続・七姫物語 清田編

15

カイナンから上がってきたいくつかの情報は代表会議でも慎重に扱う方針となったけれど、今はそれよりも南西部街道沿いに潜伏していると思われる組織を潰す方が優先と判断された。もしカイナンの情報が銀国の事件に直結していたとしても、第三勢力と同一なら壊滅に追いやれば済んでしまう話だ。

そういうわけで、今度は同盟国で討伐隊が組織された。これまでは調査が主な任務だったので各国の諜報部員が集められていたが、今回はもう少し規模が大きい。ただし現在把握している組織の規模は代表会議の想像よりはずっと小さく、街道沿い数カ所に分かれて潜んでいることがわかってきた。

なので規模は大きいがわかりやすく軍隊を差し向けるのは得策ではないと判断され、例によって一般人を装って街道沿いの村に向かうことになった。

「隊商、って言葉だけならちょっとわくわくする響きだけど」
「今回は諜報員と違って筋肉もりもりのおっさんが増えるから、旅の一座だけじゃ不自然だろ」

代表会議が編成したのは、家を持たず大人数で隊を組み商売のために旅を続ける一団だった。実際に行商をやっている一家を雇い入れ、その中に討伐隊を紛れ込ませる。カイナンからも繊維と薬品の商家が派遣される予定。

……信長が行く必要、あるの」
「今回はあるんだな。カイナンの代表、って感じかな」
「軍隊にも偉い人がいるのに?」
「そいつらも行くんだよ。てか今回はどこもオレみたいな代表を出すことになってるから」

このところ城下ではすっかり「王子の恋人」になってしまっているなので、最近はじいやが呼び出されなくても城に上がる機会が増えていた。信長が明日から討伐隊の準備に出発することになっているので、彼の部屋に泊まることになっている。

そこでは珍しく信長に縋って沈んだ顔をしていた。奇術師の姿を目撃して以来、忘れかけていた銀国での恐ろしい体験が蘇ってきてしまい、信長が来られない時はシャオやプロメテ座の女の子に一緒に寝てもらう始末だった。信長はを抱き締めてよしよしと頭を撫でる。

「大丈夫だよ。銀国のときみたいに一般人に紛れて行くんだから」
「だけど座長はいないでしょ」
「じいやがいるんだから心配ないって」

これまでなら座長が責任を持って信長を預かっていたわけだが、もう王子は子供ではない。その上、プロメテ座は今を預かる立場にあるのでカイナンを離れられない。なので信長は聖都に向かい、アポロン音楽団に討伐隊への参加を頼みに行くことになっていた。アリスの言う「星国王家の生き残り」という人物にも取り次いでもらいたかったし、どうせならひとまとめにじいやから話を聞きたかった。

じいやの名を知らないことについてはがしれっと「そりゃそうでしょ、元が諜報員なら、じいやになってから名乗ってる名前もたぶん本名じゃないよ」というので気にするのはやめた。よく考えたら自分も長老の本当の名を知らなかった。あいつらはそういう生き物だと思っておく。

「オレはお前の方が心配だよ。護衛は至るところに潜ませておくけど、絶対にひとりで行動するなよ」
「王妃様が城にいなさいってしつこいの、どうにかしてから出かけてくれない」
「オレも城にいてくれた方が安心なのですが」
「朝から晩まで王妃様と一緒はまだしんどい」

奇術師がなぜカイナンに現れたかもはっきりしないが、第三勢力と無関係だった場合はが危険なのでは。これは主に王妃が心配をしていて、せめて信長とじいやが不在の間は城にいてはどうかとしつこかった。が、一応身分の問題などは解消されていないので自身と陛下が却下した。

幸い組合長ら城下の名士たちはの事情に詳しく、信長が信を置いている護衛官を引き受けての警護のために城下への潜伏を整えてくれた。なので一座の周辺だけで常に十数人の護衛官がを見守ることになっている。

さらには組合長たちと城下に劇場を建設するための会議に参加することになっていて、ひとりで町をウロウロしている暇はない予定である。

……私もお姉ちゃんに会いたかったな」
「きっと向こうも同じこと思ってるよ。なんだっけ、戯曲だっけ、作ってるんだろ」
「今回は間に合わないけどね」

アポロン音楽団に白羽の矢が立ったことを知ったは姉に「風の標さす空」の戯曲を届けたいと願ったけれど、戯曲は目下大急ぎで製作中。座付き作家が毎日ほとんど寝ずに台本を整えている。何しろ現時点で予約が数百、出版社もほとんど寝ていない。だが信長の出立は明日だし、今回は無理だ。

信長はの額にキスをすると離れ、ベッド脇の棚から何やら取り出して窓辺に立った。

「信長?」
……これを」

が手を差し出すと、一房の髪が音もなく落ちてきた。信長の耳の後ろに細く編まれていた髪で、カイナンの伝統的な髪飾りで留められている。

……物語ではこういうことをすると大体死ぬんだけど」
「物語は作り話、オレたちは現実。ていうかこれはカイナンに古くから伝わる旅立ちの儀式なんだぞ」

まあしかしそれも本来なら息子から母親に送るものであるという細かいことは内緒だ。髪を切り落としたナイフを窓辺に置いた信長はまたを抱き寄せて頬に触れた。

「他のことに気を取られてるけど、オレたちの最大の問題は何も片付いてないんだよな」
「私たちが感情だけで騒いだところで、法の問題はねえ……
「色々片付いたら、それもちゃんとやっていくからな」

は頬にある信長の手に手を重ね、声を潜めた。

……私、たまに信長とふたりで遠い遠いところに逃げ出したらどうなるんだろうって思うことがある。少ない荷物でその辺の恋人同士みたいに装って、何ならこの大陸を出て海の向こうの街に行ってふたりっきりで暮らして、そこで夫婦になって、子供を作って、家族になって」

その潜めた声ごと信長はをきつく抱き締めた。自分たちの不安は終わらず、そんな「逃亡」に幸せを夢見てしまう心の疲労は常に全身を覆っている。

「たぶんね、そんな突飛なことも実際にやってみたら何とかなっちゃうような気もするの。貧しくても自由な暮らしはきっと今ここで感じるよりずっと簡単なことかも、って。最初は怖いかもしれないけど、いつかそんな日々が当たり前になるかしもれない」

特には既に王女としての生活を全て失い、今も厳密には難民と同じ立場だ。銀国王家は別の一族が引き継ぎ、の名はその中にはない。カイナンにもない。どこにもない。信長と手に手を取り合って海の向こうに出奔しても、大して変わりはないのかもしれない。

そんなの気持ちは痛いほどわかる。信長は何度も頷いての髪を撫でた。オレだってそんな夢を見る時があるよ。は平民暮らしでずいぶん細やかな性格になった。オレはお調子者で細かいことは気にしないし、ふたりとも忍耐力はある。きっとふたりだけの暮らしはそれに倦まない限り案外難しいものではないと思う。

だけど――

「だけど、私はここで待ってるね。窓を開けて、いつでも信長を待ってる。だから――

全てを言い終わらないうちに、信長はの唇に食らいついた。

あの日、密書を携えて銀国から出ることが決まった夜はのことばかり考えていた。好きだとか愛してるだとか、そんなはっきりした自覚はなかったけれど、もうこれきりで会えないのだと思ったら心が重くなり、胸が詰まった。あんな芝居とお菓子のことしか考えていないような姫だというのに、彼女の笑顔を思い出すと愛しさが募った。

連れて帰りたい、連れて帰って妃に迎えてカイナンで共に暮らしたい、いつでも側にいてほしい。

けれどそんな信長の強い感情は大通りを行く幼い子供を目にして一瞬で吹き飛んだ。オレが今任務を放棄してを連れて帰ったら全部台無しになる。銀国の主導で侵略戦争が始まり、カイナンみたいなちっぽけな田舎の小国なんかすぐに煽りを食らって貧しくなり、やがて戦火に飲まれてしまうだろう。

左手にいつも付けていた革の防具には小さな王家の紋章が入っていた。それを見た瞬間に信長の心は冷え、を諦める決断をした。オレは責任を放棄できない。

けれどを本気で愛しいと思った証拠が欲しかった。通りすがりに遊んだだけの、「堅く考えない」相手なんかではなく、心から惹かれて心から欲した証が欲しかった。だからを抱こうと思った。その気持ちは伝わらなかったけれど、逆に諦めがついた。

自分はカイナンの城下でお菓子を買ってくれと駄々をこねる幼い子供を守らねばならない。城の中に籠もって兵士を顎で使い、オレの代わりに死んでこいと言うだけの王子ではいられない。それがオレの本当の使命なのだから。

信長が人知れず心に秘めていたそんな思いを、はきっと理解してくれているのだと思った。全てを捨てて自由になることより、王子としての責任を全うしたい信長の意志を汲んでくれたのだと。

「大丈夫、オレは必ず帰ってくるよ」

カイナンに、君のもとに。

実のところ討伐隊の合流はもう少し先の話だったのだが、聖都に行かねばならない都合でカイナンからの派遣隊は夏のうちに出発した。今回の移動は旅の一座を装うわけではないので、最短距離をひたすら北上して聖都に向かった。夏のうちに聖都に到着できれば、アリスと話す時間も長く取れるはずだ。

「そうか、じゃあ姉上が病弱なのは母上に似たってことか?」
「そうかもしれませんが、亡くなられたのは心臓の病だったと伺っています」
「でも父親の方は頑丈なんじゃなかったか?」
「それはもう。ご兄弟が何人もいましたが、一番健康でしたね」

聖都への道すがら、信長はじいやからアリスのことについてを聞かされていた。アリスとはほんの数時間の面識しかないし、そもそもも毎日顔を合わせるような間柄ではなかったので、彼女についてはじいやの方が詳しい。アリスの母親である第4王妃が早逝した時、王妃は流行病だという根も葉もない噂によりぞんざいなやり方で葬られてしまったとのこと。

「彼女は星国の出身ですが、王家の姫君ではありませんでした。星国天文学の祖にして星国をその知識と技術力で牽引してきた一族の出で、まあいわば王家と同じくらい有力な貴族なのですが、そこからやってきた姫君でした。まだ16歳、やっと姫をひとり産み落とした時には20歳になっておられました」

信長は黙って聞きながら、どこかで聞いたような話だな、とため息をついた。の母親と全く同じだ。そんなに妃に興味がないなら娶らなきゃいいのに。だが、天文台で有名な星国の技術力と来れば、話は別だ。もしかしてそれって……

「有り得ますね。星国の技術を目的に娶った可能性があります」
「でも女ひとり出てきただけですぐに病没」
「あてが外れたんでしょうな。結局星国との強い繋がりはそこまででしたので」

あとには体が弱く性格も大人しいアリスひとりが残り、彼女は年に一度くらいしか父親と直接会うこともなく、言葉をかわしたこともほとんどなかった。ただひたすら西館の自分の部屋でピアノを弾き、本を読んでいた。

「それがいきなりひとりで聖都なんて、より大変だったんじゃないのか」
「それがですね、私も後で聞いたのですが、聖都には叔父君がいらっしゃるそうで」
「叔父? その亡くなった母親の弟か」
「そのようです。現在聖都の王立学院の教授でいらっしゃるとか」
「聖都じゃ貴族階級だな。まあそんなら問題ないか、あそこは病院も多いし」

というかじいやはじいやで、専任の養育係であって、他の姫や王子たちの事情は詳しく把握していない。その出身国の事情には精通していたが、現在ほどきな臭くない時代のこと、嫁いできた姫たちの家族や交友関係は必要なときに頭に入れればいいことだったので、大まかな情報があるだけだ。

「じゃあ姉上は星国貴族の血も引いてて、それで星国王家の生き残りと知り合ったってことか」
「そのようですね。手紙にもそれほど詳しくは記されてませんでした」
「ていうかそもそも星国の王家って当時何があったのよ」
……世継ぎの王子が処刑されまして」
「はあ?」

信長は南部の問題に関わるようになってからは周辺諸国の事情を頭に叩き込んできたけれど、ひとまず星国は南部の揉め事には直接関係していないことになっている。しかも自分がごく幼いか生まれる前の話は余計に疎い。星国の法がどうなってんのか知らんけど処刑って。

「公式には他国と通じて国家転覆を図ったかどで処刑、という話になっていますが……
「別に王子なんだから通じなくてもそのうち王座は回ってくんだろよ」
「ええ、ですがそういうことになっています」
「でも今って王家が途絶えてるんだろ」
「そうです。次の世継ぎを定める前に8年後に国王が急逝してしまったので」
「それで執権政治ってわけか」
「王家の代行を出来る分家がいて、王家に匹敵する貴族がいたことが裏目に出た感じですかね」

以来星国は王家不在の王国であり、そのあたりの問題は有耶無耶にされたままだという。

「オレがいくらバカでも不自然だろそれは」
……ええ」
「はっきりしねえんだな?」
「ですから、姫の知り合った方のお話が聞ければ何かしらの助けになるのではと」

それが本当に当事者なのであれば確かに正確な事情が聞かれよう。だがそれが今回の問題の助けになるかどうかは疑わしい。なんでもかんでも疑う癖がついてしまった信長はじいやのように期待しきれなかったのだが、アリスにからの手紙を届けられることは嬉しかった。

銀国の地下牢を脱出した時、信長の背に括り付けられていた姉上は「を愛していらっしゃるのでしょう? 違うの?」と聞いてきた。その浮世離れした純粋な声に虚を突かれた信長の心は奥まで一気に開き、気付いた時には「違いません」と答えていた。

アリスはへの恋心という覚悟を決めさせてくれた人なのである。礼も言いたかった。

「じゃあ、姉上もやっぱりみたいに身分があやふやなままなんだな?」
「そうなりますね。お母上様と一緒にご実家へ戻られた方々のようにはなかなか」
「ただでさえ体が弱いのにそれじゃ……
「もしかしたら尼になられるかもしれませんよ」
「信仰に篤い人だったのか」
「というわけではないのですが……以前から考えておられたと地下牢で伺いました」

と言っても聖都で出家では体が辛いのでは……と信長は心配になった。カイナンも銀国も大陸南部の海に面した暖かい国だ。だったら姉上も自分が引き受けられないだろうか。との結婚の件がなんとかなるなら、その姉のひとりくらい自分が世話できるはずだ。

なんだかとの婚約ないし結婚は全ての事柄がきれいに片付くとうまくいくようになってる気がしてきた。馬上で信長はへらへらと笑い、一房短くなった左の耳の下の髪を指で梳いた。暦は夏だが北へ向かう道は日毎に涼しくなってくる。その風は自分を手招きしているように感じた。

「ていうかさ、じいやはどうなのよ。問題、全部片付いたらどうすんの?」

妙な可笑しさについ信長はそう聞いてみた。じいやは肩をすくめ、遠くを見つめながら言う。

「風まかせ、ですかな……