ステイルメイト

16

学校経由で都内にある某大学からスポーツ推薦を考えて欲しいと打診されたのは、期末テストを終えた後のことだった。関東一部リーグ常連校で、大学バスケットをする環境としては申し分ない。藤真はこれが通れば受験の心配もないし、3年の冬の選抜まで心置きなくバスケット出来ると思った。

だが、その直後に3年生の引退を迎え、自身が部長で主将で監督になったところで愕然とした。

オレはなんだか早々に推薦もらえそうだけど、こいつらは?

花形はセンターとして一定の評価があるようだし、それでなくとも成績はいいからさほど心配はないかもしれない。だけど一志は? 高野は? 永野は? こいつらだって県下有数のトッププレイヤーだ。それは監督として客観的な目で見てそう断言できる。だけど、ちゃんとバスケット出来る進路が、決まるのか?

3年の年に成績が残せなかったら、こいつらの将来ってどうなるんだ?

それは監督であるオレの責任なんじゃないのか?

県予選はもちろん、インターハイに行くだけじゃだめだ。そこで1回戦負けじゃ話にならない。いつだって優勝してやるという気概はあるけど、そんなもの口だけならいくらだって言える。実際に達成できなければ、だめだ。インターハイはもちろん、海南を引き摺り下ろして国体にも行く、冬の選抜も本戦に必ず出る。

怖い――――新体制に沸く部員たちを見ながら、藤真の心は音を立てて凍りついた。

自分がこいつらをうまく使ってやらなかったら、試合の勝敗どころか将来まで左右することになる。もっと上手くなって、誰がどんな優秀なプレイヤーになるかわからないのに、その芽を自分が摘み取ることにもなりかねない。どうしよう、監督なんて、ひとりで務まるんだろうか――

だが、そんな藤真の耳にの声が聞こえてきた。

歌声だった。後夜祭のステージ、必要とされたことが嬉しくて、その気持ちを抱えて岡崎の力になりたくて、ステージで笑顔を振りまいていたの歌声だった。厳格な校風のアナソフィアでギリギリの賭けをしてまで、は岡崎をサポートしたかった。岡崎だから。ただそれだけで。

こめかみの傷に、頬に、の手が触れたような気がした。

見た目とか成績とかそういうことは一切関係なく愛してくれる友のために、は戦った。大した騒ぎにもならずに済んだようだが、アナソフィアはその辺の高校とはわけが違う。相当な覚悟だったはずだ。それに比べて自分は――

凍りついた心に亀裂が入り、瓦解していく。

のように、なろう。そう決めた。

玄関にぺたりと座り込んでそれを思い出していた藤真は、手のひらの上で鈍く光るグリーンのブレスレットに唇を寄せて、小さな声で呻いた。手のひらの中の冷たい石は温まっていくのに、全身が寒くて寒くて、まるで刃物で切りつけられているみたいに痛むような気がした。

に会いたい、の声が聞きたい、に触れたい。

だけどオレはのようになるんだ。そんな風にを欲しがってばかりいられない。のように戦って、そして勝たなければいけないから。負けることは許されないのだから。

選手兼監督とは言うが、新3年生の2年生にとってはちょっと権限の多い主将といった感覚でしかなく、花形が呆れた通りに2年生から真っ先にだらけ始めた。だが、それに比例するように藤真監督は厳しくなっていく。監督がいた頃よりもキツいんじゃないかというほど、翔陽バスケット部は様変わりした。

昨年は何事も一旦4人で構成された「監督班」に預けられ審議されたのと違って、今年は藤真に一点集中している。指揮系統は藤真を頂点に真下に下りるだけ。何やら新体制移行後から人が変わったように厳しくなった藤真の元、翔陽はかつてない活気と熱気の渦に呑まれていった。

勢いの波に乗る、とでも言えばいいだろうか。藤真率いる翔陽バスケット部は名門強豪校として申し分ない活動内容に加え、そのトップが選手兼監督としてベンチに立つ姿は注目を集めた。しかも藤真は見栄えがするので、面白がって彼をちやほやする人間は増える一方だった。

その流れの中で190台が4人もいるという今年の翔陽の高さも人目を引き、それが高校トップレベルのプレイをしているということで対外的な評価は上がるばかり。特に5番を背負う花形は藤真がベンチにいる以上はチームの中心なので、にわかにスター選手じみてきた。

当然それに鼻が高くなったりはしないのだが、大人がいなくても自分たちだけで渡り合えているという刷り込みがじわじわと進行してきていた。藤真がいれば大丈夫。藤真がベンチにいたって大抵のチームには勝つし、藤真が入ればほぼ負けなしだったからだ。

クリスマス以降、5人ははおろか緒方とも岡崎とも一切の連絡を絶っていた。何も用がないというのが一番の理由なのだが、藤真の言う「海南に勝ってから言え」という一言が鈎針のように喉に刺さって抜けなかった。ただの気の合う友達なのに、それがアナソフィアの女の子というだけで、まるで堕落の象徴のように感じられた。

同じように厳しい部活動に励む緒方と岡崎はそれがよくわかる。藤真ほど厳格ではないけれど、何か他のこともやりながら出来るほど甘くはない。特に飽くなき練習がものを言うダンス部の岡崎はに同情を感じつつも、何も言えなかった。部長として似たようなことを日々口にしているからだ。

そんな中で、はすっかり静かになってしまい、いよいよ勢力を増す台風の真ん中で静寂を保っていた。アナソフィアも6年目であり、今やヒエラルキーの頂点にぽつんと乗せられているだが、自身のことはほとんど口にしなくなり、淡々と日々を送っていた。

そうして、アナソフィア球技大会でと藤真が知り合ってから丸2年が経った。

翔陽はインターハイ県予選が始まる。昨年の県予選を準優勝しているので、シードとしてBブロック最終戦からのスタートになる。ブロック内としては5戦目。それまでの4戦を勝ち抜いてきた相手と対戦する。

今年は急に強くなった元弱小校と対戦することになったけれど、翔陽にとってブロック戦などは景気付けの一杯のようなもので、藤真の頭の中は決勝リーグで対戦するであろう県内強豪校への対策でいっぱいになっていた。花形が対戦校の視察に行ったけれど、どうもムラがあって隙が多いという話だった。

それでももちろん手など抜かないし、楽に勝とうなど考えたこともないし、どうせならコテンパンにしてやって、決勝リーグへの弾みにしたかった。監督としてひとりでベンチに佇む藤真は幾度も試合そのものを飲み込み、時に手を下すまでもなく、時に自らの手で敵を平らげてきた。ブロック最終戦も、きっとそうなる。

そして因縁のライバルである海南を下し、今度こそ翔陽が神奈川ナンバーワンになる。

ベンチに入れない部員ですら、それを心の底から確信していた。藤真がいれば大丈夫、藤真がいるんだから負けない、藤真のいる翔陽はどこよりも強い。いわんやスタメンにおいてをや。藤真の豹変後しばらくは色々引きずっていた4人も、海南との頂上決戦に向けて集中していた。

だから、Bブロック最終戦で対戦相手の県立湘北高に敗北した時、翔陽はその形を失ってぼろぼろに崩れた。

真っ白できめ細かで、一分の隙もない藤真の世界に、ぽたりと一滴の赤い血が滴り落ちた。

それが湘北だった。何かおかしい、何か変だ、この対戦相手はいつもと様子が違う――そんな違和感を抱えたまま試合を続けながら、あくまで単独の監督としての経験が1年に満たない藤真は、翔陽以上に高い波に乗っていた湘北に成す術がなく、敗北した。

控え室で頭を抱えるスタメンに、この異常事態にどうしていいかわからない部員たちは何も言えない。インターハイどころの話ではない、決勝リーグすらもう手が届かない。昨年の冬に選抜の予選を2位で終えてから、ずっと決勝リーグとインターハイだけを目指して努力を重ねてきたのに。

そして部員たちの進路に関わるというあまりに重い責任を背負っていた藤真は、有料コート仲間の座るベンチの前にがっくりと跪き、目の前にいた長谷川の膝に手をかけて頭を下げた。彼らの将来にかかわるチャンスを潰してしまった、もう取り返しがつかないかもしれない。

「すまんみんな、オレのせいだ、オレが――
「なっ、何言って、藤真、おい、やめろ」

慢心なんかしてないはずだった。みんなずっとずっとキツい練習をこなしてきた。なのに負けた。個々の能力では湘北に劣るところなどない。むしろ毎回退場を出しているらしい湘北なんかより優れているはずだ。なのに負けた。ということは、監督の差だと藤真は思った。向こうは去年まで弱小だったのに監督は元全日本選手だという。

なんで去年まで1回戦負けの高校には元全日本の監督がいて、翔陽には誰もいないんだ。どうして自分がそれと同じ采配を振るえると思ったんだ。どうして今日までそのことに気付かなかったんだ。勝ってたから? それでもそういう結果は予想できたはずじゃないのか。元全日本と高校生じゃ経験の差が桁違いじゃないか。

「藤真、お前のせいじゃない。誰のせいでもないよ、お前にばかり重いもの背負わせたままで、ごめん」
「一志……
「去年、監督がいなくなった時から翔陽は少しずつずれ始めていたんだ」

膝を突いた藤真の向かいにぺたりと腰を下ろした長谷川が胡坐をかくと、控え室にいた部員たちも次々とそれに倣った。藤真を上から見下ろしているのが辛かったからだ。

「だけど去年の『監督班』、今年のお前、それが必死に支えててくれたから翔陽は強いままでいられたんだ」
「とうとう完全にずれて負けた……それが湘北だったのは、たまたま、ということだな、一志」

試合中にメガネが壊れて素顔を晒している花形が力なく笑う。目が真っ赤だ。

「そう。だから、負けたことはともかく、今の翔陽があるのはお前のおかげなんだよ」

また全員泣き出した。藤真がひとりで支えていた――それは事実だ。

「だけど藤真、まだ残ってる。冬が残ってるだろ、監督」
「ああ、そうだな。ずいぶん遠い話だけど、その分オレたちには時間があるな、有り余ってるな」
「今度はみんなで考えようぜ、今度はみんなで監督を支えるから」
「はは、そうだな、助けてくれよ。いちから出直そう、最初からやり直そう、新しく翔陽を作ろう」

泣きながら有料コート仲間は肩を叩き合った。

「間違ってたとは思わないけど、翔陽は変わるべきだな」
「そうだな、じゃあ手始めに監督から変わったらどうだ。時間あるんだし、にちゃんと会いに行けよ」
「ああ、そうだ――なって花形何言ってんだお前!?」

控え室にひしめく部員たちに思いっきり聞こえる声で花形がさらりと言った。思わず返事をしてしまった藤真は裏返った声を上げて慌てた。冷静に「誰だそれ」とでも返せれば誤魔化しようがあったが、もう遅い。サッと青くなる藤真だったが、意外にも控え室の空気は変わらない。部員たちは不思議そうな顔をしている。

「あー、アナソフィアの。えっ、会ってなかったのか藤真」
「え? 付き合ってんじゃなかったの?」
「何でそんなことになってんだ!!!!」
……何でって、向こうでもそういうことになってると思うけど」

せっかくいい感じに部内が纏まってきたと思ったら、監督公開処刑になっていた。しかも車座のど真ん中で藤真はひとり。どの方向を向いて慌てても、誰も助けてくれない。さらにアナソフィアでもそういうことになってるだと? 藤真は混乱のあまりうずくまって髪をかき回した。

「ほれ見ろ。ぼーっとしてると天下に号令かけるぞ、アナソフィアのは今彼氏いませんて」
「花形お前、はいい友達だとか言ってたじゃねえか!」
「だから言ってんだろうが。最初気まずいんなら一緒に行ってやるから」
「誰がそんなこと言ったー!」

少々やりすぎたか。真っ赤な顔をした藤真はやにわに立ち上がると、胡坐の中をかきわけて廊下に飛び出した。

「なんだよ、あの子と喧嘩でもしてたのか?」
……いや、部活に専念するために、遠ざけてたんだ。向こうにも可哀想なことしたよ」

プライベートなこととはいえ、藤真が払った犠牲に思いを馳せると、部員たちは神妙な顔で頷いた。

一方、控え室を飛び出した藤真は直後に顧問の先生と鉢合わせした。監督不在の翔陽バスケット部の引率を毎回してくれている先生だ。バスケットのことには口を挟まず事務的なことだけはきちんとこなし、金と口だけ出してくる学校側とのパイプになってくれる、バスケット部が唯一直接的に頼れる大人だった。

「どうだい、もうみんな落ち着いたかな」
「す、すみません、もう大丈夫です。お騒がせして申し訳ありません」
「それは謝ることではないでしょう。当たり前のことです。私も翔陽の教員として反省しているところです」

なんでだ? 藤真はきょとんとした顔で小柄な先生を見下ろしている。

「君には正直に言いましょう、去年の秋くらいから、バスケ部の監督探しはほとんどしていない状況なんです」
「え!?」
「去年の主将くんたちや君が頑張ったので、いらないような気になってしまっていたんでしょうね」

その件にも基本的にノータッチだったという先生は、試合後に対戦相手の湘北の監督に挨拶に行ってきたところだという。元全日本選手で、元大学バスケットの監督という経歴の、いわば日本バスケットのプロだ。交換してきた名刺を先生はちょっと嬉しそうに掲げた。

「正直に現状を話しました。監督は、君たちに早く正規の監督を見つけてあげて下さいと仰ってました。何より経験が求められる世界だそうですね。選手経験が豊富な大人が必要不可欠だと教えてもらいました。翔陽は古くからバスケットが強い名門校なのに、それを失うのはあまりにもったいないですよ、ってね」

先生はいびつな笑顔を見せると、ちょっと背筋を伸ばす。

「先生はあんまり偉くないのでどこまでできるかわかりませんが、ちゃんと学校にこのことを話そうと思います。それから、湘北の監督にバスケットの強い大学を紹介して頂けるようお願いしてきました。そういうことは私がやりますから、君はもうそんなことを考えずに競技に専念してください」

ただの引率の先生だと思っていた藤真は、そんな不遜な考えを抱いていたことが恥ずかしくなるのと同時に、こうして手を差し伸べてもらえることが嬉しくて、また目が熱くなる。ひとりで何でもできると思っていたけど、色々なところから支えられて初めてチームというのはきれいなひとつの塊になるのだと実感する。

「長谷川くんの言うように、君は本当に頑張ったんですよ。翔陽の歴史に名を残す名将として――
「え!?」
「部室に君のユニフォーム、飾りましょうかね」

いやいや先生へらへら笑ってるけど、長谷川くんの言うようにって、先生さっき控え室にいなかったじゃないか。湘北の監督んところに挨拶行ってたんだろ。それで今帰ってきたんじゃないのかよ。一志の話聞いてたって、じゃあ、そしたら――

「せ、先生、控え室で話してたの、聞こえてたんですか」
「えっ。ああ、アナソフィアのお嬢さんの話ですか、そりゃああれだけ大声で話してればね」

藤真は顔を両手でバチンと叩きつけた。恥ずかしすぎて消えたい。だが、先生は藤真の肩をぽんぽんと叩く。

「恥ずかしがることかい。君が強い人間なのは、あのお嬢さんに支えてもらっていたからなのかな」
「ああ、あの、あのお嬢さんて」
「翔陽でも有名ですからね、今年3年のさん。君は良い仲間やガールフレンドに恵まれてるんですよ」

先生、先生、そんなこと、よーくわかってるよ、もうほんと、オレが悪かったから、もうその話、やめてくれ!!!

この日、神奈川における高校バスケット勢力図の一角ががらりと姿を変え、海南と翔陽が不動のトップ2という時代が終わろうとしていた。その渦中にいた藤真たちだが、周囲が心配したほどには落ち込まずに会場を後にすることが出来た。

生まれ変わることを決意した新生翔陽において、監督藤真は翌日の月曜の練習を休みにした。負けたからといって、隙間なく練習だけ詰め込めばいいというものではない。気持ちをリセットできないまま無闇に動いたところで、もう11月の予選まで公式戦はないのだから。

「それにしても腹減ったな。なんか飯食って帰るか?」
「花形お前その性格羨ましいわ。オレは岡崎ちゃんに会いたい」
「うえええ、高野どうした」

だらだらと歩いていた有料コート仲間5人は高野の突然の発言に目を丸くした。

「えっ、別に他意はないけど。さっきの話が出たからさ」
「他意はないけどってお前、なんで岡崎ちゃん限定なんだよ」
「いやほら、緒方じゃ説教されそうだし、はアレだし、岡崎ちゃんが一番気楽」

本当に他意はなかったらしい。そう言われてみると、確かに岡崎ならこの重苦しい空気をブチ壊して少し気持ちを持ち上げてくれるかもしれない。それに、同世代完全アウトという岡崎の場合、ついうっかり長い時間を一緒に過ごしても、望みがなさ過ぎて逆に安心だ。

「今日日曜だし、部活なかったら遊んでくれるかも」
「連絡してみるか」

何やら急に乗り気になってしまった高野と花形に永野も乗っかる。だが、藤真は当然ながら、長谷川も今日は帰ると言い出した。3人の方も止めはしない。今日のことはそれぞれ思うところがありすぎて、騒いで発散すればいいというものでもないからだ。

「だからって別に言うほど落ちてないからな」
「一志はそういう顔だってよく知ってるから大丈夫」
「岡崎ちゃんによろしくな。あんまり迷惑かけるなよ」
「おう、藤真は少しゆっくり休めよ」

岡崎に連絡を取るという3人を残して、藤真と長谷川は帰路についた。

この日、連絡を受けた岡崎はへの恩返しと思って誘いを受けた。だけでなく、信頼できるダンス部員を数人引き連れてやってきた。最初は面食らった花形たちだったが、岡崎と、ひいてはに感謝しつつ、あまり余計なことは考えずに遊んでもらうことにした。

ボウリングやカラオケの出来るアミューズメント施設で夜まで遊び倒した3人はすっかり気持ちがリフレッシュされて、他の部の寮生に「お前ら今日負けたんだよな?」と怪訝そうな顔をされるほどリラックスして帰ってきた。これもひとつの発散法には違いない。