続・七姫物語 清田編

21

聖都は雪に飲み込まれ、アポロン音楽団のように仕事で国外へ出ていた人々も続々と帰還、街の御堂には新年を祝うための飾りが吊るされたが、それらもすぐに雪帽子を被っていた。

信長とじいやの消息は杳として知れず、しかし新年の頃の聖都はとにかく雪が深くて近寄るのにも苦労するような場所なので、生き延びていたとしても時期を見ている可能性は高い。を始め、彼らの帰還を信じる人々はそれを願っていた。きっと冬が過ぎるのを待っているだけだ。

中でもじいやの母と妹は3日と空けずに教授の屋敷に通い、に寄り添い続けた。

だがこの冬は不運にも例年よりさらに雪が多く、聖都は完全に孤立していた。厳しい冬を乗り切る準備はしっかりしてあるけれど、本当に春が来るのか疑わしく感じてくるような雪だった。

そんな状態だったものだから各地から寄せられる連絡は遅れに遅れ、代表会議は早速捕縛した組織の人間を尋問し始めたけれど、全体として構成員に一貫性はなく出身地もバラバラ、育った環境などを考慮してもそれでも銀国や星国を恨む理由もなければ、組織に与する動機が弱く、事件の全容は魔術師の尋問が出来るかどうかにかかってしまっている――という報告は新年から2ヶ月近くかかって届いた。

これに焦れていたのはクラヴィアとバシリスだったが、しかし何しろ雪に閉じ込められて日々の生活にも苦労する毎日で、春が近付いて雪が溶け始め、教授の屋敷の庭木の蕾が膨らみ始めると、アリスですらやっと冬が終わるとため息を漏らしたほどだった。

とはいえ、春と言っても、聖都の春は南部のように暖かで花盛りというわけにはいかない。窓を開けて暖かな風を感じられるようになるにはまだ2ヶ月以上待たねばならない。

しかし南部なら時期的には春、は夜毎に窓辺に立つようになっていた。

まだ窓の外の景色には雪があり、夜になると青白くぼんやりと光る寒々しい街ではあったけれど、の心は4年前の春の夜にあった。お芝居とお菓子のことしか考えていない呑気な王女だったあの頃、窓から突然現れる王子様はの日常を破り、心に不安と恋を植え付けた。

今も心の中は不安と彼を想う気持ちで満たされている。

いや、生まれ育った銀国を体ひとつで脱出して以来、の心の中から不安と信長への愛情が消えることはなかった。いつでも心には恐れと悲しみがあり、それはを苦しませ続けてきた。それでも日々を生き抜いてこられたのは、信長への気持ちがあったからだ。

彼を想い、愛し、共にありたいという意志だけが不安に抗うための武器だった。

だから、それを失うかもしれないと思いながら過ごす日々はをこれまでにないほどに打ちのめした。不安や恐怖に勝てるだけの力が残っていない。もし信長が帰らなければ、彼がもし死ぬようなことがあれば生きていられる気がしなかった。死に逆らうだけの希望はとっくに失くしていたから。

あの人は私の太陽だった。

いつでも私を照らし、温め、育て、導いてくれた。その光が強すぎて直視できないこともあったけれど、私はあの光なしには生きてこられなかった。こんな深い雪の中にいても、彼という光があれば怖くなかった、寒くなかった。

春の夜にあなたを待つのは慣れてると思ってたけど、雪は深く、夜明けは遠すぎて――

そんな中、アリスはクラヴィアの求婚に応える決意を固めていた。クラヴィアが帰還してきた直後はバシリスの登場やの看病でそれどころではなく、新年の祝いもろくに出来なかったので、クラヴィアの求婚の話は保留のままになっていた。

その件でクラヴィアの部屋を訪ね、返事を伝えたのだが、クラヴィアは喜びもせずにまた真顔。

「もしかしたら王妃という責務が待っているかもしれないことは、いいのか」
「はい。私にはその価値がないと思うのですが、それもまあクラヴィアさんのせいですし」
「そう来たか」

アリスなりにずっと悩んだ末の答えだったのだが、悩みすぎて彼女にしては珍しく思考を放棄した。

クラヴィアと一緒になる利点は多い。信長がもし戻らなければを預かれるし、自分の母や叔父の故郷でもあるし、今ならバシリスも一緒なので、また新たな生活を始めるにしても、銀国を出たときのような不安はない。きっとノーテンも一緒だろう。彼はもう家族だ。

どうしてもその「王妃の可能性」を考えると尻込みをしてしまう、それだけが悩みの種だったわけだが、別に私は王妃なんて望んでいないのに……と考え始めたら、「私はクラヴィアさんがピアノ弾きのままでも構わないけど、クラヴィアさんが王座に即きたいと言い出したから王妃の可能性で悩んでる。これはクラヴィアさんのせい」と思考が転がり始めた。

そう、アリスもまた、クラヴィア自身が好きだったのだ。ピアノ弾きでも王子様でも王様でも、あの不器用だが強い意志を失わない頑固者のクラヴィアを愛しいと思った。並んで鍵盤を叩いていると、心が繋がるような気がした。そんな人には出会えないと思った。

「だから私がもし王妃として失格の烙印を押されたら、クラヴィアさんが弁明するんですよ」
……ああ、そうしよう」
「私はあんなに素敵な音色を奏でられるクラヴィアさんが好きなだけですから」

そして約束通り、アリスは爪先立ってクラヴィアにそっとキスをした。

「お約束のキスです。私、クラヴィアさんの妻になります」

クラヴィアはアリスの体を引き寄せると、そのまま何度も唇を重ねた。そしてまた唇が触れそうな距離のまま、かすかな声で囁いた。

「セレス・アステル・タリ・セターレ」
……何の言葉ですか?」
「私の名前です。これだけで、名前。全て入れるともっと長い。だから言いたくなかった」

クラヴィアは以前、どうせ長ったらしい名前なんだろうから、言いやすく短い名前を考えろと命令してきた。それを思い出したアリスは笑み崩れ、どうやら照れているらしいクラヴィアにぎゅっと抱きついた。クラヴィアさんも長い名前に困っていたのね。

そしてクラヴィアの耳元でそっと囁き、またゆっくりとキスをした。

「私の本当の名は、あなたにだけ教えます。私はこれからアリスとして生きていくから」

聖都の春は果物の季節だ。と言ってもまだ雪の残る聖都で果樹が実をつけるわけではなく、ようやく聖都との行き来が容易になった諸外国から続々と新鮮な果物が届くのである。冬の間保存食ばかり食べて過ごしてきた聖都の人々が瑞々しい果物に飛びつくのでよく売れる。

大陸南部なら春の花が散り始める頃、まだ雪がこんもりと積み上がっていた教授の屋敷にも果物が届いた。運ばれてきた木箱を開くと、まるで初夏のような爽やかな香りを放っていた。

「これはどうやって食べるの?」
「切ってそのまま。果汁が滴る果物なんか何ヶ月ぶり、でしょう?」
「言われてみれば……

ここしばらく食事が美味しいと感じるのも難しくなっていたは、姉上の隣で肩をすくめた。一座にいる頃も芝居づくりに熱中すると食事どころではなくなってしまい、心配というか呆れた信長がお菓子や食事を持ってきてくれたものだった。

すると、一緒に木箱を覗き込んでいたクラヴィアとバシリスが身を乗り出してきた。

さん、我々も殿下たちのことは諦めていません」
「だけど、万が一のこと、考えられませんか」

は手にしていた果物を木箱の中にころりと落とすとため息をついた。クラヴィアとバシリスの気持ちはわかる。特に信長から「を引き受けろ」と言われていたクラヴィアは春が近くなるとそのことを連日アリスに相談するようになっていたらしい。気持ちは、わかる。

……初夏を待たずに、星国に向かおうかと考えています。アリスも、一緒に」

クラヴィアにしてはずいぶん躊躇いがちな喋り方だった。魔術師の件はともかく自分の中では区切りがついたので、バシリスとアリスと共に星国に戻り、自身の身分を明らかにするつもりなのだろう。それが上手く運んで王座につけるかどうかにより、アリスやバシリスの今後も変わってこよう。なので出来ればも同行させて万が一に備えたい――それはわかる。

だが、どうしてもこの聖都を離れるのは怖かった。

「殿下がご出立される前日まで、お返事を待っていただくことは……出来ませんか」

何か言おうとしたクラヴィアを遮り、バシリスがの手を掴む。

「もちろんそれで構いません。私は十数年諦めなかった。それが正しいことは知っています」

はか細い声で「すみません」と言い、すぐに部屋に戻った。後を追ってきたアリスはの肩をそっと抱いて、そしてゆっくりと撫でた。

「ふたりとも、責任を感じてるのよ」
「それはわかってる。私のことを心配して言ってくれてるのは本当に感謝してる」
「私も殿下は生きてると思ってる」
……ありがとう」
「慰めで言ってるんじゃないの。本当にそう思ってるのよ。あの人はそういう人じゃない」

アリスはに向かい合うと、両手を取った。

「地下牢から脱出したとき、私、彼の背中に括り付けられてたでしょう。同じ人間とは思えなかった。身体能力だけじゃない、あなたを助けたい一心で私たち全員を救い出したその行動力、意志の強さ、全部ひっくるめて生きる力だと思うのよ。彼はそれがとてつもなく強い」

生きる力――は王妃との会話を思い出していた。父親である陛下はそれでもなお王子としての彼を望んでいたけれど、母親は幼い頃から彼のその「生きる力」に圧倒され、例えカイナンが滅びたとしても自由に生きてほしいと望んでいた。その力はアリスにも勇気を与えてきた。

「私は、そういう殿下に救ってもらった命なの。だから私も挑むことにしたのよ」

クラヴィアの求婚を受けたアリスの手には小さな灰簾石と金剛石の指輪が光っている。王妃なんて大役は病弱で家族のない自分には相応しくないと思っていたけれど、相応しいかどうかよりも、相応しい人物になる努力を選択したいと思った。あとはクラヴィアのせいでいい。

「大丈夫、ここに帰りたいと一番願ってるのが殿下なんだから。なんとしてでも帰ってくるわよ」

はアリスにしがみついて嗚咽を漏らした。いつの間にこんなにしっかりした体になったのだろう、前は抱き締めたら骨が折れるような弱々しい体だったのに。今のアリスの体からは、彼女の生きる力を感じている。

どうか信長からその力が失われることがないように――

聖都では「2週間以上雪が降らずに雨が降ったら春」というのが民衆の認識である。かれこれ10日ばかり雪が降っていないので、あと数日待っても雪が降らないまま雨が来たら完全に春だ! と街はちょっとばかり浮かれていた。

しかし長い冬に降り積もった雪はそう簡単に溶けて消えてくれるわけではないので、はアリスと一緒に庭の雪に果物を埋めていた。家の中は暖炉で温められて傷むのが早いので、春の果物は外の雪の中に置いておくのが聖都流だ。

「そろそろ銀国は春市の頃かしらね」
「春市、やってるのかな」
「女王は厳しい方だそうだから、まだそんな予算は認めてくれないかもしれないわね」

目下、国の立て直しの真っ最中である銀国は厳格極まりない女王のもと大人しくしており、王子たちの対立が激化したことで流出していた国民が戻りつつあった。この女王の厳格な政は特に貴族層に受けが悪く、それはそれで問題となっているそうだが、おそらくあの女王は意に介さないに違いない。

「でも、もうあんまり銀国が自分の生まれ故郷だった気持ちが残ってない」
「私もよ。星国のことを故郷と思えるようになるのか、自信もない」
「今はどう思う? 故郷というか、自分の家はどこだって感じる?」
「そうね、不思議なんだけど、聖都に向かう途中の荒涼とした平原という気がする」
「平原……

はシャオが話してくれた逃亡劇のことを思い出した。恐怖に泣きながら、それでも走るのをやめられずに風に背を押された彼女は、今も南部の草原に思いを馳せている。

「あの時の私には何もなくて、クラヴィアの気が変わってその辺に放り出されたら死ぬしかない運命だけしかなかった。でもあの時の私は研ぎ澄まされた自分自身だった気もするの。他に失うものも手に入れたいものもなくて、私の心を弱々しい骨と皮が覆っているだけの、究極の自分だったんじゃないかって」

おそらく銀国でのアリスしか知らない人は、今の彼女を見ても気付かないだろう。それほどアリスは様変わりした。けれどそれは聖都に来て手に入れたこれからを生きるための依代であり、本当のアリス自身というものは今も荒涼とした平原で寒さに身を縮めているのかもしれない。

「これから先、どれだけ幸福で裕福で苦痛のない日々を生きたとしても、私はあの時の自分を忘れないと思う。恐怖と不安と悲しみと苦しみ、それはいつまでも私と一緒にあればいいと思う。それがある限り、私は誰に対しても誠実な人間でいられると思うから」

アリスの横顔は決意に満ちていた。これから星国に戻り王座につこうというクラヴィアの隣に並ぶ覚悟を決めた頬はほんのり赤く、果物に雪を被せる指先はしずくに光り輝いていた。

、あなたは? やっぱり殿下かしら」
「それもそうなんだけど……
「えっ、違うの?」
「それも含めて、カイナン、だと思う」
……そうね。カイナンにはもう大事な人がいっぱいいて、夏市もあって――

いつか地下牢でそうしていたように、姉妹は寄り添って手を繋いでいた。すると背後でぜいぜいと忙しない息遣いが聞こえてきて、ふたりはそのまま振り返った。教授の邸宅周辺に配置されているカイナンの警護官だった。彼は門扉にしがみついて真っ赤な顔をしている。

「どうしたんですか、何か――
様、今すぐ、殿下、殿下が」
「なっ、何かあったの、まさか」
、行きましょう」
「お、お姉ちゃん」

息が上がって上手く喋れない警護官を残し、アリスは強い力での手を引き、外に出た。教授宅の前の通りを真っ直ぐ行くと、例のと信長がこっそり挙式をした御堂に繋がる。どうやらその辺りでなにかあったようだ。まだ雪の残る道をはアリスに手を引かれて駆けていく。

「ちょ、ちょっと待っ……
、見て、前を見て」
「おね、お姉ちゃん」
、春が来たのよ! さあ行って!」

アリスに手を放り出されたは、教会の前に佇むマント姿の人物に目を留め、走り出した。

暗い色のマント、あちこちボロボロで汚れていて、しかしそれはひらりと軽く風になびいている。それと一緒にそよぐ、長くて真っ黒な髪。体のあちこちには包帯が巻かれていて血が滲んでいる。

遠い遠い春の夜には恋をした。

すっかり暮れて暗い空、橙色の明かりが灯り、音楽に笑い声に酒を酌み交わす音が通りを賑わし、曲芸師に奇術師に人形遣いに火を吹く男に蛇女が手招く異世界の夜、は花の香りに惑わされて闇に迷い込み、そこで彼に出会った。

にとって彼はまだ見ぬ広大な世界そのもの、王宮の塀の中で物語に心を躍らせるだけの毎日だった王女は心が惹かれていくのを止められなかった。どうしてだろう。どうしてだったんだろう。何が心を惹きつけてやまなかったんだろう。その答えは見つけられないままだった。

しかしそんなものはもうどうでもよかった。彼が生きてそこにいるなら、理由なんかどうだっていい。

彼は春市で巡り会った人だったのだから。

「信長――!!!」
!!!」

雪に足を取られながらも、は信長の広げた両腕の中に飛び込んだ。いつかの夜のように、彼のマントが体を包み込む。

「ただいま。な、ちゃんと帰って来ただろ?」
「おか、おかえりなさ、信長」
「ちょっと遅刻したのは勘弁してくれ。これでもう終わりだから」
「もう、会えないんじゃないかって、そしたら、そしたら」

もし彼を失うようなことがあれば、生きていられる気がしなかった。それを言葉に出来なかったの頬を両手で包み込むと、信長はそっとキスを落とし、にんまりと目を細めた。

「正義の味方は愛する人のもとに帰るまで死ねない。物語ではお約束だろ」
「そんな話あったかな」
「じゃあ新作の芝居でそういうの書いてよ」

そんな気楽なことを言っているが、信長は満身創痍、包帯のないところもあちこち傷だらけだ。はマントの中から抜け出ると彼の体を支えて頬を撫でる。

「じゃあどんな冒険をしてきたか、全部聞かせて」
「そりゃあ時間かかるぞ。ゆっくり寝床で添い寝しながら話してやるよ」
「こんな傷だらけで何言ってるの。ていうかほんとにそういうネタしか出てこないわけね」
「代わり映えしなくて悪かったな。お前の夫はそういうやつなんだよ。忘れたか?」
「忘れるわけないでしょ、4年前から信長はずーっとそういう人」

ふん、と鼻で笑いながらは涙ぐみ、信長はその目尻を指で拭う。

「そういう信長がずーっと好きなの。知ってるでしょ」
……知ってますよ、姫」

厚い雲に覆われて毎日薄暗かった聖都に春の日差しが差し込み、通りにうず高く積み上げられた雪をきらきらと輝かせている。滴るしずくは石畳の目地に集まって静かに流れていく。

聖都に降り積もっていた雪はやがて溶けて山を下り、川に集まり、大陸中を潤していく。シャオが、アリスが思いを馳せる草原を育み、風は草原を駆け抜けてやがては南の海を見る。

そこにの故郷はある。