カサンドラのとなりに

8

玄関付近の隠し鍵、それは防犯意識が低かった昭和時代の習慣である。

ポストの中や植木鉢の下など、子供でも分かる場所に鍵を隠しておいて、万が一親が不在の時に子供が帰宅したらそれで家の中に入れるように。そういうのんびりした時代のよくある光景ではあった。

新九郎がいずれ孫たちが成長した暁には隠し鍵をやりたいと言った時、頼朝はまた頭ごなしに文句を言った。何でもかんでも自分が若かった時代の感覚で物を言うなよ!

だが、新九郎はなぜかこれを譲らず、リフォームの時にこっそりと「隠し場所」を作ってしまった。

ただドアがあるだけだった玄関はこの度のリフォームで屋根が付き、玄関ポーチが出来た。その両側は犬が飛び出ないように1メートル40センチほどの高さの柵になっていて、南京錠で施錠できるようになっている。簡単に乗り越えられる高さの柵のため、ここは簡易施錠にするしかない。

なので、この南京錠の鍵は複製されて家族全員に配られた。ここは突破出来る前提の場所である。

そこから入ると新たに整えた庭が広がっており、以前は縁側と窓しかなかった部分にウッドデッキが作られた。それに合わせて塀の内側は洋風な装飾が施され、カラータイルとぶら下げるタイプの植木鉢が交互に続いている。

実はこのカラータイルが、全て外れるようになっている。中は薄い空洞。

これを新九郎がコソコソと作っているとも知らず、頼朝はリフォームが完了してから種明かしをされて大いに呆れたものだった。その上カラータイルは全部で12枚あり、淡いレインボーカラーには薄っすらと数字が刻まれていて、新九郎は鍵の隠し場所を毎月変えるのだとふんぞり返った。

1から12の数字が刻まれてたらどう考えても当月の箇所をいじるに決まってんだろ……! 頼朝はそう考えてがっくりと肩を落としたけれど、もうこうなったら事務所とまとめてセキュリティを入れるしかないと考えていた。

子供が締め出されるより、女子供しかいない時に隠し鍵を使われる方がよっぽど危ない。

だが、セキュリティを入れていないことと、不用心な隠し鍵が役に立ってしまった。

タクシーですっ飛んできたウサコは新九郎からこっそり手渡しで預かった南京錠の鍵を使って柵を開け、携帯の明かりを頼りに「12」のタイルを探した。タイルは外せるのでランダム配置、12は玄関側から7つめの場所にあった。タイルの上部に爪をかけ引っ張ると、思ったより簡単に外れた。

中は奥行きが2センチほどしかない空洞になっていて、短いフックに鍵がぶら下がっていた。

まるでお宝探しのアドベンチャーみたいだなと思いつつ、ウサコはその鍵を取るとタイルを元に戻し、柵も閉め、南京錠をかけ、今度は急いで玄関ドアを開いた。普段なら子供たちが駆け回り、と由香里の大きな声がこだましている清田家は耳に痛いほど静まり返っていた。

「頼朝さん、北見です! どこにいらっしゃいますか!」

一旦玄関ドアに鍵をかけたウサコは、火がついたように犬たちが吠える中で玄関を上がる。リビングのドアを開くと、ケージの中で激しく吠える犬たちしかいない。すっかり片付いていてダウンライトのリビングはまるで別の家に見える。しかし頼朝はいない。

階段下のトイレも明かりが消えているのでいない模様。ウサコは階段を駆け上がった。すると、折り返したところで階段の上に白っぽい手が見えた。トイレの前で倒れている頼朝が伸ばした手だった。

「頼朝さん! 大丈夫ですか!」

これが通常運転の頼朝なら「大丈夫じゃないから助けを呼んだんだろ。大丈夫ですかって聞き方はおかしい」とでも言うことだろう。しかし、苦痛でのたうち回っていた彼にそんな余裕はなく、白っぽい手が弱々しく浮き上がっただけ。

「きたみ、さん」
「救急車、呼んだ方がいいか聞きますね。吐きました? 下痢は?」
「どっち、も……

頼朝は苦痛に歪んでいた顔を上げた。すると、マスクにメガネにジャージ、そして手には大きなビニール袋という、胡散臭いサンタクロースのようなウサコが携帯を操作していた。

「きたみさ……それなに……
「あっ、すみません、一昨年母がノロやってるんです。詳しいことはまたあとで」

普段のオロオロしているウサコではなかった。落ち着いた声でそう言うと彼女は救急相談に電話をかけ、30代の男性がノロウイルスらしい症状でひとり何時間も過ごしてしまったと相談している。

「頼朝さん、救急車呼んだ方がいいということなので、病院行きましょう。吐いたのは全部トイレですか? どこかにこぼれたりとか……

頼朝は弱々しく首を振る。一応嘔吐は便器に顔を突っ込んでやったので、こぼれているとしたら倒れていたトイレの前の廊下だけだ。ウサコは頷き、携帯をバッグの中に戻すと、頼朝を抱き起こした。

「服に跳ねているかもしれないので、着替えられますか。場所がわかれば取ってきます」
……クローゼットの、衣装ケースの一番下に」
「わかりました。ちょっと待っててくださいね」

ウサコはダッシュで頼朝の部屋に入ると、指示のあった衣装ケースを引き出した。そこにはウサコが着ているようなジャージが数セットまとめてある。その中でもくたびれていそうなものを掴むと、またダッシュで戻る。

「ちょっと寒いけど頑張って下さい。上下だけでいいですから」

頼朝を引っ張って倒れていた場所を離れると、ウサコはジャージを差し出し、ビニール袋の中からあれこれと道具を引っ張り出している。頼朝が朦朧とする頭で服を脱ぐと、手袋をしたウサコはそれを新しいビニール袋に突っ込む。

「部屋の、壁にかかってるグレーのコートの、ポケット」
「わかりました。取ってきます」

ビニール手袋を外したウサコはまたダッシュ。コートのポケットには財布が入っていて、ドア付近のチェストの上には車のキーらしきものも置いてあった。

「頼朝さん、お車お借りできますか。それで救急車を追いかけます」

頼朝が力なく頷いていると、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。ウサコはまたビニール袋の中から毛玉だらけの大きなストールを引っ張り出して頼朝に巻き付け、階段を降りるよう促した。すぐに立ち上がって歩けなかった頼朝は、ウサコに支えてもらいながら階段を座ったまま降りていった。

頼朝が玄関で靴を履いてぐったりしていたところに救急車が到着、清田家が静かすぎて怖いと怯えていた梶原さんが飛び出てきて、真っ青な顔になっていた。それを横目に頼朝は救急車に乗せられ、また遠くにウサコと救急隊員の声を聞きながら、呻いていた。

梶原さんの奥さんがウサコに駆け寄る。

「お姉さん確か事務所で働いてらっしゃる方よね」
「あ、はい、北見と申します」
「頼朝くんどうしたの」
「ノロウイルスみたいなんです。脱水がひどいといけないから、病院に」
「あらやだ、そうなの。大晦日なのに大変だわ……
「お騒がせして申し訳ありません」

ノロウイルスと聞いて梶原さんちの奥さんは幾分ホッとしたようだが、やっぱり慣れないことするから不幸を呼んじゃうのよ、と怯えがぶり返していた。ウサコは寒いから風邪を引かないようにして下さいねと言ってその場を下がり、救急隊員のところへ戻った。

搬送先が隣の駅の総合病院だと言うので、帰りのために車で追いかける旨を説明して、救急車が出た後に頼朝の車で清田家を後にした。

病院で点滴を受けている間のことなどはほとんど覚えておらず、ウサコの運転する車で帰る途中辺りまであまり記憶がない……と頼朝はのちに語った。とりあえず処置は終ったし、下痢はともかく嘔吐は落ち着いたようだし、後は水分補給をしながら症状が抜けるのを待つのみ。

頼朝が点滴を受けている間、ウサコは病院側に断った上で一旦外へ出て24時間営業のスーパーまで走ると、スポーツドリンクやら水やら、またはこの後の除菌に必要なものなどを買い漁ってきた。そしてぐったりする頼朝に代わって会計も済ませ、23時半頃にようやく帰ってきた。

また犬たちが激しく吠える中、ウサコは頼朝の体を抱えるようにして階段を登らせ、部屋まで連れ帰った。無人の清田家はすっかり冷え切っていて、急いでエアコンを入れるも、なかなか温まらない。

「頼朝さん、立てますか」
「たぶん大丈夫。さっきよりはかなり楽」
「シャワー、入れますか。全部洗っちゃった方がいいと思います」

帰る道すがら、ノロウイルスは吐瀉物と便の中に大量にあること、それらは蓋をしないと便器の洗浄で室内に一気に舞い上がることを説明された頼朝は小さく頷いた。最初に嘔吐した時から既に蓋を全開で洗浄したので、おそらく2階のトイレはノロウイルスだらけになっているに違いない。

「洗うだけでいいのか」
「はい。お風呂の方はあとで除菌するので、外に出ている部分を全部洗えばOKです」
「トイレは?」
「頼朝さんがお風呂に入っている間に少しやっておきます」
「廊下の……倒れてたところ以外は大丈夫だと思うんだけど」

後で除菌する手前、狭い方が楽だろうということで、頼朝は女性陣向けに設えたシャワールームの方に入った。冬なので外に出ていたのは手首から先と、首から上くらいなものだが、ヨロヨロしつつも全て丁寧に洗った。

「今、空間除菌て言えばいいでしょうか、薄めた塩素系漂白剤を撒いてきたんですが、次から蓋を閉めて流して頂いて、その後に除菌水をシュッシュしてくださいね」

ウサコはスプレーボトルに除菌水を作り、トイレに置いてきた。何しろこのノロウイルスは感染力が強く、アルコールでは除菌できないときている。家庭では希釈した塩素系漂白剤を用いることで対処が可能だ。ウサコは頼朝がシャワーに入っている間にその準備を進めていた。

すっかり全身を洗い流して清潔な部屋着に着替えた頼朝は、ウサコにドライヤーをかけてもらっていた。苦痛のせいで疲れ切ってしまい、シャワーで力尽きた。背筋を伸ばして座っていられない。

「それから、スポドリと水、両方用意しておきましたので、どちらでも」
……北見さん、なんでこんなに詳しいの」
「一昨年母が。祖母に伝染ると厄介なので、色々調べて除菌しまくったんです」
「北見さんは伝染らなかったの」
「はい、おかげさまで」

ドライヤーをかけ終わったので、ウサコはそのまま頼朝をベッドに寝かせた。どうせそのうちまた腹痛に襲われてトイレに駆け込むことになるだろうが、少しでも休んで体力を回復した方がいい。

「免疫力が高いと症状が軽い場合もあるそうですよ。リフォーム長かったし、お疲れだったんですね」
「そう、かな」
「あ、そうだ、万が一ということもあるし、車も除菌水で拭いていいですか?」

頼朝は首を捻ってウサコの方を見た。

「今からやるの?」
「長時間放置しない方がいいのではと……
「だってもう……

帰宅した時、既に23時半だったのに――と頼朝が壁を見上げると、そろそろ深夜1時になろうとしていた。そして唐突に今日が1月1日であることを思い出した。

……北見さん」
「はい、何でしょう」
「あけまして、おめでとうございます」

なんの義理もないアルバイトなのに、とんでもないことに巻き込んでしまった。普段から彼女が家の中に入ることを嫌がってきたというのに、彼女しか助けてくれる人はいなかった。弟の尊ですら逃げたのに、ウサコはふたつ返事で飛んできてくれた。

頭がぼんやりしている頼朝はそれを漠然と考えつつ、しかしとりあえず元旦なので新年の挨拶をせねばと思った。ウサコは一瞬きょとんとしていたが、こちらも1月1日であることを思い出したか、慌ててペコリと頭を下げた。

「わああそうでしたね、あ、あけましておめでとうございます」
……今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ……! 何かと至りませんが、どうぞよろしくお願いいたします」

そんなやり取りが済むと、ウサコは頼朝がまだぼんやりしているのでメガネを外してしまい、エアコンで乾燥するので加湿器を付け、部屋を居間と同じようにダウンライトにすると、そっと部屋を出ていった。トイレと風呂と車を除菌しなければ。

しかしその間に風邪を引いてしまったら意味がない。ウサコはビニール袋の中からもう一組ジャージを取り出すと、重ね着をする。元々ジャージの下には裏起毛のトレーナーやらを着込んでいたのでモコモコだが、こんな真っ暗なのだし誰もいないし、構うもんか。

ノロウイルスが残っていてカズサやアマナ、寿里に感染するよりはマシだ。

の話では2日の午後には帰ってこられるはずだと言っていた。それまでに徹底的に掃除をしておかなければ。それまでには頼朝も少しは回復しているだろうし、万が一ウサコが感染していたとしても、後はたちにバトンタッチできる。

ノロウイルスの面倒くささは身を持って知っている。

一昨年の12月、母親はどこで拾ってきたのか頼朝のように腹具合が悪いと言い出した30分後くらいに、やっぱり水のような嘔吐をした。しかも、知人の店のトイレで。

幸か不幸か、その時同席していた母親の友人がノロ経験者で、全員退避しろと騒いだ。

飲食店なのにノロウイルスをバラ撒いたとして店主は激怒、しかし母親は激しい症状でやはり救急に駆け込み、その後始末だと言ってウサコが深夜に呼び出された。店内の掃除である。店主は知人程度であって親しい間柄ではなかったらしく、ウサコは怒鳴られながら掃除をする羽目になった。

ウサコも翌日は仕事、しかも飲食店だったのだが、どうしようもない。携帯で調べながら掃除をし、母親を病院まで引き取りに行き、医師の指示に従って水分を取らせたりと面倒を見た。さらに下痢が続くために、今度は自宅の対策に追われ、気付いたら外が明るかった――なんていう騒ぎだった。

朝イチでアルバイト先に連絡を入れ、家族がノロウイルスを発症したので丸2日休ませて欲しいと願い出ると、年下の社員は「飲食店なのに自己管理がなってない」と苦言をぶつけてきた。いやいや、だからノロやったのは私じゃなくて母です、と突っ込む気力もなかった。

そしてもちろん「バイオレット」も営業できない。これには祖母がへそを曲げて、潜伏期間と発症という理屈を説明するのに骨が折れた。あたしはお腹ゆるくなってないから大丈夫よと言って聞かなかったからだ。だが、祖母ひとりではすべての仕事をこなせないため、渋々店は休むことになった。

まったく面倒くさい。だからしっかり処理しておかねばならない。ウサコは気持ちを奮い立たせて車内を隅々まで拭き掃除し、新しくなったばかりのトイレとシャワーブースも全て塩素系漂白剤で洗い、それが全て終わったところでジャージを脱いでまたビニール袋に突っ込んだ。

捨ててもいいような使い古したジャージで頼朝の前に現れるのは恥ずかしかったけれど、彼は苦痛で朦朧としており、たぶん認識できてないし覚えてない。だからいいのだ。後で北見さんのジャージの悲惨さは何なのとか突っ込まれることもあるまい。

やっと小汚いジャージから普段の装いになったウサコは頼朝の部屋に戻った。ウサコが掃除をしている間も2回ほどトイレに駆け込んでいた頼朝だったが、それでも病院に行く前よりは顔色がいい。

「いかがですか、眠れそうですか?」
「眠いけど結局痛みで目が覚めそうだし、熱がだるくてつらい」
「さっき38度ありましたよね。冷やしますか?」
「でもなんとなく寒い。冷たいのが飲みたい」
「じゃあスポドリに氷入れましょう。まさかとは思いますけどなにか食べたいとかありますか?」

昼食を食べたきりだった頼朝だが、正直症状がつらすぎて腹が減っているのかいないのかもよくわからない。この苦痛が抜けない限り、食事どころではない気がする。ということは、やはり適宜スポドリなんかを飲んでいかないとまた倒れそうだ。

ウサコがスポドリを氷で冷やしてくれたので、頼朝はそれを少しずつ飲む。ウイルスによる嘔吐なのだが、一気に冷たいものを流し込むと戻ってくるのではという怖さもある。

「一応頼朝さんが戻されて以降触れた場所だとか、そういうところは全部除菌しました」
「こんな寒い中、すみません」
「いえいえ、ちょっと汗かいたくらいです」
……大晦日で、正月なのに」

やっと少し頭が回るようになってきた頼朝はベッドで体を起こして項垂れた。まだ感謝より落胆の方が先に出る。小バカにしていたウサコに頼るしかなかった自分が情けないし、さんざん注意喚起されている非加熱の貝類に対する警戒が甘かったのも悔やまれる。

だが、ウサコはふっと吹き出し、手をパタパタと振った。

「大晦日なんていつも店の手伝いだし、全然構いません」
「だけど、こんな、汚いこと」
「それも母たちの店に比べたら何ということはないですよ」

実際問題、ウサコは頼朝の緊急事態であることを幸いに、逃げてきたとも言えるのだ。ウサコは今年も男なしだったか、と指を差されて笑われながら毎年年を越してきた。それに比べたら、頼朝の車を拭いていた方が全然マシである。いい年越しだったかもしれない。

「じゃあ私そろそろ戻りますね。尊くんは何時頃帰るんですか?」
「え」
ちゃんたち帰るの2日だし、念のためしばらく2階のトイレは使わないように――
「尊、帰らないんです」
「でも今尊くん1階だし――えっ!?」

彼女とカウントダウンにでも出かけているのだとばかり思っていたウサコは素っ頓狂な声を上げた。帰らないって、お兄ちゃんがノロでくたばってるのに帰ってこないの!?

「帰らないって、いつまでですか」
「早くてもみんなが帰ってくるまで」
「それって2日の午後じゃないですか」
「そう」
「だって、頼朝さん動けないじゃないですか」
「オレより姫始めを優先するらしい」
「ひめっ……尊くん確かいつも『家族大好き』って自分で言ってるじゃないですか」
「そこにオレは入っていない模様」
「そんなあ」

事実、おそらく尊の「愛する家族」に頼朝と信長は入っていないはずだ。兄弟は兄弟でしかなく、両親や義妹、甥っ子姪っ子とは愛情のかけ方が違う。ウサコは清田家の仲良しノリを温かい家族愛と思っていたかもしれないが、清田家三兄弟、そこは結構ドライだ。

「だって、ユキちゃんたちの散歩とか、あるじゃないですか」
「こんな正月からやってるペットシッターなんてないよな……
……頼朝さんも、ひとりじゃ」

一旦ひどい脱水は回復したし、現在深夜2時半、発症から7時間が経過しようとしている。24時間程度で症状が抜けると仮定しても、3分の1は終わった。しかしそれは最短で回復した場合の話だ。

困った顔をしたウサコを見上げた頼朝は、つい手を伸ばした。

「あの、北見さん、ちゃんとバイト代は出すので」
「えっ!? いや私そんなこと心配してるわけじゃ」
「すみません、もう、北見さんしか、いなくて」

あまりに苦痛が続くので、頼朝は憔悴しきっている。きっと普段ならこんなこと口が裂けても言いたくないはずだ。ウサコはそれをよくわかっている。可哀想に、一番言いたくない相手に一番言いたくないことを言わなきゃならないなんて……

だいたい、旅行が重なってしまったという不幸なめぐり合わせはあるものの、こんな気に入らんバイトしか頼るところがないってそれもどうなの。そりゃ尊くんはあんな美形だから彼女のひとりやふたりいるんだろうけど、でもこういう時は帰ってこなきゃダメだと思うけど。

ウサコはちょっとばかり憤慨しつつ、しかし普段叱られてばかりの頼朝に頼られるというのが少し嬉しくなってしまった。こんな緊急事態なのだから報酬なんかいらないけれど、そこは思わぬボーナスと思ってそのままにしておこう。お年玉だ。ウサコは幸せな気持ちで頼朝の手を取った。

「わかりました。明日も来ますね」
……ここに、いてくれませんか」
「え」
「お願い、します」

弱々しく握られる手はカサカサに乾燥していて、点滴で補給したとは言え脱水がまだ抜けていないことを表しているような気がした。それに、自宅に帰っても酔っ払った母と祖母のいびきが聞こえるだけ。

「じゃあ、居間かなんかに」
…………ここに」

繋いだ手を引かれたウサコはウッと息を呑んだ。いや確かに頼朝さんの部屋広いしソファとかあるし居間は犬たちがいるしもっと広いから暖房費がもったいないけど、ちょっと待っていいのかそれ!?

だが、死ぬほどプライドの高い頼朝が自分の手を取ってそんなことを言っているのがどうにも可哀想で、ウサコはやがて頷いた。後で正気に戻ってもクビにさえならなければいい。あれは忘れてくれ、金は払うからなかったことにしてくれと言われればそれまで、それでいい。

「わかりました。ここにいますから、どうぞお休みください」

安心した頼朝が力なく微笑むその頬に、涙が伝った。暗いので、ウサコには見えなかった。