全身をボロ布でぐるぐる巻きになっていたクラヴィアの叔母・バシリスは、濡れてしまった衣服らしき布を全て取り外すとまずは教授としばし抱き合っていた。かつては婚約までした仲だったけれど、クラヴィアの父親が投獄されたことで彼女も運命が狂い、長らく消息不明になっていた。
「本当にごめんなさい、だけど姉を死に追いやった魔術師をどうしても許せなかったの」
「許せなかったって、あんな傭兵のような格好で一体何をやってたんだ」
「いつもクラヴィアに星国の紋章が入った封筒が届いてたでしょ」
「あ、ああ、よく届いていたけど……」
「……大陸中を巡っていたの。魔術師を追って、あいつを追い詰める方法を探して」
バシリスは長い髪を編んで頭に巻き付けており、それも解いて長椅子にどっかりと腰を下ろした。意識を失ってしまったは部屋に担ぎ込まれ、急ぎ医師と今朝も来てくれた尼たちが呼ばれて、現在介抱中。なのでを除いた全員が居間に揃っていた。
「あの手紙というか報告書を送ってくれていたのは叔母様だったのですか」
「他に安全な預ける場所もなかったし、あなたが音楽家になっていることも知ってたけど……」
バシリスは細い鎖に通してあった灰簾石の指輪を外し、隣に座っているクラヴィアの手に握らせた。
「いつかあなたは星国の王座に戻ってくると、その時は姉さんと義兄さんの指輪も揃って星国に帰ってきてくれると信じてたの。遠い街であなたがピアノを弾いてるところに遭遇したことだってあるけど、でもあなたはピアノを弾きながらも星国の王子としての矜持を忘れていないって、私にはそう見えたの」
クラヴィアはバシリスの手を握り締め、俯いて喉を詰まらせた。心の底に閉じ込めておいた星国の王位継承者としての誇りを叔母がずっと大事に保管してくれていたような気がした。
「バシリス、君はずっと行方不明だと……」
「そう。義兄さんが投獄されて姉は昏倒、そのまま死んだ。クラヴィアは既に星国を脱出」
「ここで待ってると言っておいたのに」
「さっきも言ったでしょう、魔術師を諦められなかった」
バシリスはさも美味そうに熱いお茶を飲むと、ゆったりと息を吐いた。クラヴィアの母方の叔母ということは貴族の生まれだっただろうが、もはやそんな淑女の面影はなく、鋭い眼差しを持つ歴戦の兵士のようにも見えた。
「姉の状態を見ながら聖都に行こうと思ってたけど、姉は回復することなく死に、魔術師は替え玉が処刑され、気付けば私の家は『陰謀に加担した王子の妃の家』になってた。父と母は地方に逃げ延びたけれど、慣れない貧しい暮らしに戸惑っていたし、今もどこかで魔術師がのうのうと生きているのかと思ったら、とても聖都に向かう気になれなくて」
復讐心を駆り立てられたバシリスはそのまま姿をくらまし、しばし諸国を放浪したそうな。各地で情報を集め、なんとかして魔術師を追い詰める手段を探し、やがてそれは星国で名もなき組織を作るに至る。銀国が侵略戦争を具体的に考え始めるよりもさらに前の話だ。
「そうやってずっと影で暗躍していたのか」
「そんな大袈裟なものでもないけど、私は手練の諜報員じゃないから尻尾を掴むのに時間がかかって」
「言ってくれれば……」
「あなたを巻き込んだら幼いクラヴィアも巻き込むことになる。それは出来なかった」
教授の言葉にきっぱりと言い返したバシリスはしかし、お茶を飲み干すとカップをテーブルに戻し、まあまあと手を挙げた。
「でも詳しい話はまた今度。まあそういうわけで私は魔術師を追いかけ続けて十数年、やっと代表会議に確実な情報を届けて討伐隊が出たというのに、当の魔術師は行方不明、捕まえた息子は『オレは奇術師だ』とか名乗ってるけど何も知らされてない様子だし、その上カイナンの王子殿下と元銀国諜報員のおっさんが行方不明」
さっき倒れたのがその王子の恋人であり、おっさんが教育係をしていた銀国の王女だということをアリスが説明しようとしたのだが、バシリスは全て把握しているようで、を聖都に運んできたのは正解だったと頷いた。
「でも、魔術師が潜伏していたはずの古城の焼け跡からは王子もおっさんも魔術師も遺体が出てきてない。古城から火が出たのは作戦中だったし、消し止められたのが早かったから体が確認出来ないほど燃え尽きる時間もなかったし、きっと生きてると思って近くを調べ始めたの」
すると街道を少し北西に上がったあたりで、信長と思われる若い男性の目撃証言が取れ、バシリスはそれを追いかけていたのだが、やがて痕跡は消失、手がかりを失ったので聖都に来る決断をした。もし生きているならこの聖都に戻る以外の選択肢はないはず。そう考えて。
「銀国で親しくなっていく王子と姫を見てた。懐かしかったわ、私にもあんな頃があった」
涙で潤んだ瞳の教授に手を取られると、バシリスはにっこりと微笑んでその手を握り返した。
古城で火の手が上がったのは、作戦開始の日の日没が迫る頃だった。朽ちかけた古城は広くなかったけれど、内部は様々な仕掛けが施されていて、他の拠点と比べて深部に侵入するのに時間がかかっていた。完全包囲なので逃げられない相手を追い詰めるだけとはいえ、わざわざ罠で傷を負うことはない。
だが、そんな罠の数々をものともせずにじいやはさっさと城内を進んでいった。それを追う信長が後れを取るほど素早く進むじいやはしかし、見慣れた初老の教育係には見えなくて、信長は何度も目をこすった。なんでそろそろじいさんに足を突っ込み始めたおっさんがこんな機敏に動けるんだよ。そういうところ何回も見て来たけど、今日は全然動きが違うじゃないか。
「なあ、あんたは時計屋とか魔術師とか、そういう通り名はなかったのか」
「……父が死ぬまではありませんでした。いち諜報員に過ぎなかったので」
「じゃあ時計屋を引き継いだとか、そういうことか?」
「いえ、そういう――若、近いです。用心を」
じいやは司令部で指示された場所とは全く関係のない一角に目をつけていた。そして呼吸を整えると、古城の半地下の一室に飛び込んだ。すぐに鋭い金属の音が響き、やけに甲高い男の声が聞こえてきた。
「誰かと思えば! 見違えたな、すっかり腹のたるんだ年寄りではないか」
「そっちは醜い化け物ではないか。いい加減地獄へ帰れ」
「地獄から這い出てきた悪魔に言われる筋合いはないわ!」
松明の明かりの中で切り結ぶじいやと魔術師、信長はその迫力に気圧されてしまい、助太刀しようにも刃を突っ込む隙がなかった。じいやの言うように魔術師は怪我や火傷の跡で人間離れした醜悪な姿で、だというのに身のこなしも振るう剣もまったく年齢を感じさせなかった。
「この十数年、お前は一体何をやっていた? 王女の教育係か? 違うな、お前は鍛錬を怠らなかったはずだ。腹はたるんでもこの腕は鈍っておらん。私がいつか復讐のために銀国を襲うことをわかっていただろう。王女はその囮に過ぎなかったんじゃないのか、え?」
嘲笑しながらそういう魔術師には答えず、じいやは激しく剣を打ち込んだ。
「お前はオレのように潜伏していたんだ。誰も手が出せない大陸で一番安全なあの王宮に!」
「黙れ!」
「銀国の国王親子が死んでくれて嬉しかっただろう? 私がやってやったんだ、感謝しろ」
ふたりの斬り合いを見ているしか出来ない信長はしかし、魔術師の言葉にこの数年間で初めて「恐怖」を感じていた。魔術師は言いがかりでじいやを精神的に揺さぶっているはずなのに、どうしてか彼の言いがかりが実は真実なのではないかという気がしてきてしまう。
じいや、そいつの言うこと、本当なのか……?
「若、耳を貸すんじゃない! こいつの言葉は心を惑わす」
「そりゃあ真実だからだよ、カイナンの王子様。お前の愛しい姫はこいつの人質だったんだ」
「若、集中して下さい、我々の目的を思い出してください」
「目的? 王子殿下、こいつの目的は一体なんだったんだね? 知っているか?」
「聞くんじゃない!」
冷や汗がこめかみに伝う。信長はふたりの言葉の間で心がふらふらと揺れ始めてきた。どういうことだ、どっちが本当のことを言っているんだ、ていうかじいやって、じいやだよな、のじいやで、なんか色んなことを知ってて、やたらと強くて……
信長は混乱しながら無意識に耳の後ろの短い髪に触れた。そのことで意識の中にが現れ、そして信長は気付いた。匂いがする。嗅いだことのある匂いだ。確か、遠い過去に、暗い夜に。
激しく打ち合わされる金属の音が遠ざかり、信長の意識を過去に誘う香り、それは花の香りで――
「花の香り!?」
「よく気付いたな王子様、こんな危険な花の香りを知ってるとは、やんちゃ坊主め」
「やっぱりあの奇術師は……」
「おうとも、オレの息子よ」
やはりを花の香りのお茶で誘惑したのは奇術師と同一人物だったらしい。しかし信長はますます強く香る花の匂いに目眩がしてきた。なんでじいやは平気なんだよ。
「若、抗えないなら出ていきなさい!」
「良い物食ってお城で暮らしてるおぼっちゃんが抗えるわけねえよ」
「星国の王子を罠にはめた時もこの花を使ったな」
「そりゃあそうさ、星国にしか咲かない恐ろしい花だ。お前にはさすがに効かんようだがな」
なんとか抗おうとした信長はよろめきながら壁を伝って移動し、手にしていた松明を燭台に挿そうとした。感覚が鈍くなってとても持っていられない。だが、既に四肢の制御が効かなくなっていた信長は松明を落とした。朽ちかけた古城はどこもかしこも枯れ葉が入り込んでいるし、魔術師が花の香りを焚いて潜んでいた部屋には壊れた家具が散乱していた。
松明の火は枯れ葉や埃に燃え移り、細く煙を立ち上らせる。朽ちかけた古城は隙間だらけで、そよそよと入り込んでくる秋風にいつしか火はパチパチと枯れ葉を爆ぜ、ゆっくりと燃え上がった。
意識が朦朧とした信長は、その鮮やかな炎の照らすじいやと魔術師をぼんやりと眺めていた。魔術師の方はじいさんだし、じいやもおっさんとじいさんの中間くらいなのに、なんであいつらあんな速度で打ち合い出来るんだ……? 諜報員てああいうこと出来ないとダメなん……?
部屋の中はじわじわと炎に包まれ始め、崩れた天井から外へ、枯れた蔦にどんどん燃え移っていく。
だが、隙間風と上昇気流で花の香りが薄れると信長の意識は徐々に戻り始め、それに気付いて気つけ薬を吸い込むと、もっとはっきりしてきた。壁に寄りかかってへたり込んでいた体を持ち上げ、火のない場所へと逃げる。
「いいのかい、あの王子様、燃えちまうぞ」
「そっちこそ息が上がってきたんじゃないか。残り少ない寿命がさらに短くなるぞ」
「今更そんなことに怯える稼業じゃねえだろう。なあ、十字の赤悪魔さんよ!」
魔術師は言葉でじいやを攻撃しているのだろうが、打ち合いでは押され気味だ。あるいはじいやがまったく疲れを見せないので焦ってきたか。しかし「十字の赤悪魔」という言葉を耳にした信長は弾かれたように顔を上げた。それって確かクラヴィアが言ってた――
信長は顔を打ち振り、炎に取り囲まれたふたりを見つめる。
「あの時、お前も片付けていれば……!」
「甘く見られたもんだなあ。お前のような、父親殺しごときに!」
信長の心臓が胸を突くほどに跳ねる。
「おっかさんと妹はいい迷惑だろうよ、息子が忠義者を気取ったばっかりに!」
じいやももう何も言わない。
「安心しろよ、オレが死んでもオレの息子がお前の姫様の息の根を止めるだろうさ!」
瞬間、魔術師の絶叫が響き渡った。信長が目で追った時には魔術師は剣を持った手を切り落とされ、足を切られ、片目も切られていた。その場に崩れ落ちた魔術師は這いずって部屋を出ようともがいたが、その背中をじいやが踏みつけている。すると、魔術師の刃に切り刻まれたじいやの服がずるりと剥がれ落ちた。燃え盛る炎に照らされたじいやの胸に、血の滴る大きな十字の傷が現れた。
「若、お逃げ下さい」
「十字の赤悪魔、その傷のことか」
「自分で名乗ったわけじゃない」
炎の赤、滴る血の赤、そして炎が映るじいやの瞳も赤だった。悪魔なんて呼び名はつまり、
「時計屋を、父親を討ったのか」
「大方こいつは、私が時計屋を始末したので首を持って帰れず、それを恨んでいるんでしょう」
「は囮だったのか?」
「若、あなたが帰らねば様はどうなります」
「どこまでが真実でどこまでが嘘なんだよ」
「真実は過去の中、語り継がれていくのは嘘という名の幻です」
「いい加減ふざけるのをやめろ!!!」
「それはお前だ!!!」
慇懃な態度を崩さなかったじいやが吠え、瞳はますます赤く燃え盛り、信長は気圧されそうになるのを堪えていた。なんだこの重苦しい声は。声だけで吹き飛ばされそうになる。これが「じいや」の正体なんだろうか。じいやの中にはずっとこの十字の赤悪魔が眠っていたのだろうか。
じいやは魔術師の血がべっとりとついた剣を突き出し、初めて息を乱して喘いだ。
「オレは新たな火種だ。様の安全を脅かす因子は全て取り除かれなければならない。お前はさっさとカイナンに帰り、姫を娶って子を設け、あの子を一生守れ。お前が死んだときのために、星国の王子とアリスを王座につけることも忘れるな。わかったらさっさと出て行け!!!」
もしじいやが十字の赤悪魔を身のうちに抱え込んだまま十数年を生き、そして今その時間の中に鬱積したものが爆発しているのだとしたら――魔術師を踏みつけながらがっくりと背中を丸めるじいやに一歩近付いた信長は、突き出されたままの剣を手で払って声を張り上げた。
「それをオレが許すと思うか? お前が戻らなければが悲しむ」
そして自分を睨みつけたままのじいやの胸ぐらを掴んだ。
「それで過去を清算してを守ったつもりか。自らを犠牲にして魔術師を倒した英雄にでもなるつもりかよ。ていうかお前の本当の目的は自分が死ぬことで父親を殺した十字の赤悪魔も一緒に殺すことだろ。オレがそんな感傷的な自殺に付き合うと思ったら大間違いだ! 生きて戻って母親と、妹と、にも一言詫びを入れろ!」
信長は呻いている魔術師の腕を縛り上げ、深く深呼吸をするとじいやと両方引きずって歩き始めた。
「こいつは星国に送り返す! お前はまずおっかさんとこに戻る! オレはと結婚!」
幸い廊下はまだ火も煙もわずかで、信長は空気の流れに逆らって進む。遠くに討伐隊の怒鳴り声が響いていて、外にさえ出られれば魔術師を生きて捕らえることも、じいやをに返すことも、自分が生きて帰ることも出来るはずだ。
「生きて、戻ったところで」
「まだ言ってんのかようるせえな! てか怪我してるけど歩けるだろうが! 手ェ貸せ!」
「こいつを生かしておいても」
「だけどこいつを殺すのはお前の役目じゃない! せめてクラヴィアに譲れ!」
重いわ熱いわ目眩はするわで苛ついた信長は突き当りにあった扉を蹴破り、じいやに文句を言いながら外に出た。新鮮な風が吹き付け、それだけで気持ちが少し楽になる。さあ帰ろう、全て終わらせて帰ろう。そんな気持ちで一歩を踏み出した。
だが、扉の向こうに大地はなく、信長とじいやは足を踏み外した。
「嘘」
下にはゆったりと流れる川、3人が落下した音は古城の消火に奔走する討伐隊の耳には届かなかった。