。

「てかここどこだよ。その辺の薪で火を焚いたって助からねえぞ」
「古城の裏手に川があったとすれば、少し北の方へ流されたはずです」
「近くに村とかないのか」
「川沿いには多く点在しているはずですが、そこまで移動出来るかどうか」
「やるしかねえだろ。本当に死ぬまでは何でもやってやろうぜ」

そして信長は濡れた髪をぐいっとかきあげると、ニヤリと笑った。

「こういう時は『考えるよりまず行動』がいいんだよ」

信長は力に任せてじいやを支えながら魔術師を引きずり、川下へと下っていった。すると小さな桟橋に小舟が繋がれているのを見つけた。あたりに人家はない。

「一応王子様だから盗みは働きたくないんだよなあ」
「金も持ってませんしね」
「換金出来そうなものならあるけど。ほら、この小刀。柄に金と銀が入ってる」

小さいが豪奢なナイフは父親から贈られたものだが、この際そんなことも言っていられまい。信長は少し考えると、じいやと魔術師をそれぞれ桟橋に括り付けた。

……何をなさるおつもりで」
「辺りを探ってくるから何もしないで待ってろ。動くなよ」
「動いたらどうなりますか」
「こいつを逃した上に、十字の赤悪魔を題材にした芝居を作らせて向こう30年毎日上演させる」
……わかりました」

がっくり肩を落としたじいやを残した信長はそのまま走り出し、薄暗くなる頃になって戻ってきた。大きな布袋を背負っていて、なんだかニヤニヤしている。

「その船の持ち主見つかったよ。小刀と単眼鏡で交渉成立。ついでに色々恵んでもらってきた」

言いながら信長は魔術師を小舟に放り込み、じいやも乗せると舫い綱を切り落として飛び乗った。さほど流れの早い川ではなかったけれど、小舟は速度を上げて下っていく。

「ほれ、服ももらってきた。ボロいけどびしょ濡れよりはマシだろ」
「これからどこへ向かうおつもりですか」
「どこへ、ってそりゃ聖都」
「無理ですよ」
「じゃあ星国」
「それも無理です。若、わかってて言ってませんか」
「しょうがないだろ、川でどのくらい流されたのかもわかんねえんだから!」

討伐隊の元に戻るのが一番だが、今どこにいるのかもわからない上に、馬もなければ怪我人をふたりも抱えて目指す場所も何もあったものではない。信長は呻く魔術師も乾いた服に着替えさせると、今度は袋の中から食べ物を取り出してかじりついた。

「あの古城の近くを流れる川ていうとどこへ向かってるんだか。言葉あんまり通じなかった」
「おそらくですが、星国の東にある盆地の方へと下っているのではないかと」
「それって北上してるってことだよな」
「でも聖都からはさらに離れます。星国の方が近いですが、盆地と星国の間には山脈がありますので」

船のへりに寄りかかっていた信長は仰け反って呻いた。なんとかしてある程度の都市部にたどり着かなければ聖都にも星国にも戻れそうにないし、その間にある国々では勝手がわからない。

「でも、まったく人がいないってわけでもないだろ。実際いたし」
「それはそうですが、こんな怪しい組み合わせですからね」
「それは大丈夫だよ。オレが諜報員の真似事が出来たのは、ペラペラと適当な嘘がつけるからだ」

緊張しても動揺せずにその場を取り繕って調子のいいことを言い、必要なら適切な嘘をつける胆力がある。これがまだ15歳の子供だった信長を座長に預けても大丈夫だと判断された点だ。まあその判断を下したのはカイナン諜報部の長老であって、陛下ではなかったのだが。

この不審極まりない3人で何とかして生き延びるために信長は行く先々でペラペラと嘘を付き、数日かけて現在地が星国の北東にある小国の外れだということを突き止めた。するとじいやがまた心当たりがあると言い出し、ある寒い夜のこと、一軒の家にたどり着いた。

「なんか世捨て人が隠居してる隠れ家って感じ」
「その通りですよ。昔の知り合いで、家族みたいなものです」

じいやが訪いを入れると、中から気難しそうな男性が顔を出し、出てくるなりため息をついた。

「なんでお前がこんなところに。しかもなんだその連れは」
「すまん、助けてほしい」
「嫌だと言ったら?」
「妹にここを教える」
……入れ」

古びた家はあちこち傷んでいるけれど大きく頑丈な造りで、中は暖炉で温められていて信長は安堵に短く息を吐いた。ひとまず今夜は安心して眠れそうだ。というか暖炉にかけられた鍋からはいい匂いが立ち上っていて腹が勢いよく鳴った。

「若、こちらも元銀国の諜報員で、私の妹の元夫です」
「時計屋の娘と所帯を持っていたというだけで反逆者扱いされた被害者だよ」
「言葉に気をつけろ。こちらはカイナンの王子殿下だ」
「はあ?」
「それはいいよこの際。生きて帰れればそれなりの礼はさせてもらうから、助けてほしい」
「まあなんだ、ここにオレがいるってことを口外しないことが条件だ」

家主はじいやの元同僚であり、それが縁でじいやの妹と結婚したそうだが、時計屋の件であらぬ疑いをかけられたことや、その際に妻が夫は無関係だと強く主張してくれなかったことに腹を立て離縁、ろくな調査もせずに諜報部から追い出されたことで世を儚み、こんなところで隠居しているのだという。

彼は事情を聞くと納得した様子で頷いてくれたのだが、今から聖都や星国に移動するのは厳しいと言って腕組みをした。この家はじいやの言っていた盆地の中でも北に位置するそうで、聖都のように真冬は雪が深く、遠方に移動するのにはそれなりの装備が必要になるし、その準備にはもう遅いという。

「金なら……
「金の問題じゃない。もう冬の入口ってところで、そんなもの手に入らん」
「あんたは持ってないのか」
「オレは聖都にも星国にも行かないからな。近所への移動に必要な程度しか備えてない」
「じゃあどうしたら……
「春を待て」
「はあ!?」

家主が振る舞ってくれる食事をガツガツと食べながら、信長はつい甲高い声を上げた。確かに見知らぬ土地を彷徨っているうちにすっかり北部の冬になろうとしているけれど、だからこそ春は遠い。それまでここにいろと言うのか……

「こんなじいさんふたり抱えて雪ん中で死にたいってんなら止めないぞ」
「てか助けてくれって頼んでおいてなんだけど、冬を越す蓄えはあるのかよ」
「ここにはないけど少し離れた村にはある。そこで買うんだよ」
「だからその金は……
「働くんだよ、王子様。そこの手がちょん切れたじいさんは無理でも、あんたは働けるだろ」

しかし自然という強大な相手の前には手がない。信長は手の甲で口元を拭いながら頷いた。どうしようもない。生きて帰るためなら何でもやるとに約束したのだ。じいやから魔術師を始末する意思を奪ったのも自分だ。働いて銭を稼ぎ、食い、生きねば。

魔術師は手当をした上で小部屋に閉じ込め、信長とじいやもそれぞれ部屋を借り受けた。明日になったら早速近くの村を回って必要なものを集め、金になる仕事を取り付けに行くのだという。

信長は乾いた服に湯で体も洗い、さっぱりしたところでじいやの部屋に顔を出した。あとは寝るだけだが、まさかの足止めなので今後のことも話したかった。

「こんな寂れた土地ですから、人手は足りないそうですよ。仕事には困らなそうです」
「働くのが嫌なわけじゃないんだけど、まさかこんなところに春まで閉じ込められるとはな」
「魔術師と私を始末しておけばこんなことにはならなかったんですよ」
「うるせーなもう。春までを不安にさせるかと思うと気が滅入る」
「姉上がいれば大丈夫でしょう。ことによったらカイナンに帰っているかも」
「あいつがそんなことするかよ。10年以上も育ててんのに何言ってんだ」
「育てたと言っても、私は子守とか家庭教師程度の養育係ですから」

だとしても専任の養育係、彼女の安全に対して執着があるかと思えば、本人に対してはあまり興味がなさそうでもあり、信長はつい首を傾げた。そういえば「じいや」って、そもそも何なのよ。

「ですから専任の養育係です。でも、食事や身支度などは母上とその侍女が行いますし、習い事などは専門の教師が付きますし、王宮ですから他にも王女に仕える人材はたくさんいます。ただ私は様担当のお目付け役、子守、勉強を見て小言を言い、予定を把握してお知らせしたり、様々な手配をしたり、あるいは取次、連絡係、そういう種類のことをなんでも承る役職ということですかな」

銀国の王家の子女にはこの「じいや」ないしは「ばあや」が最低ひとりは付けられていて、種々雑多な「管理」を任されていた。そういわれるとカイナンでもじいやに相当する役職の側仕えがいたなと信長は思い出していた。ただし彼らは全員幼い信長を追いかけ回して膝や腰を痛め、配置換えになった人が殆どで、顔はよく覚えていない。正直すまんかった。

「にしても、なんで諜報部から養育係だったんだよ。せっかく専門職なのにもったいないだろ」
……当時の諜報部の責任者は、銀国の大臣だったのですが、彼が、様の母上に懸想していて」
「えええ……
「時計屋を始末しただけでは済まないと思っていましたが、それで母と妹が命拾い出来るならと」

だらりと背中を丸めたじいやは鋭い眼光もなく、いたるところ包帯だらけで、あの赤く光る目の悪魔の面影はどこにもなかった。今なら素手でも倒せるんじゃないかと思いつつ、信長は黙って頷いた。勝手に話し出したし、いつまた偏屈なじいさんに戻るかわからないのだから喋らせておこう。

「時計屋が星国の国王と内通しているとわかったのは偶然で、だけど同時に魔術師と銀国の国王が通じていることも判明して、まあ様の父親は言ってしまえば非常にずる賢い人物ですから、さっさと魔術師は切り捨て、時計屋を処分することで星国へも牽制し、保身を図りますね、当然。最初は関係者全員処分と言い渡されていたそうなんです」

その「処分」も、時計屋は当然殺害、その家族であるじいやとその母親と妹は終身刑、近親者もその関係によりけり何らかの罰を課せられる指示だったそうで、じいやは焦った。自分が諜報部から追い出されるのはまだわかるが、母親と妹まで地下牢で終身刑は理不尽だ。夫であり父親である時計屋が国と家族を裏切っていただけなのに。

「こんなこと言っても信じないでしょうが……当時、いえ、銀国の長い歴史の中でも私は最強と謳われた諜報員でした。父もそれなりの実力者でしたが、私の比ではありません。強欲なあの男の身勝手のせいで一族全員が犯してもいない罪で苦難を強いられる――父親への親愛の情より、憤りの方が勝ってしまった私は、大臣が時計屋討伐に差し向けた軍の一隊を追いかけ、星国に逃亡しようとしていた時計屋を先に殺したんです。その時にこの傷を受け、血だらけだったもので、十字の赤悪魔と呼ばれたんです」

じいやはそっと胸に触れ、また手をだらりと落とした。

「そして血だらけのまま大臣に時計屋の首を突き出し、母と妹の命乞いをしました。大臣は悪い人物ではなく、頭が切れて仕事が出来る人でしたが、好色なのが玉に瑕で、その頃は様の母上を狙っていたようで、父親の首を自ら取ってきた私を見てひらめいたんでしょうな。様のじいやになって自分の手足となるなら一族はなんとかしてやろうと言うので、頷くしかありませんでした」

担当の大臣がこともあろうに王妃のひとりに懸想していたのが幸いし、じいやの一族は難を逃れた。ただしじいやは王女の養育係に、時計屋の妻と娘は俗世を捨てて尼になるという形で「処分」とされた。

「じゃあのおっかさんは」
「いえ、幸運なことにその大臣、2年と経たずに別の愛妾で腹上死しましてね」
「どうしようもねえやつばっかりだな……

一応王妃である手前、じいやは慎重に間を取り持つという任務だったわけだが、達成を待たずに大臣は死去。あまり大きな声で言えない死因だったのも手伝って、彼の仕事に関わることは有耶無耶にされたことも多かった。が、だからといってじいやたちが元に戻れるわけでもなかった。

「処分は処分ですし、何しろ銀国の国王は全然元気でしたからな」
……は、囮だったのか?」
……そのつもりでお仕えしたことは、一秒たりともありません」
「でも、そうなり得る存在だってことは、わかってたんだな」

信長の低い声に、じいやはさらに背中を丸めて頭を垂れ、か細い声で「はい」と答えた。

様は……歴代最強と呼ばれた私が、初めて負けた相手なのです。諜報員としてありとあらゆる知識や技術を学び身につけたと思っていましたが、幼い子供というのは恐ろしい生き物でした。様ですら悪魔なのかと思いましたから、若は定めし怪物だったでしょうな」

だからそれはすまんかったって。信長は笑うに笑えない。

「私が大人しくじいや職を務めていることは母と妹の安全にも関わることでしたし、そういう意味で姫の安全には以前から執着があるのは事実です。しかし未知の生き物である様を追いかけ回していると、歴代最強の戦士で万能だと思い込んでいた自分に疑問が生じ、己を顧みるきっかけにもなりました。その意味では感謝もあります」

しかしそれだけで恋仲の王子を脅すようなことまで言うものか……と考えていたのが顔に出たか、じいやは信長の顔をちらりと見ると、にやりと唇の端を吊り上げた。それはなんだか不気味に奇妙で信長は少し背中が冷たくなった。

「それでも様への愛情とか、親愛の情とか、そういうものはありません。というより、私の中にそういう感情がないのです。幼い頃から諜報員になるのだと思っていたし、他人には興味がなかった。自分を鍛え上げ、いかに完璧に任務を遂行出来るかだけが生き甲斐でした。だというのに、おリボン差した幼子に勝てないのです。幼い王女との戦いでは、相手が泣いたらその場で敗北です。じいやになってすぐは毎日のように敗北を喫しました。とてつもない困難でした」

ただでさえ他人に興味がないというのに、幼い女の子、しかも王女。それを泣かさぬよう、しかし王女としての振る舞いを教え育てていかねばならない、それは失敗すればそこで終わるだけの命がけの任務よりよほど重圧だっただろう。

「まあ若はよくご存知だと思いますけど、本当に姫は芝居バカで、それは一桁の算術を習っている頃から既に始まってまして、詩の暗唱は出来なくても好きな芝居の台詞はすぐ覚えてしまうし、一回見た芝居の記憶は異様に鮮明、私から見ればちょっと異常でした」

の芝居バカは、もはや芝居バカがと言う名で服を着て歩いていると言った方が正しいほどだ。信長は一緒になってうんうんと頷いた。あいつほんと芝居のことしか考えてない時あるから。

だが、じいやは空虚な目で宙を凝視すると、掠れた声を上げた。

……ですが、私はその様の『生きる力』に圧倒され続けていたのです。芝居に向けるあの異様な熱量、愛情、それは明日を生きる活力でした。愛する芝居があれば生きていけると彼女はよく言っていた。事実、彼女は芝居への愛で己の生きる道を切り拓き、自身を成長させ、大観衆の心を揺さぶるまでに高め上げた。その姿は諜報員としての私が目指していたものと重なりました。姫の芝居を愛するという力が苦難を打ち破ったんです。姫は……私が失ってしまった夢でした。そして私の失われた栄光を補わねばならない存在でした。彼女は私の夢と栄光の依代、絶対に死なせるわけにはいきませんでした」

の生きる力。それは信長に「風の標さす空」を思い出させた。じいやもまた、「大人の都合で苦難を強いられた子供」であったのかもしれない。父親が道を踏み外さなければ、今でも孤高の諜報員を追い求めていられたのかもしれなかったのに。

先のことを尋ねられたじいやは「風まかせ」だと答えた。それは意志がないのではなくて――

信長の耳に「私は生きることを諦めはしない」というシャオの声が聞こえる。

も、アリスも、クラヴィアも、シャオも、そしてじいやも。みな苦難の中でひとりもがきながら、風に背を押されて生きてきた幼子であったのかもしれない。

「でももう、私は必要ありませんな。やっとお役御免です。姫はあなたにお任せ出来る」
「オレはを任せられる男になったのか?」
「地下牢に現れた時からそう思ってましたよ。アリス様と残るから姫は頼むと言ったでしょう」
「じゃ何だったんだよ、この3年間」

それはそれでずいぶん厳しく指導されてきた信長は顔をしかめ、じいやは鼻で笑った。

「そりゃあ若に私の全てを引き継いでもらいたかったからですよ」

だが、信長はしかめっ面で首を振った。

「そんなものはいらん。オレは芝居バカの妃に振り回されるどうしようもない国王になる予定なんだよ。歴代最強だとかいう血なまぐさいおっさんの後継者なんか断る」

そして目を細めてニヤリと笑うと、じいやに指を突きつけた。

「よし、カイナンに帰ったらお前、後継者を育てろ。じいやはまだお役御免にならないからな」