ステイルメイト

13

も藤真も、特に変化はないように見えた。普段どおり、いつもどおり、穏やかで明るくて元気で。

だが、むしろそれが決定的な証拠だと花形先生は言う。何かふたりのやりとりにおいてトラブルめいたことがあったのなら、逆に荒れるとか慌てて真っ赤になるとか、反応は様々でも、何かしらの異変があるはずだ。それがすっかりきれいになくなってしまい、実に晴れ晴れとしている。

ということは付き合うことにでもなったのかと言えば、それはもちろんそうではない。夏祭りの夜にと藤真は少しだけ素直になって歩み寄りを見せたけれど、強情でシャイなところは基本的に生まれつきのもの。そう簡単に治ると思ったら大間違いだ。

そんなわけで生ぬるく見守る会や緒方岡崎の間では、奇跡的に喧嘩せずに済んだ上に、ちょっといい感じにでもなったのだろうと結論付けられた。事実、もう有料コートで遭遇したくらいでは藤真はに噛み付かなくなった。ああ言えばこう言う的なやりとりはあっても、深刻な言い合いには発展しない。

2学期に入り、アナソフィアは秋のデスレースに突入、藤真たちは冬の選抜に向けて対策を練りつつ、引退により欠員が出た「監督班」をどうするかで日々揉めていた。そんな10月に入ったばかりのある土曜の昼頃、は地元駅のコンビニで巨大な人影を見かけたので、そっと近付いてみた。

「やっぱり花形だ。どうしたのこんな時間に」
「えっ、あ、か。そっちこそどうした」
「合唱祭だよ。今年も学年優秀賞取りました。今日はバスケ部休みなの?」

時間はまだ13時。試合の後でもない限りは練習している時間帯だろう。部活ではないのか。

「いやそれが……あ、ちょっとすまん待ってて」

大きな体で肩を落とした花形は着信に気付いて携帯を取り出した。慌てて出るなり敬語でなにやら話しているところを見ると、バスケット部の先輩のようだ。が花形の手にあるカゴに目を落とすと、中にはスポーツドリンクやら機能性ゼリー飲料やらが散らばっていた。

「はい、わかりました、はい。――!」
「ふあ!? な、なによ」
「頼む! オレの代わりに藤真んち行ってくれ!」
「はあ!?」

携帯で喋りながらぺこぺこ頭を下げるという昔のサラリーマンのようなことをしていた花形は、通話を終えるとそう言ってに手を合わせて頭を下げた。

「実は藤真が風邪ひいてて、支援物資を届けにいくことになってたんだ」
「はあ、支援物資」
「だけど藤真がいない部活の方もそれはそれで大変で……

2年生では藤真の次に位置する花形に、早く戻って来いという催促の電話だった。

「うちは部員も多いから、他のヤツに行かせろって言われたんだけど……実は藤真の家はいつものあの4人しか知らないんだ。先輩も後輩も、同じ学年にも教えないことになってる。だからオレが来たんだけど」

あんな事件があっては無理もないが、それでは確かに部活の方は色々滞るに違いない。しかも風邪っぴきへの支援物資に何を買えばいいかわからないと長谷川たちに言われて、結局花形が出動したというわけだ。

……知ってるよな、藤真のアパート」
……うん」

花形も詳しいことはなにひとつ聞かされてはいないが、きっとは自分たちが思っている以上に藤真との距離が近いはずだと考えていた。予想的中、は退寮していたことも知っていたし、申し訳なさそうに頷いた。

「怒ってないよ。のことはみんな信頼してる。だから、頼めないか」
「た、だけど、ほら、そうそう、あのガラガラ声の小母さん」
「ああ、あの色ボケババア」

一応総まとめすると真面目で冷静で堅実ということになるはずの花形がそんな風に言うので、は思わず吹き出した。確かアナソフィアでの評価も「紳士」だったはずなのだが。

「不用意に藤真んちに近付くと尻を触られてたからな」
……それも立派な痴漢行為だよね」
「まったくだ。でもそっちの方がマシだったかもな、夏休み中に住居侵入で逮捕されたから」
「逮捕!?」

アパートの住人の部屋に勝手に入り込み、掃除をしていたらしい。本人は良かれと思ってやったことだと主張しているが、やられた方はたまったものじゃない。一応初犯で本人がひどく怯えているので、遠方に住む親戚に引き取られて行ったそうだ。

「だからそっちは大丈夫。あいつも落ち込んでるってほどじゃないけど弱ってるから、オレよりは……
「そんなことないよ」
「あるんだよ。、わかってるだろ。そりゃ藤真はちょっと素直じゃないけど」

も素直じゃないけどな、とは口に出して言えないので、花形は心の中でこっそり突っ込んでおく。

「オレも部活終わったらまた顔出すから」
「いいのかなあこれで」
「いいんだって。なんなら聞いてみなよ。花形より私の方がいいでしょ、って」
「な、何言ってんの!」

は支援物資に少し補充をして、花形に会計をしてもらってから物資を預かってコンビニを出た。

藤真のアパートは住宅街の中にあるだけあって、とても静かだ。いつかのように子供の遊ぶ声が遠くに聞こえて、たまに自転車が通り過ぎるだけ。は片手にビニール袋をぶら下げてアパートを目指し、つい気になって例の小母さんのものらしい家もちらりと覗いてみた。雨戸が全部閉まり、植木鉢が散乱していた。

本当にあの小母さんはいないんだ。そう思ったら少しだけ気が楽になった。はアパートのアーチにかかる「入居者募集中」の看板も見納めかもしれないと思いながら、一番奥の藤真の部屋の前まで歩いて行った。

表札はもちろん出ていないし、このアパートは洗濯機用の水道がベランダなので、玄関周りには何もない。ここが藤真の部屋だと教えられなければ、誰も知りようがない。は何度か深呼吸をして、ドアを開けた。藤真は鍵を開けておくから勝手に入れと花形に言っていたらしい。

そっとドアを開く。酒焼け小母さんのおかげで入ることになってしまって以来の藤真の部屋だ。静まり返っていて、少しだけ空気が篭って重い。足の踏み場もないほど散らかってはいないが、キッチンのシンクの中にはコップやら皿が無造作に置かれていた。は支援物資を置くと手を洗い、深呼吸して奥の部屋のドアを開けた。

緩くエアコンがかかる部屋は、涼しいがやはり少し空気が重い。ベッドにはうつぶせの藤真が転がっていた。薄手の肌掛けにくるまって枕に頭を沈めている。花形は寝ていると言ったが、目は覚めているらしい。ドアの開いた音にもぞもぞと体を起こして、だるそうな鼻声でごにょごにょ言い出した。

「おっせーよ花形ァ……オレもう腹減って死ぬわ――ってうわ!?」
「は、花形に、頼まれて、代理で来た」
「は!? い、意味わかんねえ代理!?」

部屋に入ってすぐのところで膝をついているに気付くと、藤真は肌掛けを慌てて掻き合わせた。髪はボサボサ、目は半開きで無精髭も生えてるし、見るも無残なだるんだるんのTシャツ姿だった。が、幸いの方はそんなことを気にしている余裕がない。

「駅近のコンビニで花形に偶然会って、そしたら花形、早く学校にもどれって怒られたらしくて、それで――
「それで、来たってのかよ――

肌掛けを抱き締めた藤真はそのままぺたりと半分に折れた。だるそうだ。

「ちょっと、大丈夫? 熱は?」
「いやわかんないけど――っていいよ大丈夫だって」
「具合悪い時くらい大人しく言うこと聞きなよ! 咳は?」
「咳……ない」

不貞腐れつつも、だるくてふらふらしている藤真には近寄って額に手をあてる。それほど熱くはない。弱ってるくせにグズグズ言う藤真を宥めすかしながらは症状を聞き取る。どうも風邪というか、夏バテのような感じだ。微熱と関節痛に最初は吐き気があったが、もうおさまったと言う。

「いつから食べてないの」
「昨日の夜、食べた」
「えっ、今日まだ何も食べてないの!?」

は寮に侵入してきたどこぞの女子を恨んだ。寮にいられればこんなことにはならなかっただろうに。とにかく何か食べさせなければ。は藤真を寝かせるとキッチンに戻り、支援物資と冷蔵庫を漁って柔らかく煮たうどんを作った。まだまだ暑いが吐き気もあったというし、消化がいい方が楽だろう。

……なんかすげーいい匂い」
「ただのコンビニうどんだけど。あとこれ、頭痛薬。っても解熱鎮痛剤だから、熱と関節、楽になると思う」

まさか生理痛用の常備薬とは言えないが、は白い錠剤を1錠、水と共に差し出した。のろのろと起き上がった藤真は床にぺたりと座ると、今度は大人しくいただきますと言ってうどんを食べ始めた。

「キッチン勝手に使ったけど……
「ああ、いいよ好きに使って」
「掃除するけどいい?」

余程腹が減っていたのか、藤真はうんうんと頷きながら熱いうどんをがつがつと食べている。その間にはキッチンを片付けて洗い、換気をし、ついでに床もフロアワイパーで拭いておく。支援物資をすっからかんの冷蔵庫に詰め込み、何か作り置きが出来ないかと考えてもみる。

しばらくすると、食べ終わったらしい藤真が丼を手によろよろと部屋から出てきた。

「いいってそんなの、私やるから。薬飲んだ?」
「飲んだ。なんか眠い」
「寝てていいよ、夜食べられるように何か作っておくから」

また藤真はうんうんと頷くと、ふらつきながらベッドに戻り、ばたりと倒れこんだ。

それから約3時間、藤真はぐっすりと眠った。暖かいものを食べたせいで体が緩み、薬も効いたので心地よい眠りだった。その間は持てる知識をフル回転させて、キッチンで格闘していた。念のため覗いた風呂場もなんだかどんよりしていたので、それも洗った。

それが終わると、携帯で調べてドラッグストアを近くに見つけたは藤真の鍵を借りてこっそり部屋を出た。支援物資の追加仕入れだ。それらが全て終わると、さすがのも疲れていた。藤真が静かに寝ている部屋に入り、エアコンの冷たい空気に少し休憩をしていた。

ついまでうとうとしそうになっていたが、表の通りを走り抜けていった救急車の音に藤真が目を覚ました。ぐっすり眠ったせいか、寝起きでも先ほどより具合がよさそうだ。

「あの薬、効いたっぽい」
「それならいいけど……そのヒゲ、頭、いつから風呂入ってないの」
「熱が出てからだから……一昨日?」
「今すぐ入ってきなさい」
「風邪引いてる時は風呂なんかだめだろ」
「いつの時代の話よ。そんな微熱なら大丈夫。清潔にしておく方が大事だよ」

もうよろよろしていない。は藤真を追い立てて風呂に入れると、奥の部屋も換気を始めた。フロアワイパーをかけて、追加で買ってきた除菌消臭スプレーを振りまき、肌掛けはベランダに干してこれもスプレーした。10月になっているとはいえ、気温はまだ夏。風に煽られた肌掛けはすぐに乾くだろう。

それが全て片付くと改めてエアコンを入れて少し冷やす。だいぶ室内がきれいになってきたので、はまたキッチンに戻ると冷凍庫に入れておいたスポーツドリンクを冷蔵庫に移していた。そこへ藤真が風呂から出てきた。このアパートはワンルームタイプながら脱衣スペースに洗面台もある。

「どうよ、シャワー入った方が楽でしょ」
「もっと早く入ればよかった」

の差し出したスポーツドリンクを流し込んだ藤真は、ハーッと大きく息を吐いた。空腹も満たされて薬も効き、シャワーでさっぱりすれば、かなり体は楽になるはずだ。

「あとこれ、雑炊。冷蔵庫にあるから、レンジで暖めてご飯入れて食べて」

調理しろというのは無理だろうから、は雑炊っぽいスープを作り、小分けにして冷蔵庫に並べておいた。同じ数だけおにぎりを作り、スープとおにぎりをレンジにかけて混ぜればなんとか雑炊らしいものになる。その説明をしていたは、背中に熱を感じて飛び上がった。

タオルを引っ掛けたままの藤真の頭がの肩にだらりと乗っている。

「び、びっくりした。大丈夫? もしかして具合悪くなった?」
……なってない」
「じゃあお腹減った?」

ため息をひとつつくと、藤真はの肩を掴んでくるりと回転させる。

「お前それ、わざと言ってるだろ」
「な、何がよ」

キッチンと藤真の間に挟まれたは体を反らせて、ついでに目も逸らす。逸らした先のベランダ越しの窓の向こうがオレンジ色に染まり始めている。風にはためく肌掛け、奥の部屋から流れ出てくるエアコンの冷たい風、薄暗いキッチン。は息を止めた。

逃げられるとは思っていなかったけれど、まだ熱い体の藤真に抱きすくめられてはびくりと体を震わせた。濡れた髪が頬に、首筋に唇が触れる。息が出来ない。

「ちょっとねえ、風邪、ひいてるんだから――
「治った」
「何バカなこと言ってんの!? そんな簡単に熱下がらないでしょ、ちゃんと髪乾かして――

そう言って藤真の頭に手を添えたは、直後に唇を塞がれてまた息を止めた。藤真の唇はすぐに離れて、そしてまた吸い付いてくる。その度に息を止めたり急に吸い込んだりで、は息が上がってきた。そうしているうちに、今度は藤真の手が制服の隙間から入り込んできた。

「ちょっと、やめて、ねえ、風邪伝染るって――
「風邪じゃないし、風邪だったらまたオレに伝染せ」

抵抗を試みてみただったが、どうにも抗えないし、不思議とこうしていることが心地よくて、現実感を失い始めていた。が抵抗しなくなったのを察知してか、また首筋に藤真は唇を寄せる。唇を立ててキスする度にびくりと震えるが可愛かった。

誰もいない、誰も知らない、誰にも邪魔されない今なら、過去の全てを忘れてしまってもいいような気がした。

……ねえ、なんで、藤真、どうして」

藤真の背中にしがみつきながらは喘ぐようにそう問いかけた。夏祭りの時には確かにキスもしたし、また手を繋いで帰ったし、喧嘩もしなかった。だけど、好きだとも言わないし、付き合おうとも言わないし、それはも同じだけれど、結局のところふたりは、言葉で簡単に言い表せる関係ではないのに。

頑固でも厭世的でもは女だ。理由が欲しい。

「どうして?」
「だって――

が何を求めているのかはすぐに察しがついた。だけど、藤真は言葉にしてしまうのが少し怖かった。もう「別に」とは言いたくなかったけれど、だからと言って「好きだ」なんて言えない。どうしても言えない。言おうとしても唇が動かない。もう充分過ぎるほどを想う気持ちは自覚しているのに――

オレの心なんて、そんなに大きくない。基本的にはバスケだけでいっぱいになってる。だけど、隙間があるとしたら、今そこにあるのはへの気持ちだけで、すごく狭いから入りきらなくてどんどん流れ出してきてる。流れ出した気持ちは堰き止められなくて、自分でも掬いきれなくて、だから喧嘩したし、キスもした。それは、

「それは……だから」