ステイルメイト

19

国体が終わってから数日後のこと。ちょうど1年前に藤真が体調不良でダウンした時とまったく同じような状況で、はコンビニの中に花形を見つけた。だが、今日は藤真が元気なことはわかっている。一度帰宅してから藤真が帰るのに合わせてアパートに行くことになっているからだ。

「あれ、なんかデジャヴ」
「ほら去年、藤真が夏バテみたいになって」
「ああ、そうだそうだ。そんなこともあったな」

その時と同じように10月だというのに気温が高いので、ふたりはファストフード店に逃げた。

「改まって言うこともないんだけど、うまくいってるんだよな?」
「どう言ったらいいのかよくわかんないけど、たぶん」
「まだそんなんなのかよ。まあ、喧嘩したりしてないならいいけど」

花形が呆れ顔になるのも無理はない。もう高校3年も暮れかかっているという時期だが、確かと藤真が知り合ったのは1年生の5月だ。丸々2年以上を間に挟んでおきながら、まだ素直になれないというのも、他人の目にはちょっと異常に映る。

「変な状態だってのはわかってるんだよこれでも。だけど、その、わかるから」
「何が?」

ストローを咥えたまま花形は聞き返す。は言い辛そうにしつつ、少し顔を背けた。

「藤真、何も言わないんだけど、思ってることは、ちゃんとわかるから」

花形はさらに呆れた。がダメな男ばかり好きになってしまう体質の女に見えてきた。

「まあ、ふたりが別に問題ないならいいんだって。てかオレらはともかく、受験じゃないのか」
「う、まあ、それも……
「なんだよそれも地雷か!」
「ていうわけじゃないんだけど、実は、その――

先だっての国体で無事に推薦が決まった花形は、ぼそぼそと言うの言葉を聞いて吹き出した。

「それ、藤真には?」
「まだ。ちょっと言いづらくて……時間もなかったし」
「ああそうか、今デスレースか。でも、早く言ってやれよ。そしたら今年はもうネガ藤真が出ないかもしれないし」

花形がどう捉えているかは不明だが、藤真が春夏とネガ期を回避できているのはが請われるままに体を許しているからである。とはいえ花形がこんな風に言うということは、藤真はこの相棒にも等しい仲間にとの関係を話していないようだ。

「てか、そうだ、デスレースと言えば、今年うちの軽音と何かやるって本当か?」
「あっ、そうそう、耳早いね」
「早いとかじゃねえよ、西村のヤツ、わざわざ藤真に言いに来たんだよ、借りるからって」

は苦笑いだ。今年の後夜祭は翔陽の軽音楽部とコラボすることになっているのだが、軽音楽部の部長である西村という3年生はわざわざ藤真の元に挨拶しに来た。どうもこの西村がに懸想しているらしく、噂は絶えないし夏祭りでも一緒だったという目撃情報のある藤真に宣戦布告してきたらしい。

「藤真とは違う意味でハイスペックだしな、あいつ。しかも優しいんじゃないのか」
「そうかもしれないけど、私別にそんな、岡崎ちゃんたちだって一緒だし」
「顔もいいし背も藤真と同じくらいだしバカじゃないし、あんまりいい顔するなよ」
「だからなんで私がちょっかいかけてるみたいになってんのよ。第一、やれって言ったの健司なんだし」

が気付いていないようなので、花形は自然な相槌を打って、突っ込まずにいてやる。そうか、健司か――

「しかもリクエストしてきたんだよ。『BadRomance』やってくれって」
「1年の時、魂抜かれたみたいになってたからな」
……はい?」
「もう少しちゃんと話して、どう思ってたのかとか、聞いてみろよ。恥ずかしがってるの、お前らだけだぞ」

返す言葉がなくて、は面目なさそうに顔を伏せている。だが、それこそ1年生の時から生ぬるく見守る会の会長であった花形先生は、緩んでしまいそうになる頬を頑張って引き締めていた。もう藤真はずっとブレスレットを着けたままだし、は健司と呼んでいるようだし、生ぬるく見守ってきた甲斐があったというものだ。

球技大会のエキシビションマッチに借り出されたことが面白くなくて不貞腐れていた藤真が、酔っ払いに絡まれていたを見るなり駆け出していって助けに入った、あの夜が懐かしい。藤真のスタート地点は、のスタート地点は、どこだったんだろうな。

「ここまで来たら先に落ちた方が負けみたいに思えるだろうけど、今更じゃないか?」

いつかの藤真のように、は少し不貞腐れた顔をする。余計なお世話だ。花形も我慢しきれずに笑う。

「本当にお前ら、似たもの同士だな」

この年のアナソフィア文化祭はちょっとした騒ぎになっていた。校内と翔陽で絶大な人気を誇る緒方岡崎が最後の舞台であり、ついでにも翔陽の軽音楽部とコラボという見所があったからだ。

ただし、この頃にはもうと藤真がどうも付き合ってるらしいという認識が広がってしまっていて、本人たちが否定すればするほど事実なのだと思われるという状況だった。なにせこの年のトップ・オブ・アナソフィアとトップ・オブ・翔陽である。意外性がないので浸透速度が速い。

「皆勤おめでとう諸君!」
「ええっと……
「ふふん、どっちにしたらいいかわからなくなってるな。よいよい、特別に2本目の方でもよいぞ」

これも3年目だ。緒方の舞台を見た5人はどう言葉をかけていいかわからなくなっている。昨年はイレギュラーだったが、今年は例年通り2本立ての演劇部、なんと緒方がアナソフィア演劇部に入って最初で最後の女役を演じたのだ。しかもミュージカル仕立て、しかも白雪姫。

本人もボーイッシュだし、男役は安定の上手さなのだが、それはそれとして、とにかくこの白雪姫が美しかったので、本人をよく知る5人ですら顎が外れるほど驚いた。1本目がシェイクスピアの十二夜を現代日本風にアレンジしたアナソフィア伝統の演目だっただけに、プリンセス緒方は異彩を放っていた。

「いやでも、白雪姫、可愛かったよ。すごくきれいだった」
「マジかー! 君らは本当に偉いわ」

長谷川が真面目腐った顔で緒方を褒めたので、つい4人はぎょっとして身を引いた。小学校が同じで今も地元が同じなので、夏祭りなどはいつも一緒に帰っていたし、緒方がゴリマッチョ趣味だとはわかっているが、なんとなく疑いたくなってくる。そうなると遠慮のない先生の出番だ。

「君らっていうか主に一志だろ。どうなん緒方、マッチョじゃないけど一志は」
……ええと、言ってる意味がわからない」

緒方より先に察したらしい長谷川がハーッとため息をつく。なんだか途方もなく呆れているらしい。

「花形、そんなことあるわけないだろ」
「え? まさかちょっとどういう勘違いよ、一志、ちゃんと彼女いるじゃん!」

後夜祭を待つばかりの薄暗い講堂の前で、藤真も含めた4人は悲鳴を上げた。

……話してなかったの」
……なんとなく話しそびれて。ちょうど藤真がと会わなくなってた時期だったし」
「オレのせいかよ」

長谷川の彼女は現在アナソフィア2年生で、やはり小学校が一緒だった子だという。どうも緒方の紹介ということになるらしい。緒方によれば、可憐で清楚で繊細で、抱き締めたら折れるような女の子だという話だ。羨ましい通り越して呆然とする4人に長谷川は照れもせずにまたため息をついた。

「ああ、だから今年の夏祭りとか先に帰ったのか」
「帰ったっていうか、いたけど、祭会場には」
「てことは結局全員残ってたんだろ、なんで遭遇しねえんだよ」

藤真はといたのだし、面白い展開を目撃できなかった花形先生は悔しがる。が、その花形の背後で講堂の正面口が開いたので、全員そっちを振り返った。もうすぐ岡崎との最後のステージが始まる。

「岡崎ちゃんはまあアレだけども……から伝言」
「伝言?」
「最後の曲をみんなにあげる、だって」
「どういうこと?」
「そりゃあ見てのお楽しみじゃないの。直接的じゃないけど、きっとなりのアイラヴユーなんでしょ」
「それはオレらじゃなくて……
「バカ、恋人や家族だけに言う言葉じゃないのよ、本当は」

少し白雪姫の化粧が残る緒方は、腕を組み、首を傾げてにやりと笑った。さすがに緒方が演じるとあって、白雪姫は王子様の助けを借りずに自分で林檎を吐き出し、継母とバトルを演じて勝利した。ついでに天下に婿探しの号令をかけて緒方のプリンセス・ストーリーは幕を閉じた。

正面入り口から続々と人がなだれ込む。今年は例年に比べて多いようだ。緒方はいつかのように手招きをすると、6年間で大量のアナソフィア女子をメロメロにさせてきた笑顔で5人を誘った。

「受け取ってやってよ、のアイラヴユー」

翔陽軽音楽部の歴史は浅いものの、創設当初から技術力が高く、入り口が狭い。入部してきた時点である程度は楽器を弾きこなせていなければならないため、初心者は軽音楽部ではなく、軽音楽同好会に入ることになっている。今夜とコラボするのは部の方。簡単に言うと上手い方だ。

1年生の時のの飛び入りステージを見て以来、なんとかに接触を図ろうとしてきた部長の西村だが、生憎にはずっとバスケット部の5人がくっついていて、結局面識も持てないまま3年生になってしまった。しかも藤真との噂が絶えないというおまけつき。

花形の言うように顔もよく背も高く性格も表面的には悪くないというのに、3年間彼女なしで終わろうとしている西村は、はっきり付き合っていると公言しない藤真に断りを入れた上で、最後の賭けに出た。しかしそもそものガードがとても固いがそう簡単に落ちるわけもなく、思い出作りで終わろうとしている。

その上、1学期までどうかすると堅物通り越して厳格にも見えていた藤真が急に手首にアクセサリーを着けはじめて、それがちょっと気になっていた西村は、それとまったく同じものをが着けているのを見るに至ると、途端にバカバカしくなってきた。これで付き合ってないとか恋愛ナメてんのかこいつらは。

そんな思惑を抱えた部長率いる翔陽軽音楽部だが、全員進路が音楽関係に決まっていることもあって練習はきちんと行われたし、花形の言うように誰も彼もずいぶんと優しい。それをどう思ったかはともかく、だからなんだというは彼らを利用して5人に贈りたい曲を最後に選んだ。

計5曲のステージだが、それ以外は岡崎や西村に任せて最後の選曲だけは譲らなかった。

「あげる、ったってなあ」
「オレたちがもらったってなあ」
「花形、永野、そんな面白い顔でそんなことオレに言われてもどうにもならないぞ」

緒方が随伴してくれたおかげで、5人はまた壁際に陣取った。演目のせいでグラウンド組が増えていて、藤真たちはやけに目立つ。ちょいちょい声もかけられたし、噂を知らないアナソフィア女子に擦り寄られたりもしたけれど、藤真はずっとステージを見つめていた。

最後の曲をみんなにあげる、か――

もはや恒例のダンス部に、トリがと翔陽軽音楽部のステージである。例年通りの、とっても可愛くてちょっとだけセクシーな衣装とダンス……ではなかった。割とハードなダンスナンバーやロックを中心に構成されていて、ステージのたちは楽しそうだが、客席は若干置いていかれ気味。

唯一AlexandraStanClicheだけが可愛さ全開で、藤真はつい口元を押さえた。ここで気を抜いたら口元が緩む。緩んだら一巻の終わりだ。こういうことは絶対花形に目撃されてしまうと相場が決まっているからだ。だけどはあまりに可愛くて、首筋を撫でるように痺れが走る。

そうして、最後の曲である。KellyClarksonStrongerだった。

サビでこぶしを突き上げるの手首に、ブレスレット。さっきまではしていなかったはずだ。演劇部の協力によるライティングのカーテンの中、は講堂のどこかにいる5人に向かって歌う。の、心の底からのアイラヴユーだった。

予定出演が終わり、飛び入りで沸き上がっている頃、5人は講堂の外に出てぼそぼそと喋っていた。

「ニーチェ、か。アナソフィアでニーチェって、あいつほんとに強いっていうか」
「え?」
What doesn't kill you makes you stronger. おかしくなる寸前によくこんな言葉残したよな」
「は?」

花形先生はのいい加減な割にきれいな発音から歌詞を聞き取ると、4人にざっくりと説明した。引用の引用でさらに解釈が転がっていくけれど、花形にはの意図がよくわかった。

「あなたを殺さなかったものは、あなたを強くする。のアイラヴユー、てわけか」
……なるほどな。ありがたく受け取っておくか」

安易に恋の歌とでも考えていた4人は花形先生の解説に少し胸が軋む。もうすぐ冬の選抜予選が始まる。実際のところ、曲自体は失恋を歌ったものなのだろうが、のアイラヴユーは確かに彼らに届いた。

「さすが花形……
「言いはしないけど、あいつらも何か思うところがあるみたいだったな」

文化祭の代休なので、はまた藤真のアパートに来ている。藤真の方は普段通りだが、翌日が翔陽の次期生徒会選挙だそうで、朝練が出来ないという。予選が近いので監督は面白くない。面白くないが、が来ているので機嫌はいい。ベッドの縁に寄りかかっての肩に頭を乗せている。

「結局3年間見ちゃったな」
「いいじゃない。面白かったでしょうが」
「面白いっていうか、まあ今年は西村が滑稽だったな」
「悪そうな顔……

まさに「いらないんならくれよ」状態の西村はお揃いのブレスレットにとどめを刺されて本番当日にを諦めるに至った。しかも衣装に合わせて外していると思っていたブレスレットが最後の曲で突然出てきて、の手首で輝いているではないか。終演後は少し可哀想なくらい憔悴していた。

「オレは3曲目の方がよかった」
「ちょ、ひどい。せっかくの熱いメッセージを」
「あれは翔陽にくれたんだろ。それはそれ。3曲目の方が可愛かった」
「は!? 何言ってんの!?」

今のところ、この手の発言は出ないのが藤真としてはデフォルトである。は声が裏返る。

「なんだよ、可愛かったって言ってるだけだろ」
「急にそんなこと言うから、びっくりしたじゃない! やめてよもう」
……可愛いと思って何が悪いんだよ」

反論する間もなくは唇を塞がれた。が、すぐに顔を引いて離れる。

「ちょっと待って、私、話したいことがあって」
「何だよ、後でもいいだろ」
「だめだめ、これだけはちょっとちゃんと聞いて!」

ぐいぐいと顔を近付けてくる藤真の頭を押し返しながら、は藤真の進学先である大学の名を挙げた。

「それがどうしたよ。もう決まったけど」
「知ってる。……私もそこに行くことになったの」

の頬やら耳やらにキスしていた藤真は、ぴたりと止まると、ゆっくり顔を上げた。は少し恥ずかしそうに藤真を見上げている。だが、藤真はすぐに頭がクエスチョンマークでいっぱいになる。自分の進学先、それはの学力を考えると、

「お前が行くようなところじゃないだろ」
「そう、だから随分反対はされたけど、もう学長の伝手で推薦決まっちゃった」
「え、まさかとは思うけど」
「うん、ごめん、健司と同じところに行きたかったわけじゃない」

がそんな理由で進学先を選ぶわけはないとわかっているので、藤真はむしろ逆にホッとした。

「覚えてるかな、これ」

はバッグに手を伸ばすと、臙脂の万年筆を取り出した。

「覚えてる。オレの教科書に挟まってた」
「中1の時の校長先生、今は大学で学長してる。その先生のところ行きたかったの」

藤真の肩におでこを擦り付けて、は小さく息を吐く。

「ずっと考えてた。だけどもっと高いところ行けるはずだって、アナソフィアは普通そんなこと言わないのに、それをわかってる親にも言われて、だから去年からずっとそのことで揉めてた。そしたら健司がそこ行くっていうもんだから……同じところがよかったのかって言われたらどうしようって」

だけどそのあたりから藤真はを遠ざけ、監督に専念していた。こんなところでもは孤軍奮闘していたというわけだ。それに気付いた藤真は、の髪を指で梳いて、静かに頭を撫でる。

「本当は私、アナソフィアなんて来たくなかった。公ちゃんと一緒に公立行きたかった。だけどの家はアナソフィアが何人もいるし、それに反発したくたって、そのために手を抜くのもなんか悔しくて、結局アナソフィア入っちゃって、中1の時はもう本当に腐ってた」

それを助けてくれたのが万年筆の持ち主である当時の校長だったというわけだ。本人もアナソフィア出身の元校長は母の高等部時代の担任でもあった。そんな縁からに目をかけてくれていたという。

「アナソフィアに飲み込まれる必要なんてないって、そう言ってくれて。染まらなくていい、アナソフィアの伝統は守られるべきだけど、あなたが伝統になるわけじゃない、って。そんな人だったから、すぐに辞めることになっちゃったんだけどね。アナソフィアに革新は必要、ないから」

そんな思想はもちろんアナソフィアには相応しくない。影でこっそりヒュパティアと渾名された元校長は、先生がいなくなったらどうしようと怯えるに万年筆を譲り渡すと、颯爽と去っていったという。

「去り際に言われたの。もしあなたに真正面から噛み付いてくる人があったら、それには真正面から向き合いなさい、そして、その人のそばを決して離れてはいけないって。それを思い出して」

ゆるりと顔を上げたは、藤真の頬に手を伸ばし、いつかのように傷口に指を伸ばす。

「だから、もう誰に何を言われてもいい、偶然だけど、健司と同じところ行こうって決めたの」
……
「黙っててごめん、来年から学校同じになるから、よろしくね」

そう結ぶと、は首を伸ばしてそっとキスをした。

「健司……そばにいても、いい?」

ハイスペックが故に、誰も真正面から接してくれたことはない。ただひとり、藤真を除いては。噛み付くどころか延々喧嘩し合い、何度も泣かされた藤真にも真正面から挑んだ。そうして今、その藤真と共にある道を選んだ。藤真は返事の代わりに優しく唇を押し付けると、照れくさそうに微笑んだ。