続・七姫物語 清田編

05

北へ向かうアリスたちは、プロメテ座のような寄り道はせずに旅を続けていた。楽団は懐具合が良いらしく、またそれを管理している主宰のクラヴィア氏の徹底した節制のおかげで、むしろ途中楽団と知られてやむなく演奏会を開くことがあるくらいだった。

季節は夏に向かうところだが、アリスの旅は日ごとに気温が下がるようになっていた。南部の緑が濃い平野を抜けると、岩が増えはじめ、山が迫り、木は背の高い針葉樹ばかりになってくる。

幸い体調を崩すことなく旅を続けているけれど、アリスと楽団の関係は暖まる気配がない。

世話役のリートや用心棒のノーテンとは親しく話せるけれど、音楽家の5人とはろくに話もしない状態。しかもそれがクラヴィアの態度に倣っているように見えて、アリスは日々首を傾げるばかりだった。一体クラヴィアさんは何を考えているんだろう。

「まーね、この楽団はちょっとみんなややこしいから」
「所詮聖都までの関係と言えばもちろんそうなのですが……

懐具合が良い楽団はたちと違い、野営などはしない。南部からの帰還には決まった道筋があるらしく、淡々と移動を続け、その途中で立ち寄った町や村で休んでいく。リートによれば、何しろ楽器が大事なので何が襲ってくるかわからない野営は出来ないとのこと。

最終的な目的地が北部でも、そういう意味ではアリスには都合が良かったのかもしれない。これが野営続きなら温暖な土地でもあっという間に風邪を引いていただろう。山あいの村の宿、小さな部屋で同室になったリートと食事を待つ間にお茶をもらってお喋りをしていた。

「それでも聖都まではまだひと月ほどはかかるでしょうから、気軽にご挨拶くらいはと……
「気を遣わせてごめん、気にしなくてもよかったのに」
「えっ、そういうことでは……

このリートさん、ざっくばらんで明るく付き合いやすい人なのだが、こういう話になるとアリスが切り返しに迷うようなことを言って話を終わらせてしまう。気を遣ったつもりはないのだが、そんなことはないと言ってしまえば話はそこで終わる。

リートは細やかに面倒を見てくれるが、アリスが楽団の人々と親しくなりたいと思うことについてだけは消極的というか、関わり合いになりたくない様子だ。なのでアリスはリートがクラヴィアのことを好いているのでは、と考えてしまうわけだが、

「それにしても、もう少しいい部屋に泊めてくれたっていいじゃん、あのケチ! まだ山を抜けるまでには少しかかるし、こんな薄っぺらい布団じゃあんたじゃなくても風邪ひいちゃうよ。やっぱり荷物の中から掛けるものを出してこようかな。私たちノーテンみたいに頑丈じゃないんだから」

リートは日に3度はこうしてクラヴィアの愚痴を言う。なのでアリスはまた首を傾げる。

ノーテンの方は異様に暑がりで、アリスが毎日ひざ掛けを何枚もぐるぐる巻きで過ごしていても、彼はまだペラペラの生地のシャツ1枚で過ごしている。そのノーテンは宿が苦手で、いつも楽器とともに馬車の中で寝ている。とにかく背が高く筋肉もりもりなので、彼がいれば楽器も安全。

さてその夜、ノーテンを除く7人が宿の食堂で食事を取っていると、宿の主人が揉み手をしながらやって来て、ぎこちない笑顔でクラヴィアに話しかけてきた。いわく、聖都から来た楽団だと聞いたんだけど、一曲やっちゃくれませんかね? という。

しかしリートが言うところの「ケチ」なクラヴィアである。彼は誇りある音楽家として報酬なしでは鍵盤ひとつ叩くこともしない。一応やんわりと準備に時間がかかるからだの、慣れない山間部の移動で疲れているだのと言い訳を並べて断ろうとしたのだが、ピアノならそこにあるし曲は何でもいいから、と引き下がらない。

リートやノーテンによればクラヴィアは大層な腕前のピアニストだそうだが、一方では厳しくて理屈っぽくて、特に無作法を嫌うらしい。なので楽団員たちが「それ以上突っついたらクラヴィアがキレる」とヒヤヒヤしていたところ、音もなくアリスが割って入ってきた。

「ご主人さま、先生はお疲れですので、代わりに私ではいけませんか?」
「お、おい、アリス」
「へえ、あんたもピアノを弾きなさるんですか」
「先生ほどの腕はありませんが、皆様がお寛ぎの席ですし、南部の夜想曲などいかがですか」

ひ弱で白っぽくて頼りなさげなアリスである。宿の主人はその柔和な佇まいに押されるようにして、彼女を埃の被ったピアノまで案内していく。自らを「厄介なお荷物」と卑下して憚らないアリスが突然出てきたものだから、クラヴィアたちは呆然としてそれを眺めていた。何しようってんだあいつは。

何やらにこやかに主人を言いくるめた様子のアリスは、また音もなく腕まくりをすると、背筋を真っすぐ伸ばして鍵盤に指を置いた。そしてその細くて今にも折れそうなアリスの指がしなやかに動き出し、ほんの数秒後には、クラヴィアを始めとした楽団の全員がぽかんと口を開けて固まってしまった。

「いやー、聖都の楽団さんともなると、お弟子さんでもお上手なんですなあ」

宿の主人は無料でピアノを奏でてもらってご満悦だが、クラヴィアたちは大変である。彼らはアリスのことを何も知らないので無理はないのだが、何しろ彼女は生まれ故郷では国で1・2を争うほどの弾き手であり、国内で楽聖と讃えられるほどの師匠から直々に手ほどきを受けて15年の人である。

まさかクラヴィアがこんな宿でピアノ弾くのか、と顔を出したノーテンすら驚愕の、宿泊客がゆったりと寛ぐ食堂にぴったりの優しく穏やかで、しかしどこか悲しげでもあるアリスのピアノだった。

「どういうことか説明してもらおう」
「どういうことも何も、これでも王女でしたので、楽器は何かしら習います」
「城にこもりっきりのお姫様の腕じゃないだろ」
「こもりっきりで習ってきましたけど……

食堂から逃げるようにして戻ってきた7人はクラヴィアたちが取っている大きな部屋に集まり、アリスを取り囲んでいた。宿の主人はアリスが3曲ばかり弾いたので上機嫌で酒を振る舞ってくれたが、誰も酔っていない。特に自身がピアニストであるクラヴィアは頬が引きつっている。

そこでアリスから国内随一の音楽家から手ほどきを受けていたことを説明されると、クラヴィアを除く全員が納得の声を上げた。アリスの師匠は大陸南部では非常に有名な作曲家であり、ピアノの名手であり、また詩人でもあった。大陸中で公演活動をする彼らが知らないはずはない。

「なぜそれを早く言わないんだ」
「わざわざ言うことではないと思ったからです。皆さんの前で弾くことはないと思ってましたし」
「というかその師匠が作曲した曲をオレたち演奏してただろうが」
「先生を思い出しながら聞いてました」

何が気に食わないのか、ネチネチとアリスを突っつくクラヴィアだったが、アリスの方は普段通り、おっとりにこやかだ。それにつられたか、リートと楽団員たちの方がにやつき始めた。

「体が弱い上に、私の父は王女が王宮を出ることを許しませんでしたので、外の世界を知らずに育ちました。なのでピアノのお稽古はもちろん、先生が聞かせてくださる世の中の話が楽しくて、上手に弾けばたくさんお話をしてもらえると思うあまり、何時間でも練習を」

そうしてアリスが腕を上げると先生は指導に力が入るし、そうするとアリスはもっと上達するしで、2年前に師匠が亡くなるまでは日に数時間の練習は珍しいことではなかった。城内がその感覚でいたものだから、初見の楽譜でもある程度は弾けてしまうでも「ピアノは習った程度」などと言い出すようになってしまった。

「というか……私が話そうとしても、クラヴィアさんは聞いてくれないでしょうし」

締めにアリスがそう言うなり、クラヴィアを除く全員がげらげらと笑いだした。アリスが彼らのことを知らないのはもちろん、彼らがアリスの腕前を知らなかったことは、このクラヴィアの妙に冷たい態度のせいだ。それをネチネチと突っ込めた立場ではない。

仲間たちにげらげら笑われたクラヴィアはばつの悪そうなしかめっ面で「タダで弾いてくれる楽団だと思われるのは困る。今後は出しゃばった真似はするな」と言い捨てて出ていってしまった。

すると、残された楽団員たちは、これまでのよそよそしい態度が一変、アリスの周りを囲んだまま、明るい声色で話し始めた。彼らは必要があれば「アポロン音楽団」と名乗っていること、クラヴィア以外の4人は、トロン、ヴィオ、ガイゲ、レーテと名乗り、クラヴィアに遠慮していたことを謝ってきた。

「クラヴィア本人のことは措いておくとして、アポロン音楽団て訳あり楽団なんだよ」
「訳あり……ですか」
「そう。オレたち全員色々あってさ。君もそうだろ?」
「リートさんとノーテンさんもですか?」
「まあね。別に聞いて楽しい話じゃないよ」
「ノーテンの子供の頃のことは聞いてるだろ? その後はクラヴィアと一緒だから、いずれね」

誰にしても、その「訳あり」については、「話すと一晩かかるから追々ね」と言うしかないようだった。確かにアリス自身も例の銀国事件の話を説明しようとすると、自分でもわかっていないことの方が多くて難しい。複雑な事情を抱えて寄り集まっている楽団なのかもしれない。

そして、その訳あり音楽団を率いているクラヴィアが一番過去を引きずっているらしく、なので本名ではなく全員仮の名前を名乗らされているのだという。

「クラヴィアいわく、名前にはその人が生まれてから今の今までの過去が全て凝縮されているから、音楽団をやっている間はそれを全部捨てて、ただ一心不乱に演奏するだけの人間になれ、ってな」

そりゃあクラヴィアさん重症ではないですか……とアリスは思ったが、一応言わないでおいた。

これを機にアリスはクラヴィア以外の楽団員と徐々に親しくなっていったが、北の聖都への帰還の旅の間、クラヴィアの態度が軟化することはなかったし、彼がピアノを演奏する音楽家であるということと、仮の名がクラヴィアであること以外、アリスは何も知らないままであった。

移動距離はそれほど変わらなかったのだが、各地で公演を行いつつ旅をしていたと違い、アリスは2ヶ月ほどで無事に聖都へやってきた。もうとっくに初夏だが、アリスは重ね着に重ね着を重ねて白い顔をしている。というか山のてっぺんにはまだ雪が残っている。

聖都はこの大陸の最北にある都市で、元々は資源も農地も乏しい寂れた土地だったところ、厳格な戒律を持つ宗教団体の入植があり、まずはそれで街が栄えた。やがて規模が拡大し信者が増えると厳格な戒律も例外が増えて緩み始め、その頃からこの街は学校が多くなっていった。戒律に沿った生活様式は何かを学び極める環境として最適だったからだ。

そういうわけでこの街は聖都として多くの巡礼を呼ぶ街でもあり、学園都市でもあり、大陸各地から優秀な頭脳が集まる多国籍国家になっていった。生粋の聖都生まれ聖都育ちというと、宗教的指導者の家族か学校で働く者の家族か、というくらい。信仰が中心なので政治色も薄く、祈るか学ぶかしかないような街だった。

しかしそれは同時に各国から亡命や難民を集める羽目になり、祈るか学ぶかで裕福ではないので次第にそれらを抱えきれなくなり、非常に友好的な関係を保ち続けてきたお隣さんである小さな王国とくっつくことになった。

結果、今でも聖都として巡礼者はたくさんやって来るし、学校だらけなので学生は大挙して押し寄せてくるし、それが高じて医療の街にもなり、しかし西側にはちょこんとお城が立っていて王族や貴族もいる……という国になっている。アポロン音楽団が拠点としている聖都とは、そういうところであった。

「だけど国としては貧しい方だよ。産業は乏しいし、基本は寄進と学費と医療費で生きてる国だからね」
「みなさんここのお生まれなんですか」
「えーと、えーと、とりあえずオレは違う」

打楽器担当であるトロンが聖都についてを話してくれるのでつい聞いてみたアリスだったが、何しろ全員訳あり、誰がどこの生まれで育ちで、なんていうことをきっちり記憶していなかったらしい彼は苦笑いだ。トロン自身は東側のお隣さんである古い王国の生まれだと言う。

「あの、それで結局私はこの後どうすればいいんでしょうか」
「あれ、まだクラヴィア話してなかったの」
「いえその、クラヴィアさんはあれ以来ますます喋ってくださらなくなって」
「しょうがねえなもう……。でも君はとりあえずクラヴィアんちだよ」
「え」

もう聖都の街並みが見えてきているというのに、到着後のことが何もわからないアリスは目をひん剥いた。を預かってくれているカイナンの座長と話がついているとのことだったから、ひとまずの引き受け先なり奉公先なりがあると思っていたら、まさかのクラヴィアの家とは。

そもそもアリスは、病弱なこの身では政略結婚の役には立たないだろうから、出家して奉仕の人生を送るのがいいのではないだろうかと考えていた。なるほど聖都ならそういう尼僧院もあるだろう、だから預けられたのだなと納得していた。それが何だってクラヴィアの家なんか。

「ええと、クラヴィアさんのお宅は何か営んでいらっしゃるとか、そういう……
「んー、正確にはクラヴィアん家じゃなくて、今クラヴィアが身を寄せてる家、だけどね」
「それは例によってクラヴィアさんに無断で話すと後が面倒くさいとかそういうことですか」
「お嬢は飲み込みが早くて大変よろしい」

説明しづらそうなトロンはまた苦笑い、アリスも苦笑いだ。

それから数時間後、無事に聖都へ入った一行は大きな学校や御堂の前を通り過ぎて、かわいらしいお城のある王国の方へと馬車を進めた。トロンの言うように、王国はとても小さく、アリスが育った街の半分もないくらいに見える。すり鉢状の谷間の底が平地になっており、尾根に寄りかかるようにして立つ城の裾に街が広がっているが、城の2階からでも全てが見渡せるくらい小ぢんまりしている。

街は4本の大通りが城に向かい、その通りで区画割りされている。楽団の馬車は真ん中の区画にゴトゴトと入っていき、細かい路地を通り過ぎたのちに、寂れた芝居小屋を思わせる一軒の店の前で止まった。見れば小さく「アポロン音楽団」と書かれた看板がぶら下がっている。彼らの本拠地だろうか。

そこに楽器を全て運び込み、厳重に鍵をかけるとすぐに解散となり、店の前にはアリスとクラヴィアとノーテンだけが残った。旅の途中、開けても暮れても共に過ごしていたリートですら、「お疲れ〜」と言って立ち去ってしまった。アリスは心細いのとわけがわからないのと寒いのとで少し震えていた。

「あの、クラヴィアさん、私は一体……
「あんたらが牢に入っている間に連絡をしておいた」
「ですからその、私はどうなるんですか」
「どうなるも何も、あんた何も出来ないだろ」
「それはそうですが、自分の今後についてを教えてくださいと言ってるんです」

どうにもこのクラヴィアはアリスに対して意地が悪い。それについては返事もせずに、さっさと歩き出す。アリスはノーテンに促されてその後を追うが、ほとんど王宮内から出ずに生きてきたせいで、歩くのが遅い。そして寒い。

……行き先はオレとノーテンが世話になっている家だ」
「先生の家だよ」
「王立学院で教鞭をとっている近代文学の権威だ。あんたはそこに住む」
「先生は優しい人だよ。おばさんの料理もおいしいよ」

クラヴィアの淡々とした説明と、ノーテンの楽しそうな説明を合わせると、この国では貴族階級と同等である王立学院の教授の家がひとまず引き受け先となってくれるようだ。クラヴィアと教授の関係については何ひとつ説明がなかったけれど、ノーテンは教授とその生活の面倒を見ている女性はとてもいい人で大好きだと言うので、アリスはやっと安心できた。

「きっと先生もおばさんもアリスが好きになるよ。それにおばさんのお菓子はすごくおいしいから」
「私はそこで何をすればいいんでしょう」
「だから何も出来ないだろ」
「だけど何もせずにいるというのは」
「そこは先生と話してからだ」

アリスは小声で返事をしつつ、これは自分の身柄を引き受けてくれる……ということしか話がついていないな、と考えていた。クラヴィアは何か思うところがあってアリスには意地悪な様子だが、それ以上に彼もあまり状況把握が出来ていないのでは、と。

クラヴィアがどんどん先に行くので、こっそり速度を落としたアリスはノーテンに耳打ちしてみた。

「ノーテンさんは先生とおばさまが好きなんですね」
「うん、大好き」
「クラヴィアさんのことはどう思ってるんですか」
「クラヴィアも大好きだよ。顔は怖いけど、とても優しいから」

なるほど。アリスはそれ以上は何も言わずに頷いた。

古びているがよく手入れのされた街並みの中に教授の邸宅はあった。ぐるりを鉄柵に囲まれた古めかしい館で、鉄柵は蔓草に覆われ、庭は花で溢れていて、しかもその花々が母親の好きだったものばかりなので、アリスは一瞬でこの家が好きになった。

ノーテンは滅多に表玄関から入ることはせず、自分は「居候のクラヴィアの居候」だと言って必ず勝手口から入るという。なのでアリスはクラヴィアの後について玄関広間に足を踏み入れた。外見通り古いけれど美しい造りの館で、きっちりと掃除の行き届いた清潔そうな玄関だった。

そこには古ぼけて見える灰色の服を着た紳士がひとり。

クラヴィアは背後のアリスを振り返って、彼がこの家の主人だ――と言おうとしたのだが、

「叔父様!!!」
「殿下、よくぞご無事で。お待ち申し上げておりました」

クラヴィアの傍らをすり抜けて駆け寄るアリス、その手を取って恭しく頭を下げる教授。

クラヴィアはひとり、目玉が落ちそうなほど目をひん剥いてぽかんと突っ立っていた。