カサンドラのとなりに

4

「本当に手は出してないでしょうね……?」
「あのねえ、オレ、タイプは選ばないけど分別はあるんだよ」
「分別」
、オレももう33なんですけど」

清田家のリフォームが進み、内装もほぼ終了して細かな仕上げを施している頃。深夜になって帰宅した尊が風呂上がりのを捕まえ、ウサコと喋ってきたと言い出した。

しかし深夜のリビングはすぐ隣が新九郎と由香里の部屋である。は尊を2階に追い立て、事務所で子供たちを寝かしつけつつ一緒に寝ていた信長を揺すり起こして引っ張ってきた。

「なんかすごい大荷物抱えてる人がいるなと思ったらウサコだったんだよ」
……お兄ちゃんがチャリかバスかどっちかにしろって言ったもんで」
「でも生鮮食品はないみたいだったから、お茶に誘ったんだよね」

この日は仕事ではなく、都内で行われていた業界の表彰式に出ていた尊は珍しく早い時間に地元の駅に帰ってきた。それがちょうど18時頃のことで、17時に退勤したウサコが買い出しの荷物を抱えて駅を越しているところに遭遇したらしい。

以前から少しウサコと話す機会がほしいと考えてきた尊だったが、とにかく時間が合わない。新九郎や由香里は週末のバーベキューに招待したがるけれど、頼朝が反対をするので実現しないままになっている。かといって、尊が話したいからという理由で週末に席を設けるのもおかしな話だ。

「ものすごく遠慮したんじゃないの」
「遠慮っていうか、もはや拒絶って感じだった」
「ていうかみこっさんの装いもマズいよね」
「それはしょうがないじゃん。表彰式の後はパーティだったんだし」

普段仕事の時のウサコはジーンズにカジュアルなトップス、寒い時期ならその上にジャンパーやコート、という装いだ。対する尊はスリムなチャコールグレーのスーツにベージュのトレンチ、赤みの強いブラウンの靴という出で立ち。その上に尊の顔だ。ウサコでなくとも逃げたくなる。

尊はジャケットやら靴下をぽいぽいと脱ぎ捨て、シャツの襟元を広げて胡座をかいている。

「ウサコもそれはそれで頑固だろ。どうやって口説き落としたんだよ」
「えっ、別に特別なことはしてないよ」
「信長、あなたのお兄さん普通の人じゃないでしょ」
「すまん、聞いたオレがバカだった」

尊はお茶を啜りつつ、ゆったりと微笑む。本人の自己申告通り現在尊は33歳だが、30を過ぎてモッサリが加速した頼朝とは違い、これに比べたら20代の尊など子供騙しに過ぎないな――と思えるほどの魅力を湛えている。その上、これまではただ外見の良さで女がポーッとなるだけだったところ、老若男女問わずに好印象を抱かせる人物へとグレードアップしていた。ウサコも騙されよう。

……ねえ、あの子、いい子だね」
「で、でしょ!? そう思うでしょ!? そうだよね!?」
、うるさい」

つい大きな声をあげたは信長に突っつかれて慌てて両手で口を覆った。風呂上がりでピンク色になっていた頬がさらに赤く染まる。そうなの、ウサコって、いい子なの!

「ノブもオレよりは話してると思うけど、どう?」
「うーん、オレはちょっと可哀想が先に立っちゃってるもんだから……
「それはオレも同意見。色々可哀想っぽいね」
……やっぱりか」

信長と一緒にも肩を落とした。ぶーちんも交えてお茶をする頻度としては月イチ程度に過ぎないけれど、それでももうそろそろウサコがアルバイトに入って1年が経とうとしている。しかしウサコは自身のことについてはほとんど話さない。

例えば好きな音楽だとか、好きな食べ物だとか、そんな話なら出来る。しかし、子供の頃、学生の頃、20代の頃のこと、彼女はほとんど話さない。やぶーちんの話を聞いて笑うだけだ。

しかし、ウサコがアルバイトに入ってきた時、由香里はこう説明していた。「高校出て就職したんだけど、体を壊して辞めて、以来アルバイトを続けている」それはもう何年にも及んでいるということだったはずだった。絶望的に縁がなくて再就職できていないか、あるいは――

そしてあの母親と祖母の店である。穏やかならぬ事情がありそうだと推察するに余りある。

「なんだっけ、お父さん知らないとかなんだよな?」
……ってゆかりんとお兄ちゃんは聞かされたみたい」
「だけど男の出入りはあったみたいだし、なんかどうも、おじさんがちょっと問題あるみたいで」
「おじさん……あのお母さんのご兄弟ってこと?」
「たぶんね」

新九郎とは違う意味で尊は大変なフェミニストである。またお茶を啜った彼は眉間に皺を寄せて髪をくしゃくしゃとかき回した。18から20代半ばを全て金髪で通したが、父方も母方も毛髪がクドい家系の清田家、尊の毛根もノーダメージである。

「本人はよくある話って感じで話してたけど、小学生の頃から店に出てたっぽい」
……は?」
「そりゃドレス着ておじさんにお酌してたとかではないみたいだけど、それでも深夜までスナックに」
「だけどそれはお母さんたちがいるからバックヤードで過ごしてたとかいうことでは」
「ないね。愛想がないからよく怒られたって言ってた」

由香里と頼朝の話では、「バイオレット」の常連客は概ね60代から70代の男性だったという。それがウサコ小学生時というと、充分におじさんたちである。しかも全員酔っ払い。怖かっただろう。

……言いたいけど、言っちゃいたいけど言えないって感じの話し方だったな。世間が面白がって『こじらせ』とか言って小馬鹿にしてる女の子たちって、大なり小なりそういう過去を抱えてることって多いだろ。程度も人それぞれだけど、私はこんなつらい思いしてきた、だけどどうして今もつらいんだろう。君たちの将来は光り輝いているって耳にタコが出来るくらい聞かされて育ってきたのに」

は肩と一緒に頭も落とした。尊の言葉だけで充分だ。詳しい事情はともかく、同世代のにもその感覚はよくわかる。そういう寂寥感を抱えて、けれど真っ当に生きているのに、突然「こじらせてる」という看板を背負わされ、笑われ、厄介者にされるのだ。

5年も遠恋をしたとはいえ、心底思い合って結ばれた夫がいて子供がいて、生活にも困らず、その上最近では義兄ふたりとエンジュにお小遣いをたんまりもらっているは、そんな自分の境遇に感謝するのと同時に、そういう自分が「リア充」という言葉でまとめ上げられ、上から目線で差別を楽しむような輩と同列に考えられるのを腹立たしく思っている。

言葉は無責任だ。人はぶーちんをリア充とは呼ばない。

結婚していて、家事をやらなくても働かなくても夫は妻を溺愛しているし、夫の勤め先が何かと言うと助けてくれる。それでも彼女のことをリア充とは言わない。デキ婚で高校中退、職歴もなく、太っていて、夫はバリアートの建設作業員。それをと同じには考えないのである。

しかし、とぶーちんはよく言うのだ。毎日子供を追っかけ回して疲れてるのは同じなのにね。

というか、18で最初の子を死産、それを乗り越えて20歳で無事に子供を授かったぶーちんは、本人が堂々とふんぞり返るように、ろくに学校も出ていないし、働いてないし、大変ふくよかな体をしているが、凄まじい強メンタルの持ち主で、幼稚園でも小学校でも彼女の子供のクラスにはいわゆる「ボスママ」が発生しないことで知られている。ゆる〜く人をコントロールするのが異様に上手いのである。

そういうわけで「小山田さんとクラス離れちゃったつらい死にたい」とママ友が絶望するくらいには、彼女は信頼を寄せられる人なのであるが、人は彼女を「DQN」に分類し、蔑む。はそれが我慢ならない。強メンタルの本人は気にしていないけれど、の方がイライラしてくる。

尊の言葉は、そういう悪意のない悪意の中にいるであろうウサコを浮き彫りにする。

……実は、最近、チュカがね、ウサコのこと、そういう風に、言うの」
「ミチカが? まあ、言いたいこと言うタイプではあるけど」

尊と同じ中学で、尊の8番目の彼女であるミチカは、神奈川に帰ってきてからのとよく遊ぶようになった。出身高校も同じで、職場も自宅も地元、どちらも一番都合のつきやすい相手だった。尊のことは関係なく、子供が出来るまでのはしょっちゅうミチカと飲んでいた。

しかし、尊と同い年のミチカは年下のが結婚するのを目の当たりにして焦り、散々合コンに通いまくったけれど、結局29歳と8ヶ月で小学生の時に同じクラスだった地元の男性と結婚することになる。禿頭で強面でプロレスラーのような巨漢だが、小心者で優しいという可愛らしい人だった。

そして結婚後すぐに妊娠、女の子を出産した。そのあたりから人が変わった。

「ミチカはあれだよ、SNSに洗脳されたんだよ」
「ああ……最近多いね」
「うちのチームの情報欲しさに始めたもののだったはずだから、ちょっと後ろめたいけど」

信長が所属することになったのをきっかけに、プロバスケットボールに興味を持った身近な人は多い。家族はもちろん、友人や、ご近所さんまで。その中で一番熱心にファン活動を始めたのがミチカだった。彼女は情報収集のためにSNSを本格的に活用し始める。

最初は本当に情報収集が目的だったのだ。選手の個人アカウントを見て楽しんだり、観戦に関わる情報を手軽に入手できるので重宝していた。しかし、それはやがて情報収集よりも交流の方が目的となっていく。「ミチカ@バスケ垢」は開設2年目でフォロワーが200人を突破、現在は放置状態の「死に垢」も含め500前後のフォロワーを抱えるアカウントに成長した。

もちろん現在でも情報源として活用している。信長は引退したけれどチームは相変わらず応援しているので、そのためにも利用している。だが、結婚以降独身時代ほど好き勝手に遊べなくなった彼女は、SNSの世界で声高に何かに文句を言うばかりの人になってしまった。

至極真っ当な主張から、あくまでも個人の意見という程度のものまで幅は広いが、とにかくミチカはおよそ500人のフォロワーと一緒に日々の生活や子育てや自分の趣味のことまでを強い口調で語る。

元々主張の強い人物ではなかった。周りの意見に流されるということではないけれど、明るく元気な楽しいお姉さんで、割とずけずけと物を言うタイプではあったけれど、それでも世の事象についてもっともらしく語るなんていうことからは程遠い人だった。

それが今や、SNSモンスターである。

「賢い子ではなかったから……主義主張にあたる意思表示が支持を集めれば鼻も伸びるだろうけど」
「それは好きにしてくれていいんだけど、現実の世界も同じようになってきちゃったっていうか……
「でも、SNSってウサコみたいなタイプが同情を集めそうな印象があるけど」
「ええと、チュカから見ると、汚いデブで貧乏人でDQN、なんだって」

がつらそうな顔をしたので、尊はつい彼女の肩をさすった。

「それに、最近特に家庭内の愚痴ばっかりになってきて、ちょっとつらくて」
「おかしなもんだよな。ぶーはそういう話ほとんどしねえのにな」
……桃香は地獄見てるからね」

ぶーちんの死産をすぐ近くで見てきた尊は、つい彼女のことを本名で呼んだ。

「ぶーとミチカの差って、そういうことの差なわけ?」
「いや、思い通りにならないことへの向き合い方の差だよ」

こちらも眉間に皺が寄っている信長に、尊は頭を振った。

「オレもこの間一緒に仕事した人がそんな感じだったけど、社会正義や差別に対して過敏な人ほど、問題があった時にはその原因を徹底排除しなければという傾向があるとオレは思っててね。不寛容社会なんて言われて久しいけど、不寛容社会を正すために正義の行使と言う名の不寛容を掲げてる」

は頷いていた頭をはたと止める。そういえば尊もある意味ではマイノリティだった。

「でも、ぶーってそういうのないだろ。あの子も頼朝あたりに言わせると、世界が狭い無教養マイルドヤンキーってことになるだろうけど、少なくとも桃香は誰かを仲間外れにすることで平和を感じるタイプじゃない。自分が楽しく生きるためには自分の周囲の人々が幸せでなきゃというタイプだから。でも今のミチカは違うんだろ? 自分が幸せに生きるためにこの世のクズを駆逐しなきゃって、そういう感じなんじゃない? 思い通りにならないことを憎むか、建設的に捉えるか、その差って言えばいいかな」

は頷くだけしか出来ない。ミチカがそのとおりだったからだ。

「アユルちゃんを思い出すね。気に入らないことは『死ね』でひとまとめにしていたあの子と大差ないと思うな。だから……ウサコみたいな子って、世の中のほとんどが攻撃を仕掛けてくる敵なんだよね」

尊は何時間も話してきた割には詳細を語らない。しばし沈黙ののち、信長は咳払いをして手を挙げた。

、嫌な風に聞こえたらごめん、でもちょっと勘弁して」
「え、うん……
「尊、正直言って、ウサコって女としてどう思った?」

まだ眉間に皺が寄っている信長の言葉には目を丸くし、尊は柔らかく吹き出した。

「それってオレの意見なんか世界で一番参考にならないんじゃないの〜」
「それでもだよ」
「アリかナシかで言ったらアリだよ。色々柔らかそうだし、すぐ狼狽えるところとか、かわいいし」
……だけど、手を出したいとは」
「思わないね」
「理屈としては?」
「まあ、単純に1対1の恋愛しか出来なさそうだからってのが理由にはなるけど」

尊はニヤリと笑って腕を組み、下からすくい上げるような目線をふたりに向けた。

「でもそうだね、面倒くさそうだよ。ちょっと触ったら壊れるかもしれないし、責任持てない」
「えっ、壊れる?」
「そういう危うい感じしなかった? まあ女の子同士は分かりづらいかな」

やはり尊ははっきり言うつもりがないようなので、は首を傾げつつ、夫の方を向いた。

「あんたはどうなの」
「えっ、何が」
「ウサコみたいな子ってアリかナシかで言ったら」
「それ聞きたいの!?」
「みこっさんよりは平均的な意見だと思う」
「まじかよ。えーとその、絶対やだってことは、ない、たぶん。アリ……に入ると思う」

恋女房の真剣な眼差しの中で信長は腕を組んだまま項垂れた。

「ねえねえ、じゃあやっぱりお兄ちゃんがやたらと冷たいのって、何が理由なの?」
「それはなんとも……
「そりゃ別に従業員を全員愛しなさいとは思わないけど、だけどお兄ちゃんだってうちに戻るまでは外でちゃんとやれてたはずだし、気が合わない同僚くらいどこにでもいるじゃない。それをいちいち表に出してウサコをちくちく突っついてるのって、私どうにも違和感がある」

信長と尊は揃って頷き、そのまま首を傾げた。

「そこって、お兄ちゃんが偉そうに言いがちな『社会人としてのマトモな振る舞い』のうちじゃない? 多少トロくはあるけどウサコはちゃんと仕事してるし、お兄ちゃんがあれこれ言うことにもちゃんと従うし、そこは社会人として私情を挟まないものじゃないの?」

の意見は至極まともに聞こえる。頼朝は専務だが、技術者の方は管理する立場にないので、その都合から人事の決定権は全て社長の新九郎にある。細かいことを言えば新九郎は頼朝の上司に当たるわけで、それが採用とした従業員が気に入らないとゴネるのはお門違いに思える。

それでも頼朝が遠慮なくウサコに刺々しく接するのは専務という立場があるからであり、新九郎が引退すればそのままスライドで社長になるからだ。刺々しい態度で接してもいい立場であると無意識に思っていると見る方が自然な気がする。

「この間、なんでそんなにウサコにこだわるんだって言ってて、それには私返事しなかったんだけど、むしろウサコにものすごくこだわってるのってお兄ちゃんの方だと思うんだよ。うちと関わり合った人なんてみんなホイホイ家の中入ってくるし、ミエさんなんか朝少し早く来てお茶飲んだりしてたじゃん。なのにウサコだけはダメだ、なんて、意味がわからない」

勤続20年のミエさんは当然清田家に深く入り込んでいたし、もちろんバーベキューにも来ていたし、彼女が退職する時は頼朝も個人的に贈り物を用意していたくらいだ。それと比べてしまうと頼朝の主張は根底から崩れる。ぶーちんにダブルスタンダードと言われても仕方ない。

ミエさんは現在の倫理観以前の従業員だから特例、今後はそういうことは一切許さないということなら、それこそ新九郎が決めることであって、頼朝が勝手にやっていいことではない。新九郎はウサコと親しくなりたいと思っているので、絶対に頷くことはないだろう。

すると、黙って話を聞いていた尊がいきなり音も立てずに吹き出した。

「えっ、なに」
「ごめん、それってなんだか恋してるみたいだなって思って」

尊はさも可笑しそうに笑っている。

「気になって仕方ないのは恋とか一昔前の女の子みたいなこと言うつもりはないんだけどさ、やたらと突っかかったり、ウサコだけダメなんて、ポジティブかネガティブかの違いくらいなもので、要するにどっちも執着じゃん? そういう意味じゃ特別な存在だよね」

くつくつと笑う尊に、と信長はしょんぼりと眉を下げた。

「それが恋なら困ることなかったのにな」
「だけどこれが簡単に恋になるようならふたりともこんなことには」
「あはは、どっちもこじらせてる同士だねえ」
「みこっさん、そういう言葉、嫌なんじゃなかったの」

大あくびでへらへら笑っている尊に睨んでみせただったが、尊はニヤリと唇を歪めた。

「オレはこじらせてる女の子もかわいいもん。出来るならみんな愛してあげたいよ」

はウッと喉を詰まらせて黙った。遠い日にぶーちんは尊を評して「あたしたちとは、愛の大きさが違うだけなの」と言った。それを思い出した。

「ふたりとも『それで結局ウサコと何話したんだよ』って顔してるけど、ウサコがガード固いのはオレよりよく知ってるだろ。だから、半分くらいは会話を元にしたオレの推測でしかなくなっちゃうんだよね。だから、それはいつかね」

大量の女と付き合った尊の経験から導き出された推測なら信憑性があるのではないかと思うと信長だったが、柔和なようで尊も清田家の人間、一度決めたことは曲げない。聞き出すのは無理なようだ。だが、彼は視線を逸らしてぼそりと付け加えた。

「とんでもないものが、隠れてるかも、しれないしね」