ステイルメイト

12

気まずいを通り越して、居た堪れない。歩いて祭から帰る人の波を眺めながら、土手沿いのガードレールに取り残されたと藤真は、花形がコンビニに行ってしまってから一言も口をきいていない。

コンビニとは言うが、この辺りは土手を外れると小規模な工場街が続いていて、住宅もまばら。一番近いコンビニでも相当歩かねばたどり着けないはずだ。しかもそのコンビニに夏の河川付近ということでビーチサンダルでも置いていなければ、どのみち意味はない。

鼻緒の取れてしまった下駄に片足を乗せたは、念のため隣の家の幼馴染に連絡をしておく。友達の迎えを一緒に待つから遅くなるけど、ひとりでは帰らないから。きっと下駄が壊れたといえば公ちゃんはチャリですっ飛んできてくれるだろう。だけどそれは藤真たちとの関係を説明しなくてはならないということでもある。

公ちゃんは弱くても湘北のバスケット部員だし、もしかしたら翔陽のエースである藤真なんかよく知っているかもしれないし、ただでさえ家と木暮家は家族の垣根が曖昧なので、お兄ちゃんは心配してしまうかもしれない。ほぼお兄ちゃんの公ちゃんの心証を害せば、それはいずれの両親にも伝播しかねない。

花形がいなくなってから、早くも30分近くが経とうとしていた。祭会場から歩いて帰る人も殆ど通らなくなり、花火の前よりも風が強くなってきていた。その風も真夏の夜にしては妙に温度が低くて、は汗ばんだ肌が冷えてきた。帰ってからきちんと暖めなければ風邪を引く。

すると、一陣の風に乗って、ばら撒いたような雨がふたりを直撃した。

「雨!?」
「おい、あれ見ろ」

頬についた水滴に触れていたは、藤真の声に顔を上げた。藤真は空を見上げていて、同じように見上げた先には、夜だというのにどんよりと垂れ込める雲がはっきりと見えた。遠くの空から放射状に広がっていて、今にも襲い掛かってきそうな雲だった。

……移動するぞ」
「え、どこに?」

素早く立ち上がった藤真は、土手を川とは反対側に降りた先の工場を指差した。もちろん操業はしていないが、シャッターの下りたガレージがあり、コンクリートの屋根が張り出していて雨宿りが出来そうだ。少し土手を進んだ先にある階段を下りれば目の前。が、土手は砂利道、階段は木製で、は片足が裸足。

仕方なく壊れた下駄に乗せた足に力を入れて、ずりずりと移動してみる。幸い1箇所だけは鼻緒がついているので、それをよりどころにすれば移動できないこともないかもしれない。しかし時間はかかる。夜でもわかる雨雲が到達する前に工場まで移動できるかどうかは怪しい。

「無理だろ、それ」
「砂利道裸足で歩くのも無理だよ」
「歩けなんて言ってないだろうが」

何言ってんだこいつ、と顔を上げたは、さっと屈みこんだ藤真に抱え上げられてしまった。つい悲鳴が上がる。さきほど花形がお姫様抱っことふざけたが、これではお姫様だっこではなくて、お子様抱っこである。突然のことに口をパクパクさせていると、壊れた下駄を持って藤真は土手を進む。

「じゃ、砂利道じゃなければ歩けるから! おろ、下ろして、重いから」
「暴れんな危ないから」
「ひゃあああ」
「ちょ、息出来ねえだろ首はやめろ」

抱え上げられているので、の視線は花形くらいまで上昇している。その高さで階段に差し掛かると、普段見慣れない落差と足が着いていない違和感で急に怖くなる。ビビったは腕で藤真の首を締め上げてしまった。だが、藤真はそれにぐらつくこともなく階段を降りきり、ガレージの前にを無事に下ろした。

ふたりが軒下に入り込むと、それを待っていたかのように風が強くなり、またバラバラと雨粒が舞い散った。

「これゲリラ豪雨ってやつなのかな」
「さあ、どうだか……予報、なかったしな」

移動できたはいいが、気まずいのは変わらない。軒下に並んだと藤真は、それきりまた黙った。そこに、花形からの着信。待ってましたとばかりに着信に出た藤真だったが、電話の向こうの花形は履物になるようなものがないとため息をついている。もう一軒回るといって通話は切れた。

「悪いことしちゃったな」
「しょうがないだろ、事故みたいなもんだ」
「藤真もごめんね、こんなことに付き合わせて」
「別に」

はもう「別に」には反応しない。どうしたら普通に出来るのか、さっぱりわからない。どうしたら藤真に普通にしてもらえるのかも、わからない。それがもうずっと続いていて、出口どころか入口すらわからなくなってきた。

の方も、藤真へのはっきりしない意識には明確な表現をするに至っていなかった。してはいけないという気がしていた。自分と藤真の立場を考えると、もう既にギリギリのところにまできていて、これ以上近付いてしまったらお互い苦しい思いをするだけだという気がしてならなかった。

好きかどうかなんていうことは、藤真同様無意識から締め出している。そんなことは考えてはいけない。

強まる風にが髪を指で押さえた、その時だった。ふいに視界が真っ白になるほどの光が辺りを包み、一拍置いて激しい雷鳴が轟いた。雨雲は雷雲でもあったらしい。遠くにも稲光が見えている。その突然の雷鳴には悲鳴を上げて耳を覆った。は雷の音が大の苦手だったのである。

「なんだよ、雷怖いのか」
「こ、怖いっていうか、音、音が」

遠くで近くで刺さるような光と叩きつけるような音が暴れ回る。は雷鳴が轟く度に体をびくりと震わせ、縮こまって頭を抱えている。悲鳴を上げないようにきつく唇を結び、目も閉じている。何度も鳴る雷には涙目になってきた。子供の頃から雷が苦手で、いつでも手を繋いでくれた公ちゃんは今はいない。

おさまらない雷に、壊れた下駄、藤真の「別に」。怖さと苛立ちが混ざり合って、体が震える。

……おい、大丈夫か。そんなに――

あまりにもが怯えているので、つい藤真は手を伸ばしての肘に触れた。その時ひときわ明るい稲光が辺りを照らし、ほぼそれと同時に今までで一番大きな雷鳴が鳴り響いた。鳴ったというより、ものすごく近くで爆発が起こったんじゃないかというほどの衝撃だった。

聞こえはしなかったけれど、は形振り構わず悲鳴を上げて、藤真に抱きついた。

空から電気の塊が落下して弾けたみたいだった。藤真の頭の中には「を突き飛ばせ」という指令が飛び交っている。を突き飛ばし、悪態をつき、侮辱し、また泣き出すまで傷つけろと命令してくる。それが正しい、それが今するべきただひとつの方法なのだと。

だが、それに従うことは出来なかった。鼻をくすぐる甘い香りがふわりと立ち上り、雷鳴が轟く度にびくりと竦み上がるの体が藤真の中の何かをとてつもない力で突き動かした。

無意識に封をしていたへの気持ちが溢れ出す。藤真はを強く抱き締めた。

雷が遠ざかっていくまで、たっぷり数分はあっただろうか。錆びたシャッターの降りるガレージの軒下で、藤真は両腕にを抱き締め、頭を寄せて目を閉じていた。雷は今も激しいのに、自分の鼓動以外何も聞こえない。浴衣越しに腕に伝わるの体以外、何も感じない。

こめかみの傷がずきずきと疼く。激しい雷の音を聞きながら、藤真は4月のことを思い出していた。近所のお節介な小母さんの声が聞こえて、思わずドアを閉めた。藤真とドアの間には、がいた。暗い玄関でをドアに押し付けたまま、藤真は息を止めた。

ドキドキなんていう程度ではなかった。体中の血が沸騰しているのかと思うほどだった。何かきっかけになるようなことが起こってしまったら、きっとたがが外れて何をするかわからない。たぶんの体に触れるだろう、キスもしてしまうだろう、それだけで自分を抑えられるとも思えなかった。

だから必死に耐えて、ひときわ大きくガラガラ声が響いて遠ざかった時、藤真はまたドアを力任せに押し開け、を解放した。の方も、限界だったに違いない。いつかのように「またね」と言うと、藤真が何か言う前に走り去ってしまった。

藤真が記憶の再生で頭がいっぱいになっている間に、雷がだいぶおさまってきた。もう大音量というほどでもない。ようやく我に返ったは違う意味で体をびくりと震わせて顔を上げた。あまりに怖くて思わず抱きついてしまったが、なぜ藤真の方も抱き返してくれているのだろう。

それに気付いて、藤真も顔を上げる。未だ強く吹く風に髪を煽られながら、ふたりはゆっくりと見詰め合う。

「ごめん、なさい」

少し涙目になっているは、震える唇でそう言った。藤真は返事が出来ない。

……また、別に、って言うの?」

言いたくない。震えながら悲しそうに微笑むに、藤真は唇を押し付けた。

それを合図にしたかのように、今度は叩きつけるような雨が降り出した。強い風すら遮るほどの雨が降り注ぎ、まるでキスするふたりを覆い隠すシェードのようだった。あっという間にアスファルトには流れが出来て、ふたりの足元を掠めていく。

藤真が離れると、はまた震えだした。その頬に藤真の指が触れると、の目から一筋の涙がぽたりと零れて、浴衣の胸に落ちて弾け飛ぶ。ピンク色に染まった頬、耳、そしてひときわ赤く染まる目に、涙が溜まっていた。また藤真に無意識の邪魔が入る。

……泣くほど、嫌か」
「そんなこと、言ってないでしょ。そんなこと――

険しい顔をしている藤真の頬に手のひらを添わせたの指が、こめかみの傷に伸びていく。

「そんなこと、思ったことないのに――

傷に触れるか触れないかの距離を保っていたの手を掴むと、藤真はまた断りもいれずにキスして、そしてぎゅうっと抱き締めた。の腕が伸びて首に絡みつく。雨がうるさいから、何も言わない、何も言えない。激しい雨のすぐ側で、ふたりの心は少しだけ解けて、そして少しだけ溶け合った。

「いやー、どうにもならんわ。店の中まで水入ってきそう」
「こっちは少しおさまってきたけど」
「じゃあこっちに移動してるんだな。下駄、どうにかなりそうもないか?」

藤真は片腕でを抱いたまま、花形の着信に応じていた。2軒目のコンビニに入って店内を探していたら、雷が落ちてきたという。続けての豪雨でコンビニ内は雨宿り客だらけ、しかもまた履物になるようなものは置いてない。これでは時間ばかり遅くなって埒が明かない。

「うーん、下駄の直し方なんて知らないしな」
「紐状のものがあればなんとかならないか? 国道に出られれば途中に24時間のスーパーあったろ」

コンビニに行くのだという考えで突っ走った花形は、雨宿り中にそれを思い出したが、そっちを目指していたらスーパーにたどり着く前に確実に雨にやられていた。不幸中の幸いというところだ。

「紐か……紐みたいなの、何かないか」

電話の向こうの花形になにひとつ悟られないよう気を遣いながら、藤真はを見下ろした。もそれを聞いて眉根を寄せ、手を口元にあてて考えて――ふたりとも同時に声を上げた。の手には、紐で口を締めた籠底の巾着がぶら下がっていた。

「あった!!!」
「えっ、紐か!?」
「それ、いいな?」
「どうなった、あったのか」
「巾着だよ、みんな持ってたろ。まさに紐だ」

花形は言われて思い出し、バチンと額に手を叩きつけた。歩きにくいだろうが、国道沿いにある24時間営業のスーパーまでの辛抱だ。灯台下暗しだったけれど、なんとかなりそうなのでそんなことはもういい。花形はハーッと肩で息をついた。

「じゃあこれでなんとかやってみる」
「おう、頑張れよ。……そしたら、後は任せるわ」
「え?」
「雨も時差があるし、スーパーの方に戻ると今度はお前らが待つことになるし、オレはこのまま帰るよ」

そういう言い訳が立つから、ふたりきりで帰れ。花形はそんな気持ちを込めて静かに言った。このゲリラ豪雨はきっと不運な目にばかり遭っている藤真へのプレゼントなのだと、そう思った。誰も見てない、誰も聞いてないから、素直になれ藤真。きっともお前のことが、好きだから。

……ああ、わかった。じゃあ明日な」

既に花形が思っている以上に素直になってしまった藤真だったが、電話越しでもその気持ちは伝わってきた。の背中にある手に少し力を入れて頷くと、通話を終えた。

何しろ手しか使えるものがない。下駄の応急処置よりも巾着の紐を外す方が大変で、ふたりはガレージの前で悪戦苦闘し、紐が外れたら外れたでの足に合わせて結び目を作るのに四苦八苦。なんとか歩ける程度に仕上げた頃には、ふたりともぐったり疲れていた。だが、まだスーパーまでの道のりを歩かねばならない。

「そーっと歩けよ。人の足って意外と力強いから」
「う、うん、気を付ける」
……ほら」

もう険しい顔はしていなかった。藤真が差し出した手には躊躇せずに手を重ね、指を絡めて繋ぐと、応急処置をした下駄の方の足を花魁のように引きずりながら歩き出した。

いくら雨に隠れてキスしてしまったからといって、それでコロリと態度が180度変わるようならふたりとも苦労はしない。だが、とりあえず今は藤真も悪態をつく気分ではなかったし、も望んだ通り「普通に」接せられていると思った。ぽつりぽつりとではあるが、話も出来ている。

そうしてなんとか24時間営業のスーパーにたどり着き、はやっと代わりの履物を手に入れた。おそらくはプルメリアであろう白い花のついたビーチサンダルだった。はそれと一緒にお茶やお菓子を買い、藤真に差し出した。今のところはこのくらいしか出来ないが、お礼のつもりだった。

藤真は少し恥ずかしそうにしつつもそれを受け取り、ビーチサンダルに履き替えたので、もう普通に歩けるはずのの手を取ってゆっくりと歩き出した。

今年はスクーターと自転車の集団に遭遇することもなく、無事にの自宅へとたどり着いた。はちらりと木暮家を見たが、公ちゃんが見張っている様子はない。木暮家も家もすっかり明かりが落ちていて、門の辺りはとても暗かった。

「あの、ありがとう、色々」
「気にするな、そんなこと」
……もう『別に』って言わないんだね」

手はまだ繋いだままだった。はその繋いだ手をふらふらと揺らして、柔らかく微笑む。その手を引いた藤真は、スーパーのビニール袋がぶら下がる手での背中を引き寄せて、顔を近付けた。

「言った方がいいなら、言うけど」
……ううん、もう言わないで」

おそらくは初めて、藤真はに向かって笑顔を見せた。もそれを見てまた微笑む。ゆっくりと唇が重なり合い、今度は少しだけ時間をかけて、そして音もなく離れた。手を繋げたまま離れていき、腕を伸ばしきったところで藤真は潜めた声でぼそりと漏らす。

、またな」

初めて名前を呼ばれたと思ったは、静かに解放された手を宙に浮かせたままで止まった。そして藤真に促されて、ぼんやりしたまま玄関ドアを開く。それを確認した藤真が片手を挙げて帰っていくのを、はしばし呆然と見送っていた。