ステイルメイト

17

さっさと帰宅した藤真だが、腹が減ってキッチンをうろついたけれど見事なまでに何もなかった。花形がガツガツ食べていたのオムライスが食べたい。あの野郎、オレは雑炊だけだったのに。いや、その雑炊もうまかったけど。しかしそんなことを考えていても腹は膨れない。

何も考えずにシャワーを浴びてしまったので、だいぶ強めの睡魔が誘惑してくるけれど、空腹をどうにかしないことには眠れそうもない。しかたなく藤真は着替えて外に出た。初夏の日曜は風がさわやかで、新緑が目に眩しい。そして藤真の手首にも鮮やかな緑がある。

完全に学校を離れると、藤真はにもらった天然石のブレスレットをつけて過ごしていた。本当にひとりになった時だけは、手首にを感じていられるように。あまりに時間が開いて遠くに感じすぎて、のようになろうと思った気持ちが揺るがないように、という意味もあった。

のオムライスを思い出したせいで口がオムライスになっちゃったじゃないか花形の野郎。

特に悪くない花形に内心毒づきながら、藤真は一番近いドラッグストアで卵だのおやつだのを買い込んで帰ってきた。確かご飯はある。母親が炊いて冷凍しておいてくれたものがある。オムライスぐらいオレだって作れる。……たぶん。本当はのが食べたいけど。

藤真は監督という重責の中から突然ぽいと放り出された気がしていた。もちろん新しい監督が簡単に見つかるとは思えないし、それまでは今まで通り自分が監督を務めるのはわかっている。けれど、長谷川の言うように、もうひとりで抱え込まなくていいのだと思うと、気持ちが解けていくような気がする。

わざわざ連絡してまで会うというのはさすがに踏ん切りがつかないけれど、夏祭り、またみんなで行けたら――

そんな風に思えるようになっていた。そうしてアパートに戻ってきた藤真は、自宅の玄関前に人影を見つけてぎくりと足を止めた。いつかの寮前待ち伏せ連続7回という過去が蘇って、足元がぞわりと気持ち悪くなる。だが、その姿を目に止めると、吸い寄せられるようにふらふらと歩き出した。

……、か?」

だ。途端に喉がからからに乾く。頭が重い。腹の真ん中辺りが疼く。

「藤真……ごめん」

その声に気付いて一歩下がったは、藤真を認めるなり俯いて謝った。

「ごめん、翔陽負けたって公ちゃんに聞いて……一緒に喜んであげられなくて、気付いたらここに向かってて」

言いながらは真っ赤になった目を擦っている。

「どうしてるかなって、ちょっと思っただけ。すぐ帰るから」
――

の方へ足を踏み出した時だった。敷地内に3つある駐車スペースに車が入ってきて、人が降りてくる。若い男性のふたり連れで、どうやら不動産屋と内覧にでも来たらしい。例の酒焼け小母さんのせいでアパートの1階は藤真ともうひとりしか入居者がいない。今も藤真の隣は空き部屋だ。

いつかのように慌てた藤真はの腕を掴むと、ガチャガチャと鍵を開けて部屋に押し込んだ。そうして勢いよくバタンとドアを閉めると、ぶら下げていたビニール袋を放り出した。振り返り、一呼吸置くとに腕を伸ばした。その腕の中に、は迷うことなく飛び込んだ。

明るい日曜の午後でも薄暗い玄関で、藤真はを両腕に力いっぱい抱き締めている。

玄関ドアの向こうでは、不動産屋と物件探しの客があれこれと大声で喋っている。それをどこか遠くに感じながら、ふたりは何も言わず、ただぴたりと体を寄せて抱き合っていた。

「大丈夫、なの?」
「なんとかな」

は予想していたより藤真がけろっとしているので、余計に心配になってきた。

「負けちゃったもんはどうしようもないからな」
「そうだけど……
「てかさっきの、どういうことだ? 翔陽負けて一緒に喜ぶとかなんとか……
「いやだから公ちゃんが」
「公ちゃんて誰」

何だか話が噛み合ってないことに気付いて、ふたりは体を離して顔を見合わせた。

「あれ、 話してなかったっけ……? 家が隣の同い年の幼馴染、湘北の5番、木暮公延」

1秒ほどの間を置いて、藤真は目が飛び出るのではないかというくらい目を見開いた。話してなかった。

「嘘だろ……あのメガネの副主将だよな」
「そう。なんか最近本当に血が繋がってるような気がしてるけど」

藤真は仰け反って玄関ドアにゴンと頭を打ち付ける。さっき負けたばかりの相手じゃないか。確かに知り合ったばかりの頃に幼馴染がバスケットやってるんだと話していた気はする。だけど呼び名が「きみちゃん」なんていうものだから、藤真はてっきり女の子なのだとばかり思っていた。

しかも湘北だったなんて!

「なんで黙ってたんだよ」
「話したと思ってたんだってば。それに、湘北と対戦するなんて誰も思ってなかったじゃない」
「それはそうだけど、翔陽のこと喋ったりなんかは――
「そんなことするわけないでしょ! 公ちゃん私がこうやって翔陽の人たちとよく会ってるのも知らないよ!」

ついは藤真の腕をバシバシと叩いた。そこで藤真の手首にあるブレスレットに気付いて止まった。するりと腕を滑り降りて、ブレスレットに触れる。冷たくてつるりとした石の感触が指に触れて、は少しの間、息を止めた。もうずいぶんと昔に贈ったもののような気がする。

……捨ててなかったの」
「捨てるわけないだろ」
「着けてくれてたんだ」
……お前のこと、忘れないように」

顔を跳ね上げたの唇に藤真は食いついた。殆ど無意識だった。いつしかドアの向こうは静かになっていて、ふたりに聞こえるのはお互いの息遣いと、唇が重なり合う音だけ。

どれだけこうしたかったか、言葉になど出来ない。こうして腕に抱いてキスして、ずっとそうしていたかった。藤真はの唇を貪りながら、監督として固く心を戒めていた日々を思い返す。、君のいない世界はなんだか寒かったよ。息苦しかったよ――

しかし、再度非情にもふたりの甘い時間は遮られる。藤真の腹が豪快に鳴り出した。

「お腹減ってたの?」
、オムライス作って」
「オムライス?」
「花形に作ったのより大きいの、作ってくれ」

「湘北、そんなことになってたのかあ」
「木暮とはそういう話、しないのか?」
「話するも何も、3年になってから殆ど会ってなかったからなあ」

念願のオムライスを頬張る藤真に試合の様子を教えてもらったは、はあ、と感嘆のため息をついた。アナソフィアは特に運動部が地味なので、まるで異次元の世界の話のように感じられる。しかも公ちゃん、そんな大変なことになってたのね……

物理的な空腹はもちろんあったろうが、張っていた気が緩んだせいで藤真は余計に飢餓感を感じていたらしい。多めに作ってもらったオムライスがきれいになくなると、途端に眠くなってきた。子供かよと自分で呆れるが、元々疲れていたし、空腹も満たされたし、何より心が満たされている。

オムライスの皿を片付けにキッチンに行ってしまったの後姿をぼんやりと眺めながら、藤真は早くも半分くらい夢の中に足を突っ込んでいた。視界が上からどんどん狭くなってくる。

「食べたら眠くなったんじゃない。目が半分になってるよ」
「少し、寝ててもいいか」
「試合だもん疲れたよね。横になりなよ」

「ん?」

藤真は体を傾けて手を伸ばし、の手を掴む。

「ちょっと、寝るけど、帰らないで」
……わかった、ここにいるよ」

そのままずるりと藤真は床に倒れこんだ。がベッドから肌掛けを下ろしてくれて、枕も頭の下に入れてくれたのだが、そのあたりにはもう藤真は意識がなかった。満たされて快い静かな眠りの中に落ちて、そのまま夢も見ずに眠った。

体調を崩した時のように、藤真は3時間ばかりぐっすり眠ると、突然目を覚ました。携帯がけたたましく鳴り出したからだ。驚いて体を起こし、携帯を確認するとボウリングでストライクを出したらしい妙にくねったガッツポーズの花形の画像が永野から送られてきた。消した。

「起きた?」

その声に顔を上げてがいることを思い出した藤真は、携帯をテーブルの上に置いてのろのろと体を起こすと、這って行ってに抱きついた。軽やかな声で笑い、は藤真の頭を撫でる。少し薄暗くなり始めている部屋の中、藤真の体にじわりと幸福感が広がっていく。


「なに?」

「え、な、なに」

他にもう、言える言葉などなかった。藤真はを床に押し倒してそのままキスする。

「えっ、ちょっと、藤真?」
……健司」
「は?」
「名前、オレの」
「し、知ってるけど」

は、つと顔を逸らしたが、藤真は指を添えて元に戻す。覗き込んだ瞳は潤み、ちらちらと揺れている。

「そっちで、呼んで」
……健司」

藤真はにっこりと微笑んで、そしてに覆い被さった。知り合って2年、2度目の笑顔だった。

ゆっくりと色を失っていく静かな部屋の中で、藤真はの体の至るところにキスしていった。全身余すところなく、強く優しく、何度も。はその度に体を震わせ、緊張で張り裂けそうな胸を上下させている。怖くはなかった。けれど、2年の間に蓄積された想いが一気に溢れ出して、息が出来ない。

ふたりとも、もう何も身に纏うものもなく、ただ藤真の手首にブレスレットがあるだけだった。

試合に負けたなんてことがまるで夢の中の出来事のように感じる。なんとか輪郭を保っていた翔陽バスケット部が形を失って、そして藤真の中にもぽっかりと大きな穴が開いていた。もしかしたらそれは今だけなのかもしれない、だけど、その空白の中がで満たされていくのを感じていた。

頭の中も意識も無意識も、五感が感じるのも全て、だけだった。

昼寝をしている間に藤真がかけていた肌掛けの上にふたりは横たわっていた。もうすっかり日が傾いて、玄関やキッチンなど既に暗くなっている。日曜だからなのか、外もほとんど物音がしないし、部屋の中も静まり返っている。ふたりとも携帯の電源を落としてしまったので、そんな邪魔も入らない。


「なに」
「帰らないで」
「明日、月曜だよ」

顔をひっつけた状態で藤真はに囁きかけた。とろりとした目では笑い、藤真の背中を擦る。

「次の日学校がなければいいのか」
「そ、そういうわけじゃ」

は笑って誤魔化そうとしているが、藤真の方は真剣である。

……もっとしたい」
「えっ、ちょっ、そんな急にたくさんは無理」

面白くなさそうな顔をした藤真だが、こればっかりは仕方ない。既にかなり無理をさせてしまっている。は藤真の髪をゆっくり撫でながら、申し訳なさそうな顔で呟く。

「少しずつじゃ、だめ?」
……それでもいい」

しばらくは嫌だと言われてしまうのではないかと思っていた藤真は、嬉しくなってをぎゅうっと抱き締める。しなやかなの体がぴったりと体に沿い、少し冷えた肌が心地いい。このままずっとこうしていたいけれど、の言うように明日は学校だ。

部活は休みにしたけれど、学校まで休むのは名門の4番としてあまりに情けない。もっとを抱きたいと思う気持ちをなんとか飲み込んで、藤真はを送って帰った。つい隣の家が気になってしまうが、バスケットのこととは関係ないと自分に言い聞かせた。

それに気付いたのか、は繋いだ手を軽く引いて藤真を見上げた。

……健司、私バスケのことはよくわからないけど、試合に勝つだけが強さじゃないと思うよ」
「どういう……
「緒方もずっと負けてる。女子しかいないから、どうしても男子のいる高校に勝てない」

それだけで審査をしているとは思えないはずなのだが、現状ではそういう結果続きになっている。だから緒方を手に入れたアナソフィア演劇部は色めき立ったのだ。男子がいなくても、この子がいたらもしかしたら。

「だけど緒方はずっと戦ってる。私はそれって、強いんだと思う。バスケの場合は数字の勝敗だから意味が違うかもしれないけど、みんなまたずっと戦っていくんでしょ。健司なんか監督もするんでしょ。それは強くなかったら出来ないことだと思う。勝った人より、ずっと強いんだ思う」

藤真の脳裏に顧問の先生の声がよみがえる。君が強い人間なのは、あのお嬢さんに支えてもらっていたからなのかな――

「誤解しないでね、公ちゃんもてんで弱小だったけど、なんかそんなの気にしてなかったみたいで、たぶんあの人の強さはそういうとこなんだと思う。私はそういうのないから、公ちゃんも緒方も健司も、みんな強いんだなあって思うよ。ちょっとうらやましい」

お前だって去年の文化祭で戦ったじゃないか。藤真はそう言いかけてやめた。もしかしたらはあの時のことを自分の強さだとわかっていないのかもしれない。しかもその話になると、のようになろうと思ったことを話さなくてはならなくなるかもしれない。それはまだ少し恥ずかしい。

「監督、どうですか今年の翔陽は」
……いいチームだよ。神奈川ナンバーワン」

花が咲いたようにが笑うので、藤真は繋いだ手を引いてキスした。

先生、本当に、この人がいるからオレは――

「明日部活休みになったってどうせ有料コートなんでしょ」
「よくご存知で」
「明日バイトだから、帰り、顔出すね」
「えっ、いいよ来なくて」
「なんでよ」

恥ずかしいからだ。あと、また連れて帰りたくなるからだ。