ステイルメイト

21

「あいつら、ちゃんと来るかな」
「何も連絡ないからなあ」
「来なかったらひとりにつき3マッチョ紹介のノルマだな」

3月、アナソフィア。緒方も無事に受験をクリアして、卒業式である。3人が散々踏み荒らした講堂で涙の卒業式が終わると、アナソフィア卒業生たちはすぐにカチリと「花迎え」にスイッチが切り替わる。

「一応連絡しといたんだけどね、今年はいつもより人が少ないから恥ずかしくないよって」

岡崎が翔陽5人へそう連絡をしたのは3月に入ってすぐのことだ。がちょっとどうかと思っていた、卒業生全員を強制的に正門から帰らせるという伝統が撤廃されたのだ。申し立ての建前はナンパが危険だという訴えとした。これには学校も頷かざるを得ず、正門は花迎え予定がないなら立ち寄らなくてよくなった。

「あいつらもそうだけど、告白したい翔陽くんにちゃんと伝わってるといいね」
「『花告げ』のつもりで来たら目当ての子がいませんじゃ悲惨だわな」

既にカップルが成立している場合は「花迎え」だが、翔陽くんから告白することは「花告げ」と呼ばれる。残念ながら成功率は低い上に衆人環視の中での告白となるので、毎年それほど多くはない。それよりは「記念に花告げ」だとか「ダメ元とネタで花告げ」なんていうケースの方が多い。される方もいい迷惑だ。

帰り支度を済ませ、保護者と別れたたちは卒業証書を片手に正門へと向かう。

自分の置かれている立場を弁えている正門付近の古い大寒桜は今年も満開である。そして満開になったばかりでも、風が吹けばちらちらと花弁を散らしてくれる。桜のアーチの下をアナソフィア女子たちは足早に正門へと向かう。そこには正門前を埋め尽くす翔陽男子諸君の群れが待ち構えていた。

「うーん、見えないなあ。来てないのかな」
「というかあの今にも入って来そうなのはサッカー部か」

未だに正規の監督が見つからないサッカー部はだらけたままで、正門から溢れ出して来るアナソフィア女子を漏らさず捕まえようとしているようだ。その壁に阻まれて5人の姿は見つけられなかった。190センチオーバーが4人もいるのだから来ているならすぐに見つけられそうなものだが……

、他のやつらはともかく、藤真来るといいね」
…………うん」
「うわ、とうとう素直になっちゃったよ」

少しからかうつもりで言った岡崎は、恥ずかしそうに頷くの肩を抱いて一緒に照れた。

「ごめん、そりゃそうだよね、あのバカ、もういい加減腹括れって」
「こんな時くらい男になれってんだよね」
「でも期待はしてない。ひとりでなんて絶対に来ないもん」

既に大混雑の正門を3人が出ると、ひときわざわめきが高くなる。それでも3人まとまってしまうと近寄りがたさが先に立って、突撃しようという勇気ある翔陽男子殿は現れない。緒方を先頭にその中をすり抜けた3人は正門の壁際に陣取ると、きょろきょろとあたりを見回す。5人は見つけられない。

「まさか本当に来ないつもりじゃないだろうなあ」
「部活の方で集まってるんだったりして」
「そんなの許さないぞ、だいたいこんなことしてたら――
さん、久しぶり!」
「ほら見ろ言わんこっちゃない」

突然の前に軽音楽部元部長の西村が現れたので、岡崎は点と線で出来たような顔になり、緒方は肩でため息をついた。だが、西村の方はちょっかいをかけに来たわけではないらしい。藤真さえいなければトップ・オブ・翔陽であっただろう綺麗な顔で微笑むと、西村は親指を立てて駅の方を指した。

「岡崎さん、そんな顔しないでよ。藤真たち、ちゃんと来るから」
「えっ、そうなの」
「藤真がずいぶんとグズってたけど、もらっちゃうよーって何人にも言われてたし、駅で見たから」

それを報告すると律儀な西村は文化祭の礼を言うと、に握手を求め、がそれに応えると満足したらしく、去っていった。だが、3人ともそれどころではない。グズってたのは気に入らないが、ちゃんと来るらしい。岡崎と緒方は途端に頬が緩みだす。

ごった返す正門で、駅の方面に頭ひとつ半くらい飛び出た集団を見つけたのは、それから数分後のことだった。

「あっ、来たあ! おーい、ここー!」
「一志ーここー!」

一番先頭にいた長谷川が緒方の声に気付くと、途端に速度が遅くなる。まだ藤真がグズっているとしか考えられない緒方が苛つくが、基本的にはアナソフィアでも翔陽でもと藤真の噂は知られたところである。藤真が来たならもう3人にちょっかいはかけられない。5人と3人の間に道が出来る。

「偉い偉い、みんなちゃんと来てくれたんだね!」
「若干1名往生際が悪いのがいるけど、お迎えに上がりました姫様方」
「待ってたよー!」

花迎えとしては珍しいケースになるだろうが、3年間仲良くしてきた友人が来てくれただけでも嬉しい。そしてもう離れ離れになるのだと思うと寂しい。先頭に進み出て恭しくお辞儀をした花形に、3人は飛びついた。3年間の感謝を込めたハグだ。花形も3人まとめて腕に抱えた。身長差のせいで若干パパと娘に見える。

そうして、長谷川、高野、永野と順番に抱きついていき、4人が一歩ずつ下がっていくと、一番後ろで苦虫を噛み潰したような顔をしている藤真が現れた。卒業証書を手に腕を組んでいるが、不機嫌そうな割にはちゃんと右手首にブレスレットがある。

「藤真、3年間ありがと」
「え。あ、ああ、こっちこそありがとう」

所在ない様子の藤真の前に進み出て両腕を広げたのは岡崎。藤真がどうしたものかと戸惑っているので、岡崎は乱暴に胸倉を掴んで引き寄せてハグすると、すぐに離れた。それを見て今度は緒方がずかずかと進み出る。

「監督、お疲れ。ありがとう」
「ああ、お疲れ。ありがとう」
……頼むからもう泣かせないでよ。あんたのこと、信頼してるからね」

そう言うと緒方は涙を零して藤真を抱き寄せ、バチンバチン音を立てて背中を叩いた。そして離れると振り返り、近くにいた永野に縋って泣き出した。さて、こんな展開になってしまって冷や汗をかく思いなのはと藤真である。この流れをどう始末したらいいのかわからない。

だが、そこに空気を読まないサッカー部が乱入してきたり、藤真が来ていることを聞きつけた在校生が紛れ込んできたりして、と藤真の花迎えの結末はうやむやのまま宙に浮いてしまった。緒方や花形がと藤真を庇って、ふたりは正門の壁際に追い立てられた。

騒ぎが収まるまではとりあえず静かにしているしかない。こちらも若干苛つきはじめている岡崎は、面白くなさそうにため息をついた。これではいつまでたってもと藤真の決着が付かない。しかし焦ってもどうにもならないので、岡崎は横にいた花形の袖を引いてぼそりと言う。

「ていうか、一志はあれだけど、3人、ずっと彼女いなくて残念だったね。バスケ部、モテそうなのに」
……いや、いたけど」
「はあああ!?」

岡崎と緒方にまでも悲鳴を上げた。どういうことだ。じゃあなんで夏祭りやクリスマスをこの8人で過ごしていたのだ。どこに女の影があったというのだ。こんなところで花迎えなんかしてる場合じゃないんじゃないのか。

「途中オレも高野もいたよ」
「仰る通りバスケ部なので困りませんでした」
「だけど困らない分適当になっちゃったわけだな。今はいないよ」
「あんたら……

岡崎がまた点と線顔になっている。

「それにこの面子の方が気楽で楽しかったからな。去年の予選の時は岡崎ちゃんありがとう」
「ちなみにあの時の岡崎ちゃんの後輩と2ヶ月くらい付き合ってました」
「高野貴様あ!」
「いやいや、振られたのこっちだぜ」
……てか岡崎ちゃんなんでそんなに怒ってんだ」

花形の呆れた声で、途端に岡崎に視線が集中する。

「そんな期待の篭った目で見られても私はブレてないぞ! こっちが言い出したんだからね!」
「だから何をだよ。何言ったんだ高野」
「30くらいになってまだ岡崎ちゃんがいいオッサン見つけられなかったら付き合ってくれって言った」

また悲鳴。

「30でも若いんだろうけど、そこはもう妥協しようぜって言ったんだよ」
「だからそれを言われたのが夏休みの終わりくらいで、今言ってた子と別れた直後ってことになるじゃんか!」
「そりゃまあ、その子とうまくいかなかったし、ずっと考えてたことだから」
「何いい話っぽくまとめようとしてんだ!」
……そこまで話が出てんならもう付き合えばよかったじゃねえか」

花形の言うことももっともだ。だが、当の岡崎と高野はことも無げに手をパタパタと振る。

「いや、ないない。オレも向こうでいい子いないか探すし」
「私も別にその話受けたわけじゃないし、高野が好きなわけじゃないし」
「お前らある意味藤真たちよりタチ悪ィな」
「オレを引き合いに出すな」

あまりの展開に自分たちのことなどすっかり忘れていた藤真がつい反論した。だが、全員と藤真の件を忘れたわけではないのだ。3年間、ことに関してはすぐに荒れる藤真に付き合い、こちらもこちらで素直になどならないも併せてずっと見守ってきた6人である。もう手加減しない。

「そうやってすぐ尖がるけどな、お前、もういい加減けじめつけろよ」
「そうだよ。アナソフィアと翔陽だからこれで済んでるんだよ。今度は共学なんだからね」
「てか、まだ突っ撥ねるなら今度こそ邪魔するけど、それでもいいんだな」

花形と岡崎に詰め寄られた藤真は歯を食いしばっている。その隣にいる真顔のは、これまた始めて聞く花形の言葉に目を丸くした。それに気付いた花形は藤真を押しのけての前に進み出た。

、オレは泣かせたりしないよ。どうよ」
――そうだね」
「え、ちょ、?」
「見て緒方、さっき西村くんにもらったの。新居の場所とか、連絡先」

割と真剣な目をして言う花形に返事をしたは、焦る緒方に折りたたんだメモを広げて見せる。ドラマーである彼は春からプロに付くローディになることが決まっている。要は音楽業界に就職ということだ。当然住居は東京に構えることになる。に手渡したのはその住所や連絡先を書いた紙だった。

「待ってる、って言ってくれたの」
「いや、だけど、――
「花形もこう言ってくれてるし、なんか無下にするのも……ねぇ」
、オレも一応手、挙げとくよ」
「ありがと永野」

淡々とした声と表情で、は両手を掲げ、花形と永野の手を取った。花形と永野もゆっくりとその手を握り返し、そっと揺らした。もう言葉にしなくても伝わるたくさんの思いを込めて、も揺らし返す。その繋いだ両手が叩き落されたのはその直後のことだった。藤真だった。

「ふたりともやめとけよ」
「藤真、あのさあ――
「お前もちょっかい出してんじゃねえ」
「また私が悪いみたいな言い方して、私が誰と仲良くしたって、そんなの自由でしょ」

呆れた表情で静かに反論したの手を、藤真は乱暴に掴み、そして叫んだ。

「オレ以外の男に触るな! お前なんかオレで充分なんだよ!!!」

花形たちのみならず、この面倒くさい8人の周囲にいた卒業生たちもその声に驚いて息を呑んだ。なんだかずいぶんと長い間はっきりしない噂のふたりだったけれど、とうとう藤真の方が陥落したのか、いやそもそもどういう関係だったのか。辺りが急に音を失い、ただ風に踊る花弁だけが舞っている。

「お前なんかって何よ! 別に私のことなんか好きじゃないんでしょ、関係な――
「ふざけんな、好きに決まってるだろうが!!」

岡崎が思わず口元を手で覆い、悲鳴を飲み込んだ。緒方も片手で口を押さえる。そのふたりの肩を、花形、長谷川、高野、永野はそっと支えてやる。あまりに長い時間をかけてふたりを見守ってきた。それがいつかのような喧嘩腰の中で、扉が開く。腕を掴まれたは、呆然としている。

先に我に返ったのは、藤真。一瞬で顔から耳から真っ赤になると、掴んだの手を引いて走り出した。

正門前の混乱の中に、道が開けていく。もう恥ずかしくて顔も上げられない藤真に引き摺られて行くが通り過ぎると、アナソフィア女子たちからの名を呼ぶ声が上がった。いつかの規制緩和の恩恵を受けた元文化部員たちだ。、ありがとう、、よかったね、、またね。

、藤真と仲良くね――

駅の方向にふたりが消えてしまうと、正門前は大歓声に包まれた。

「花形、ありがとう、永野も、ありがとう、ねえもう、大丈夫だよね、も藤真も」
「大丈夫だよ。そういう岡崎ちゃんが号泣してんじゃんか」
「だって、だってさあ、やっと藤真が言ってくれたからあ」

緒方の方はもう言葉にならない。背中を擦ってくれる高野にしがみついて、口元を押さえたまま泣いている。

「さて、これで花迎えはご満足頂けましたかな、お姫様方」

また恭しく手を掲げてみる花形に、岡崎と緒方はようやく笑った。

「それじゃああいつらが戻るまで、遊びに行きますか」
「そろそろ昼か。じゃあまあ、夕方くらいまではふたりきりにさせといてやるか」

楽しそうな花形先生と永野がいつかのように顔を見合わせてにんまりと笑う。と藤真を欠いた6人は連れ立ってアナソフィアを離れた。藤真の携帯に、「18時まで待ってやる。ちゃんととふたりで戻って来いよ」とメッセージを送りながら――

の手を引いて正門を離れた藤真は、そのまま振り返りもせずに駅まで向かい、タイミングよくやってきた電車に飛び乗り、一言も口をきかないまま、もう少しで離れてしまう3年間だけの「地元駅」まで帰って来た。もただ手を引かれるまま何も言わず、ふたりは無言のまま藤真のアパートに帰り着いた。

春からは大学の寮に入る藤真だが、そのために実家に荷物を戻し、改めて引っ越す方が予算も時間もかかるというので、数日後の入寮日までこのアパートにとどまることになっている。同様の理由で花形と高野と永野もまだ翔陽の寮にいる。ただし、転居先が遠い高野は少し早めに出るという話だ。

ちなみにアナソフィア3人の方は、緒方がひとり暮らしを始めるというので、と岡崎がルームシェアを画策しているところだ。とりあえずは岡崎は自宅から毎日2時間半かけて通い、はヒュパティアの家に間借りすることになっている。どちらも長く続きそうにないので、できれば早めにルームシェアしたい。

の手を引いたまま藤真は鍵を開け、またを中に放り込むと、静かにドアを閉めて肩で大きくため息を付いた。もう誰もいない、誰も見ていない、聞いていない、だからもう恥ずかしくない。

「なんなんだよあの騒ぎは――お、おい

またいつものようにはぐらかして有耶無耶にしてしまいたかった藤真の目の前に立っていたは、目を真っ赤にしてぼたぼたと涙を零していた。両手で卒業証書を掴んだまま、唇を真一文字に結び、嗚咽を漏らさないように堪えている。

「なんだよどうしたよ、泣くことないだろ」

焦った藤真が部屋に上がると、は距離を保ったまま後退っていく。そうして奥の部屋に入り、テーブルにぶつかったところで止まった。ゆっくりと距離を縮めた藤真は、の左手にあるブレスレットに手を添える。

……しょうがないだろ、あんな大量の人がいるところで、花迎えだからって、その」
「やっと、やっと言ってくれた」
「え、何をだよ」

大粒の涙がいくつもの頬を伝い、もう今日限りのアナソフィアの制服に零れ落ちる。

「好きって、言ってくれた、初めて、初めて言ってくれたから」

また藤真の顔に赤みが差す。勢いとはいえ、確かに言った。

「そ、そんな泣くほどのことじゃないだろ、今更、そんな……お前だって言ったことないじゃないか」

また少し不貞腐れた顔をした藤真に、はゆるゆると頭を振って見せる。

「私も好きだもん。健司、好き。大好き。世界で一番好き」

息が止まり、お互いの姿以外のものはぼやけて霞んで、何も考えられない。いつか旧校舎の生徒会室で初めて出会った時のように、も藤真も、相手の存在以外にはもう何も感じられなくて、ふたつに分かたれた欠片が元に戻るように、ふたりは引き寄せられていく。

の体が藤真の腕の中に収まる。藤真の左目から、小さな涙が一しずく、ぽたりと零れ落ちた。