言葉なんてただの道具だと思っていた。今でも思ってる。それを使って言ったの言わないの、使い方がどうの、そんなことにいちいち目くじらを立てるのがよくわからなかった。言葉よりも行動で示せばいい、言葉で言うよりも手で触れる方がいいに決まってる。そうに決まってる。
そのはずだった。それならば、なぜ涙が零れたんだろう。のようにぼたぼたと涙が溢れて止まらないというようなことではないけれど、心の中に重く伸し掛かっていた石が外れて、涙となってぽろりと飛び出したような気がした。どうしてか、嬉しくて嬉しくて、頭の中が真っ白になっていく。
好き、だなんて言うのは本当に照れくさい。恥ずかしい。出来れば言わずに済ませたかった。――そのくせ、には好きだと言ってもらいたかった。凛と姿勢の良いトップ・オブ・アナソフィアのに、あなたが好きなのだと言ってほしかった。それを駄々をこねる子供のように欲していた。
好きだと言ってくれないんだから、こっちだって言ってやるものか。
手を繋いでも抱き締めてもは好きだなんて言ってくれない。だからキスをしても抱いても好きだなんて言ってやらなかった。それがもう半年以上も続いていて、それこそ今更改めて言うようなことでもないと思っていた。けれどは好きだと言っただけでぼろぼろ泣いている。その理由がよくわかった。
――――に好きだと言ってもらえるのが、こんなに嬉しかっただなんて。
「健司、ずっとずっと好きだったよ、最初から、一番最初からずーっと好きだったよ」
そう、あれは一目惚れだったに違いない。何の理由もなく、息を吸い取られたように、ただ恋に落ちた。
「オレも、あの時からずっと、ずっと好きだった。今も好きだよ、オレも世界で一番好きだ」
とうとう声を上げて泣き出したを抱き締めたまま、藤真はぺたりと床に崩れ落ちた。相変わらず新しい入居者が入ってこない静かなアパートで、泣きじゃくるを両腕に抱いて、藤真は何度も何度も好きだと繰り返した。3年分のアイラヴユーを全てに捧げるために。
大切な友人たちが待っているのはわかっていた。とりあえずのところ8人で集まれる最後のチャンスなのだし、自分たちは進学先が同じなのだから、何もこの日をどうしてもふたりで過ごさなければとこだわる必要はなかった。だけど、携帯に「待ってやる」のメッセージ。
藤真はやっと涙の引っ込んだの髪を撫でながら唇を寄せる。
「みんなのところ、戻るんだよね?」
「ああ、6時まで待っててやるって」
「なんで6時なの?」
「そりゃまあ、そのくらいあればいいだろうと思ったんじゃないか」
は友人たちがどんなつもりでいるのかと考えると、顔から火が出そうだった。だが、アナソフィアの制服を着ていられる間に、もう一度藤真に抱かれたかった。翔陽の制服を着ている藤真に。高く腕を掲げたは藤真にぺったりと抱きついて頬を摺り寄せた。
「……いいのか」
「うん。アナソフィアでいられるのはもう、今日で最後だから、だから――」
このどうしようもなく下手くそで意地っ張りで迷ってばかりの3年間の恋の証を。組んで合わせた手首に揃いのブレスレット、それだけを身に纏って、アナソフィア女子のは翔陽男子の藤真に抱かれた。
今度こそ、「好き」という言葉と共に。
「……カラオケってマジか」
「えっ、なんかマズいの?」
「いやそういうわけじゃないんだけど。色々歌わされるかもしれないぞ」
「あんな舞台よりその方がいいけど」
少し休んでから、ふたりはアパートを出て6人が待っているという2つ先の駅まで向かっていた。既にカラオケの部屋を確保してあるとはしゃいだ声で電話をかけてきたのは緒方だった。顔は見えなくても、にやにやマックスであることは想像に難くない声だった。
それでも、もうふたりは何も取り繕ったり意地を張ったりせずにいられると思った。今も腕を組み手を恋人繋ぎにして歩いている。花形にどれだけからかわれてもカッとなったりせずに、ちゃんとお互いが好きなんだと言える気がした。というよりむしろ、6人にそう言いたかった。
メールで指定された部屋に着くと、異様に盛り上がって大騒ぎしている6人に迎えられた。普段岡崎の1割ほども騒がない長谷川ですらにこにこしている。手を繋いでやってきたふたりを緒方と永野が引っ張り込み、座らせる。藤真はまた酒でも飲んだのかと疑ったが、完全なる素面で、それはそれで少し不気味だ。
「いやー、もうふたりがなんとか丸く収まったからさあ!」
「それだけでこんなに大騒ぎしてるっていうの」
「まーまー、それだけじゃなくて、色々暴露大会しちゃったりもしたからね」
岡崎も手にマラカスを持ってにやにやしている。
「暴露って……」
「そりゃあ色々よ! 助けるために酔っ払いに突撃したとか、結局夏祭りは3年間全部ふたりっきりになってたとか、具合悪い藤真の部屋にご飯作りに行ったとか、色々だよ!」
有頂天の岡崎の声にも藤真も顔を覆ってがっくりと頭を落とした。花形からでなければ漏れない情報の数々で6人は大いに楽しんだのだろうが、ふたりは別の意味で猛烈に恥ずかしい。せっかく意地っ張りの壁を乗り越えたのだから、過去のことは穿り返さないで頂きたい。
「花形お前、バスケしてないととんだゲス野郎だな」
「なんとでも言えよ、てかファーストキスのタイミング賭けてんだよ。いつだ」
「花形、最低」
「何言ってんだ、これ胴元は緒方だぜ」
「緒方!!!」
だが、より藤真の方が高い壁を飛び越えてしまったらしい。少々呆れつつも、緩く微笑んで頷く。
「夏祭りだよ。2年の時。ゲリラ豪雨、あったろ」
その直前までを知る花形は見抜いていたらしい。藤真が言うなり、飛び上がってガッツポーズを決めた。見れば岡崎もモニターの前で拳を突き上げている。賭けは花形と岡崎が勝ったということのようだ。岡崎は喜びのあまりくるくると回っている。
「ほらやっぱり! 雷苦手だもん、絶対何かあると思ってたんだよね!」
「くっそ、私は夏の予選の時かと思ってたのに……そんな前かよ!」
賭けに負けて頭を抱える緒方に、ブロック最終戦の日はキスどころの話ではなかったふたりは苦笑いだ。
「はああ、でもこれでもうこのネタがなくなるのかと思うとちょっと残念」
「岡崎ちゃんひどい」
「いいじゃないの。相思相愛、学校も一緒、大好きな人と一緒にいられるのが一番いいよ」
恋をするともれなく不倫か援助交際になってしまう岡崎は、ふたりの向かいで頬杖を付いてにっこりと微笑んだ。賭けに勝って満足そうな花形もの隣にどっかりと腰を下ろすと、にんまりと目を細めて前髪をかき上げた。
「じゃあそろそろ歌ってもらおうか、歌姫様。藤真ももう一回聞きたいだろ」
「……ああ、そうだな」
「岡崎ちゃんも踊ってよ」
翔陽5人は藤真も含め、にこにこしている。は少し照れくさそうな顔をしつつ、1年から3年の文化祭で披露した曲を浚っていく。それが踊れる曲であれば岡崎も踊ってくれたし、緒方も一緒になって歌った。懐かしさと共に少しだけ胸が詰まる。
高校生最後の、のアイラヴユーだった。
制服のままだし、実家組がそれぞれ家族から遅くまでどこほっつき歩いてるんだという怒りのメールやら着信やらが来ているので、8人は21時頃になって解散になった。やっぱり緒方が泣いてグズったが、最終的に藤真を含めた全員に頬にキスをしてもらい、男子たちにはなんでマッチョじゃないんだと怒鳴り散らした。
それに触発された岡崎がに抱きついてキスをねだり、不意打ちを食らったは唇で受けてしまい、これには男子5人が大喜び。さすがに男子5人は男にキスされたくはなかったので、岡崎との頬に全員でキスして回り、この妙な縁で3年間仲良くしてきた8人はまた3方向に分かれた。
組は例によって花形と藤真である。
「あれ、こっちじゃん家になっちゃうだろ」
「さすがに今日はそういうわけには」
「まあそうか。でも春からちょっと厳しいだろ、藤真寮だし、は下宿なんだって?」
そう言う花形も寮だが、アパートタイプだという話だ。
「緒方が家出るっていうから、岡崎ちゃんと私でなんとかルームシェアできないかと計画中」
「なんで緒方なんだよ、藤真とシェアすりゃいいのに」
「あのな花形、まだ一応未成年で、そんなにたくさんバイトする暇もないし、親の金でそんなことできるか」
「硬ってえなあお前はほんとに」
「硬いって、花形の感覚の方がおかしいと思うけど。それじゃ同棲じゃない」
真面目腐って言うと藤真に、花形はからからと笑う。
「そうか? オレのいとこ、高校の時の相手と同じ大学行って生活費節約のために一緒に住んでて、それ親が出してるし、むしろ安く上がって喜んでるけど。否が応にも高まる孫の期待で叔父さん叔母さんうきうきしてるぜ」
ふたり揃って怪訝そうな顔をしているので、花形はまた吹き出す。
「色んな形があっていいじゃないか。お前らだって一番最後に『好きです』が来るって、それも充分変だろ」
「それはまあ、そうかもしれないけど」
「まあ東京に拠点は移るけど、時間があったらまた集まろうぜ」
緒方と違って晴れ晴れとした表情の花形はと藤真の肩をポンと叩くと、寮との自宅への分岐点となる交差点でひとり帰っていった。それを見送ったふたりは、また手を繋ぐとのんびり歩き出した。花形の腹痛のせいでふたりきりになっててしまったのが懐かしい。
春からも一緒のふたりの場合、あまり別れを惜しむ気持ちはなくて、高野が遠くに行ってしまうのは寂しいけれど、花形の言うように機会があればまた集まったりすればいいんじゃないかと考えている。けれど、ひとり緒方はそんな風にはならないと言って肩を落としていた。
そしていつまでもこのメンバーにこだわってはだめなのだと言ってまた泣いていた。
の自宅が近付いて、藤真はそれを思い出しながら繋いだの手を揺らす。
「現実的じゃないのはわかってるけど、ルームシェア、できたらいいのにな」
「なんかもうシェアハウスとかで全員一緒ならいいのにって思っちゃうね」
「それはないだろ、オレはふたりがいい」
現実的じゃないから気持ちだけで言ってみたのに、藤真は真剣に返してきた。はつい笑ったが、気持ちは同じだ。恩師の下で学びたいから選んだ進路に、世界で一番好きな人がいるという幸運にはずっと感謝している。
家の前に到着すると、何も言わずに藤真はを抱き寄せて前髪にキスした。
「、また明日な」
藤真が入寮するまではまだ少し時間がある。がヒュパティアの家に越して行くまでにも時間がある。それでも3年間過ごしたこの街からは離れがたく、あのアパートで過ごせる時間も残り少ない。何をしなくてもいい、ただふたりで過ごしたい。
「うん、お昼前に行くね」
「いや、迎えに来るから、待ってて」
「え、いいよ、もう制服じゃないんだし」
「迎えに来たいんだ。ここで待ってて」
の背を押して門の中に入れた藤真は、キラキラと音がしそうな笑顔でそう言った。
「どこにもいかないで、ここで待ってて。必ず迎えに来るから」
君の「好き」を待ってるのはもうやめる。だから、ここで待ってて、オレを待ってて。
END