続・七姫物語 清田編

09

聖都に到着し、思いがけない再会に驚いたアリスは体調を崩して病院に担ぎ込まれた。

大陸でも最先端の医療技術を持つ聖都の専門的な検査を受けたが、目立った異常はなく、心労と疲労が病弱な体に祟ったのだろうとの診断だった。けれど引受先の教授宅には人が少なく、教授やクラヴィアたちの面倒を見ている女性は通いということで、そのまま入院させられてしまった。

そんなアリスが退院出来たのは実に2ヶ月後、教授の邸宅に戻れたのはいいけれど、聖都の厳しい冬が迫っていた。だがアリスは肉親と暮らせることに感激していて、教授の知人の医師らに指導を受けながら少しでも強い体を作れるように日々努力をしていた。

「ねえアリス、もう1回教えて。先生は、アリスのおじさん、なの?」
「そう。私のお母さんの、弟なんですよ」
「でもアリスのお母さんは死んじゃったんでしょ」
「そう。天国にいるんですよ」

アポロン音楽団が国外に巡業に出ている時を除けば、アリスはノーテンと一緒にいる時間が多くなった。アリスがたどたどしく体を鍛える時には片時も離れずに手伝ってくれるし、ノーテンの方もアリスが優しいのですっかり懐いてしまった。

それを通いの女性は「あの子は家族を知らずに育ったから、お嬢様をお姉様のように思っているんだと思います」と言って顔を綻ばせた。ノーテンはいわゆる「捨て子」である。彼がどこの生まれでなぜ遺棄されたのかは何もわからない。なので彼にとってはクラヴィアや教授が家族のようなものだが、アリスのような接し方をしてくれるわけではない。

なのでノーテンはアリスがピアノを弾けば喜び、本を読んでもらっても喜び、半年が経つ頃になると勉強まで始めてしまった。しかし怪我が元で考えるのが苦手なノーテンは何度も同じ質問をする。アリスと叔父の関係についても、説明するのはこれで何十回目になるだろうか。

「クラヴィアのお母さんも天国にいるんだよね?」
「そうです。クラヴィアさんのお母さんとお父さんも、天国にいらっしゃるんですよ」
「アリスのお父さんも天国?」
……私のお父さんは悪いことをたくさんしたので、天国ではないと思いますよ」

何を何十回聞き直されても毎回丁寧に答えるアリスだったが、この質問のときだけは心が痛んだ。死者を侮辱してはならないと記した書は多いけれど、アリスは時間が経てば経つほど自分の父親と祖父のしでかしたことに嫌悪感を感じるようになっていた。

さらに、信仰とそれに基づく善行奨励の文化が溢れている聖都で暮らしながらも、これまでの人生でほとんど感じたことのない「怒り」というものを実感するようになっていた。

それを「良いこと」とは思わなかったアリスは、自らの身のうちに隠されていた怒りというものをじっと見つめ、向き合い、彼女なりに自分の生き方というものを模索していた。

「クラヴィアにもおじさんがいるの?」
「叔母様ならいらっしゃるはずですよ」
「どこにいるんだっけ」
「星国、というお国です。遠く西の方、高いお山に天文台があるんですよ」

退院して体調が落ち着いたところで、アリスは叔父とクラヴィアの関係についてやっと説明を受けた。アリスの叔父、教授は大陸の西端にある星国の出身で、アリスの母はその姉、ふたりは星国でも特別な歴史を持つ貴族の出身だった。クラヴィアもその星国出身だという。

だけでなく、教授はその「クラヴィアの叔母」とはかつて婚約を交わした仲だった。

クラヴィアの父が亡くなり、母はその悲しみで心を壊し、教授の婚約者だった女性は姉と甥っ子の面倒を見るために多忙になり、結婚の話は有耶無耶になっていた。当時星国は国内が不安定な状態になっていたそうで、教授はやがて聖都に移り住み、以来王立学院に籍を置く身となっている。

――という話を教授はぽつりぽつりと話してくれたが、どうして今まで音信不通だったのか、なぜ今クラヴィアまでもがひとりで聖都にいて楽団をやっているのか、などということについては語ろうとしなかった。アリスも問い詰める勇気はなかった。

聖都は大陸の北部にあり、背後の山を越えると人が住むには適さない凍ったままの山岳地帯が広がっていて、銀国を中心に小国ひしめく南部と違って陸の孤島に近い。それでも銀国にまつわるきな臭い報せは続々と届いており、ただでさえしかめっ面のクラヴィアはますます表情を曇らせていた。そんな中で、一体あなたたちの過去に何があったのですかなどと聞けるわけもなかった。

医師の指導で体を鍛え、聖都の尼に教えを受け、教授にも学問を教わる。アポロン音楽団が巡業に出かけている時はピアノの練習にも打ち込み、弾きながら自らの身のうちを見つめ続けた。そんな生活を続けていたアリスはやがて2度目の冬を迎え、薄っすらと「自分はやはり尼になるのがいいのでは」と思い始めていた。

北の聖都と呼ばれ始める以前、この街は大変厳しい修業の場だったそうだが、遠方から足を運ぶ巡礼者が増えるに従って信仰の在り方も変わってきているという。アリスが週に1度教えを受けている尼僧院の指導者はノーテンのような身寄りのない子供を育てている施設に来てはどうかと勧めてくれていた。人手はいくらあっても足りないし、幼い子供の先生になってみるのはどうだろうか、という。

自分はピアノも弾けるし、ノーテンに何度同じ質問を繰り返されても怒りを感じたことはなかった。養護院なら教授の家から通ってもいいのだし、そういう生き方なら出来るのではないかと思った。

あの日、信長の背に括り付けられて地下牢から脱出した時のことは未だに夢に見るほど鮮烈な記憶だ。信長はアリスを背負ったまま駆け、飛び上がり、飛び降り、背中に括り付けられているだけなのに、アリスは何度も目を回していた。同じ人間とは思えなかった。

彼のような体を得て生まれる人もいる。私のような体を得て生まれる人もいる。きっと信長は全力でを愛し、守り、そのために戦っているはずだ。同じことが出来るわけはないけれど、志は同じだと思った。それなら、私は私の生きる世界で戦おう。手に武器を持つだけが戦いではないはずだ。

そんなことを考えながら屋敷の玄関広間に降りると、ピアノの前にクラヴィアがぽつんと立っていた。

「クラヴィアさん、おかえりなさい」
……ただいま戻りました」

クラヴィアは相変わらず無愛想で仏頂面でちっとも親しくなれる気配がなかったけれど、アリスが教授の姪だと知って以来、以前より丁寧な言葉で話すようになっていた。

「東部の街はいかがでしたか。新年を迎えるお祭の時期ですから、喜ばれたのでは」
「今年は……どこもなんだか静かで」
……南部が落ち着きませんものね」

大陸東部は特に新年を迎える祭が盛り上がる地域である。東部の各国各都市は1ヶ月前から街中を派手に飾り付けて新年の訪れを待ち、年が明けても数日間はお祝いを続ける。なので楽団としてはこの時期の東部は稼ぎ時だが、何しろ聖都は年明け頃から雪が多くなるため、年内に戻って春を待つのが習慣になっている。聖都の新年もそれはそれで祭礼が多いので仕事はある。

というわけで3ヶ月ほど巡業に出ていたアポロン音楽団は新年の2日前に聖都に帰ってきた。ノーテンはきっとまた裏口から屋敷に入り、そのまま厨房に顔を出して食事をねだっているはずだ。それを見越して今朝は彼の大好物の焼き菓子を通いの女性と一緒に作った。

……先生は、人の心が荒む時ほど音楽が必要なのだとおっしゃっていました」
「私もそう教わりました」

アリスに背を向けたままのクラヴィアは手にしていた封筒をピアノの上に置き、力なく椅子に腰を下ろした。つめたく冷えた鍵盤に指をそっと乗せ、ポーン、とひとつ弾く。

「でも、最近はあまり効果がない。私が教えを受けた師匠は音楽こそ人間にとって最高の癒やしであり、薬や包帯よりも大事なのだと言っていたが、実際のところ、音楽では腹は膨れないし、怪我は治らない。もうそういう段階に来ているのかも」

アリスは音もなくクラヴィアの隣に腰掛け、同じように鍵盤を弾く。

「私の先生はこうもおっしゃいました。迷う時は弾きなさい、音のひとつひとつに集中しなさい、神は音と音の間、ほんの刹那の隙間におられる。それに身を委ねなさい――本当にそんなところに神様がいらっしゃるのかどうか分かりませんけれど、音と音の隙間には、先生を感じることがあります」

クラヴィアは指を滑らせて、旋律を奏でる。

「南部の問題など東部では他人事かと思っていたけど、人々は心のどこかに不安を置いたまま忘れることが出来なくなっていた。こんな北の外れにも南部の報せは真っ先に届く。東部の都市ならなおのことだろう。オレたちの演奏ではそういう人々の不安を忘れさせることは出来ていない気がした」

クラヴィアの言葉とは裏腹に旋律は穏やかで優しげな音色、アリスもそれに倣って弾いてみる。

「近頃、尼僧さまに教えを受けていると、思うのです。神様はどこか天空の神殿におわすのではなく、あらゆる場所に同時におられるのではないかと。そうして常に私たちを見つめていらっしゃる。私たちが何を思い、何を成し、どう生きるかを、じっと見つめておられるように思うのです」

いつしかふたりは柔らかな旋律を4本の手で奏で始めていた。どこかで聞いたような、それでいてただの即興でしかない旋律は途中何度も不協和音になってしまうことがあった。けれどふたりはお互いの指の動き、音のひとつひとつに寄り添って美しい音を探した。

「そういう時は師匠の言葉を疑ってしまう。音楽なんて何の役にも立たない」
「ですから、いついかなる時も、神に、自分に恥じないよう生きねばならないのではと」
「けれどオレにはピアノを弾くことしか出来ない」
「それが人の価値を決めるのではないかと、だから懸命に――
「弾き続けるしかないんだ」
「生きていくしかないのだと」

言葉が重なった時、クラヴィアとアリスの小指は鍵盤の上で並んでいた。今気付いたように顔を上げ、ふたりはぼんやりと見つめ合った。無心で心情を吐露し、無心で鍵盤を叩いていた。

……相変わらず大した腕前だな」
「連弾は初めてです。面白いのですね」

クラヴィアは羽織っていた上着を脱ぐとアリスに着せかけ、また鍵盤に指を置いた。

「オレが星国出身だということは……
「叔父から聞いています」
「オレが今ここでこうしていることは、銀国と関係がある」

ピアノの上に置かれていた封筒を取り上げ、クラヴィアは封蝋をじっと見つめた。

……星国の王家のお印ですね。現在は途絶えているようですが」
「星国出身のオレが聖都で音楽団をやっているのは、あなたの父親のせいなんです」
「私の父は本当にたくさんの方に迷惑をかけてきたのですね」

故郷を離れ、時間が経てば経つほど自分の父親に対しては悪感情ばかりが湧いてくる。突然の爆発、投獄、心が壊れてしまいそうな地下牢の中で妹とそのじいやに話を聞かされた時は、こんな事態を招いたのが父や祖父だという実感はなかった。どこか物語の中に放り込まれたようで、ほんのちょっぴりわくわくする気持ちも持っていた。だが、もうそんなものは残っていない。

こんな遠い街の小さな粉屋ですら、銀国の事件の影響を受けている。それを目の当たりにしたアリスは、聖都の冷たい空気を吸い込みながら「私の父親と祖父は悪魔だ」と思った。そしてその血は自分にも流れている。

「それをどう償っていくべきなのかということは、毎日考えています」
「別に……あなたが償うことでは」
「では何もしなくていいのでしょうか」
「それは……
「あれからもう1年以上が経つというのに、私の故郷はまだ諍いを繰り返すばかり」

それにも呆れていた。特に最近では南部の問題に関する情報は普段より早く届く。ほとんど会ったことがないとは言え、立派な成年王族であるはずの兄たちは混乱の続く銀国そっちのけで喧嘩を続けているらしい。まさかここまでバカだったとは、としか思えなかった。

するとクラヴィアは封蝋を指で外し、中から数枚の書面を取り出した。

「その諍いが、ひとまず終わるらしい」
「決着がついたのですか?」
「いや、あなたのお兄さんたちが、全員亡くなりました」
「えっ……?」

星国王家の紋章が薄っすらと染めてある紙には、王子3人の死亡を報せる旨が書かれていた。

「悲しいですか」
……いいえ、特に、そんな気持ちには」

王宮での式典くらいでしか兄と会うことはなかった。会っても優しく声をかけてくれることもなかった。彼らの母たちはアリスの母を見下し、彼女が病死したときは「伝染るかもしれないから」などと言って弔問にも来なかった。母は伝染病なんかじゃなかった、心臓を悪くしただけだったのに。

「今後銀国は、あなたのお家の遠い分家が引き継ぐらしい」
「それも、ご迷惑だったでしょうね。あんなお荷物を放り投げられて」
「だけど、おそらくこれで終わりではないと思う」
「どういう……意味ですか」

封筒を戻したクラヴィアはアリスに向き合うと、静かに息を吸い込んだ。

「あの事件も、あなたのお兄さんたちが諍いを起こしたことも、こんな一度に全員が亡くなったことも、そしておそらく私が『銀国のせいで』聖都にいることも、全て仕組まれたことだと、私は思ってる」

屋敷の玄関広間は巨大な暖炉で温められていて寒さは感じない。けれど、窓の向こうでははらはらと小さな雪が舞い始めた。気付けば玄関広間は薄暗くなり始めていて、クラヴィアの表情は見えにくくなってきた。だというのに、彼はかつてないほどに穏やかな表情をしているように感じられた。

……アリス、また一緒に弾いてくれますか」
「はい、もちろんです」
「私のピアノで人々の心が安らげるよう、もっと腕を磨きたい。練習に付き合ってくれますか」
「はい。私でお役に立てるのなら」

こうして言葉で話していても意味は伝わる。けれど同じピアノ奏者同士、お互いの指が奏でる音の中に埋もれている方が心が伝わる気がした。聞き慣れたピアノの音のひとつひとつが、どんな言葉よりも。

「私は幼い頃から病弱で、穀潰しで役立たずの王女でしかなかった。政略結婚にも使えないのに王女として王宮で面倒を見なくてはならない、それこそお荷物でした。ピアノくらいしか誇れるものもありません。ですから、それがクラヴィアさんのお役に立てるなら」

クラヴィアは言葉を切ったアリスの手を取り、包み込んだ。冷たい手だった。

「アリス、ひとつ知ってもらいたいことがある」

思わず手を握り返したアリスに、クラヴィアは掠れた声で言った。

「私は、星国王家の生き残り、王位継承者なのです」