続・七姫物語 清田編

06

へ。そちらは変わりありませんか。こちらは毎日慌ただしくて疲れてきました。早く帰って一緒にお茶飲みたい。膝枕とかだめ? も疲れてる? ところで君んとこのじいやって何者? 割と爺さんかと思ってたけど全然疲れてないみたいだし、この間なんか襲い掛かってきた3人組ひとりで片付けちゃうし、なんかもうこれオレいらないんじゃね? じいやひとりでいいんじゃないの?」

をカイナンに置いて旅立ってから2ヶ月、信長はじいやとふたりで同盟国間で組織された代表会議から依頼される任務に奔走していた。に手紙を書くと言い残してきたので大人しく宿の机に向かっているのだが、一応任務中、書けることには限りがある。

旅立つ前は、離れている間に募る愛しさをぶつけまくってが蕩けてしまう手紙を書いてやろうと思っていたのだが、いざ任務にあたっていると募る愛しさより安全に確実に任務を片付ける方に気持ちが傾いてしまい、宿で食事を終えて体も洗ったらもう半分夢の中だ。

ヘロヘロの字でそんなことを綴っても、送る意味がない気がする。しかも眠くてペンからボタボタとインクがこぼれ、手紙はさながら死の直前に残した断末魔の叫びのようだ。信長はペンを置いて紙をクシャクシャと丸め、ポイと放り投げた。

に手紙を書くのが嫌なのではない。ただ本当に書くことがないのだ。今の信長の正直な気持ちを綴ると「疲れた、眠い、早く帰ってふたりっきりになりたい」そんなところだ。君のいない夜はまるで新月の道を千年歩むかのようだ――とかいう首が痒くなるような文言を考える気力はない。

「若、書き損じをその辺に捨てるのは感心しませんな。何を書いてたんです」
「わ、ちょ、見るな! にだよ!」
……インクがべっとりで血糊を拭ったみたいですが」
「だから丸めて捨てたんだろ。正直書くことないんだよ」

呼び名が「王子」では怪しすぎるので、じいやは信長を「若」と呼ぶことになった。詳しくは決めていないけれど、おぼっちゃんと番頭、くらいの関係性にしておこうという話になっている。小金持ちのおぼっちゃんが番頭を連れて物見遊山と社会勉強、という設定だ。

カイナンを離れて2ヶ月、銀国での事件からも5ヶ月以上が経つが、銀国という主導者を失ったはずの秘密会議の中心にたどり着けず、じいやはともかく信長は日毎に疲れが溜まってきた。

今のところ毎日の「任務」は言ってみれば「情報収集のために情報収集をして情報源のためにお使いをこなす」程度でしかなく、早く功績を上げたいと焦る気持ちだけが燻っていた。こんなことちまちまやってたらと結婚できるようになるまでに老人になってしまうのでは。

「旅の一座に潜り込んで何年も諜報活動していたとは思えない忍耐力のなさですな」
「あの頃は明確な目標があったからな」
「闇雲に嗅ぎ回り続けているだけでは真実には届かないのではないですか」
「かといって中心がどこなのかもわからんのに」
「一気に中心に攻め込もうと考えるからです」
……どういうこと?」

じいやは親切で優しい指導者ではなかった。しかもこんな風に自分から教えを授けてくれることは少なく、信長はいつしかじいやが喋りだした時は余計な口を挟まずに謹聴に努めるようになっていた。

「今の若の目的は早く問題全てを片付けて様の元に帰ることです。これが漠然としていて遠すぎるのです。それは結果を出したあとに下される褒美のようなもの。あくまでも若はこの南部の問題の根本的な解決を目指さねばなりません。そのための道筋を掴むことが重要なのでは?」

そんなことはわかってんだよ、などと反論しようものなら「では自分でお考えなさい」と放り出されてしまうので、信長は黙って頷く。今のところ反論は全部聞いた後に出来そうならしてみるくらいがちょうどいい。何も考えずに勢いで反発すると手痛いしっぺ返しを食らうだけだ。

「その道筋の掴み方がよくわかってない」
「あくまで今回の場合ですが、若はまだ問題の全容も本質も見えていないのではないですか」
……それはそう。情報もないし」

じいやの言うことは理解できるが、大陸南部は広大で、今回の問題に関わる国家は両手でも足りない数に上る。それらを巻き込む複雑な事件の全容を把握したくても、どこが問題の入り口なのかがさっぱりわからない。せめて国が特定できればと思うあまり、情報収集ばかりの日々になってしまう。

「簡単に助言をしてしまうのは本意ではないのですが、私もいたずらに時間を浪費したくない。若、問題の全容を把握するのには、何を知ればいいと考えますか」

こういう問いにも注意が必要だ。そんなの全部知ってるやつを締め上げて聞き出すのが一番早い、などと言おうものなら、ではそいつを見つけておいでなさいと言われて話を切られてしまう。幸いじいやは信長が本当に思考を巡らせている時は黙って待つ。間違っていても怒られるわけではないので、自分なりの言葉を探してみるのが早い。

「だからつまり……今起こっていることを全部集めて」
「今やっておりますな」
「それをひとつにまとめて」
「現状の把握も大事です」
「誰が、どこの国がどうしたいのかを、全部」
「それも正しい」

信長自身も間違っているとは思わない。だが彼はそこで腕を組んで首を傾げた。それをずらりと並べたところで問題を解決するための妙案が思いつくんだろうか。

「でも……そこまでになっちゃうんじゃないか?」
「そうでしょうね。現状把握ですし」
「根本的な解決……根本的な……あれっ?」

傾けていた首を戻した信長に、じいやは髭の奥で少しだけ口元に笑みを浮かべていた。

「それじゃないのか、根本。つまり、『なんでこんなことになったのか』じゃないのか」
「概ね正解です。珍しくご自分でたどり着かれましたね」
「一言余計だと思うけど……ええとだから、問題のきっかけを探るってことだな」

褒められている気がしない信長が真面目な顔で身を乗り出したので、じいやは頷いて咳払いをひとつ。

「実を申せば、私はこれでも諜報員でしたから、過去に起こったいくつもの出来事の中には、もしや関係があるのではという心当たりがいくつもあります。しかし今回の場合、私がそれをホイホイと教えてしまっては意味がない。もちろん事態が逼迫してくればそんな悠長なことも言っていられませんが、私の目的も若の目的も突き詰めれば様ですし、出来ればご自分で糸口を掴んで頂きたいのです」

諜報員だった過去だけでなく、じいやはまだ16歳の信長の3倍以上の年月を生きてきた記憶と経験がある。それは信長にはない「貯蓄」のようなもので、それらを使えばもう少し楽に事を進められるのだろうが、任務遂行は同時に信長の修行でもある。

「ですが若、過去を知り、今を知るのはあくまで『手段』です。物事に立ち向かうためには、人の心を読む必要があります。自分の常識に囚われず、誰がどんな考えを持ち行動しているのか、想像をするのです。考えることが肝要です。さすれば絡み合う糸のような問題にも道筋が見えてくるはずです」

考える、それは信長がもっとも後回しにする作業であり、出来ればやりたくない「面倒くさいこと」である。だがどうだろうか、じいやの言葉は南部の問題への向き合い方のようで、将来自分が父親の跡を継いだ時に必要になってくる心得ではないのかという気もした。

との結婚は具体的な夢だが、王座を継ぐことは責任であり義務でもある。面倒くさくても、とふたり身分を捨てて荒野に逃げ出すつもりがないのなら立ち向かうべき試練だ。

……わかった。じいや、知ってることを全部話してくれ」
「膨大な情報になりますよ。よろしいですか」

信長はニヤリと笑うと、足を組み替えて大きく息を吸い込む。

のためだ、何でもやるよ」

がひとまず一座に身を寄せたこの年、信長はじいやとふたり旅に出ては任務に精を出し、カイナンは国王の方針で銀国民や件の事件による難民の受け入れや他国への移住支援などで慌ただしい日々が続いた。依然として大陸南部は戦争の噂が絶えない。

それも同時に調査し続けていた信長だったが、どこの国に赴いても、自主的に侵略戦争を支持しているというよりは、今やその存在があやふやになりかけている銀国の影にまだ怯えているようでもあった。代表会議はそろそろ秘密会議が霧散していると結論付けてもいいのではと考え始めていたし、銀国の事件の全容がはっきりしないせいで疑心暗鬼だけが尾を引いているのかもしれない。

当の銀国はというと、例の無差別攻撃により国王だけでなく大臣など重臣のほとんどを失い、王位継承者であった第一王子も重症で政務どころではなく、残った人員だけでかろうじて政が行われていた。だというのにこの状況で第二王子と第三王子が主権を主張し始め、またきな臭くなってきた。

というのも、王位継承者であった第一王子は国王同様に爆死した第一王妃の息子で、これが正統な後継だった。だが、第二王子は格下の側室が生んだ王子、第三王子は第二王妃の生んだ王子で、しかも誕生日が5ヶ月と変わらない同い年だった。後継とすべきは先に生まれた方なのか、母親の格付けが上の方なのか。これでいきなり揉め始めた。

本人たちが自分の正当性を主張するだけでなく、当然両陣営の関係者もそれぞれの王子を祀り上げて大騒ぎ。正直それどころではない政務官たちはしかし政治的指導者が不在なので右往左往するしかなく、銀国もいっこうに落ち着く気配がない。

そんな故郷の噂を耳にしていたかどうか、この頃のは劇場館に起き伏し、を預かった手前巡業に出るのを控えているプロメテ座と共に暮らしながら、次の春を思っていた。春には市が立つのが当たり前という16年を生きてきた。暖かい風を頬に浴びても市がない寂しさに耐えられるだろうか。

早くて数週間、長いと数ヶ月の時間を置いて帰ってくる信長とはほんの数日を一緒に過ごすことしか出来なかったけれど、ふたりきりの時間はまるで世界の何もかもが彼方に消失したように感じられた。

信長はいつも気付くと窓辺に腰掛けているので、は毎晩彼の分のお茶を用意した。訪ねてくる時はいつもお菓子を手にやって来る信長だったけれど、お菓子やお茶よりも唇を重ねている時間の方が長かった。そしてついベッドに倒れ込んでは無理矢理体を引き離していた。

巡業に出ないからか、一座にいる3組の夫婦のうち2組が一斉に子供を授かった。それを目の当たりにしていたふたりは全身で愛し合いたい気持ちを抱えながら、ひたすら耐えていた。今もしが信長の子を身籠ったら、全てが徒労に終わってしまう。も子供もカイナンにはいられまい。

けれど、がカイナンに落ち着き、信長が任務で方々へ旅を繰り返し始めたこの年、国王のもとには3度も縁談が来た。どれもいずこかの小さな国の王族で、3人とも第一王女だった。陛下は約束通りそれを断ったけれど、なぜか国王が王子への縁談を断っているという噂は城下にまで広まりつつあった。

それを何度も耳にしたはしかし座長の慰めの言葉にも当たり散らすことはなく、心が荒んでしまった時には芝居を作ることに没頭した。脚本、演出、音楽、衣装。は芝居の全てに関わり始め、彼女の部屋に置かれたピアノの周りには書き損じの草稿や楽譜が散らばり、意味もなく劇伴を奏でながら信長を想った。

そんなを案じ、誰よりも近くで気遣ってくれたのはプロメテ座の看板役者だった。

「姫、ここは明るい曲よ」
……あ、そっか、ごめん」
「気が乗らなければ別の場面でもいいんだよ。やらなきゃいけないことはいっぱいある」

新年を迎えたは春が近いので余計に気持ちが落ち込むようになっていた。そんな中、看板役者であるシャオが「ふたりで芝居を作りたい」と話を持ちかけてきたので、時間が空くと部屋にこもってあれこれと話し合うことが増えた。

シャオは「この先何年も演じられる女の物語を作りたい」と考えていて、なおかつそれは自分やのように大人の都合で苦労を強いられた女の子がやがて成長していく壮大な芝居にしたいとのこと。

物語は出来上がっていないけれど、このところはシャオの提案で象徴的な音楽を作っている。シャオいわく、よい物語には印象的な劇伴と台詞が欠かせないという。

「ここはまだ少女時代だから、わざと脳天気な曲でもいいよね」
「ええとこの頃は……12歳くらいか。少し悩み始める頃じゃない?」
「姫はこの頃からそういうの考え始めてた?」
「えっ、そうだった……かな、たぶん」
「あたしが12の時はまだ娼館の小間使いだったから、そういうの考える頭もなかった」

草稿の草稿といった走り書きを手にしていたはつい黙った。シャオは物心ついた時にはカイナン北部の施設に預けられており、日常的に虐待を受けていた。それを苦に脱走して城下に逃げてきたのは推定で8歳頃、路上生活を経て共に逃げてきた3人の女の子と一緒に娼館に潜り込んでいたらしい。

娼館の主は娼婦に育てるつもりで彼女たちを面倒見ていたが、シャオが一座に加わったのは推定で13歳、もう少しで水揚げの頃合いだった。娼館のお使いで彼女はしょっちゅう仕立て屋に行くのだが、その向かいが弦楽器の工房だったのである。工房から聞こえてくる音楽に合わせて踊るシャオを座長が目に止め、娼館から買い上げて一座に引き入れた。

自分の誕生日もわからず、たぶん13歳というシャオは文字を読むことはもちろん、日常で喋る言葉もろくに知らず、座長が10にも届かない子供だと思っていたほど小さくやせ細っていたそうな。それがきっかけで座長は城下の娼館についてを当時まだ王子だった現国王に訴え、彼が即位してからは性的な労働は成年者が自発的に就労する以外は違法になった。なので娼館自体は今も存在するが、子供が働かされることもなくなった。

そんなシャオが台詞をすぐに覚えてしまうことや演技に長けていることは、本人が「言いつけはその場ですぐに覚えないと殴られるし、自然に嘘がつけないと生きていかれなかった」からだと言っている。

なので12歳といえば春市の夜に外に出られなくて不貞腐れていた記憶が強いは黙ってしまう。シャオは「姫とあたしは同じ」と言うが、シャオのような過酷な子供時代ではなかった。

「そうねえ、このお話はあたしと姫の人生を元に架空の女の子を主人公にしたいと思ってたけど、彼女の人生を一から考えないと、そういう細かなところでずれが出てくるんだね。あたしと姫の生き様が下地でも、主人公には主人公の生き方ってものがある、てことか」

王宮でドレスを着て芝居のことばかり考えて生きてきたというのに、シャオの激動の人生となんて混ざり合わない――そう考えてきたもシャオの言葉に深く頷いた。シャオの過去と混ざり合わなくても、自分たちの気持ちを主人公に託せばいいのではないか。

……この主人公は、私たちであって私たちではないんだよね」
「彼女はまだ不完全な存在って感じだね」
「シャオ、これ、いつまでに完成させたいの?」
「えっ、別にいつでも。誰かに依頼されたわけじゃないし、焦ることないよ」

はベッドの上に散らばる走り書きを集め、深呼吸をする。

ひとりの夜には今すぐにでも信長の妻になって彼の子を産みたいと思うことがある。けれど信長本人を目の前にすると、ありとあらゆる問題と障害が脳内に渦巻いて恐怖と不安に目眩がしてしまう。とてもじゃないが彼を体の中に受け入れる勇気が出ない。

そういう弱い自分に何度も辟易してきた。毎日遠い場所で危険に晒されている信長を待っているばかり、部屋でめそめそしているだけの自分では、どれだけ周囲の人々が手を尽くしてくれたとしても、いつかこの国の王座に即く彼の妻となることは出来ないと思った。

私の手の中にはこんな走り書きだけ、他に持っているものは何もない。それは座長に拾われた時のシャオと同じなのかもしれない。

陛下が言うように、私の心の中には自由で誰にも犯すことの出来ない世界がある。

「シャオ、時間がかかっても最高のお芝居を作ろう。私たちでこの主人公を育てていこう」

は手を差し出し、シャオと固い握手を交わした。

もし信長と一緒になることが出来なくても、私の気持ちはこの物語の中に、永遠に残るはずだから。