カサンドラのとなりに

10

突然頼朝が豹変したことに戸惑ったのは両親と弟も同じで、しかしここで面白半分にからかったりしようものならウサコはまた締め出される。それが目に見えているので、由香里は息子たち、特に尊に頼朝を変に刺激しないようにときつく言い渡していた。

それをよそに頼朝はやっぱりウサコの送り迎えやらを続けていて、本人はさも当然という顔をしていたけれど、ウサコの方は一向にその状況に慣れることがないまま、1ヶ月ほどが過ぎようとしていた。

世はバレンタイン、最近の清田家ではとぶーちんがチョコレートを使ったお菓子を手作りしてみんなで楽しむ日となっていて、そして尊が持ち帰ってくる高級チョコをお裾分けしてもらうことを心待ちにしている。また、由香里は新九郎に、は信長とエンジュに、エンジュは信長とに贈り物をする日にもなっていた。

この年はお菓子作りをやったことがないというウサコも交えてデコレーションケーキを作ってみようか、なんていう話が出ていたところだった。

だがその中で、数日前から頼朝がしょんぼりした顔をするようになっていた。

今のところ特定のパートナーのない頼朝なのでバレンタインが侘しい――というわけではもちろんない。彼はそもそも甘いものが得意ではないし、もぶーちんも一応彼にはチョコレートをくれるし、昨年はアマナにチョコクッキーを手渡されて喜んでいた。

その上ちゃんとホワイトデーには贈り物を用意してくるし、チョコレートなんか贈ってこないおばあちゃんやミエさんにも用意していたくらいなので、バレンタインが近いので気鬱だ……というわけではなかった。それに目ざとく気付いたのは、ちょっかいを出すなと釘を差されていた尊。

かと言って家族全員のいる前で「どうしたの〜?」なんてふざけ半分で聞いてくるようなら、彼は20年に渡り100人近い女の子と特別な関係になどなっていないのである。

バレンタインを翌週に控えた土曜の昼、新九郎が見積もりに出るというので、由香里がアマナと寿里を連れて一緒に出かけていった。カズサはまたちびっ子バスケ教室に参加していて父親共々留守だし、見積もり終わったらそのまま4人で遊びに行こうか! というわけだ。

なので、土曜のリビングには、とエンジュ、そして頼朝と尊が残っていて、子供たちもジジババもいないし、お昼どうしようか、なんていう話をとエンジュがしていた。そののんびりしたリビングで、尊はひょいと顔を突き出して頼朝に声をかけた。

「なんか最近ずっとそんな顔してるけど、なんかあったん?」
「はあ?」

いきなりそんなことを言われた頼朝は間の抜けた声を上げた。が、尊の言わんとしていることに気付いたとエンジュは昼の話をしながら、目は頼朝と尊の間を忙しく往復している。無難なメンツしかいないとはいえ、みこっさんそれブッ込んじゃうの、やるね。

「なんかちょっとガッカリ、みたいな顔。株で損したとか?」
「いやオレ株なんかやってないだろ……
「じゃあ何。推しが熱愛発覚? 引退?」
「なんでいつの間にドルオタにされてるんだオレは」

頼朝はいつもの調子でツッコミを返しているが、尊はわざとそういう、頼朝にとってどうでもいいようなネタを選んでいるんだろう。それもわかるので、とエンジュの目は丸く開かれる一方である。さあみこっさんどう攻める。

「まあ、寒いからいつもより疲れるよね〜。オレも寒いのは苦手。寒いと朝から勃ちが悪――
「尊!!!」

の前でなんてこと言うんだ! 頼朝は泡を食って声を上げたが、まあ、尊は普段からこんな冗談を言うタイプではないし、はむしろ尊が頼朝から話を引き出せるかどうかが気になっていてそれどころではないし、頼朝の方も自分がツッコミばかりで答えないせいだということはわかっている。

「それはだから、まあちょっとガッカリすることがあったからな。それが顔に出たんだろ」
「へえ、珍しい。そんなにガッカリすることあったの?」
「そんなに大袈裟にガッカリしてるわけじゃないって」
「でも顔に出るくらいガッカリするのって珍しくない?」

尊は柔らかな声色を保っているが引かない。頼朝はやがてため息とともに肩を落とした。

……北見さんを食事に誘ったんだけど、断られたんだよ」

とエンジュはもう我慢の限界を超えてしまい、ふたりの喉は「ヒッ」と変な音を立てた。

「都合が悪かったんじゃなくて?」
「さあ……それはどうだろうな。何度か声かけてみたんだけど、全部断られて」

尊はあくまでも頼朝自身が事の顛末を説明できるよう誘導していくつもりだったのだが、あの頼朝が何度もウサコを食事に誘って全部断られたという衝撃に、が我を忘れてしまった。

「ウサコにご飯行かないって言ったの? なんで? どうしたの?」
「なんで……ってそりゃ、ノロの件で世話になったし、その礼の意味もあって」
「まあまあ、落ち着いて」
「だって! お兄ちゃんずっとウサコのことバカにしてたじゃん!!!」

興奮したをエンジュが慌てて押さえたけれど、間に合わなった。にはずっと引っかかっていたことだったろう。だが、それをダイレクトにブチ撒けてしまったら頼朝は逃げるのではないか――尊とエンジュはそれを考えて焦った。

だが、豹変激しい頼朝はまたため息とともに背中を丸めた。

……そうなんだけど、そこの弟が薄情なもんで、頼るところが他になくて」

尊はツッコミ返したい気持ちを飲み込んで耐える。今突っ込んだら終わりだ。

「休日手当の名目でボーナスは出したけど、それだけじゃ返せてない気がして」
「返すって、何を」
「何って、恩」
「お礼したくてご飯に誘ったの?」
「追加で金を払うのもおかしいだろ。金でしか報いれないというのも疑問だったし」

頼朝が正直に白状するものだから、は急にしぼんだ。

「断るっていうか、ウサコが遠慮したんじゃなくて?」
「言い方は遠慮みたいな風だけど、どのみち行きますとは言ってもらえなかったわけだし」
「うーん……ウサコが頼朝さんの誘いを断るってのもちょっと違和感あるけど」

を押さえながら渋い顔をしていたエンジュが唸る。

「違和感?」
「何回くらい誘ったの?」
「ええと、たぶん軽くそんな話をしたのも含めると、5回とか」
「それだけ頼朝さんが熱心に誘ってるのに断るってウサコらしくないよ」
「らしいって……
「ウサコは基本、上司である頼朝さんの言うことには従おうって考えてる人だもん」

頼朝はエンジュの優しい声に宙を見つめていた。上司の言うことには従う――

「さっきが爆発しちゃったから言っちゃうけど、頼朝さんがどれだけウサコに嫌味とか言ってても、それをオレたちが大丈夫かな〜ってヒヤヒヤしてた時でも、ウサコは深刻に受け止めてなかったし、頼朝さんは凄い人だから怒られて当然だよ、なんてこと平気で言い出す人だったし、それがいきなりとは言え、ご飯行かない? って言われたら、お供します! ってなりそうなもんじゃない?」

と尊もうんうんと頷く。確かにそっちの方がウサコらしい。

「それで断られるって何やったのさ頼朝〜」
「なっ、何もしてないよ! てか何もしようがないだろ!」
「送って帰ったりしてる時はどうなの? 時間帯によっては家まで40分位かかることあるよね?」

清田家最寄り駅に向かうまで、最寄り駅を越すあたり、どちらも夕方は大変な混雑になる。これが19時位になって帰宅や送迎ラッシュが落ち着くと空いてくるが、例えばウサコが定時に上がって車で清田家を出たとしたら、確実に40分程度の時間がかかる。

「どうなの、って、別に他愛もないこと喋ったりしてるだけで……
「お礼したかったし、送りもそろそろ1ヶ月になるからいいかなと思って誘ってみた感じ?」

からかいたいのを我慢している尊に構わず、エンジュは優しい声色と優しい微笑みで首を傾げた。

……そんなところ。1ヶ月じゃ短かったんだろうな」
「そんなことないと思うよ。原因は別のところにあると思う」

すると、からかう気しかないという顔をしていた尊が突然真顔になり、サッと片手を上げた。

……ちょっとまって、頼朝、どこでご飯食べようって誘ったの?」
「どこって、去年オープンした結城さんの店」
「あーっ、それだよー!」

尊は聞くなり手をバチンと額に叩きつけて仰け反った。

「どういう意味だよ」
「結城さんて、どうせ代官山とか自由が丘とかそんなところだろ」
「南青山」
「ほら! いきなりそんなところ行こうって言ってウサコがOKするわけないじゃん!」

頼朝はひとりポカンとしているが、もエンジュも肩を落とした。結城さんは頼朝の師匠とでも言うべき建築家で、飲食店が得意。関東の都市部を中心に小規模の店舗を手がけることが多い。年末にどうしても外せないとした忘年会もこの結城さん主催のものだった。

というか、かつて世間知らずの16歳のを「テストでいい点取ったら連れて行ってあげる」と言って誘ったのも、この結城さんの手がけた店だ。その時の店は鎌倉だったけれど、つまり頼朝はまた似たようなことをやらかしたわけだ。

「えっ? なんで?」
「なんで、って、ずっと地元で生活してる人がいきなりそんなところ、緊張するだろ〜」
「別にトゥール・ダルジャンに行こうって言うんじゃないんだし……
「頼朝、お前感覚おかしいわ」

尊のツッコミに、さすがのエンジュも庇いきれなくて苦笑いだ。

「そもそもウサコの親の店見て辟易してたじゃん。ああいう世界で子供の頃から育ってるんだし、ウサコってプチプラでもおしゃれしようってことに全力になってるタイプでもないし、いい、頼朝、まず着ていく服がないの! 買えばいいじゃんて顔してるな? そういうのって慣れてないと何着ていけばいいかわかんないの! 困ったらなんかスーツっぽいので誤魔化せる男と違って女の子は大変なんだよ。服も靴もバッグも全部揃えなきゃならない、それに合わせた髪型や化粧も考えなきゃならない、一緒に行く人とかけ離れててもダメ、街にもお店にも合わせなきゃダメ、それがどれだけ負担かわかる?」

とエンジュは一転、ふたり揃って目を真ん丸にして尊を見た。さすがだなみこっさん。

……それに、ウサコが、自分の容姿に自信満々な女の子に見える? 普段の服見ててわからない? 外見や年齢で『こういうものは着たらダメ、こういうものなら着てもいい』っていう下らない世間の目に遠慮して、無難中の無難を極めた服ばっかり選んでるんだよ、あれって」

普段何かと言うと上から目線で持論を展開するだけの頼朝は、尊の言葉に身じろぎもせずに聞き入っていた。想像もつかない世界だったに違いない。彼の身近には、そういう女の子はいなかったので。ただでさえド派手な祖母に母に、ぶーちんなんかピンクの髪でピンクのドレス、その上にぬいぐるみのポシェットを下げて歩いていた。世間の目? なにそれおいしいの?

「別に自慢する気なんかないけど、人より数倍は女の子と触れ合ってきたオレの予想は間違ってないと思う。ウサコは、南青山なんて聞かされてビビって、自分はそんなところに行っていいような人間ではないって思ってるから、断ったんだよ」

頼朝がちらりと目をやると、エンジュも頷いている。尊は続ける。

「これはあくまでオレの個人的な意見だけど、だったらまだトゥール・ダルジャンの方がマシだと思う。いかにも着慣れてないフォーマルに美容院で整えてきましたってのが丸出しでも、ああいうところはスタッフも手練だから決して顔に出さないし、丁寧に接客してくれるよ。だけど南青山は気をつけないと勝手が違う。その違いはわかるでしょ」

これにはが頷いている。学生時代、貯金のためにファストファッションブランドですらない、スーパーの片隅の激安衣料品なんかを使い回して乗り切ったにもよくわかる。お上りさんでもきちんと歓迎してくれるスタイルと、普段からレベルの高いお洒落をしようと心がけている人々が集まる町では、後者の方が素人にはハードルが高いに違いない。

「そりゃ、そういう風潮や客層、そっちの方がおかしいんであって、オレは誰でも臆することなく入れる店が一番いいと思ってるけど、でもそういう店が好きな人って多いじゃん。そういうシャレオツな店よく行くんだ〜って聞いてもいないのに自慢してくるバカ、未だに腐るほどいるじゃん」

そういうバカと似たような発想ってことだよ、と言いたいのを尊はオブラートにくるんでいるようだ。エンジュがまた優しい声色で話しかける。

……頼朝さん、なんでそこの店にしようと思ったの?」
「なんで、って、あんまり考えてなかったかも。新しいし、ワインが豊富って話で」
「でも、ウサコってお酒得意じゃないよね?」

そう、言われてみれば、南青山もワインも、ウサコに適したセレクトではなかった。

「ねえ、お兄ちゃん、ウサコの好物って何だか知ってる?」
「好物って……なんか具体的にそういう話はしたことなかったけど……
「ウサコね、お寿司大好きなんだよ。月に1度ひとりで回転寿司行くのが何より楽しみ」

も出来るだけ頼朝のプライドに触らないよう、さりげない口調や言葉を選んで話している――のだが、そういうやエンジュのような気遣いは、弟にはない。

「それも知らずにご飯行こうよって誘ったわけ? それはちょっとポンコツ過ぎない?」
「だって、そんなにハードル高いとは……女の子はああいうところ好きかと思って」
「てかその前にさ、ウサコがいつもノーメイクな理由とかも聞いてないんじゃないの?」
「えっ?」
「ウサコはセリサイトアレルギーで化粧できないの」
「はっ? セリ――
「絹雲母。ファンデーションの材料」

要するに、元は鉱物だ。石とか岩とか、そういうものなので、これが肌に合わないケースは少なくない。なのでウサコは髪は染めていても化粧をしていなかった。が、ここまで聞いて頼朝は上半身ごと首を傾げた。それはわかった。わかったけど――

「なんでお前そんなこと知ってんの」
「本人に聞いたから」
「はっ? よくそんなプライベートなこと聞き出せたな」
「オレを誰だと思ってんの」
「女の敵」

兄弟のやり取りに口を突っ込んだ義妹の言葉に、エンジュが勢いよく吹き出した。

「何言ってんの、女の敵じゃなくて女の子の味方でしょ!」
「1ヶ月かかって聞き出せなかったお兄ちゃんもアレだけど、みこっさん確か数時間でしょ」
「好きな食べ物とアレルギーの話くらい数時間で充分だろ!」

どっちの言い分ももっともであるが、尊は言い合いを手で制して咳払いを挟むと座り直す。

「だから、つまり、頼朝の目的はお礼だったのに、『ウサコに喜んでもらいたい』っていう1番大事なことを忘れてたってことにならない? 弟は薄情だったけど、ウサコは他人なのに親切にしてくれて、感謝してる。だったらウサコが喜んでくれることじゃないとダメじゃない?」

当たり前のようで、頼朝は確かにこの点がすっぽり抜け落ちていた。女の子はみんなおしゃれで都会的なものが好きだろうという思い込みに寄りかかって、師匠筋のオシャンティーな店に行かないかなどと言ってしまい、逃げられた。得意なくせに、頭を使えていなかった。

「オレが付き合ってきた女の子たちは多少特殊なのかもしれないけど、それでも女の子ってのは何歳になっても、どんな生活環境にあっても、自分自身のことを考えてベストな選択をしてもらえるって、嬉しいはずだよ。一般論とか、男の方の好みの押し付けじゃなくてね」

エンジュがこそこそと「そういう前提で選択を誤ると地獄だけどね」と囁いたが、隣のは人差し指を立ててシーッと唇を尖らせた。

「少し時間置いてまた誘ってみたら?」
「これ以上畳み掛けたらもう迷惑でしかないだろ」
「わかんないよ。回転寿司なら飛びつくかもしれない」
「お兄ちゃんお兄ちゃん、ウサコ和菓子も好きだよ」

一転、尊は頼朝を焚き付け始めた。回転寿司なら有名チェーン店じゃなくても人気の店あるじゃん、などと身を乗り出している。もウサコが楽しめることであればどんどんやって欲しいので、積極的に口を出す。ウサコが好きな寿司ネタはエビとイクラとマグロ! 普通!

そして、こんなことがきっかけでも、頼朝が相手のことを思って考えられるようになるのなら。

「もう少しそういう前提で話してみなよ。違うウサコが見えてくるかもしれないよ」

そこには、頼朝が知らなかった彼女が隠れているかもしれない。彼女を取り巻く情報にばかり気を取られて見ようともしなかった、本当の北見宇佐子が見えてくるかもしれない。

それが見えた時、今まで見えなかった自分自身も、見えてくるのかもしれない。