ステイルメイト

14

キッチンで息も荒くキスしていたふたりだったが、そんな甘い時間は無残にもチャイムで破られた。ふたりともすっかり忘れていたけれど、花形先生である。

「藤真、具合どうだ。も悪かったな、急に」
「なんかだいぶ良さそうだよ。ね、ねえ藤真」
「ああ、まーな」

せっかく過去から解き放たれての唇に気持ちよく溺れていたというのに。藤真はまた不貞腐れた。しかし花形も部活終わりのまま駆けつけてくれたのは想像に難くなくて、藤真は生乾きの髪をがしがしと拭きながらベッドにころりと横になった。

その様子を黙って見ていた花形はがしきりとスカートの裾を払っているのに気付くと、吹き出してしまいそうになって慌てて口元を擦った。時間はたっぷりあったはずなのに、何やってたんだ藤真と突っ込みたくて仕方なかった。

「風邪ってわけでもなさそうだね。私の頭痛薬で少し楽になったみたいだし」
「まあ、季節の変わり目だしな」
「花形にも言っとこうかな、これ、藤真のご飯」

はきっと藤真はあまり真面目に聞いていなかっただろうからと花形に雑炊の説明をした。まただるくなってくるかもしれないし、そうしたら花形が用意してくれればいい。しかしその花形も昼に慌てて少し食べただけで、腹を空かせていた。

「へえ、うまそうだなあ。藤真、1個くれ」
「ふざけんな! 自分で買って来い!」

可愛いが自分のために作ってくれたのだ。それはもちろん許しがたいだろう。

「な、なんか作ろうか、ええと、オムライスとかなら」
「マジか! 食べる食べる!」

藤真用に炊いたご飯と雑炊用の卵が残っている。花形は大喜びしたが、藤真は面白くない。

、オムライス、オレも食べる」
「えっ、藤真はやめといた方がいいよ。昨日まで吐き気してたんでしょ」
「もうしてないって」
「だめだめ、明日の昼の分まで雑炊あるから、藤真はそれ」
「平気だって」
「だめったらだめ」

体を起こして食い下がる藤真をはベッドに押し付けて、ベランダから取ってきた肌掛けをばさりとかけた。

「プリンがあるから、あとでそれ食べなよ」
「オレは子供か!」
「プリンに大人も子供もないわ! 薬効いてるだけなんだから大人しくしてなよ!」

じたばた暴れつつも、藤真がの手を掴んでいるのを花形は見逃さなかった。体調を崩した藤真は不運だったろうが、これも夏祭りのゲリラ豪雨と同じだ。がオレを見つけてくれてラッキーだったなあ、藤真。

まったく面白くない藤真の目の前で、花形はに作ってもらったオムライスをかきこんだ。よほど腹が減っていたのか、先ほどの藤真のようにあっという間に平らげた。も花形がお礼だと言って買ってきてくれたアイスを食べていた。一口くれとか言えばいいのにと花形は思うが、藤真は黙って横になっている。

「それにしても、藤真自炊そんなにしてなさそうなのにずいぶんキッチン広い部屋にしたんだね」
「普段は藤真のお袋さんが来てるからな」
「あっ、そーか! ってあれ?」
「まあ、頼りたくなかったんだろ」
「何勝手に解説してんだ。大したことないと思ったから連絡しなかっただけだ」

具合が悪いなら親に来てもらった方がよかったのは事実だろう。ちゃんと診察を受けて食事の管理もしてもらえば、その方が治るのも早いはずだ。だけど、夏の怪我以来藤真が家族と少し距離を置きたがっていることを花形は知っている。トラブルはない。ただそういう心境だというだけだ。

「てかは本当に何でもできるんだな」
「いやオムライスは調理実習、雑炊は家伝統の療養食、母の味」
「他には作れないのか」
「てこともないけど、リクエストに応えられるほどじゃないよ。そんな期待した目で見ないで」

花形の空腹が満たされたところで、は帰ると言い出した。まだ明るいからひとりでいいと言って帰り支度を始める。これには藤真も花形も何と言ったらいいものか迷った。本日は制服なので、できれば送って帰りたいところだ。だが、藤真が送るのはおかしいだろうし、花形が送るのでは藤真が面白くないだろう。

仕方なくそのままを送り出したふたりは、途端に静かになった部屋で同時にため息をついた。

「なんでお前がため息ついてんだよ。飯まで作らせておいて」
……腹減ってたから助かったよ。いいよなー、彼女が飯作ってくれるとかって」

わざとらしくそう言う花形の背中を藤真はベッドの上から蹴った。

「何だよいてーな。オレにあたるくらいならちゃんと好きだって言えよ」
「何でそんなこと。別にオレは――
「そうなのか? 何だよ、じゃあオレ追いかけて付き合ってくれって言ってこよう」

冗談めかして言う花形だったが、目つきは真剣だったし、本当に立ち上がって荷物を手に取った。普段からと藤真のことになるとよくニヤニヤしては冗談を言う花形が妙に真面目な顔をしていたので、藤真は思わずがばりと起き上がって彼のジャージを掴んだ。

「何だよ。……いらないんならくれよ」
「欲しいのかよ」
「お前がいらないならな。いい子だし可愛いし、付き合ったら楽しそうじゃん」

藤真は花形のジャージを掴んだまま唇を固く引き結んでいる。いくら花形でも、を欲しいとか欲しくないとか、そんなことは言いたくない。言えない。だけど、信頼している仲間であってもを奪われるのだと思うと、どうしてもこの手を離すことが出来ない。

しばらくの沈黙の後、花形はまたため息をついて荷物を降ろし、元いた場所に戻った。

……悪かったよ。そこまで本気じゃない」
「そこまでって――
「付き合ったら楽しそうだし、いらないなら欲しいのは本当。でも、じゃなきゃだめってことはない」

ジャージを掴む藤真の手を引き剥がし、ぽいと放り出した花形は鼻で嘲笑う。

「でも、お前はじゃなきゃだめだろ」

藤真は返事をしない。

もお前じゃなきゃだめなんだよ」

秋のデスレースでが忙しくしている頃、冬の選抜の予選までは少し時間のある藤真たちはあまり変化のない時期を過ごしていた。相変わらず監督が見つからず、このまま冬に3年生が全員引退したらスライド式に藤真ひとりが「監督班」を引き継ぐことになり、これでは藤真が監督になってしまう。

ただそれでも翔陽バスケット部は問題ないような気がしていた。引退してしまう3年生はともかく、2年1年はそれでいいんじゃないかと思い始めていた。学校の成績では花形に劣るが、ことバスケットになると藤真の頭は異様な速度で回転し始めるし、人望もある。彼ひとりがトップに立っても部はちゃんと纏まるはずだ。

一方、ただでさえデスレースで忙しいというのに、緒方がモデルにスカウトされたとか、岡崎が親と進路でモメての家に転がり込んでいるとか、アナソフィアの方は落ち着かない。たまに有料コート辺りで顔を合わせると、ファストフードに移動して喋ったりはするが、周りが期待するほどと藤真の距離は変わらなかった。

ただ、体調不良の一件以来、藤真はどうかするとに会いたいという思いが急に強くなって、抑えられなくなることが度々あった。おそらく、それを正直にに伝えていたら、は嫌だとは言わなかっただろう。デスレースで忙しくても、時間を作ってくれて、ふたりきりで会ってくれたに違いない。

しかし、藤真はその思いを飲み込み続けた。に会いたい、の声が聞きたい、に触れたい。だけどそれはが「好き」だからなんじゃなくて、ただどうしようもなくそう思ってしまうだけだと――

ひとりになるとついそんなことで悶々としてしまう藤真だったが、結局とふたりきりになることはないまま、アナソフィアの文化祭になだれ込んだ。今年も緒方の舞台を見て、アナソフィア女子の襲撃をかいくぐり、キャンプファイアのお手伝いが終わったところで講堂に逃げる。去年と全く同じだった。

「君らは本当に偉いね」
「よう、博士」
「博士言うな! 食うぞ!」

毎年2本立てのアナソフィア演劇部だが、今年は50分の舞台を1本上演した。しかも「羊たちの沈黙」である。緒方は食人紳士レクター博士を演じきり、若干ファンを減らしたところだ。目立つ後輩が面白くない生徒会が規制緩和撤廃を画策しているという状況が長く続いたため、部長就任間近の緒方が断行した演目だ。

「緒方お前怖えーよ、なんなんだアレ」
「褒め言葉としてもらっておくわ。おかげさまで今年は静かに過ごせてる」
「規制緩和の件、どうなったよ。岡崎ちゃんこの後だろ」

緒方は珍しく弱々しい笑顔を見せて、心配そうに聞いてきた高野の背中をポンと叩いた。

「一応解除はされてないんだし、勝手にやることにしたよ。どっちみち今期生徒会は今日で終わりだから」
「ペナルティとかないのか。アナソフィアはそういうところ厳しいだろ」
……あのさ、これ、ここだけの話にしてね。本人にも内緒」

緒方は一歩足を進めると、5人を手招いた。あと数ミリで身長が170センチに到達する緒方だが、この5人の中に入ると小柄な女の子に見える。5人も何事かと背中を屈めた。

「今日の後夜祭、ダンス部のステージはがひとりで企画したことになってる」
「は?」
「部活に入ってないから、ペナルティの課しようがないんだ」
「だけど部活関係なくってことなら……
「それは、賭け」

また背筋を伸ばした緒方は、無理をして笑顔を作っているように見えた。

「実際、校則違反ってわけじゃないんだけど、生徒会の私怨に学校側が乗っかればそれまでだね」
「いいのかよ、そんな――
「もちろん私たちだって反対したし、ダンス部もそれならやらないって思ってた」

それは当然だろう。たかだか文化祭の余興で学生生活に傷をつけることもない。緒方と岡崎はじめ主な文化部の2年生はをそう説得したけれど、はあのバカ生徒会に屈するのは嫌だと言い張った。

「そんな青臭いこと言うなって怒ったんだけどね。ほら、私怨は私怨でも色恋絡みでしょ」
「なにそれ」
「あれ、聞いてない? 私たちあんたら通してそっちの3年生にステマしろって言われてたんだよ」

夏祭りでが懸念したことがそのまま顕在化してきた。そんなことを持ちかれられても、相手はに緒方に岡崎である。請け負うわけがない。交渉は一発で決裂した。生徒会からの風当たりが強まったのはそれからなのだという。

「それがどうしても許せなかったみたいでさ」
「だからって、がそこまでする必要はないだろ」
「そうなんだよねえ。だけどさあ――

緒方はふうと息を吐き、腰に手をあてて困った顔で微笑んだ。なるほど確かにモデルにスカウトされるのも頷けるルックスで、5人は「これでゴリマッチョ趣味でなかったら」と思わずにいられない。一度翔陽の重量級を教えたら「細い」と言われたので、5人はもうそれには触れまいと決めている。

ってさ、顔可愛いし頭いいし割と何でも出来ちゃうし、おまけに基本的には誰にでも好かれる作り物みたいな子でしょ。だから人が寄ってくる。あの子のハイスペックな能力がいいって、顔がいいって、まるでブランド物を欲しがるみたいにして、みんなを欲しがる。それは男でも女でも同じで」

緒方が何を言いたいのかわからなくなってきた5人はこの状況に既視感を覚えた。確か去年もこんなような話を薄暗い講堂の前でしていた気がする。

「そんなだから、あの子をスペック関係なく好きになる人って本当に少なくて。ちなみに私と岡崎ちゃんはその数少ない中のふたりなんだけどさ、つまり、あの子はアナソフィアで顔が可愛いからっていう理由でしか愛されない子なのね。同じアナソフィアの中ですら、そういう傾向はあるの」

藤真を除いた4人はどこかの誰かみたいな話だなと思い始めていた。

「緒方、言い訳したいわけじゃないけど、オレたちそんな風に思ってないよ」
「ありがとね一志、わかってるよ。だからみんなと夏祭り行きたいんだよ」

話がずれたらしく、緒方は咳払いを挟む。

「それでさ、この間どうにも我慢ならなくて問い詰めたんだよね。なんでそこまでするんだ、体制に逆らって文化祭で青春なんてバカバカしいことやるような理由はなんだ、って。そしたらさあ、あのバカ、『この間生まれて初めて人に必要としてもらった』って言うんだよ」

その言葉に藤真は思わずぎくりと肩を震わせた。

「それがあんまり嬉しかったから、力になりたいんだって言うんだよ。バカでしょ。岡崎ちゃん泣くしさ」

ざわつき始めた講堂を振り返った緒方はまた小さくため息をついた。

「重い話してごめん。なんか去年もの話してた気がするね」
「いいよ、なんかの行動原理がわかった気がする」
「それにだいたいあの子は台風の目なんだよね。本人は静かにしてても周りは常に暴風雨」

緒方も含め、全員笑った。はそういう人間なのだ。

「みんながまた来てくれれば、きっと来年もここでの話するんだろうと思う」
「それでまた岡崎ちゃんとのステージを見るんだな」
「そう願うよ。今日はそんなわけでも出ずっぱりだから、見届けてやって」

雰囲気に呑まれた感は否めないが、5人は大きく頷いた。たかが部活、されど部活、いつも応援される側の自分たちにはできることなど何もないけれど、暗い客席でそれを見届け記憶しておくことは出来る。そしていつか今日のことを話せる日もあるだろう。粛々とした気持ちで講堂に入った5人はまた壁際でステージが始まるのを待った。

何も学校を敵に回したいわけではないので、が規制緩和撤廃運動に対して対抗すると言っても、それは昨年と同じような演目をやるというだけの話。ただそれはまたが注目を浴びるということであり、現生徒会にとって面白くない展開だからやるのだ。

だから衣装はまたとっても可愛いし、少しだけならセクシーだし、だけどダンス部とまったく同じようには踊れないので、基本的には歌う。これには合唱部が手を貸してくれて、今年はダンス部と合唱部が企画でコラボという体裁になってきた。

出番を待つの耳元に、もう遠く掠れた藤真の低い声が蘇る。

だから――

それと同じだ。岡崎だから、緒方だから、ただそれだけだから。

生徒会に遠慮して無難な演目が続いているが、予定出演のトリであるダンス部はやりたいことをやる。可愛い衣装を着てちょっとだけならセクシーな振り付けも厭わない。化粧をして派手な色のウィッグを付けて恋の歌を歌い、客席の翔陽くんたちに笑顔を振りまいた。

何も知らない翔陽くんたちは盛り上がるし、ことの次第を知るアナソフィア女子たちも、たちを応援したくて手を振り声を上げる。は、おそらく藤真たちがこの講堂のどこかにいるだろうとは思っていた。それは少し恥ずかしい。翔陽くんたちに向かって笑顔で踊ってるところなど見られたくない。

でも、もういい。

好きだとは言ってもらえなかったし、もしかしたら本当に好きとは思ってもらっていないかもしれない。それでも藤真は「だから」だと言った。それだけでもう何もいらないと、あの時そう思った。都合よくヤらせてくれる女だと思われていたのだとしても、腹が立たないような気さえした。

だから、可愛い衣装を着て歌う可愛い恋の歌はあなたにあげる。

はこの日、そんな思いで歌い続けた。