続・七姫物語 清田編

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題名が決まったことで芝居づくりは一気に加速、シャオの「使いたい台詞」だけを残して稽古も開始、初演はこの年の夏市と決まった。だけでなく夏市はさらに規模の拡大を予定しており、3日間開催の上、とうとう「市」が立つことになった。

当然カイナンでも爆破事件や暴動の危険を懸念する声が多かったけれど、組合長を先頭に城下の商人たちは一致団結を宣言、自分たちでも安全な市の開催のために全力を尽くすとして代表が城にまで乗り込んできて許可を願い出てきた。

そんなわけで準備委員会が改めて組織され、カイナン始まって以来の大規模な祭は官民一体となって開催されることになった。ので、少々役割が大きくなりすぎたのではお役御免となり、いよいよ「風の標さす空」に集中していた。

一座の稽古場は劇場館の地下にあり、はそこに籠もって連日演出に頭を悩ませていた。普段演出には口を出さないシャオも今回ばかりは主張を引かず、と衝突する場面も多々あった。一応座長が監督なのだが、女性たちの熱気に声が小さくなるばかり。

「姫に演出に入ってもらうのは妙案だと思ったんですよ……
「まあ姫は筋金入りの芝居バカでもはや不治の病ですからな」
「舞台裏にいてくれるのは助かるけどな。今年は去年までとは違うから」

稽古が白熱して疎外感を覚えた座長が外に出てくると、信長とじいやが劇場館の隣の酒場の前で酒を飲んでいた。そのままふらふらと仲間に入った座長も飲み始め、しょんぼりと肩を落とした。監督差し置いて演出と主演が今日も大喧嘩なのだそうだ。

「というか王子、いいんですか、こんなところで飲んでて。正体バレてるのに」
「いいの。もう隠密行動って段階は過ぎてると思うし」
「そっちじゃないですよ。姫とのこと、暗黙の了解みたいになってますけど」
「それもいいんじゃないのか。何も問題ないだろ」

爪弾きにされて凹んでいる座長は湿っぽい声だが、信長はあっけらかんとしてマグを傾ける。その隣でじいやはくつくつと笑い、豆を口に放り込む。

「平民と結婚できない件はまだ何も片付いておりませんけどね」
「王子〜何やってるんですか王子〜」
「法が変わらないんだからどうしようもないだろ。あれこれ考えることが多過ぎて大変なんだよ」
「姫に構ってもらえないのは若も同じですからなあ」

じいやのニヤニヤ顔に信長は鼻を鳴らして顔をそらす。このところは稽古場に入り浸っていて、そうでなければ疲れて昼間でも熟睡していて、ちっともふたりの時間を取ってくれない。

「でも……もし王子と姫が結婚したら、姫は芝居作りから離れることになりますね」
……座長から見てそこ、どう思う。あいつ、嫌がりそうか?」
「どうですかね。私とはそういう話はしませんし」

カイナンの城下に住み着いて以来、の話し相手になってきたのはプロメテ座の女性たちだ。信長の事情も知っているし、それに関してはみんな本当によくを気遣ってくれていた。なので勢い座長はとじっくり話す機会が減り、最近はシャオとの喧嘩のとばっちりを受ける始末。

「いいんですけどねえ、私は別に。あの時、爆発の煙と匂いと悲鳴の中で、奇術師に攫われる様を見た時の恐怖は今でも忘れられません。だから姫が寝食を忘れるほど演出に没頭して、シャオと本気で喧嘩をし、本番というひとつの頂点を目指して全身全霊を傾けているのは嬉しいことでもあります」

混乱の中、薬を嗅がされて意識を失って攫われていくを守れなかったことは、今でも後悔として座長を苛んでいる。結果は同じだったかもしれないが、あの日の恐怖は消えそうにない。あの頃のはプロメテ座の宝物だったのだ。

「若、もしここに残りたいと言われたらどうします」
「それでいいよ」
「はっ?」
「結婚しないんですか?」

頬をほんのり赤く染めて目を丸くするじいやと座長に、信長はにんまりと笑顔を作る。

「そしたらオレも結婚しねえからいいの」

ぽかんとするじいやと座長、初夏の風は3人の間をするりと吹き抜ける。そして数秒ののちに、じいやと座長はふたり揃ってしかめっ面で「それじゃダメでしょ」と言い、信長は呵呵と笑った。

3度目の夏市は前夜祭に始まり、中3日間の開催。初となる「市」は初日と2日目の2日間、城下の一番大きな通りで行われ、各地区それぞれに広場などを利用して屋台や演奏会などの催しを開く。城下の中心部が全て祭仕様になるほどの規模だ。

なので今年は国内からの観光客が一気に増え、宿泊施設の調整や安全のための指針を整えるのには国王や王妃も参加し、いよいよ夏市はカイナンの夏の国家的事業になりつつあった。

そんな中、緊張の初日を迎えたはやけにぼんやりとしていた。

今年の夏市はの手を離れて組合長たちに一任され、自分は「風の標さす空」だけに集中していた。なので当日はほとんどやることがない。最初の夏市では伴奏を担当したが、今回は一座の総力を上げた長芝居であり、音楽は城下に拠点を置く音楽団に依頼したのでそれも出番なし。

その上今回の初日は御前興行で、舞台はなんとカイナン城前広場。3日間行われる「風の標さす空」の上演全てが入場無料、が愛してやまない橙色の明かりが灯る夜に幕が開く。

緊張で前夜祭に繰り出す余裕もなく、じいやと信長が外に連れ出しても心ここにあらずで結局稽古場に戻っていたが、時が来れば初日はやってくる。舞台裏でボロボロの台本を手に、はシャオが化粧されていくのを見ていた。鏡の中のシャオは冒頭の幼い少女に変身してゆく。

「姫、今日は自分が作った芝居だってことはちょっと忘れて、あたしを見ててよ」

は何も言わずにシャオの背中に抱きつき、ぎゅっと締め上げた。自分は芝居を見るのが好きなだけで、演じるなんてとてもじゃないが出来ない。だから物語の中に込めたたくさんの女の子たちの気持ちはシャオの中に全部預けたいと思った。

私とシャオだけじゃない、私のお母さん、姉たち、王妃様、銀国の、カイナンの全ての女の子たちの思いをどうか。シャオはの手にキスをして、舞台の光の中に消えた。

そうは言っても初日、は全てを忘れて観客気分になることなど出来ず、舞台の袖で固唾を飲んでいた。プロメテ座の役者たちのことは信頼しているし、裏方も楽団も全て一流と思っているのでそこは心配していないのだが、シャオの向こうにちらちらと見え隠れする観客の目の色が気になって息をするのも忘れがちだった。しかも今日は御前興行。

舞台を縦横無尽に駆け回るシャオたちと一緒に台詞を言い、音楽に体を揺らしながら、次第に痺れてくる頭では銀国の事件の日のことを思い出していた。あの爆発の大きな音は今でも耳に残っている。正直言えば以来大きな音が苦手だ。けれど、あの日の恐怖に閉ざされた心がほんの少しだけ軽くなったような気がした。

あの日の恐怖を忘れられる日が来るとは思えないけれど、舞台袖でシャオの声を聞いている今この時だけは、彼女の演じる主人公の女性のようにどんな逆境にも負けずに生きていってやろうという意欲が湧いてくるのを感じていた。自分にもそういう生き方が出来るかもしれないと思えた。

シャオは結局、最後まで「決め台詞」を教えてくれなかった。いつしかは両手を胸の前で組み、ひとり光の中で跪くシャオを見つめていた。彼女しか目に入らなかった。

そして物語は終わりを迎える。幼い頃から苦痛と苦悩の間を生き抜いてきた主人公はやがて全てを失い、ひとり草原に膝をついて空を仰いでいた。これはあの日のシャオであり、であり、ふたりがこの芝居に込めた魂でもあった。

「向かい風は私を苦しめ、追い風は私を奮い立たせる、私は最後の一瞬までこの風とともに生きていこう、さあ風よ吹くがいい、私とお前はどこまでも一緒だ、私は決して生きることを諦めはしない!」

暗転、そして終幕。広場は大歓声に包まれ、はその破鐘のような拍手の中で嗚咽を漏らしていた。シャオの選んだ言葉はにとっても希望の光のように感じられたし、この物語にこれほどの大歓声が寄せられると思っていなかった。胸が張り裂けそうだった。

舞台から戻ってきたシャオとは強く抱き合い、歓声の中で泣き続けた。この数ヶ月というもの、毎日のように大喧嘩を繰り返して来たのは全てこの瞬間のためだった。それは間違いではなかった、自分たちは正しかったのだと言いたかったけれど、涙で言葉にならなかった。

だが、今日は初日であり御前興行であり、なおかつ前年とは規模が桁違いの夏市である。拍手の鳴り止まない舞台で座長が挨拶を述べていると、突然が呼ばれた。どよめきの中、シャオに引きずり出されたはオロオロしながら座長の隣に転がり出た。

ぽかんとしていただったが、座長は背中を押して「挨拶を」と囁いた。

「え、ええと、この度は、『風の標さす空』をご覧くださいまして、ありがとう、ございました」

わけもわからずひとまずそう言って頭を下げたに、また拍手の波が押し寄せてくる。

「えと、その、この、作品は、歴史のあるプロメテ座の、才能ある素晴らしい人々によって、作り上げられた、物語です。私は、その一角に過ぎず、経験もなく、無我夢中で制作に取り組みましたが、無事にこの日を迎え、皆様にお届け出来ましたことを、本当にありがたく思って、おります」

緊張したり痺れたり号泣したりでそもそも正常な状態の頭ではなかっただったが、ここに来て突然思考がつめたく冷えてきて、空を見つめた。

……ご存じの方もおられるかとは思いますが、私は数年前に故郷をなくし、家族とも離れ離れになりました。それまでぼんやりと暮らしてきた私には、途轍もない恐怖と不安の日々でした。なので、改めて、こうしてお芝居の上演が出来ること、みんなでお祭りを楽しみ、歌い、笑いあえること、それがどれだけ素晴らしいことなのかを、実感しています。今はまだ遠くても、カイナンだけでなく、全ての人がお祭りを、お芝居を楽しめるように、なってほしいと、思います」

静まり返った広場に向かい、深々と頭を下げる。そこに鋭い拍手の音が聞こえてきた。見れば、貴賓席にひとり信長が立ち上がって手を叩いていた。

それを合図に観客席は総立ち、また拍手の波が押し寄せてきた。座長は出演者たちを舞台に呼び寄せ、全員で一列に並んで深々と頭を下げ、また手を振って袖に捌けたが、拍手と歓声はいつまでも広場にこだましていた。

公演が3日間ある都合上、夏市の間は舞台をそのまま置いておくので、プロメテ座の仲間たちは信長の手配した警備にあとを任せて祭に繰り出した。最初の年にほんの5つしかなかった屋台は城下町中に溢れかえり、銀国の春市のように子供と大人の中間くらいの少年少女たちが駆け抜けていく。

「せっかく夜の市なのに、遊びに行かなくていいのか」
「うん、ごめん」
「オレはいいんだよ。が行きたいんじゃないかと思ったから」

は信長とふたり、自分の部屋に戻って窓辺で風に当たっていた。

「疲れてるならオレ帰ろうか?」
「ううん、今日は……そばにいて」

寄りかかってくるの肩をそっと撫でながら、信長はの額にキスを落とす。窓の下に見える小さな広場は、隣の酒場がテーブルを出して酒やつまみを出し、毎週末にやってくる楽団が楽しげな曲を演奏している。まるで3年前に戻ったかのようだ。

そんな既視感の中に浸っていた信長は、つい聞いてみた。

……、もし、オレと一緒になれることになっても、プロメテ座に残りたいか?」

はゆっくりと顔を上げると、窓の外をちらりと見る。

「どうだろう、そんなつもりはないんだけど」
「こんな風に全力で芝居作りをすることがなくなっても構わないのか」
「それはそうなんだけど……

また信長の方に頭を寄せたは、彼の手を両手で包み込んで目を閉じた。

「あの事件以来、無意識に自分に蓋をしていた気がするの。生まれ育った環境をなくして、ここにいられるのも座長やみんなの好意で、信長との関係は公にも出来なくて、自分の体はここにあるのに、私っていう存在がものすごく薄っぺらく感じてた。私は本当に存在するんだろうか、もしかして私はあの時薬を嗅がされて意識を失ったまま、長い夢を見ているんじゃないか、未だにあの地下牢に閉じ込められているんじゃないか、そんなもやもやした気持ちがずっとあった」

それでなくとものような「王家生まれ王宮育ち」が突然平民の暮らしでは、落差が大き過ぎて戸惑いは完全にはなくならない。プロメテ座の仲間たちはいつでも優しく親身になってくれるが、シャオのような過酷な経験を持つ人も少なくなく、迂闊に「お姫様」な意見を言ってしまうと角が立つ、という場面は数え切れないほどあった。

はただ生まれた家に育ち、何でもかんでも親の決めたように生きてきただけなのだが、それでもあの事件の日までは「誰もが羨むお姫様生活」であったし、それに対して羨望や恨みの気持ちを持つ人がいるのは理解出来る。出来るがそれをぶつけられても、正直なところ「私は何も悪いことはしていないのに」としか思えなかった。

そんな戸惑いが変わってきたのはシャオと一緒に芝居を作り始めてからだった。シャオの言う「大人の都合で苦労した女の子の物語」はのそんなもやもやした思考を少しずつ解きほぐし、磨いて尖らせ、くっきりとした形に整えてくれた。

「風の標さす空」の主人公を育てながら、は自分自身をもう一度省みていた。

「シャオが最後の台詞を言った瞬間、やっと自分の中に自分が戻ってきた気がしたの。お姫様とか平民とか、過去とか、そういうことじゃなくて、今この場に生きている自分自身にやっと、心と体がひとつになった気がしたの。自分が誰だったのか、思い出した」

何も言わず抱き締めてくれる信長の体を強く抱き返しながら、は長く息を吐く。

「王宮と芝居の中しか知らなかった私の、初めての世界は信長だった。私を自由な世界に連れ出してくれたのは信長だったの。自由には苦しみも悲しみもあるけど、自分の意志で生きていける。あの主人公みたいに生きていけるんじゃないかって、そんな気がして」

シャオの台詞は風のようにの心の真ん中を射抜き、奮い立たせた。作り物の虚像でしかない物語は時にその実態のない姿で人の心にするりと入り込み、信じがたいほどの力を発揮する。音と光の幻想はの心を揺らし、そして信長のようにきつく抱き締めてくれた。

「だから信長と一緒にいたいの。私はこのカイナンで、信長と、生きていきたい」

最初から願うことはそれしかなかったのだ。手の中には何もなく、誰にも侵せない心の中には信長への気持ちだけ。銀国から持ち出せたものは体、そしてその心しかなかったから。

窓から吹き込む夏の風、楽団の奏でるゆったりとした音楽、が愛してやまない橙色の灯り。

言葉もなく唇を重ねるふたりの向こうで、小さな花火が上がった。