ステイルメイト

10

の指導の賜物か、体調不良で臥せっていた花形も含め、有料コート仲間は期末も無事に終えることが出来た。冬の選抜本選出場はかなわなかったので、最後まで残っていた3年生が引退、彼らも来る2年生を前に新体制へと移行した。

冬休みの間に今年度最大級のネガ藤真が出現した以外には、至って平穏な日々が続いていた。期末の勉強をに見てもらった、その現場にいられなかったことを会長はいたく憤慨していたが、呼び名がクラスチェンジしたことを聞くや、すぐさま機嫌が直り、オレもって呼ぼうと言って藤真に睨まれた。

そして年が明け、もうすぐ進級、新学期という頃になって翔陽バスケット部は未曾有の危機に見舞われた。監督がやむを得ない事情で辞めることになってしまったのだ。監督やコーチが居つかないという翔陽の悪しき伝統がとうとうバスケット部にも襲い掛かってきた。

しかも一度襲い掛かるとしばらくそのループの中から抜け出せないという、非常にたちの悪い疫病のような伝統なのである。これを受けてバスケット部員たちは大人数で何度も議論し学校側とも相談を重ねたけれど、強豪校の歴史が長いのが仇となってか、新たな監督の目処が全く立たなかった。

翔陽の場合バスケット部の活躍は全国レベルのため、例え臨時でも手の開いている体育教師などではもはや務まらないのである。OBにも声をかけてみたが、無理だった。そんなわけで、方針が定まらないことに業を煮やした部員たちは、2学年でも80人ほどいる部員の中から「監督班」を作った。

「監督班」は全部で4人。新3年生3人と新2年生ひとり。監督不在だからといっていつまでもああだこうだと揉めてもいられないので、監督判断になるような点についてはこの「監督班」の4人で協議の上決定という当座のルールを作った。その中のただひとりの2年生が藤真である。

新学期になり、また大量の部員が押し寄せてくるバスケット部は、監督不在という強豪校にあるまじき状況のまま新年度をスタートさせた。そんな不安定な状況下の春のことである。

この日県内某所へ練習試合に出ていたバスケット部だが、「監督班」のミーティングがあったせいで、藤真はひとりだけ帰りが遅くなってしまった。ミーティングがいつまでかかるかわからないので、有料コート仲間はさっさと帰った。疲れたし腹も減ったし、彼にしては珍しく気力も削がれ気味だった。

そうして有料コートのあたりに差し掛かったところで、藤真はがくりとつんのめりながら足を止めた。

「あ、藤真だ。久しぶり〜」

有料コート近くの大型スーパーからが出てきた。

今日は日曜のはずだが、は制服姿だ。一方の藤真は翔陽謹製緑茶ジャージである。どちらにしてもこの界隈では昔からよく知られた、目立つ装いである。なぜかと言えばそういう組み合わせのカップルが多いからだ。アナソフィアと翔陽運動部のジャージというのは近隣のよくある町の風景としては定番である。

「今日はひとり?」
……悪いかよ」
「またそれ? 悪いなんて言ってないでしょ。ていうか、そうだ、会えてよかった、私この間忘れ物したよね」

すぐに不貞腐れはじめる藤真お構いなしに、はそう言って詰め寄ってきた。

「ペン……ていうか万年筆なんだけど、お店に聞いたらなかったって言うし、誰か持ってたりする?」
……臙脂と金の」
「そうそう、それ! 誰か持って帰ってくれてた? 大事なものなんだ」
「オレの教科書に挟まってた」
「ええと、もらいたいんだけど、どうしたらいい? 今はもちろん持ってないでしょ」

無愛想この上ない藤真だが、は辛抱強く話しかける。

「次コート行くのっていつ? わかれば私バイトの帰りに――
「家にあるけど。取りに来れば」
「え。家ってだって藤真たちって」
「別に部屋ん中入るわけじゃないだろ。それが一番早いじゃないか」

それもそうだ。スタスタと歩き出した藤真の後を追いかけて、はちょこまかと走り出した。もうすぐ知り合って1年になるが、藤真は随分と背が伸びた。はちらりと藤真の後頭部を見上げる。ふだん周りにいるのが巨大なせいで小柄に見えがちだが、隣に並ぶともう小さいとは思えない。

「今日は試合だったの?」
「ああ」
「勝った?」
「まあな」

ぽつりぽつりと話しかけてみるが、やはり藤真は面白くなさそうだ。はまた少し傷ついて泣きそうになる。これまでという人間は人にちやほやされることはあっても冷遇されたことは殆どない。慣れないので戸惑うし、人より余計に傷つくし、対処法もわからない。

「そっちは何。部活やってないんだろ」
「え、ああ、今日は修学旅行準備で。部活やってないからこーいうのよく回ってくるんだ」
「修学旅行? 早くないか」
「アナソフィアは6月だから。期間も短いし、観光しないし、本当の修学旅行」
「へえ」

何を言っても面白くなさそうな藤真であったが、これには少し興味を引かれたらしい。普通の返事が返ってきたので、はアナソフィアの通称「研修」を説明してやる。観光も自由時間もない「研修」は長崎に2泊。基本的に教会巡りとなっており、最終日に平和公園で締めとなるだけの行程だ。

「お土産くらいは買えるけど、まあそれだけ。切支丹の迫害の歴史と原爆関係を勉強して帰ってくる感じかな」
「翔陽ですら北海道行くのに……
「いいなー」

そんなことを話しつつただ藤真に着いて行ったは、何の変哲もない2階建ての木造アパートに到着した。築年数はそれほど古くないようだが、入居者募集中の看板が物悲しい。確かに駅からは遠いし、周辺にはバス停も店もないが――

……あれ? 寮、だよね」
……寮は出た」
「出た?」

敷地内の最奥までやって来ると、藤真はポケットから鍵を取り出してくるくると回した。

「いられなくなってな。……ここで待ってろ」

寮にいられないってどういうことだ。混乱気味のにそう言い捨てて、藤真はドアに鍵を差し込んだ。が、次の瞬間、背後のフェンスとコニファー越しに酒焼けしたような女性のガラガラ声が響いてきた。途端に藤真は飛び上がって振り返り、慌てて鍵を開けるとの手を掴んで部屋の中に押し込んだ。

突然のことに息が止まるは、目の前でまた閉じられてしまったドアにへばりついて青い顔をしている。

すると、ドアの向こうで酒焼け声がワントーン高くなり、藤真の名を呼んだ。藤真の方もぼそぼそとではあるが、それに応えて挨拶などしている。内容から察するに大家か管理者か、とにかくただの近所の小母さんではないらしい。それにしても小母さんは楽しそうだ。

やがて話が途切れがちになると、ドアの隙間から藤真の腕が伸びてきて、しっしっと払うような仕草をした。狭い玄関で縮こまっていたは、その手に押されるようにして部屋に上がってしまった。一体何がどうなってる。忘れ物を取りに来ただけなのに。

しつこい小母さんの話を生返事で払い除けつつ、藤真は体がやっと通るくらいの幅だけドアを開き、体をぐいぐいと捻じ込んで入ってきた。そしてどうもどうも連呼すると、素早くドアを閉め振り返り、こちらも真っ青な顔をして人差し指を唇に当てた。は思わず両手で口を覆う。

2秒ほどしてドアスコープを覗き込んだ藤真は、それからたっぷり30秒ほど動かなかった。

呼吸すら潜めていたの目の前で、藤真はもう一度そっとドアを開いて外を確認すると、また素早く閉じた。ドアを開いた瞬間、ガラガラ声が聞こえてきたので、あの小母さんはまだ近くにいるらしい。が、やっと振り返ると、藤真は肩で大きくため息をついた。

「だ、大丈夫?」
「ちょっとマズいことになった」
「マズいこと、って――

藤真によれば、あの小母さんはこのアパートの土地の、元持ち主。古くから広い敷地に母屋と3つの離れという大所帯で暮らしていたが、家族が減り、母屋ですら持て余し始めたので売ってしまった。その金で残しておいた敷地の端に家を新築した。無関係ではないが、今となってはなんの権限もない人だという。

「だけど未だに自分の土地みたいに思ってて、こうやって干渉してくる」

はアパートの入り口のアーチにかかっていた入居者募集の文字の正体がわかった気がした。しかもあの声の様子では、この見栄えのするひとり暮らしの高校生がお気に入りのようだ。藤真の顔では無理もないが、本人はいい迷惑だ。イラつくのだろう、髪に指を差込んでガリガリと掻いている。

「親だと思ってねとか言い出して……うるさいんだいちいち、生活のこととか学校のこととか、関係ないことまで」
「そ、それは……
「今もまだ外で誰かと喋ってる。だから……悪いけど、しばらくここにいてくれ」
「私はいいけど、その」
「しょうがないだろ。オレも別に構わないし、見られる方が厄介だ」

キッチンにへばりついていたは、バッグを胸に抱えて頷き、奥の部屋に入っていく藤真の後を追った。本当に、忘れ物を引き取りに来ただけなのに、どうして私こんなことになってるんだろう、どうして藤真は寮を出たんだろう、どうして別に構わないんだろう、あんなに面白くなさそうなのに――

至ってよくあるタイプのワンルームに見えるが、バストイレは別のようだし、なおかつキッチンと部屋はドア仕切りされていて、コンテナを嵌め込んだだけのようなワンルームとは随分と印象が違う。バッグをギュッと抱きかかえたまま、は忍び足で部屋に入る。

角部屋なので、窓がサイドにもあって明るい。おそらく6畳ほどだろうが、サイドの窓が出窓になっているせいで、もう少し広く見える。ただ、広く見えるのは部屋の中が殺風景だというせいもある。ベッド、テーブル、収納棚、テレビ――その他に目に付くものと言ったらゴミ箱くらいしかない。

隣の家に住む幼馴染の公ちゃんの部屋もあまり物はないが、それでももう少し生活感があるなとは思いつつ、テーブルの近くにぺたりと座った。フローリングもむき出しのままで、少し寒々しい。

努めてきょろきょろしないようにしていたの顔の前に、万年筆が差し出される。

「これだろ」
「あっ、そうそうこれ。ああよかった、無事で――ありがとう」

ペンをテーブルの上にそっと置いたは、バッグの中に手を入れてペンケースを探す。藤真はテーブルとベッドの間にどさりと座ると、疲れた様子でベッドの縁に寄りかかった。こちらもただでさえ試合で疲れているのに、とんだことになってしまって余計に疲れてきた。

「えーと、お礼って言うのも変なんだけど、さっき買ったの、食べる?」
……食べる」

ちょうど藤真に出くわした時、はスーパーから出てきたところだった。昼を食べ損ねていたので、帰ってから食べようとパンを買っていたのだ。スーパーの中の焼き立てパンは匂いが強烈で、これに負けてつい焼き立て一斤を買ってしまう人が少なくない。が今日買ったのも焼き立てプチチーズフランス10個入りだ。

疲れてもいるが腹も減っていた藤真はすぐさまパンに飛びついた。その隣ではうやうやしく万年筆をハンドタオルにくるみ、ペンケースにしまいこんだ。それをちらりと目の端に止めた藤真は、また手にパンを取りつつ、ぼそりと声をかけた。

「そんなに大事なもんなのか」
……うん。中1の時の、中等部の校長先生にもらったの」
「校長?」

担任や顧問、監督にコーチならまだわかるが、校長とは。

「今はもういなくて、東京の大学に行っちゃったんだけど、まあほら、いるでしょ、恩師とかああいうの」
「いるだろうけど、あんまり校長って……
「まあそこはたまたま。これもたまたまもらうことになっただけで、深い意味はないから」
「でも大事にしてるんだろ」
「それは、そう。お世話になった人だから」

小さな声でふうん、と漏らした藤真は、のろのろと立ち上がるとキッチンへ行って冷蔵庫からお茶を取ってきた。

「飲むか?」
「あ、買ってきたから大丈夫。ありがと」
……別に」
「また別にって言ったな。ほんとに可愛くない」
「可愛い必要ないからな」
「ああ言えばこう言う……てか何で寮出たの? みんなと一緒の方がいいんじゃないの」

自前のペットボトルのキャップを捻りながら言うから目を逸らし、藤真はかくりと首を傾げた。

「な、何よどうし――
「バレた」
……何が?」
「アナソフィアその他色んなとこの、女に、寮が、バレた」

ペットボトルに唇を寄せたままの状態では動きを止めた。

「気付かなかったけど尾行られてたらしくて……最初の侵入がクリスマス」
「侵入!?」
「まあ、建物全部翔陽生だからってこっちも危機管理がなってなかったから」

つい鍵をかけずに隣の永野の部屋に行ってしまったのだという。ほんの数分、借りてた漫画を返しに行っただけだったのに、帰ってきたらベッドの中に見知らぬ女がいたのだという。怖すぎる。それはアナソフィアの生徒ではなかったそうだが、そのせいで年末年始をハイパーネガ藤真で過ごす羽目になった。

花形たちにも慰めてもらったし、こんなことはこれきりと思って忘れるように努めていたらしいのだが、それから2月までに寮の前で5組7回も待ち伏せに遭い、藤真は退寮を余儀なくされた。これは「間違いが起きないように」という制裁ではなく「このまま寮にいたら藤真の精神がもたない」という救済措置だ。つまり、逃げた。

侵入と待ち伏せをした計6組10人は厳重注意の上、侵入した方は次に藤真の前に現れたら自主退学という念書を取られ、待ち伏せの方と合わせて藤真の引越しにかかる費用を負担ということで一応落ち着いた。ここに越してきたのは春休みの間だったという。だからこの部屋は生活感がなく物がなかったのだ。

「寮は家具もついてるし家賃も安いし部員いっぱいいるし、言うことなかったんだけどな」
「ご、ごめん」
「なんであんたが謝るんだ」
「いやその、なんとなく、アナソフィアってそういう子滅多にいないし」
「だろうな。別の高校の子と一緒だったから」

話し終えた藤真はまたパンを取ってかじりつく。は手の中でペットボトルを転がしている。

もう話すことがない。そもそもはの忘れ物を渡したらもう用はないはずだったのだ。藤真は記憶の中からちくちくと突っついてくる長谷川の「ちゃんと謝れよ」という言葉に抗っていた。今もなんだか当り散らしたいような気がしているのに、謝るなんて無理だ。だけど、2度も泣かしてしまったのは確かに謝るべきことのような気もする。

それに、気を緩めるとの指先や、制服のスカートから覗く足につい目をやってしまう。

無意識のうちに誰かを想うという自覚を封じているために、それがへの好意からくる興味だとは考えられなくなっている。女というものは面倒くさい厄介な迷惑な存在だ、それは全ての女が同じで、今目の前にいるもきっと同じなんだ。そうとしか思えない。

岡崎や緒方もなんだかちょっと普通の女の子っぽくないけれど、それだってきっといいなと思う男の前になるとコロッと態度を変えて気持ち悪い喋り方をするに決まってる。このだって、ビンタしてくるわ蹴ってくるわ言うこと成すこと可愛くないけど、本質はそうなんだ。

中3の時のあの子のように。

「あの小母さん、もういなくなったかな」
「え? ああ、どうだろうな。さっきはまだ近くにいたけど」

は音もなく立ち上ると、忍び足でドアスコープを覗きに行く。

「姿は見えないけど」
「ドア少しだけ開けてみれば」

藤真ものろのろと玄関までやってきた。は鍵を外し、言われた通りに少しだけ隙間を作る。日曜の午後の住宅街、遠くに子供の歓声や車の音が聞こえるだけで、酒焼けのガラガラ声は聞こえてこない。

「もう大丈夫みたい」
「今日は早いな」
「じゃあ私帰るよ」

足早にバッグを取ってきたは、急いで靴を履き、ドアに手をかけた。

「万年筆、ありがとね」
……あ、パン」
「いいよ、あげる。食べて」
「悪いな。……てか、送った方がいいのか?」

藤真が顔を背けてぼそりと呟く。ドアに手をかけたは背中にその声を聞いて、少し俯いた。今日は喧嘩しなかった。それはどうしてだろう。藤真はいつでも意地悪でひどいことしか言わないのに、どうして送った方がいいかなんて、聞くんだろう。ドアに手をかけたまま、体を半分だけ戻して振り返る。

「昼間だし、大丈夫だよ。駅の方にも行かないし」
「でも制服だろ」
「毎日制服で歩いてるもん」
「そうだけど」
「ありがと。……またね」

は藤真の返事を待たずにドアに手をかけて静かに開いた。が、次の瞬間、「お待たせ〜!」という酒焼けの声が響き渡った。小母さんは誰かを待たせて自宅にでも入っていたのだろう。

その声に慌てたのは、藤真だった。日々の練習で鍛えられた反射神経瞬発力は、咄嗟に玄関のドアを掴んで力任せに引いた。ドアと自分の体の間に、を挟んだまま。

決して広くないワンルームアパートの玄関、響き渡る小母さんのガラガラ声をかすかに聞きながら、ふたりはいつかのように息を止めた。は咄嗟に口元を両手で覆い、肩を竦める。藤真は、顔を逸らす。明り取りもない明かりも点けていない薄暗い玄関に、ふたりは息を潜めて、そして束の間、瞬きすらも忘れた。