ステイルメイト

15

アナソフィア秋のデスレースも終盤に差し掛かる頃、翔陽バスケット部はまたも冬の選抜県予選で2位に終わり、本選への道を絶たれた。ということは直後に期末であり、今年は腹が無事の花形先生による期末準備という時期である。このパターンであれば、有料コート仲間は落ち着いて定期考査をやり過ごせる。

そんなわけで残留3年生の引退と新体制への移行を待つばかりの5人は、ある程度勉強したところで有料コートである。藤真という存在があるせいで、学校側の監督探しが少し手抜きになってきているのだが、それこそ部員たちはもう藤真が選手兼監督になるのだと頭から思っている。

そこにと岡崎が通りかかった。実はそれぞれ文化祭以来メールですら連絡も取り合っていなかったので、どちらもつい歓声を上げた。有料コートの定額フリータイムはまだ残っていたが、5人はぞろぞろと出てくる。

「ひさしぶり〜!」
「いや久しぶりだけど、ふたりとも文化祭の後大丈夫だったのか?」

ニコニコと片手を上げる岡崎に永野が被せ気味に言う。文化祭の後は冬の選抜予選にかかりきりになっていたから、生徒会に楯突いたふたりのその後はまったくわからなかった。岡崎はまだにこにこしているが、は少し恥ずかしそうにむくれた。

「また緒方に余計なこと聞いたな」
「余計なことって。心配してたんだぞ。ペナルティ食らったりしてないだろうなとか」
「大丈夫。もダンス部もみんな無事」

期末目前だが、花形先生は元気だしたちは切羽詰ってないし、で一行はまた近くのファストフード店に移動した。ちょうど1年前にに期末の面倒を見てもらったのと同じ店だ。さすがに何かを察知したのか、藤真は素早く長谷川の隣に滑り込み、も岡崎の腕を引いて自分の隣に座らせた。

「なるほど、文化部は文化祭で引退なのか」
「です。だから私もこんなんでもダンス部部長だし、演劇部は満を持して緒方率いる劇団アナソフィアてわけ」
「生徒会も新しくなって、新会長は緒方に片思い歴3年突破、平和そのもの」
「なんだよとうとう生徒会まで手中に収めたか」

文化祭でレジスタンス運動などしていた割には、も岡崎も穏やかそうだ。心のどこかではずっと心配をしていた5人は安堵に胸を撫で下ろした。それぞれに覚えがあるが、最上級生にひとりかふたり、こうして目立って人望のある生徒がいると1年が比較的穏やかに回りやすい。来年のアナソフィアはいい1年になるだろう。

「翔陽は? まだ3年生引退しないの」
「いや、もうすぐ。たぶんテスト明けには」
「部長とか決まったの?」
「え、そりゃ藤真だよ」
「え! そうなの!?」
「どういう意味だ!」

つい驚いて声を上げたに藤真もつられる。これも久々だ。近くにいた岡崎と長谷川が止めに入る。

「ちょ、ふたりともストップ。あのさ、文化部だと能力に関係なくまとめ役が部長になったりするからさ」
「運動部だってそういうこともあるけど、まあ今監督もいないし、それも藤真が兼ねるから」
「監督も!?」
「さっきから何だ! オレがまとめられないみたいな言い方」
「だってこんなすぐカッとなる人が部長で監督って、花形の方が適任なんじゃないの」
「黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって!」
「黙ってないじゃない!」

岡崎と長谷川に抑えられながら、ふたりはきゃんきゃん言い合った。その様子を見ていた花形先生は既に口元が歪んでいる。なんだこのじゃれ合い。親切にも岡崎と長谷川が止めに入っているが、ほっといてやった方がふたりのためなんじゃないかという気もしてくる。

そんなことを話しながら、今日はの家に泊まるのだという岡崎がキラキラした目で一同を見回した。

「じゃあみんなクリスマスイヴって空いてるの?」
「空いてるっていうか普通に部活だけど」
……なにそれティーンエイジナメてんの」
「しょうがないだろ、運動部なんてそんなもんだよ」

岡崎はキラキラの名残のある目で真向かいにいた永野を睨みつけた。少々キリッとしすぎているが、岡崎も綺麗な女の子だ。これで老け専でなかったら、と思ってしまうのは緒方と同じ。というか緒方より印象が女の子らしい分、もったいなさは岡崎の方が上だ。

もしかしたらクリスマスに遊んで欲しかったのかと期待した真向かいの永野が聞いてみる。

「んーん。クリスマスはダンス大会! 新生アナソフィアダンス部初の公式戦! だから見に来ないかなって」

永野は少し肩を落としたが、自分たちだって部活漬けなのだ。岡崎のこの言葉にガッカリするのはお門違い。

「大会って、場所は横浜だっけ」
「そう。無事に生徒会が交代したし、規制緩和も解除されてないから初の夜間の大会だし」
「へえ、夜なら行かれるかもしれないよ」
「ほんとに!?」

もう数日で部長になる藤真が珍しく口を挟んだ。相手になると途端にカリカリするが、岡崎や緒方相手だと花形など足元にも及ばないくらいに丁寧になる。それがを傷つけて悲しませて苛立たせていることには気付いていないようなので、たちが悪い。

「朝からやってるんだけど子供の部から先にやるから、高校生は17時スタート」

それでも学校が怖い岡崎たちは、交渉を重ねて出演時間を出来るだけ早くしてもらった。18時半予定だという。

「24日ならもう休みだし、少し早く切り上げてもいいけど」
「どうした藤真」
「んー、実はオレが監督になりそうだって頃から言われてるんだ。クリスマスとバレンタイン頼むって」
「誰に」
「彼女持ちの部員」

花形は大きくため息をついて仰け反った。

「さすがに丸々1日休みには出来ないけど、少し早上がりにするくらいなら問題ないかと」
「監督いないからって、なんか甘ったれてんな」
「まあそれでダメになるなら、どの道それまでだ」

そんなわけでクリスマスイヴにはもう監督になっているという藤真は、朝からの練習を午後ナカくらいで切り上げることを岡崎に約束した。永野や高野は少し嬉しそうだったが、花形はあまりいい顔をしなかった。

まさかとクリスマスを一緒に過ごしたくてあんなこと言い出したんじゃないだろうな――

しかし、花形の疑念はクリスマスイヴ当日になって完全なる杞憂だったことが判明する。

「え!? お前行かないの!?」
「別にオレが行かなくたっていいだろうが」

それぞれ着替えを持参していて、部活終わりでそのまま横浜まで出るつもりでいたのだが、藤真はそんな支度はしてきていないし、行こうとも思っていなかったという。から緒方も来ると聞かされていたので、また夏祭りの時のように過ごすものだと思っていた4人は驚いた。

とのクリスマスのために部活を早く切り上げるなんて言い出したのではとずっと疑ってきた花形は、妙な罪悪感に囚われて困った顔をした。が来ることはわかってたのに、何言ってるんだ。部室の手前で藤真を捕まえた花形は声を潜めた。

来るんだぞ」
「だから?」
「お前も来るって思ってるよ。岡崎ちゃんも緒方も」
「ダンス大会を応援しに行くんだろ。みんなでデートするわけじゃない」
「あのなあ、いらないならもらうって言ってんだろ」

いつかのように奪われると思ったなら気が変わるかもしれないと考えた花形だったが、藤真は顔色ひとつ変えなかった。落ち着いた目で静かに息を吐き、腕を組んだ。

「好きにしたらいいだろ」
「何言ってんだ、どうしたよ。あれお前だろ、のこと必要としたのって、お前じゃないのか」
「だったらどうなんだよ」
「どうしたんだよ藤真、何があった」

穏やかないつもの藤真の顔だった。を前にした時のようなむき出しの感情などどこにもなくて、凪いだ海のように静かで、しかしどこか張り詰めた感もあって、花形は少し不安になってきた。あれほどに対して強い思いを抱いていた様子だったのに、一体どうした。

……オレは、監督なんだよ。これから1年、翔陽を背負っていかなきゃいけない」
「藤真?」
「夏も冬も2年間海南に負けっぱなし。インターハイだって今年はひどかった」
「あれはオレたちにはどうしようもないだろ、豊玉が――
「そんなこと言い訳になるか」

藤真は厳しい顔をして花形を見上げた。

「つい成り行きでこんなことになってるけど、アナソフィアなんかに構ってる暇、ないんだよオレには」
……アナソフィアでひと括りにするんじゃねえ」
「なんでお前が怒るんだ」
「嘘をつくな藤真。なんでそうを必要とすればするほど遠ざかろうとするんだ」

ダンス大会の後ご飯食べて帰ろうか、なんて話していたは嬉しそうだった。岡崎は部の仲間と過ごすだろうが、と緒方は翔陽5人と帰るつもりでいる。それはほんの短い時間だけど、藤真が言うような、みんなでクリスマスデートということになるだろう。それを楽しみにしているだろうに。

だってお前にもっと必要とされたいんだぞ、どうしてそれを――
「そんなことは、海南に勝ってからいうことだ。女に呆けてる時間があるなら練習するべきだ」

藤真の目は本気だった。しかも、間違ったことは言っていない。花形はスッと頭が冷えるのを感じた。

「わかった。オレもまあ、もらうとかそんなのは本気じゃない。だけどたちに聞かれたら今の話は言うぞ。どれだけが傷つくかわかったもんじゃないけど、お前がそういう気持ちでいるんだって、知ってた方がいい。はいい友達だし、お前のことでいつまでも苦しんでて欲しくないからな」

藤真は返事をせずに部室へ入っていった。

仲がいいと言っても地元で制服やジャージ姿で遭遇する程度なので、この日可愛らしく着飾ったと緒方に4人は驚いた。ぼーっとなるとかそういうことではなくて、アナソフィアヒエラルキートップ間近の本気を見ていささかビビっている。ちょっと目が痛い。類は友を呼ぶとはこういうことか。

しかしそこで藤真が来ないという気まずい説明をせねばならない。花形が気が重いと漏らしていたので、長谷川がその役目を買って出た。淡々と、だけど私情私見は一切交えずにことの次第を説明した。さすがに何も言えない緒方に肩を抱かれたは、一瞬だけ泣き出しそうな顔をした。が、直後に笑顔に戻る。

それがアナソフィアが6年間かけて徹底的に仕込む「自然な作り笑顔」だと気付いて、全員胸が痛んだ。しかし一応と藤真は何か特別な関係にあるとは言えない間柄で、誰も適切な言葉を選び出せなくて、せめてが少しでも笑ってくれるようにと下らないことを言うぐらいしかできなかった。

岡崎率いるダンス部は初出場ながら4位入賞に輝いたし、緒方と長谷川が地元で人気があるという店に連れて行ってくれたので、は終始楽しそうではあった。それは寮生3人が自宅に送り届けて行くまで変わらなかったし、いつかのように完璧な笑顔ではドアの向こうに消えた。

寮への道のりを歩きながら、高野と永野はぼそぼそ喋っている。

「痛々しいなーもう。見てられん。可哀想だけど藤真の言うことももっともだし」
……オレじゃ藤真の代わりにはなれないかな、とか思ったこともあったけど」
「なんだ永野お前もか。まあそれは思うよな。気を紛らわせられるんじゃないかってな」
「だけど、そうじゃないんだよな。の方が藤真じゃないとだめなんだから」

花形は、秋に藤真がダウンした時のことを思い出しながらため息をつきつつ、付け加えた。

「オレも思ったよ。だけど、そうしようとしたら、藤真に服を掴まれて止められた」
……そんなことがあったのか」
「ものすごい形相だった。言わないけど、を奪られたくないって叫んでるみたいだった」
「それがどうしてこうなるんだかな」

寮生3人がしょぼくれながら帰路についている頃、はそっと玄関ドアから抜け出して家を出た。自転車を引っ張り出し、音を立てないように静かに漕ぎ出す。隣の幼馴染の公ちゃんがやはりクリスマスで遊びに出かけているというので、それに遭遇しないように辺りを確認しながら自宅前を離れた。

静かなクリスマスイヴの住宅街はイルミネーション装飾を施した家も多くて、だけどそれは大抵とてもチープで、ダンス大会で降り立った横浜の町並みの方が遥かに美しく、ロマンチックで迫力があった。

そんな住宅街をはひとり自転車で駆け抜ける。藤真のアパートに向かって。

アパートの近くに到着すると、は自転車を降りて手で押しながら歩く。まだ入居者募集中の看板がかかるエントランスのアーチの明かりがぼんやりと通りを照らしている。その近くに自転車を止め、一番奥の部屋まで歩いていく。吹き付ける12月の冷たい風に肩を竦めながら、は藤真の部屋の前で足を止めた。

少し行き過ぎて出窓の明かりを確かめてみると、もう真っ暗だった。藤真はもう寝ている――は少し安心して息を吐く。真っ白な息が風に掻き消えて行くのを少し眺めていたは、ポケットから小さな包みを取り出してさっと撫でた。

今日渡そうと思っていたクリスマスプレゼントだった。翔陽の色、グリーンと白で揃えた天然石のブレスレット。

また耳に「だから」という藤真の声が蘇る。その言葉に押されては文化祭で生徒会に逆らい、学校側からアナソフィア女子として相応しからぬ振る舞いと思われるリスクを負ってまで、思うままの後夜祭のステージを断行した。生まれて初めて自分自身を必要とされた、それが嬉しかったから。

そのお礼の意味もあった。アクセサリーは好きじゃないかもしれないし、身に着けるものは重いかもしれないけど、綺麗なグリーンの石を見ていたら翔陽のジャージを着た藤真が思い浮かんで、つい買ってしまった。

は包みをポストに滑り込ませて一歩下がる。長谷川が話してくれた内容は驚くほどすんなりと頭に入ってきた。藤真の言っていることは正しい。胸の奥を力任せに握り潰されたような気がしたが、自分が何かを言える立場でないことはわかっている。だけど、どうしても渡したくて。

「どなたですか」

背後に重く響いた声には飛び上がった。まさか、寝てるんじゃなかったの。

「何かご用…………か?」
「ご、ごめん、あ、会いにきたわけじゃないから」
「じゃあ何しに来たんだ」

振り返り、おそるおそる藤真の方を見てみると、片手にビニール袋がぶら下がっていた。コンビニでも行っていたのだろうか。暗がりに玄関灯を受けただけの藤真がぼんやりと浮かび上がっている。

「今日来るのかと思ってて、クリスマスプレゼント、渡せなかったから」
「花形にでも預ければよかったじゃないか。わざわざこんな時間に来なくても」
……藤真にしか買ってなかったし、今日のうちに、自分で渡したかったから」

気を緩めたら泣き出してしまいそうだった。は両手を固く握り締めて耐えた。

「オレはプレゼントなんて用意してないぞ」
「そんなつもりじゃないよ……勝手に、今日は、藤真に送ってってもらえるんだと思ってて、それで、帰り道で渡そうって思ってて、まさか来ないとか思いもしなくて、だから届けに来ちゃっただけだから」

もう何を言っても同じ言葉を繰り返すだけだ。はそれに思い至ると、頑張って背筋を伸ばして藤真を見上げる。藤真はいつの間にか見上げるほどの身長になっていて、女の子のようだった可愛らしい顔は、きれいなままにちゃんと男の顔になっていた。

「もう寝てると思ったからポストに入れちゃった。いらなかったら、捨てて。部活、頑張ってね!」

もう限界だった。最後の頑張ってね、の語尾は完全に涙声だった。はそのまま走り出して自転車に飛び乗り、振り返りもせずに走り去った。涙が溢れて止まらなくて、自宅に帰り着いても、冷えた体を湯船で温めていても、はずっと泣いていた。