カサンドラのとなりに

5

清田家は日曜日になると自宅の庭でバーベキューをして友人や従業員とわいわい楽しむ習慣がある。そもそも新九郎と由香里が知り合ったのもバーベキューパーティでのことだったし、これはもう30年以上続けられてきた清田家の、もはや日常であった。

そこにとうとうウサコが参加することになったのは、風が冷たくなってきた12月のことだった。

何のことはない、清田家リフォーム完了お疲れ様バーベキューパーティだった。

普段からウサコを家の中に招き入れることを快く思っていなかった頼朝だが、社長とその夫人は「これは会社の記念行事」だと言い張り、休日手当も用意し、さらに調理補助と子守という仕事も与えるという頼朝のツッコミどころを塞ぐ準備も抜かりなく、果たしてウサコは初めて日曜の清田家にやってきた。

一応リフォーム完了お疲れパーティであることは嘘ではなく、リフォームに関わった職人さんやご協力頂いた方などを手当たり次第招待してのバーベキューだった。

今回のリフォームでアマナが生まれた和室は消滅、和室と応接間だった部分はひとつの部屋にまとめられて尊が使うことになった。さらにかつて縁側だった部分は全てウッドデッキに変わり、今日はそれも活用してのバーベキューである。

しかしバーベキューパーティとは言うものの、12月である。よく晴れた穏やかな日曜だったが、冷たいビールで長居できるような気温ではなく、そのためと由香里は前日から豚汁やらおでんやらもつ煮やらを大量に準備、ウサコもそれを手伝っていた。

まるで町内会のお祭り騒ぎ、庭の面積は変わらないのだが、物置や雑に増やしていた物干しなどを撤去したので、広くなったように感じる。その片隅でおでんの面倒を見ていたウサコのところに、缶チューハイを手にした尊が寄ってきた。

「ウサコ、初めてじゃないの、うちのバーベキュー」
「噂には聞いてたけど、すごい大掛かりなイベントだったのね」
「今日は特別だよ。普段はもっとこじんまりしてるし、肉と野菜を焼くだけだし」
……でも、いいですね、社長とゆかりんの人柄なのかな」

だし汁を継ぎ足しながら、ウサコは小さな声でそう言った。最初は由香里のことを「奥様」と呼んでいたウサコだが、本人に事務所を一歩でも出たらゆかりんと呼べと命令されたので、頼朝相手でない限りはゆかりんと呼ぶ。頼朝相手の時は突っ込まれないよう「社長の奥様」と言う。

「こういうの、好き?」
「好きっていうか、初めてみたいなものだから。小学校の夏祭りを思い出すな」
「そっか、お母さんたちは夜のご商売だからバーベキューなんかは行かないよね」
「あっ。でも4年生の時に遠足でやったかな……?」

こうして少しでも実家の話が出るとウサコは話を逸らす。それを引き出したいわけではないのだが、工務店の従業員であることと面倒くさそうであることを除けば充分に「アリ」である尊はウサコの隣にへばりついていた。そもそもが同い年なので都合もいい。

「これを多いときなんかは毎週のようにやってるからね」
「それはそれで大変そう」
「まあ、ゆかりんが楽しんでるから。バーベキューの日は昼と夜を作らなくてもいいし」

だし汁の継ぎ足しが終わったウサコは空き缶の詰まったゴミ袋を締め、新しく広げて固定する。

……もこの家に二度目に来たときがバーベキューだったな」
「いきなり彼氏のお家のバーベキューって、緊張しそう」
「あ、その頃あいつらまだ付き合ってなかったから」
「えっ?」

と信長の結婚までの経緯――となると、話はだいぶ長くなる。逐一物語って聞かせるならともかく、色々端折ると最初は「高校時代に付き合いはじめて」とひとまとめにされるだろう。

「あれ、詳しく聞いてなかったのか。話が長くなるからそれはまたいつかね」
「勝手に聞いたら悪いよ。頼朝さんに怒られちゃう」
と信長のことなんだから頼朝は関係ないじゃん」
「アルバイトだけど、直属の上司って感じでしょ? 自分のおうちのことなんだし」

これは相当頼朝に頭を押さえつけられてるな――と尊は考え、そして少し腹が立った。だが、そこにバーベキューというと毎回家族総出でやってくるぶーちんが顔を出した。毎度日曜の昼から開催だし、酒は飲めるし子供はみんなが見てくれるしで、いいことずくめ。

「みこっちゃーん。手ェ出してんじゃないでしょうね〜」
「お前までそんなこと言うの。といいぶーちんといい、みんなひどいよ」
「あのね、ウサコは大事な従業員なのー。傷物にされたくないだけですー」
「ああ、お前も勉強してうちで働けよとか言われてたよな」
「頼朝ちゃんのもとで働くとか絶対無理だし」

そんなふたりのやりとりを笑いつつ、ウサコは口を挟む。

「やだなあ、尊くんが私にちょっかいかけるわけないでしょ。彼女もいるんだし」

そりゃあおりますとも。というか尊はその性質上13歳からこっち、20年間「彼女なし期間ゼロ」の人である。本人の記憶では同時最多17人、最少ははじめての彼女時のひとり、だそうだ。だが、それこそアルバイトのウサコにそこまで説明してやることはない。

「ウサコ、それとこれとは別なの。気をつけなよ、みこっちゃんやらかそうな女の子好きだから」
「大丈夫だよー! そんなことありえないって。ねえ尊くん」

だが、少し腹が立っていた尊は、首を傾けて背を丸め、にっこりと微笑んだ。

「オレはウサコみたいな子かわいいなって思うよ〜。今度デートする?」

これをやられた女は7割方陥落する。陥落しない3割の中には尊のような中性的な美形が苦手という人もいるし、女に慣れた軽い感じが嫌いという人もいるし、そしてウサコのように「自分などありえない」と思っている場合も、これは効き目がない。その点は尊も充分自覚があったのだが、

……そういう冗談は、やめてください」

普段なら何でもにこやかに話せるウサコは真顔で顔をそらし、低い声を出した。

……冗談じゃないけど。朗らかで優しくて、かわいい人だなって思ってるけど」
「やめてください、そんなこと言われても、何も出ませんよ」
「何かしてもらおうなんて思ってないよ。もしかして、かわいいって表現が苦手だった?」
「その前にかわいくないから、お世辞とか、いらないので」
「お世辞じゃないよ!」

この時ムキになってしまったことを尊は珍しく反省するのだが、とにかく少し腹が立っていた彼はつい大きな声を出してしまった。幸い庭は多くの来客の声と子供たちの歓声で賑わっており、その声はそのままかき消えていった。ぶーちんがそっと割って入る。

「ウサコ、ごめんね。だけどみこっちゃん嘘なんかついてないよ」
……だとしても、やめておいた方がいいです。失礼します」

ウサコは硬い表情のまま、だし汁の入っていた鍋とゴミ袋を手に家の中に入っていってしまった。ついムキになってしまった尊は肩を落とし、そのままぶーちんに抱きついた。

「やってもうた」
「あんたほんとにバカじゃないの」
「だって、ああいうの嫌なんだもん、本当にああいうの嫌なんだよ」
「あのね、みこっちゃんが特殊なの! 大概の男はあたしやウサコみたいな子を悪く言うものなの!」
「女を見る目がないド素人が……!」

ぶーちんは尊の背中を撫でてやりながら、ふん、と鼻で笑った。

「わかりやすいね〜! そのド素人って。みこっちゃんに比べたら、頼朝ちゃんなんかド素人だ」

ひとり鍋とゴミ袋を手にキッチンまで戻ったウサコはわざと深呼吸をして気持ちを鎮めていた。

尊のような人は苦手だ。何もかもが「高品質」な人間という感じがする。美しく、優秀で、人に優しく、誰にでも愛される。そういう人間とお近付きになっていいことはなにもない。

何ならあの「かわいい人だなって思ってる」も嘘ではないのかもしれない。感じ方は人それぞれだ。けれど、ただでさえ「高品質」な人間である尊が、その上人を外見で区別差別したりしないという崇高な精神を持っているということ自体が息苦しくて、背中が重くなる。

だからって尊は自分を愛したりはしないだろうに、それでもあんなことを当然という顔をして言ってしまう、そういう強さも苦手だ。清田家の人間は揃いも揃ってメンタルが強いようだが、自分は違う。

リフォーム後でピカピカのキッチンに戻ったウサコは鍋をシンクに置いて、スポンジで丁寧に洗う。

現在大人だけでも8人を抱える清田家最大の弱点は「水周り」だった。キッチン、風呂場、トイレ、洗面所。それを徹底的に直すリフォームでもあったので、先代の数倍の戦闘力を持つ最強キッチンが出来上がった。ビルトインコンロが3セット、計8口である。シンクも冷蔵庫もふたつ。

遠く庭から楽しそうな声が聞こえてくる中、ウサコは手早く鍋を洗い、水気をしっかりと拭き取るとダイニングテーブルの上に並べておく。次に、大量の空き缶が入ったゴミ袋を開き、ひとつひとつ潰しては別のゴミ袋に移していく。12月の寒空の下でも缶ビール缶チューハイはよく売れる。

ひとつ缶を潰すたびに息を吐ききり、忘れよう。尊の親切な声など、忘れよう。

分不相応な夢を見れば見るだけ、無慈悲な呪詛返しを食らう。傷を負うのは誰だって嫌だ。

すると、黙々と缶を潰していたウサコの背中に頼朝の声がした。思わず飛び上がる。

「そんなに驚かなくても」
「す、すいません、誰もいらっしゃらないと思ってたので」
「事務所にいるってさっき……ちょっと待って、それ手で潰してるの?」
「えっ? はい」

潰れた空き缶を両手に持っているウサコを見るなり、頼朝はまた厳しい顔をしてスタスタとキッチンに入り、天井近くまで作れるだけ増やした収納の中から空き缶を潰すための道具を引っ張り出した。

「これを使った方が安全だろ」
「わ、すみません、こういうのがあるんですね」
「最近のアルミ缶は薄いから潰した時に割れることもあるし、手を怪我したらどうするんだ」

しかめっ面の頼朝は空き缶をひとつ取り上げると、空き缶潰しにセットしてレバーを下ろす。縦方向に潰すタイプの道具なので、ウサコが手で潰したものよりはるかにぺっちゃんこだ。ウサコは思わず「すごい」と呟き、潰れた空き缶を受け取ってしげしげと眺めた。

「ていうか北見さんここの片付け手伝ってただろ。これがあるの、知らなかったの?」
「は、はい。私は食器の片付けを手伝ってたので」
「だけどこういうのがあるかもって、探したりしないの?」
「えっ!? それは、よそのお宅の台所を勝手に漁るわけには」
「えっ、そ、それはそうだけど、散々手伝ってただろ」

常に「正論を言っている」という感覚の頼朝である。なので、ウサコの「正論」に珍しく狼狽えた。キッチンのリフォームが完了した翌日、と由香里は17時ちょうどに事務所に駆け込んできてウサコを捕獲、もちろん「手当」を出した上で片付けを手伝ってもらっていた。なので、ウサコはこの家のキッチンのことはや由香里と同じくらい承知している、頼朝はすっかりそう思い込んでいた。

「と、とにかく、こんな浮かれたパーティの手伝いで怪我されたら困るから、これを使って」
「あ、ありがとうございます」
「それから、今日は普段事務所に来ない客も多いから、判断に迷ったらすぐに報告」
「はい」
「社長や母の言うことでも、迷ったらまずオレに報告」
「は、はい」
「ついでに薄着過ぎない? 子供がいるし、風邪は困るよ」
「す、すみません、着てきます」

頼朝はいつものように早口で畳み掛け、言いたいことは全部言ったと思ったところで「じゃあよろしくお願いします」と言い置いてキッチンを出ていった。何やら用があって事務所にいたらしいが、彼も一応専務なので庭に出て客の接待をしなければならない。

特にここ10年近くはその「接待」が一番得意な信長が不在であることが多く、ほぼ身内というような来客だけならともかく、今日のように付き合いの浅いような人まで招く時は接待要員不足なのである。

特に新九郎と由香里は来客と喋りっぱなし、清田家の人間でもなんでもないぶーちんまで接待をして回り、女性は出来るだけ尊が相手をし、は子供を連れて信長の代理を務め、最近ではエンジュまで駆り出される始末。頼朝も決して得意ではないけれど、やらないわけにもいかない。

それを見送ったウサコは、空き缶潰しを胸に抱いて小学生の頃のことを思い出していた。

小学校3年生の時だ。ウサコは3年生になってから仲良くなったセイラちゃんのお家へ遊びに行った。きれいな分譲住宅は外から見上げるだけでもうっとりしたし、セイラちゃんの部屋はピンクと白と花柄で溢れかえっていて、ウサコは目を輝かせた。まるでお姫様のお部屋だ。

しばらくセイラちゃんのお部屋で遊んでいると、セイラちゃんのお母さんがおやつだから降りていらっしゃいと声をかけてきた。セイラちゃんの後についてダイニングに足を踏み入れると、そこもきれいな世界で、しかもテーブルの上には可愛らしいプチケーキと紅茶が用意されていた。

幸せに浸りながらウサコはケーキを食べ、紅茶を飲み、嬉しくて嬉しくて頬をピンク色に染めていた。

しかし、温かい紅茶を飲みつけないウサコはなぜだか喉の乾きを感じた。なので彼女は席を立ち、キッチンへ向かい、大きくて真っ白な冷蔵庫を開けた。冷たいお茶か何かを飲めば喉の渇きが治るだろうと思ったのだ。そんなウサコの背後でセイラちゃんのお母さんの短い悲鳴が上がった。

目の前で冷蔵庫のドアが閉まり、ウサコは両肩をセイラちゃんのお母さんに強く押さえられた。

いわく、他所様のおうちの台所は勝手に触ったり覗いたりしてはいけない場所で、冷蔵庫の中も勝手に見てはいけないと言う。そんなことを初めて聞いたウサコはか細い声で「ごめんなさい」と言ったけれど、セイラちゃんのお母さんの怖い顔は帰るまでそのままだった。

そして数日後、またおうちに遊びに行きたいと言うウサコに、セイラちゃんは「お母さんがお外で遊んできなさいっていうから」とぼそぼそ言い、「うちでは遊べないから、公園に行かない?」と遠慮がちに聞いてきた。公園も好きだったので、ウサコは「うん!」と返事をした。

以後、ウサコがセイラちゃんのお宅へ足を踏み入れることは二度となかった。

今なら分かる。セイラちゃんの家は隅々までピカピカで、花が飾ってあり、余計なものがなにひとつなかった。きれい好きなお母さんだったのだろう。きっと彼女は人の家の冷蔵庫を勝手に開けるような躾のなっていない子供を家に入れたくなかったんだろう。それを娘に言い聞かせた。あの子はダメ。

きっとセイラちゃんも気まずかったろうに、それでも自分の母親の機嫌を損ねた友達を厭うでもなく、家には連れて帰れないけど公園でなら遊べる、だからそこで遊ぼうと提案をしてくれた。セイラちゃんは小学3年生ながらに立派な人だった。

セイラちゃんは私立中学に進学したので小学校卒業以来会っていないけれど、ウサコの数少ない幸せな記憶だ。セイラちゃんのような人と友達になれて嬉しかった。

それを思い出しながら、空き缶潰しを抱いた胸が少し軋む。

私の手なんか、空き缶で切れても大丈夫なのにな。

もちろん頼朝は心配なんかしてないだろう。今日は休日出勤のようなものなのだし、アルバイトとは言え仕事中に怪我をされるのは困る、そういう判断に過ぎないはずだ。それでも、カサついて不格好なこの自分の手が傷つくことを許さなかった、それを嬉しく感じてしまった。

空き缶潰してる私なんか気にもとめないで素通りくらいが普通なのに――

頼朝は上から目線の怖い上司だ。言葉は決して優しくない。しかし、いかにも頭がよく、言うことは理にかなっていて、ルールを守り、物事を最短距離で運ぶことをいつも考えている。それは素直に「凄い人だな」と思う。自分の脳みそでは到底出来ないようなことを、すらすらと出来る人だ。

だから、や尊が言うほどには、ウサコは頼朝の元で働くことをつらいと感じていない。

社長や由香里はまるでお父さんとお母さんのようだし、やぶーちんと過ごすのも楽しいし、子供たちもかわいいし、信長やエンジュもごく自然にウサコを受け入れてくれる。こんな職場、世界中探したって見つからないと思った。頼朝が厳しくて困るどころか、最高の職場だと思った。

前任のミエさんのように出来るだけ長く、ここで働けたら。そう願っている。

そんな風にウサコが浸っていると、庭に戻ったはずの頼朝が焦って走って戻ってきた。そして、また驚いて「ヒャッ」と変な声を上げたウサコに駆け寄ると彼は不機嫌そうな顔で言う。

「北見さんて車運転できたっけ!?」
「は、はい、オートマですけど」
「今日、酒飲んだ?」
「い、いいえ、私お酒は」
「本当に!? 助かった!」
「あの……

頼朝は安心したのか、ダイニングテーブルに手をついてハーッと息を吐き、困惑しているウサコに向かって珍しく笑いかけた。シルバーのフレームの眼鏡の向こうのくっきりとした目が少し細くなって、柔らかい表情になる。

「酒が底をつきそうだから、買い出しを頼みたいんだけど」
「あ、はい、わかりました」
「まさかこんなハイペースでなくなるとは思わなくて……乾杯の時にオレも飲んじゃったから」
「何を買ってくればいいですか? ええとメモは……

それならお安い御用だ、とメモを探したウサコに、頼朝はまた少し笑った。

「いやいや、北見さんはとりあえず運転頼む。オレも行くから」

ウサコの背中が思わずひやりと冷える。

頼朝とふたりで買い出しですと!?