カサンドラのとなりに

19

頼朝は照明をダウンライトにして空気清浄機を止め、静かな部屋でウサコと向き合い、ゆったりと抱き合った。最初にウサコを見た時に「肩が丸い、撫で肩だと思っているに違いない」と嫌悪した彼女の肩は、そのなだらかな輪郭が赤子のようで、今更ながらに愛しさが募る。

つい「嫁に来ないか事件」を現実のものとしたらどうだろうとは言ったけれど、それは半分本気で半分思いつきだ。確定事項じゃない。けれど、高い可能性として残しておきたい選択肢には違いなかった。だから、彼女のすべてを知りたかった。

おそらくお互いにどす黒いものを体の中に隠しているんだろう、それをブチ撒け合いたかったのだ。

ウサコはそれから逃げるでもなく、吐き出すことを選んだらしい。まあ吐き出す機会はなかっただろう。そんなことを吐露しても平気な相手がいるなら、しつこくタカりに来る叔父さんに金を渡し続けたりしなかったはずだ。もっと早く彼らの呪縛から解き放たれていたはずだ。

彼女の中にあるものを全部見せてほしかった。

「わざわざ言うことじゃないと思うんですけど、一応」
「気にしないで」
「叔父の件は、ええとその、行為には及んでません」
「そ、そうか……だけど、つらかったよな」

いきなり闇が濃いところから出てきたので狼狽えたが、頼朝は努めて平静を保つ。

……いえ、そういうことがあった当時の私に不快感や、悪いことをしてるとか、そういう自覚はなくて、例えるなら、疲れた叔父さんに肩たたきをしているくらいの感覚でした。触って欲しいと言われると、何も考えずに。のちに私の体を触るようにもなりましたが、それも、頭を撫でてるのと同じなんだと、言われて、信じていました。私は本当に、バカだったんです」

ぎゅっと抱きついてくるウサコの背を撫でながら、頼朝は歯を食いしばる。覆しようのない過去に怒っても無意味だと分かっているけれど、何も知らない幼い少女が良かれと思ってやったことと思うと余計に腹が立つ。ウサコはバカだったかもしれないが、疑うことを知らない素直な子だっただけなのだ。

「その頃の記憶は……とてもぼやけていて、あまりはっきりとは思い出せません。というか、小学生の頃の記憶の殆どはセイラちゃんと遊んでいたときのことばかりで、あまり、覚えてないんです。どんな風に過ごしていたのかはもちろん、特別な、思い出みたいなものも、ないんです」

バイオレットは基本年中無休、盆と正月は一応休むが、ウサコをディズニーランドに連れて行くわけでもなければ、どこかに旅行に行くわけでもないし、ウサコの母も祖母も神奈川出身、ウサコに「田舎」はなかった。夏休みもセイラちゃんと遊んでいた記憶しかない。

頼朝は自分の小学生の頃を思い出す。彼が小学生の頃は新九郎一強体制になったばかりで、清田家も暇ではなかった。だが、何しろ新九郎は息子たちのことをとても可愛がっていたし、由香里に休んでもらいたかったし、兄弟は夏休みになると父親と行楽に出かけた。釣り、山登り、博物館――

やはり長期の旅行に行くことはなかったけれど、それでも頼朝にはわいわいといつもと変わらない清田家の夏休みの記憶がある。それは、楽しかった。特に男だけで行ったキャンプは印象が強い。未だにキャンプファイヤーの組んだ木の形さえ覚えている。

そして深夜、テントの中で熟睡する尊と信長に聞こえないように、新九郎はさらりと「赤ちゃんはどうして出来るのか」を教えてくれた。頼朝はそれをキャンプファイヤーの燃え残りを見つめながら黙って聞いていた。男同士の話だった。一生忘れられない思い出だ。

つまりウサコには、そういう強く記憶に刻まれる出来事がなかったのだ。

「そういうボンヤリした子供だったので、中学の頃も他の子に比べたら精神的な成長が遅かったんじゃないでしょうか。誰かを好きになることもありませんでした。中2の時の生徒会長のことが好きだと思い込んでいましたが、芸能人を見て騒いでいるくらいでしかなかった」

ウサコの場合、何度も恋愛を繰り返した中途半端な大人が幼かった日の淡い思いを幼稚なものと自嘲するのとは異なる。そういうスイッチが入るまでにはとても時間がかかった。

「おかしなものですね、それでも高校生になったら彼氏ができるものなんだと思っていました。出来るわけもないし、親しい男の子もいませんでした。というか、どうにも女の子の友達も出来づらくて、部活や同じクラスの女の子とは普通に過ごしましたが、それだけでした」

頼朝はしかし、つい吹き出した。そう、オレも思ってた。

「オレは男子校だった。出来るわけないんだよな。女の子いないんだから」
「そういえば頼朝さん高校すごいとこなんですよね……
「と言っても大学入っちゃうとそんなのがゴロゴロしてるからな……

というか頼朝の高校生活は部活と受験勉強に終始しただけ。中高と剣道部で慣らして県内の大会にも出たし部長も務めたけれど、彼女は出来なかった。今振り返ると自分の人生の中で1番イケメンだった時代な気がするのに、もったいないことをした。

しかし同時に「付き合うならこんな女」が最悪だった時代でもあるので、結局黒歴史だし、頼朝は今「ウサコを好きな自分」というものが実にしっくり来る上に、無理がなくて楽だった。今の自分の方がいい。ウサコを好きだと思う自分の方がいい。

さて、ウサコはそういう高校時代を経て就職をする。ここで彼女は地獄を見ることになる。

「ブラックとかそういう」
「それもありましたけど、なんて言ったらいいんでしょうか、とても古い体制の会社でした」

頼朝はそれだけで話が見えてこっそり息を吐く。この国は大戦後から今に至るまでに変化に次ぐ変化の流れの上にあった。当然世に生きる人々は青年期のスタンダードを良識と理解し、しかしそれがいつか変わるものとは思わずに歳を重ねていく。意識は更新されないまま世代間の軋轢だけが生まれていく。

「私のいた営業所はそれほど大人数の事務所ではなかったんですが、会社全体では同期が数十人はいたと思います。みんな尊くんとか信長くんみたいな感じの、いかにも人付き合いが上手そうな明るくてやる気のある人で、あとは私のようなボンヤリしたのがちらほらいて」

そういうボンヤリだったのに、テンション高めの営業所に配属されてしまった。

「同じ営業所には女性が4人いて、みんな可愛い女の子で、規則は緩い方でしたから、化粧とかそういうのは好きなだけやってました。……今思い返しても、悪く取ることしか出来ないんですが、そこに勤めていた3年の間に、彼女たちに誘われて何度も合コンに行きました」

頼朝は頭を落としてぎゅっと抱き締めると、ウサコの肩を撫でて目を閉じた。やっぱりそれだけでどんなことがあったかは想像に難くない。悪く取ることしか出来ないというが、悪意しかなかったはずだ。それも、輝く笑顔と笑い声に包まれた愉快な悪意が。

ウサコなど、まさに飢えた肉食獣の輪の中に放り込まれた草食動物でしかなかったはずだ。

「なんでこんなところにいるんだろうと思いながら断れなくて、合コンに使うお金ばかりが増えていって、食事も外食ばかり、月末になるとインスタント食品ばかり食べていました。だけど2年目の夏に、なぜか、付き合わない? と言ってくる人が現れて」

数回前の合コンで知り合った人で、同じ地域に勤めている5歳年上の男性。中肉中背で明るく、趣味は自転車とラーメンという人だった。ラーメンの有名店の話になった時に、ウサコがそういう店には行ったことがないと言ったら、だったら連れて行ってあげるよ! と連絡先を交換したのだった。

彼はラーメンどうですかとウサコを誘い出し、女性ひとりでは入りにくいような店に連れて行った。ラーメンは量が多く脂ぎっていて、正直食べるのがきつかった。だが、ウサコはなんとか完食し、帰ったら胃薬を飲まねばと思っていた。

すると、帰りがけに彼は、「今付き合ってる人いないんだったら、付き合わない?」と言ってきた。

「やっぱり『なんでですか』的なことを言った気がします。特にたくさん喋ったわけでもなかったし。そしたら彼は、迷うくらいだったらまず付き合ってみる、そういう主義なんだと言うんです。仲良くなれそうな人だったら、付き合ってみる。やってみなきゃわからない、と」

理由になってないな……と頼朝は思うが、それは措いておく。本人は否定するだろうが、きっと尊がそんな感じだ。柔らかそうな女の子! 付き合ってみない!? 誰も尊を拒絶しない。ただそれだけ。

「その勢いに押されたのと、その時の私は舞い上がってしまって、はしゃいだりはしませんでしたが、その申し出を受けて、付き合うことにしました。私でも人並みに彼氏ができたという安心感と、これで合コンに行かなくて済むという安心感で、すごく浮かれていた記憶があります」

だが、それは幸せな恋愛ではなかったのである。

「なんとなく、想像付くけど」
「どうせなら全部言います。聞いてくれますか」
「いいよ」

頼朝はウサコの手を取って繋ぐ。

「後で知ったことなんですけど、結論から言うと、私が、ラーメンを頑張って完食しちゃったので、自己主張の弱い女だと思ったらしいんです。男の人ばかりでギトギトしたラーメンの店に連れて行っても文句ひとつ言わず、割り勘だったけどそれも疑問に感じてない、言うことを聞きそうだと」

それを確かめるために連れて行ったに決まってるだろ。キラキラした女の群れの中にひとり、毛色の違うのが混じっていた。それを利用してやろうと思っただけだ。頼朝はその男の思考が手に取るようにわかる。学生時代、激烈な元カノと付き合っていた当時の頼朝の友人にはそういうタイプが多かったからだ。ちょっとおだてたらすぐ勘違いするから、チョロいよなバカな女って。そんな価値もないのに。

……経験がないので、付き合うということが、どういうことかわからなくて、週に1回くらい食事を一緒にして帰るだけの付き合いが2ヶ月ほど続いて、携帯で長々とやり取りするとか、週末に遊びに行くこともなくて、だけど私はまたそれを疑問に思わなくて」

終業後に一緒に食事をする時も、手を繋いで歩いたりはしなかった。ガヤガヤした居酒屋で彼の仕事の愚痴を聞かされるだけの時もあった。やっぱりウサコは疑問に思わなかった。

「ある時、お金を下ろしておくのを忘れたから出しておいて欲しいと言われたことがありました。付き合ってたら男が払うもの、というのは私もおかしいと思っていたし、普通のレストランの食事代くらいなら、と私が払いました。そうしたら、そういう機会が増えていったんです」

頼朝の師匠の結城さんはバブル世代ド真ん中の人だ。彼はまだ駆け出しの20代の頃、「アッシー君」にされていたとよく言う。異様な好景気に沸く80年代の日本にはそういう言葉があり、端的に言えば「車を出してもらう専用の男友達」というような意味だ。

それと似た言葉に「メッシー君」というのもあった。こちらは食事を奢ってもらう専用。どちらもアッシー君ならクルマ好き、メッシー君なら自称グルメだったんだろう。それを突っつけば下心が疼いて結局言いなりだ。意味合いは少し違うが、つまりウサコは「メッシーちゃん」にされていたわけだ。

だが、それだけが延々と続けば、ウサコもすぐに変だなと思っただろうが――

「その頃から、ごく少額のお金の無心が始まって、最初は千円とかその程度で、徐々にそれが増えていって、ある時、仕事でどうしてもまとまった金が必要だから5万貸して欲しいと言われて、あんまり真剣だったので、貸してしまいました。その時は次の給料日に返してくれて、それで、しつこいくらいにお礼を言われて、それで…………キスされました」

ウサコの声がつめたく冷えたのを感じ取って、頼朝の背が震えた。何だ今の。

「それで私はすっかり彼を信用してしまって、もう5万なんていう大金を頼まれることもなかったから、少額の無心にも疑問を感じなくなっていって、会うたびにキスしてもらうのが、嬉しくて……

だが、彼女の幸せはただの幻想でしかなかったのである。

「いつも、先に目をつぶって、と言うんです。そうすると、ちょこんと触れるようなキスを。手も繋がない、こんな風に抱き締めてくれることもない、疑問に思わなかった私もどうかしてますが、ある時、目を閉じた瞬間くしゃみが出そうになったので、一歩下がって目を開けました。そうしたら彼は指を2本、横にして近付けようとしていました」

キスは、なかったのである。頼朝の指先がツンと冷たくなった。

「その時ばかりは『どういうこと』と言ってしまったんです。そうしたら、正体を現したと言えばいいんでしょうか、お前みたいな女、本気で付き合ってもらえると思ってたのかよと……そう始まりまして、私は怖くなって言い返せなくなってしまったんですが、そこから延々説教をされて、身の程を知れ、鏡をよく見てみろ、醜いことは社会の迷惑なんだし、せめて他人の役に立てることと言ったら、金くらいしかないだろうと、なぜか怒られまして」

由香里あたりはこんな話を聞こうものなら真っ赤になって憤慨して、そんな男死ねばいいのよ! と言い出すだろう。そして、そんな酷い人間もいるのね、と顔をしかめるだろう。だが、頼朝は思う。彼はつい逆上して本音をブチ撒けてしまったんだろうが、こういう人間は、少なくない――

かつては自分もその仲間だったという自覚もある。だからこそ余計にこの男の非人道的な行いが決して特殊ではないと知っている。そんな人間はいないと断言できるのは、そういう人間に関わらずに生きてこられた幸福で幸運な人だけだ。

ウサコはその罠にかかってしまった。

「お前みたいなのが結婚して子を残すのも犯罪レベルだし、働いて金使って経済回して、年金を貰う前に死ね。そう言われました。不思議なもので、なぜかその時、私は、納得してしまったんです」

まあ、そうだよね。あんなにキラキラした同僚の女の子たちですら結婚相手探して奔走してるのに、私みたいなのが、誰かに愛されるわけがない――

「それから1年ほどで退職しました。アレルギーを発症して、風邪のような症状が続いて治らず、3ヶ月くらいずっとお腹も壊して、だけど逆に太りました。あとでセイラちゃんに『ストレスってやつは何でもやるんだよ』と言われましたが、とにかくそれが1年近く続いて、そのあたりでもう、やる気とか、夢とか、希望とか、そういうものが全部なくなってしまった気がします」

人間関係を含む劣悪な環境はまず人のポジティブな感情を奪うのだ。それがないと何も出来ないというのに、まずそこがやられる。そしてさらに、そこは最も治癒しにくい場所でもあって――

……朝目が覚めた時に、『何で生きてるんだろう』と思うことがよくありました。その男の言うことがなぜか呪いみたいに残ってしまって、私なんか別に生きてても誰も得しないし、死んでも困らないし、毎日が面白いわけじゃないし、出来るだけ不摂生して早く死ななければなと、普通に思うようになりました。叔父に金を渡す時も同じことを考えていました。お金を渡しておけば、あの人は飲んでタバコを吸うから、そうしたら少しでも寿命が縮まるかもしれない」

叔父も私も、消えてなくなればいい存在だから――

……オレも、同じことを考えたことが、ある。オレがいなくなっても、誰も困らない、会社は元々オレがいなくてもちゃんと回ってた、せいぜい親ふたりが悲しむくらいで、あとは、誰も。だけど、ウサコ、そう思った時に、ウサコが来てくれたんだよ」

腕を緩めると、ウサコは穏やかな顔で見上げていた。その頬を頼朝は撫でる。

「あんなにたくさん酷いことを言ったのに、って、ものすごく後悔した」
……頼朝さんの『酷いこと』なんて、大したことじゃなかったんですよ」

ウサコはゆったりと微笑む。ダウンライトにその瞳が潤んで見えた。

「ここで働き始めてからは、少しそういうの、忘れてました。毎日騒がしくて、人の声が絶えなくて、いつも笑い声が聞こえてて、私のどんよりした考えとか、そういうものを忘れられました。それに、社長とゆかりん、と信長くんは本当に仲が良くて、尊くんも家族が大好きで、それを見ているのが好きでした。アマナと寿里が仲良しなのですら、いいなあって、思ってました」

この家で暮らすことは、そういう幸福と羨望と安寧の混ざりあった肌触りの悪い愉悦だった。

しかし、その中に頼朝はいなかった。彼はなんと、「自分と同じ側」にいた。

「今もどこかで、明日になったら頼朝さんは『やっぱり昨日のことはなかったことにしてくれ』と言うのではないかと、そんな風に思う気持ちが消えません。そういうものを、全て諦めて捨てて、死んでいかなきゃならないと思っていたので。だけど――

ウサコはまた頼朝の頬に手を伸ばして、恐る恐る、そっと触れる。

頼朝はこの手を振り払わない。私の手が触れても、触るな気持ち悪いと言わないから――

「だけど、明日もまた、頼朝さんに会いたいです」

目が覚め、呼吸をしていることに気付く。朝の光に眩しい目がうまく動かなくて、体が強ばる。何で生きてるんだろう、何で眠っている間に死んでしまわなかったんだろう。そうしたら、全部消えてなくなるのに。自分自身も、この押し潰されそうな気持ちも、それをどこかで嘲笑う自分も――

でも、それよりも、生きていることに絶望するよりも、あなたに会いたい。

それはとっくに諦めたはずの希望で、夢で、一筋の細い光で、それさえあれば生きていける気がした。

何も望まない、何も願うことはない、ただ、明日もあなたに会えるなら、生きていたい。

頼朝はウサコの後頭部を力任せに引き寄せると、無我夢中で唇に食いついた。

頼朝の真っ白な頭の中に、ウサコの名を呼ぶ自分の声がこだましている。あの日あの夜、絶望した自分に救いの手を差し伸べてくれたのはウサコだ。そのウサコはもうずっと絶望し続けてきた。光のない真っ暗な闇の中で静かに、誰にも気付かれることのないよう息を潜めて、出来るだけ早く消えるために。そのウサコの傍らで、彼女の1番近くで、君に生きてて欲しいと言える人になりたかった。

目覚めた時に、何で生きてるんだろうと思う前に、自分がいることに気付いて欲しい。

「ウサコ、やっぱり結婚して欲しい。毎日一緒がいい」
「えっ、あの……

突然話が蒸し返されたので慌てるウサコを、頼朝は背筋を正してまっすぐに見つめる。

「あなたを、心から愛しています」

ウサコの目に涙が溢れ、頼朝は彼女の体をすくい上げるように抱き締めた。

「誓って嘘じゃない。もしこれが嘘だったら、オレは家族に殺されるよ」

それは想像に難くない。ウサコは泣きながら笑った。声を上げて笑った。

まるで、この世界に生まれた落ちたばかりの赤子の、産声のようだった。