カサンドラのとなりに

Epilogue

ミチカに啖呵切って帰ってきたが玄関の鍵を開けようとすると、ドアがさっと開いて中からエンジュと寿里が顔を出した。ふたりは今日、動物園に行ってくると言っていたはずだが、エンジュの向こうにおもちゃ店の大きな袋が見える。どうにも普段一緒にいられないエンジュは寿里に浪費しがち。

「おかえりー! オレたちの方が早かったね」
「おかーたん」

、信長、エンジュの呼び名は一応統一してあって、と信長はお母さんとお父さん、エンジュをパパとしてある。まだたどたどしいが、寿里はにやっと笑って「おかーたん」と呼んだ。

は寿里を抱くエンジュに抱きつき、そのまま泣き出した。

「えっ、ちょ、何どうしたの、どうしたの、何があったの」
「ごめん、友達と喧嘩してきた。すっごい腹立ったからスルーできなくて怒ってきた」
「あれ、ってぶーちんと会ってたんじゃ……
「その帰りに駅で偶然会ったの、みこっさんの元カノで、仲良かったんだけど」
「あー……

ミチカのことだとピンと来たエンジュは、片腕に寿里を抱っこしたままを抱き寄せて背中を擦る。ウサコをバカにされて我慢できなくなってしまったはまだ腹の虫がおさまらないとグズグズ言っており、エンジュは声を立てないように少し笑った。

「ま、ウサコって世間的にはヘイトぶつけてもいいサンドバッグそのものって感じだからね」
「そんなの許せなかったんだもん」

エンジュはグズるの頬にキスをし、「お母さんにいい子いい子してあげて」と促して寿里に頭を撫でさせた。寿里は「いーこねー」と言いながらの額をペチペチと叩いた。

「オレも今日言われたなあ。お父さんだけ? お母さんいないの、かわいそうにって」
「おかーたん」
「そうだよなー寿里、お母さんいるじゃんね」

は鼻をすすりながら頷く。寿里にはお母さんだけじゃなくて家族がいっぱいいる。

「可哀想なんていかにも善良っぽい言葉が人をいつまでも『可哀想な人』にしてるんだよな。寿里は可哀想な子じゃないのにね。ウサコも同じだよ、みんなが寄ってたかってバカにするから、自分のことバカだと思い込んでる。そういうやつらの方がよっぽどバカだっていうのに」

はエンジュの言葉に何度も頷いて、またぎゅっと抱きつき、エンジュはその頭を撫でる。

もウサコも寿里も、みんないい子いい子」
「おかーたん、いいこー!」
「ふえええ寿里いいい」
「いやオレは? そこオレだよね?」

玄関で泣いてスッキリしたは、エンジュとふたりで酒宴の準備をして家族の帰りを待った。バスケ教室帰りだというのに暴れ足りないカズサとげんなりした信長、そしてアマナとデートのつもりがジジババの荷物持ちになってしまった尊が続々と帰ってくる。

そして日が暮れてから小山田家もやって来て、シーフードの匂いが充満するリビングはすっかり宴会になっていた。は今度は夫と尊を捕まえて全部ブチ撒けた。

「えー? ミチカがあ〜?」
「よしよし、つらかったろ。尊、責任持って小遣い増額してやってくれ」
「え、ちょ、なんでオレが!」
「みこっさん、私の心は寒いけど懐が温まれば心も温まると思う」
「お前ら、それタカりっていうんだからな……

はニヤニヤと笑いつつ、酒が入ってピンク色の頬で信長に寄りかかった。

……どした」
「私、信長と結婚してよかったなあって思ってさ」
……
「お前らそういうことは部屋行ってやれ」

つい見つめ合ったと信長に突っ込んだ尊もすっかりピンク色だ。

「まあでも、仲良きことは美しき哉、神そらに知ろしめす、世はすべてこともなし、だからな〜」
……みこっさんそういえば最初にウサコと話した時」
「うん、ほぼ読み通りだったね。もう少しウサコの方がこじらせてると思ってたけど、そこはそうでも」
「今、みこっさんの目から見ててどう?」

声を潜めるに尊はニヤリと唇を歪めた。楽しそうだ。

「そんなの決まってんでしょ、もう半年も経つけど、未だに恋する乙女の顔してるよね。てかそれって頼朝も同じだろ。あいつらこじらせた大人同士支え合って生きていきます的なこと言うけど、ふっつーに好きで付き合ってるだけのカップルじゃん! 全然隠せてないし!」

と信長はその身も蓋もない解説につい吹き出した。

ただ好きで付き合ってるだけの。それでいい。それで充分だ。

翌日の昼過ぎ、シーフードの匂いが充満する清田家に頼朝とウサコが帰ってきた。今回は内陸の方に出かけていたのだが、渋滞を避けているうちに海の方に出てしまい、結局漁港のショッピングセンターで海鮮を買い込んできた。本日も酒宴の予感。

結婚の話が出たあたりで頼朝は両親とに「1年間だけ新婚と思って融通を利かせてもらいたい」と頼んできた。結果的には交際期間ゼロで結婚したようなものだし、3人はそれを快諾、人手が増えて楽とはいうけれど、こうした旅帰り後などはふたりともあまり家事に参加しない。

月曜から金曜の17時までは清田家の一員。金曜の終業後から日曜は、ふたりの時間を優先する。これを1年間。それが頼朝の希望だった。ウサコはそれでいいんだろうかと葛藤していたが、普段はしっかり参加しているのだし、自分たちのことをに丸投げしているわけではないので、問題はなかろう。

日曜の午後、リビングはまた来客で騒がしかったけれど、2階は静かでゆったりとした時間が流れている。荷解きを終えて収納部屋から戻ったウサコを手招き、頼朝は並んでソファに腰掛けた。頼朝はコーヒー、ウサコは緑茶。最近小さな冷蔵庫も入れたので、ふたりは部屋で過ごす時間も増えていた。

「来月の第3週あたり空きそうだな。次はどこにしようか」
「えっ、もう次の話ですか」
「早い方がいいだろ。近場ばっかりだったけど、少し遠くまで行くのもいいな」
「あんまり遠いと疲れない?」
「空路」
「えっ」
「金曜の夜のフライトで現地入りして、日曜の午後に帰ってくるくらいの」
「私、飛行機乗ったことなくて」
「え!? ほんとに!?」

というかウサコは旅自体をほとんどしたことがないのである。修学旅行が中高と京都だったので、新幹線には乗ったことがあるが、そこまでだ。空港にも降り立ったことがない。

「じゃあ空路行ってみるか。九州か四国か……
「あ! 私、出雲大社行ってみたい!」
「島根か。石見銀山に松江城、玉造温泉もいいな」
「いいんですか?」
「もちろん。ウサコが行きたいところでいいんだよ」

「結婚」以来、頼朝は基本ウサコ最優先である。この週末プチ旅行に関しては頼朝の方にそれほどこだわりがないから、というのもあるが、ぶーちんが「やっぱりアレ頼朝ちゃんの皮被った妖怪だよ」と言うくらいには彼女の希望に沿うように生活している。

頼朝は嬉しそうなウサコを抱き寄せてこめかみにチュッとキスをする。

対ウサコに関して頼朝の方が譲らないのは、こうしたスキンシップであろうか。とにかく不慣れなウサコは当初戸惑いまくったし、今でもサラッと受け入れられるほどには慣れていない様子だが、頼朝はそこだけは遠慮しない。そこは曲がりなりにも清田家の男のようだ。

「年末年始をゴッソリ留守にするのはさすがにマズいかな〜」
「今年は餅つき復活したいってじいじが言ってたし」
「少し年末年始の休みを減らして、春辺りに連休入れるか……仕事の様子見てねじ込むか」
「1年、あっという間に過ぎそうですね」

半年かけてだいぶ緩んできたとはいえ、ウサコは未だに敬語混じりで頼朝と話す。それを事務所によくやって来るおじさんたちは「頼朝ちゃんは亭主関白か! いいぞ、最近の男は腰抜けが多いからな!」と喜ぶが、実情はだいぶ異なる。亭主関白どころか、ウサコウサコと追いかけ回して依存気味。

ウサコを大事に両手のひらに乗せているようで、頼朝の方がウサコに甘やかしてもらっている。

「1年なんて言わずに3年くらい申請しとけばよかった」
「未だにじいじが言いますよ、少しふたりで家を出てきたらどうだって」
「オレがベッタリなのわかってるからだろうな。家族の目のないところの方がいいんじゃないかって」
「私はこれ以上増えたらメンタルが持たないのでいいんですけど」
「え。なんで」
「ドキドキしすぎて心臓止まります」
「いくらなんでも半年だぞ。そろそろ慣れてくれても」
「無理です」

今も至近距離に頼朝の顔があるので、ウサコはそれとなく目を逸らしている。

「前にウサコの方からキスしてくれた時、ようやく慣れてくれたのかと思ったのに」
「あ、あれは軽率でした。分不相応なことしました」
「オレはウサコの方から熱っぽく誘ってくれるとか、そういうのを希望してるんですが」
「えっ、ちょっ、それはハードルが高すぎる……!」
「そんなことないって。一言『しよ』って言ってくれればいいだけじゃん」
「それがまず無理です口から内臓出てきます」
「ウサコ、言ってほしいな、お願い」

しかしウサコも無理無理言いつつ、この手の頼朝の「おねだり」には弱い。しつこくそそのかしていると、そのうち洗脳され始めるので、遠からず頼朝はウサコから誘ってもらえることだろう。

「そんな、若い子じゃないんだし……
「別に年は関係ないんじゃないの。誰が見てるわけでもないんだし……

毎度ウサコが逃げ口上にする年齢のことを持ち出したので、頼朝は彼女の頬を両手で包むと、そのまま顔を近付けていった。その時である。

「あー! うーちゃんととも、チューしようとしてるー!!!」

ふたりが驚いて顔を上げると、部屋のドアが開いていて、隙間からカズサの顔が覗いていた。目鼻立ちから髪の質感まで父親そっくり、そして父親より腕白と来ている。どうやらドアがきちんと閉まっていなかったらしい。カズサはきゃーっと笑い声を立ててその場を走り去る。

「おかーさーん! うーちゃんととも、チューしようとしてるよー! エッチー!」

ウサコは立ち上がりかけるも、狼狽えていたせいでよろけて頼朝の胸に倒れ込む。ああやばい、カズくんに見られただけじゃなくて、もいるの!? ウサコは背中が冷たくなって、頬がカッと熱くなった。そりゃ夫婦として暮らしているのだからおかしなことはないのだが、どうしても恥ずかしい。

だが、廊下の向こうから聞こえてきたの声は、

「何がエッチなの! 好きなんだからチューするの当たり前でしょ!」

そう言った。慌てていたウサコはぴたりと止まる。

「えー! 違うよー!」
「違わない! うーちゃんとともは好きだからいいの! てかお母さんもカズサにチューしたい!」
「やだー!」
「なんで!? お母さんカズサのこと好きだからチューしたい! チューしよ!」
「おかーさんとはしないよ! オレがチューすんのララ姫ちゃんだけだもん!」
「えっちょ、誰それ!? てかそれ名前!? ちょっとまってカズサどういうことー!」

4歳児の突然の告白に狼狽えたの声が遠ざかり、ウサコが顔を上げると、柔らかく微笑んでいる頼朝の顔があった。少し「してやったり」という顔にも見える。

「オレはが正しいと思うな」
「そ、そうですね」
「年齢とか、なんかそういうの、関係ありますか?」
「な、ない、ですよね?」

改めて頼朝はウサコの顎をすくい上げて、顔を近付ける。

「じゃウサコ、オレたちは好きなので、チューしよっか」
「はい、しましょう」

隙間の空いたドアの向こうではまだがカズサを追いかけ回している。それを遠くに聞きつつ、ふたりは少し笑いながら何度も唇を重ね、ゆったりと抱き合う。

好きなので、愛しているので。それだけで充分です。

END