ステイルメイト

03

旧校舎自体はさほど大きくなく、辿り着いてしまえば更衣室までは迷いようがない。わかりづらいのは旧校舎そのものと、通常開放されている旧職員玄関である。は旧職員玄関を出て、現在の高等部の校舎が見える通りまで歩いていく。

大人しく藤真が着いてくるので、は地図を片手にのんびり歩く。旧校舎への行き方を軽くアドバイスして、またのんびり歩いて帰ればたっぷり時間が稼げる。少し時間を残したところで戻り、片付けでも始めてしまえばいいと考えていた。

「今日は第3正門から?」
……え?」
「駅からどうやって来たの? バスじゃないでしょ」
「ああ、確かパン屋のある道の」
「やっぱりそうか、そしたら……

今日は少人数なので電車移動だっただろうが、当日は1学年丸ごとやってくるのでバス移動である。高等部の校舎と駐車場は離れているし、旧校舎の近くは通らずに高等部まで行くので、おそらく急に高等部の校舎から放り出されたら本当に迷う。

「でもたぶん、先生は中央通りはわかるはずだから、これ、この小屋を目印にしてね」

オフシーズンは何もないただの戸のない掘っ立て小屋だが、クリスマスシーズンになると原寸大のプレゼピオが設えられる。この辺りからは旧校舎は完全に死角になっていて、しかも見えるのは明らかに教会関係施設とわかる建物ばかり。しかしこの小屋の前の道を行かねば旧校舎にはたどり着けない。

「体育館からも離れてて申し訳ないんだけど、前に上半身裸でうろついちゃった人がいて」
さんだっけ」
「その人3年間出入り禁止になったから、そういうのは気を付けてね――はい?」

もっともらしく一応注意を挟んでみたりしつつ、やはり運動部はシャイで口下手が多いから楽だなどと考えていたは藤真の声に顔を上げた。生徒会諸君たちと比べると、だるそうな低い声だった。にこんな声で話しかける男子は藤真が初めてだ。

「そうだけど」
「面倒なのはわかるけど、オレをダシにしないでくれないかな」

より少し背の高い藤真は、そう言いながら腕を組んで目を細めた。

「ダシ?」
「先輩たちに絡まれるのが嫌だったんだろ。だけどこんなことされるとオレも後で面倒なんだけど」

藤真はの策を完全に読んでいたらしい。が主導したとは言え、ひとり外に連れ出されてとふたりきりになったことで藤真は肩身の狭い思いをするのかもしれない。しかしそれにしてもこの不貞腐れた態度はどうだろうとは思う。

「そっちは藤真くんだっけ。勘がいいんだね」
「先輩たちの目が節穴なだけだ」
「ふうん、最初っから気付いてたの」

藤真は確かに勘がいいけれど、それ以前に藤真も同様、自由自在に笑顔をコントロールして他人を手のひらの上で転がすのが得意な人間なのである。つまり同類。自分にも覚えがあることなので騙されない。

「そっちと違って去年のことなんか知らないんだから、巻き込むなよ」
「まあ、部活から離されてこんなところまで連れてこられれば不機嫌になるのも仕方ないけど」
……何だって?」

も不貞腐れた藤真の心情はよくわかる。自分だってこんなことやりたくない。

「どうせなんかの部活のエース級で先生の受けもよくて、だから代表にされたんだろうけど……その不機嫌を初対面の女の子に八つ当たりするってどうなの。あとほんの10分くらいで終わるのに」

ひとつのことに専念させられるのが耐えられない帰宅部にとっては、たかが部活だ。どんな実績があるのかは知らないが、このくらい我慢しろと言いたくなるのである。

「八つ当たり? 本当に迷惑だからそう言ってるんだよ」
「この程度で? 運動部なのに忍耐力ないんだね」
「はあ!?」

この時も藤真も15歳、言葉でアナソフィアの成績上位者に勝とうというのは土台無理な話だ。

「部活に専念したいなら、アナソフィア出入り禁止になったらいいよ。悲鳴上げてあげようか?」
「何でそこまで言われなきゃいけないんだ。お前性格悪いな!」
「そりゃお互い様。私も已む無くこんな役割引き受けたけど、誰かに当たったりしないし」
「八つ当たりじゃないって言ってるだろ」
「自分で八つ当たりしましたなんて言わないもんね、普通」

ああいえばこういうでに勝てるわけがない。藤真は喉を鳴らして言葉に詰まった。にしてみれば、お互い人心掌握が得意という共通点はあるものの、それでも藤真を幼く感じている。だから怯みもしないし、何を餌に攻撃されても切り返せる気がしていた。

「翔陽に入った以上、アナソフィアのことに時間を取られるのは仕方ないんだし、その辺り要領よくやらなきゃ。藤真くん、可愛い顔してるんだし、今からこんなことじゃ身が持たないよ」

これは嫌味ではなくて事実だ。女の子のように可愛らしい顔をしている藤真など、球技大会を機に人気者になってしまうだろう。藤真がアナソフィアの行事を避けたとしても、アナソフィアの方は藤真を追いかける。運動部にいるなら校外でも接触のチャンスが作りやすい。

「可愛いって、失礼なこと言うなよ」
「あれ、コンプレックスだった?」

の言葉に、藤真は手のひらで顔を覆って項垂れた。は藤真に構わず左手を上げて時間を確かめた。今から旧校舎に戻ればちょうど指定時間の5分前くらいになるだろう。地図を折りたたみ、悔しそうな藤真のブレザーのポケットにねじ込む。義務は果たした。当日は好きにすればいい。

「さーじゃあ戻ろう。揃って戻らないとまた何か言われるかもよ」

あと少しで役目が終わるは小さく伸びをして歩き出す。藤真はまだ面白くなさそうな顔をしていたが、ポケットに手を突っ込むと、渋々着いてきた。実際、不機嫌で不貞腐れていた藤真はの後を着いてきただけで、旧校舎に戻れる自信がなかった。

藤真は生徒会室のドアを開けるまで不機嫌な顔をしていたが、ふたりが戻ると中の様子が一変していた。あれだけビビっていたひだまり生徒会と、を見てヘラヘラしていた翔陽生徒会は楽しくお喋りに興じていて、どちらも大変機嫌がよさそうだ。ふたりがいない間に仲良くなってしまったらしい。

そんなわけで、藤真は何の謗りも受けずに済んだし、は結果オーライ生徒会に貸しが出来た。だが藤真は面白くない。ちょっとグズっただけなのに銃を乱射されてしまった気分だった。

機嫌がよくなってしまったひだまり生徒会に連絡先を求められた藤真は「携帯持ってません」と言ったきり貝のように口を閉ざし、先生が戻るまで誰も寄せ付けなかった。そしてまたラインダンスのように揃ったお辞儀のアナソフィア女子たちに見送られて、翔陽生徒会ご一行様と藤真は帰っていった。

「アナソフィアどうだったよ、可愛い子いた?」
「別に。すげえムカつく女ならいたけど」
「だから機嫌悪かったのか」

翔陽とアナソフィアのちょうど中間辺りにある駅から少し歩いたところに、24時まで営業している有料の屋外バスケットコートがある。時間帯によって利用者の傾向はがらりと変わるが、平日であれば概ね日没から22時くらいまでは真面目にバスケットをしに来ている利用者が多い。

しかも近隣の学校に関しては学割が効く。今も藤真たちの他に高校生らしい2組が練習をしている。

アナソフィアから戻った藤真は、練習が終わってしまった部室に顔を出し、花形の他にも同学年の部員に声をかけて有料コートに誘った。それぞれ一度帰宅してから着替えて戻ってきたところだ。翔陽謹製緑茶色ジャージでもいいのだが、校名が入っていると面倒なこともある。

のろのろとボールを弄んでいる藤真に、花形はこっそり口元を歪めて、にやりと笑った。

「アナソフィア行ってそんな不貞腐れた顔して帰ってくるの、お前くらいなもんだろうな」
「アナソフィアだからって全員いい女だとは限らないって言っただろ」
「藤真、なんか女に恨みでもあんのか?」

事情をわかっているらしい花形に、永野が首を傾げた。バスケットの腕前はトップクラス、部活漬けの割には成績も問題なく、顔は美しく整い、性格も明るく男気がある藤真が女嫌いとなると、何か深刻なトラウマ持ちか同性愛かくらいしか思いつかない。

「去年、散々だったらしい」
「去年て中3の時にか? そりゃまた……
「ふん、別に彼女がいなきゃいけないなんてルールはねえだろうが。あんなのはただの見栄だ」
「翔陽は男子校だから楽だと思って推薦決めたらこれだもんな」

藤真は翔陽がアナソフィアと密に交流があることを知らないまま、スポーツ特待生で入学してきた。藤真と花形は県内、永野は県外からだが、全員実家からは通いきれない距離なので寮に入っている。ほぼ毎年100人近い部員を抱えるバスケット名門校の翔陽は、バスケットのために親元を離れて入学してくる生徒が少なくない。

「まあいいよもう。球技大会が終わればもう用はない。文化祭だって行かなければいい」
「お前、今はそれでいいだろうけど後で後悔しねえか?」

永野は呆れてへらへらと笑った。だが、藤真は不貞腐れた顔のままコートに立つ。アナソフィアから帰る道すがら、ひだまり生徒会とすっかり仲良くなった先輩たちがニヤニヤしている横で、藤真はの顔が脳裏から離れていかなくて苛々し続けた。の笑顔が苛ついて苛ついて仕方なかった。

彼女の顔を見ていると、中学3年生の時に付き合っていた女の子のことを思い出す。今思い出しても首筋がぞわぞわするほど腹が立つ。彼女と付き合ったことが原因で部活にも影響が出て、県大会では納得のいく試合が出来ないまま終わった。

人のせいにはしたくないが、それでも、付き合ってもいいと頷いたことを後悔し続けている。

「ムカつくって、どんな子だったんだよ」
「藤真のことだから、見た目でどうのってのはないだろうけど」
「もういいだろ、そんなこと。時間もったいないから始めようぜ」
「いや、だって一志と高野来てねえし」

藤真はボールを地面にバウンドさせながらため息をついた。確かに誘った仲間は揃っていないし、花形と永野はニヤニヤしているし、腹が立つよりげんなりしてきた。あんな女のことは早く忘れたいのに、思い出させるようなことをしないで欲しい。

「どんなって……なんか人当たりよさそうな顔装って中身が黒いって言うか……
「顔は?」
「顔は、まあきれいな顔してたけど、可愛くない。性格悪い。人のこと利用しやがって」

つい今日のことを思い出しながら正直なところを漏らした藤真は、我に返って顔を上げて頬を引きつらせた。

「なんだよその顔。何ニヤニヤしてんだ」
「いやいやいやいや、お前それ同属嫌悪ってやつじゃないのか」

花形は肩を震わせながらぼそぼそ言う。永野も顔を背けてプルプルと震えている。

「オレが中身黒くて性格悪いって言うのかよ」
「いやそうは言ってないけど、顔が良くて人当たりいいんだけど中身が意外とってのがな」
「失敬な」
「可愛い子ならそういうところがあってもいいじゃないか」
「じゃあ球技大会で声でもかければいいだろ。教えてやるよ」

ゆっくりドリブルしながら歩いた藤真は、そう言うとボールを静かに放り投げた。ボールはきれいな弧を描いて飛んでいったが、リングに当たって弾かれてしまった。舌打ちをしてボールを拾いに行った藤真に聞こえないように、花形と永野は笑いを堪えていた。

「文句言ってるけど、可愛い子だったんだろうな」
「藤真があんなに引き摺るのは珍しいもんな」
「いやあ球技大会は見ものだな、こりゃ」

まだ不貞腐れた顔をしている藤真の後姿を眺めながら、花形と永野はまたにやりと唇を歪めた。

「もうやだ。ほんともうやだ」
「まだ2日目じゃないか。練習あと1日あるだろ」
「こんなの絶対廃止にするべきだ。みんなモチベ低いし、絶対悪影響しかない」

球技大会のためにバレーボールの練習に出ていた藤真は、部室でしゃがみ込んでぐずぐず言っている。それを隣で一緒にしゃがみ込みながら聞いてあげているのは、有料コート仲間の長谷川である。

「偉いな一志、そんなのに付き合ってると疲れるぞ」
「そんなのって花形あのなあ」
「季節ごとに1回やってくるネガ藤真なんだよ」
「はあ?」

藤真は頭上から降ってくる花形の声に反論することもなく、まだぶつぶつ言っている。花形は手早く着替えつつ、楽しそうに目を細めた。藤真はコートの中では優秀な選手だけれど、それを離れてしまうと意外といじられキャラである。まだチームメイトになって1ヶ月ヶ月ちょいというところだが、寮生活も相まって親密になるのは早い。

「GWにさ、藤真のお袋さんに飯ご馳走になったんだけど、その時に聞いたんだ。春夏秋冬1シーズンごとに1回くらいの割合で、手がつけられないほど落ち込む習性があるらしいんだ、こいつ」

花形の言葉に長谷川は藤真の頭を凝視する。いつも快活な藤真が落ち込む習性持ちとは。

「お袋さんによれば、だいたい3日くらいでケロッと治るらしいんだけど」
「これもそれなのか? アナソフィアの球技大会のせいじゃなくて?」
「スイッチが必要らしいから、今回のネガ藤真は球技大会で出現ということだろ」

着替え終わった花形は、藤真と長谷川の荷物を拾いあげて投げた。今日も有料コートに行く予定だ。

「落ち込んでてもバスケだけはできるらしい」
「まあそれはよくわかる」
「藤真、グズグズしてると置いていくぞ。腹減ったし、なんか食ってから行こうぜ」

有料コート仲間はコートの近くにある喫茶店の安い定食が好物なのである。ネガ期である藤真も、バスケに定食なら少し気持ちが上がる。まだ不貞腐れた顔をしていたが、大人しく花形と長谷川の後に着いて歩き出した。

「少し上がってきたか?」
「いや、落ちてる自覚もねーよ」

まだ藤真の表情は冴えない。それでもバスケットをするのには一切の影響がないところがすごい。少し息の上がっている花形に問われると、藤真はつまらなそうに手を振った。ネガ藤真は確かに季節ごとに出現するらしいのだが、本人にはそれという自覚がないことも花形は聞かされている。

時間はそろそろ22時になろうかというところだ。寮組はこの有料コートがある駅が最寄り駅なのでそれほど時間を気にしなくてもいいのだが、長谷川は自宅通いなのでそろそろタイムリミットである。なので、だいたいいつも22時あたりで切り上げる。

「明日も部活出られないのか」
「高野、オレの代わりにアナソフィア行ってくれよ」
「アナソフィア行きは引き受けてやりたいけど、お前の代わりは無理だ」

コートのフェンスに沿って設えられているベンチでクールダウンしつつ、藤真はまたぐずぐず言い出した。球技大会のための練習はあと1日。そこから数日挟んで球技大会に出れば役目は終わるのだが、今がつらい。

そんなぐずる藤真を囲みながらジュースなど飲んでいた5人の後ろで、何やら不穏な声が聞こえてきた。その声にフェンスに寄りかかっていた花形と高野が首を捻り、声のした方に目をやった。どうやら不穏な声を上げたのは酔っ払った男性であるようだ。

「もう新歓の季節も終わったってのに、ああいうの、減らねえな」
「花形、本当に酔っ払い嫌いだよな」
「酔っ払いが好きな人なんていないだろ。あーあ、可哀想に、女の子絡まれてる」

汚いものでも見るような目つきで花形はフェンスの向こうを見ている。その声に長谷川と永野も顔を上げた。だが、藤真だけはコートの方を見たまま、振り返りもしないでペットボトルを傾けている。

「こんな時間にこんなところウロウロしてる女もおかしいだろ。自業自得だ」
「いやバイトとか予備校とか色々あるだろ」
……なあおい、あれいいのかほっといて」

フェンスの向こうを見ていた高野に袖を引かれた花形が顔を戻すと、数人の酔っ払いに絡まれた女の子が腕を掴まれている。その戒めから逃れようとしているようだが、囲まれてしまっていて、しかも誰も助けに入ろうとはしていない。少し危険な状態にも見える。しゃがんでいた永野も立ち上がってフェンスに手をかけた。

「交番ってどこだっけ?」
「110番じゃダメなのか」
「交番行った方が早いだろ」
「あのなあ、余計なことに関わらない方が――

誰も女の子の窮地に手を差し伸べないようなので、花形たちは焦り始めた。それを諌めようとして振り返った藤真は、フェンスの向こうの景色を見て言葉を切った。そして、静かに立ち上がるとくるりと振り返って走り出した。

「藤真!? どうしたよ、おい!」
「え、あいつどうしたんだ」
「いやわかんねえ、ってあいつ助けに入るつもりか?」

4人は思わず顔を見合わせ、そして藤真の後を追いかけて走り出した。