カサンドラのとなりに

15

善は急げ、頼朝はリビングに取って返すと、ウサコはに任せて由香里にざっと説明をした。

「ちょっと待て、泣くのは後にしろ」
「わかってるわよ。だけどやっぱりうちで雇ってよかったんだわ。この為だったのよ」

由香里はそう言いながら新九郎に電話をかけ、詳しいことは後でまた話すけれど、一旦ウサコを預かることにしたと報告した。そもそも新九郎は突然ひとりで子供を育てることになったエンジュに「うちの子にならないか」と言ったくらいの人だ。今から荷物取ってこいと即答した。

時間を見れば、もうウサコの母も祖母もバイオレットに行っている時間帯だ。

「ウサコ、どのくらい荷物ある? 当座の分だけでいいよ」
「え、ええと、衣装ケース6個くらいかな。あとは食器とかそんなもんで……
……えっ、それで全部!?」
「お、置き場もないから」
「軽トラ出すかと思ってたけどオレの車で充分だな」
「えっ!? 頼朝さんの車なんて、そんな、汚れますよ!」
「北見さんの衣装ケース庭にでも置いてあるの?」

バイオレットはだいたい毎日25時くらいまで営業している。だからそんなに焦ることはないのだが、本日新九郎は現場が近所のため17時頃には戻るというし、信長もオフィスを出たと連絡があったので、ふたりが帰る前に引き上げてきてしまいたい。そしてすぐ会議を始めたい。

なので、由香里はまずぶーちんを呼び出し、事情は後で説明するから2時間ほど子守を手伝って欲しいと頼んだ。が同行するからだ。そういうわけでぶーちんも軽く事情を知ることになるけど構わないか、と由香里が確認したけれど、ウサコはもう何でもいいです状態。

まさかあの家を出られるなんて。これは夢なんじゃないだろうか。そういう顔だった。

そしてきっかり2時間ほどで3人は衣装ケースを引き上げてきた。その他には細々とした雑貨がビニールトート3つほどしかなかった。ドライヤーなど共用のものは置いてくることになるわけだし、完全にウサコの私物のみ。寝具も置いてきてしまった。

「だって、布団古くて汚かったんだもん。あんなのいらないよ」

は涙目だ。汚部屋で寝床が汚かったわけではない。家の中全てがそういう状態だった。

「ベッド置けるスペースもなかったし、ひとりだけ新しいのに替えられなかったんでしょ」

北見家に足を踏み入れたはずっと半泣きで、実は荷物の運び出しは1時間もかからずに終わってしまったのだが、帰りがけにインテリア店に立ち寄って寝具一揃いを買ってきた。なので2時間。

「明日はドライヤー買いに行こうね」
「援助するから好きなの買っておいで」
「え!?」

涙目のと頼朝がさも当然という顔で言うので、ウサコは面食らってひっくり返った声を上げた。

「ウサコは社員寮に入るの。だから引っ越し手当が出たの」
、上手いこと言うじゃん」
「お兄ちゃん私今月の小遣い返上するからウサコに回して」
ちゃんも何言ってんの!?」
「もう、うるさいな! 信長がまた勝手に腕時計買ったから私も散財するの!!!」
「えっ、また買ったの!? あのバカタレ、今度説教してやる」

息子たちのやり取りを微笑ましく見ていた由香里だったが、三男の通算12本目の腕時計には黙っていられなかったらしい。ウサコは由香里のツッコミについ吹き出した。

「ウサコ、もう腹くくって。出来る時に全部やっちゃおうよ」
「ウサコ〜あたしたちが結婚する時もこんなだったんだよ〜大丈夫、返していけるよ〜」

寿里を抱いたぶーちんにそう言われると、ウサコの表情がやっと緩んだ。大丈夫、返していける。それはウサコにとって「ないもの」でしかなかった、将来というものに似ていた。そうか、返していくためには、返せるだけの状態にならないといけないのか。

「んふふ、ウサコ、この家にとって女はね、喉から手が出るほど欲しいものなんだよ〜」
「そうなの! 女! 女歓迎! ウサコ、よろしく!!!」
「いや別に女だから家事をやるとかそういうのは」
「被害妄想乙! 女子同士でしか出来ない話は腐るほどあるの!」

大人8人中5人男だし、エンジュはたまに女子にカウントしていいよと言うけれど実際体は男だし、おばあちゃんと由香里は閉経してしまったし、そういう意味でも女子歓迎である。察した頼朝は苦笑いをしつつ、階段を上がってすぐの部屋にウサコの荷物を運び込んだ。

……ひとりで部屋で寝るの、生まれて初めてです」
「怖い?」
「いっ、いいえ、そういうことでは」
「もしひとりが寂しくなったら、犬でもでも尊でも、あ、尊はマズいか」

ウサコは声を上げてケタケタと笑った。一体、そんな風に笑ったのはいつ以来だっただろうか。思い出せない。少し離れた場所でそれを聞いていたも、初めて聞くような笑い声だった。

そしては思う。

お兄ちゃん、そこは「ひとりが寂しくなったらいつでも呼んで」って言うところだよ! ヘタクソ!

引っ越しの片づけが一段落したところで信長が帰宅、後を追うようにして新九郎も帰宅、だぁも一緒に戻ってきたので、ぶーちんはそれを潮に一緒に帰っていった。

「信長、エンジュの方はどうなんだ」
「駅に到着できるのはどんなに早くても20時半頃だって」
「うん、尊もそんなもんだ。ふたりを拾って行こう」

帰宅するなり風呂に飛び込んだ新九郎は首からタオルをぶら下げたまま時計を見上げ、頷いた。これからまた家長を交えての会議だが、尊とエンジュが戻り次第、バイオレットに行く予定でいるのだ。ウサコはしばらく社員寮で預かりますという「ご挨拶」をしに行く。

ウサコも行くけれど、それに同行するのは新九郎と尊とエンジュである。新九郎は対バイオレットの客用戦闘員、尊とエンジュはウサコの母と祖母用の戦闘員である。ただしそのメンツでは道中のウサコがいたたまれないので、がそのためだけに同行する。残りはお留守番。

尊とエンジュはどちらも職場が遠いのと暇な仕事ではないので、そういうことなら何とかして帰るけど、20時半頃になります、ということのようだった。なので実行部隊を欠くけれど、会議開始である。

「ウサコ、改めて、遠慮せずにここにいていいんだからね」

案の定新九郎はちょっと嬉しそうな顔を隠しもしないで身を乗り出し、と頼朝に挟まれて恐縮しているウサコに語りかけた。先日は報連相を怠ったために怒られた頼朝も、今日は帰るなり「よく引き止めた」と褒められた。

「加害者家族なんて考えたらダメだよ。お母さんたちの言うように、むしろウサコは被害者、っていうのはオレもその通りだと思う。可能な限りお仕事は続けてもらいたいし、この間のバレンタインだとかあんな時みたいに、親しく付き合ってくれたらこちらも嬉しいです」

ウサコを正社員とすることは事が落ち着き次第早々に行うとして、ウサコは「下宿みたいな感じ」なのだと新九郎は言う。新九郎と由香里くらいしかピンと来ない感覚だが、要するに一定の「家賃」を収めると食事がついてくるというくらいのものだ。

「昔は自宅に風呂がないお宅が多くて、だから下宿人は銭湯に行ったもんだったけど、まあそれはともかく、そういう暮らし方というのも昔はあったんだよ。だから何も遠慮することはないし、かといって君のプライベートを侵害しようというつもりもないからね」

だぁのような技術者たちも、いわば正社員である。それと同様にウサコも名を連ねるわけだが、仕事の内容が異なるだけで、あとは至って平均的。休みも週休二日に夏季冬季に休暇、ミエさん時代からの規定で女性は生理休暇月2日間までOK、といったところ。

その中から「家賃」を支払ってもらって、ウサコは間借りするという感じだ。

「その他の問題は少しずつ考えていこう。そういう中で、転職をするとか、転居をするとか、結婚でもいいし、何かそういう変化が起これば、その時も何ひとつ遠慮することなく、ここを巣立っていっていいんだからね。ちょうど1年前くらいに同じことをエンジュに言った気がするけど」

新九郎はヒゲをしごきながらニタリと笑った。理由は一応寿里のためということになっているが、エンジュは当分この家を出るつもりはない。と信長と暮らせる以上の幸せはないからだ。

ウサコはまたペコペコと頭を下げ、何度も「すみません」を繰り返していたけれど、いつになく彼女の頬はやわらかなピンク色で、はそれを隣で眺めながら、また少しだけ泣きたくなった。

会議と並行して由香里がザッと食事を用意したので、ウサコとと新九郎は急いで食べて身支度をする。新九郎のアウディで駅まで行き、尊とエンジュを拾ってバイオレット直行である。大人5人はちょっとキツイがこの際仕方ない。

ウサコたちが慌ただしく出かけてしまうと、後には心配で気が気じゃない頼朝と由香里、そして腕時計の件でお母さんに説教された信長が残った。

「まあもう大人なんだから、どう生きようと自由なはずなのにね」
「この世に『親孝行』って言葉がある限り、ああいうのはなくならんだろ」
「それは他人が強要するもんじゃないでしょうに」
「だけど孝行する子は褒められるだろ。結局同じだよ」
「あーっ、もう面倒くさいわねそういうの!」

自身も父親と確執があった身である由香里は余計にイライラしている。そこに、アマナと寿里を両膝に乗せた信長がぼそりと呟いた。

「オレ、別にカズサとアマナが何かしてくれなくても、何も思わないんだけど。それって変なのか?」

由香里はゆるゆると首を振った。新九郎も由香里もそういうタイプだからだ。

「だけど、世の中には『育ててやった恩』とか言い出す人が少なくないのよ。誰のおかげでこの世に生きてると思ってるんだ、ってやつね。それはもう老若男女関係ないと思うわよ。若い人でも言うでしょう、自分が叶えられなかった夢の職業についてほしいとか」

信長はひょいと顔を上げて目を見開き、うんうんと激しく頷いた。

「オレ、あんなプロポーズしてきます宣言とかしちゃったもんだから、あのシーズンは本当に何度も何度も、たぶん100人くらいの人に『早く子供作ってバスケット教えないとね』って言われたんだよな。その度に『子供が出来るかどうかもわかんないし、それは本人に聞いてみないことには』って返してきたんだけど、みんなすごい面白くなさそうな顔するんだよな。あれがどうにも理解できなくて」

結果的に長男は誰が勧めたわけでもないのに父親の後を追うようにしてバスケットに興味を持ち出したが、自身のようなバスケット人生を辿らせたいとは思っていない。信長はあくまでも本人がやりたいというのでちびっ子教室に連れて行っているだけ。だから個人的には何も教えていない。

「そっか、広い目で見ると、ああいうのと同じなのかもしれないな」
……ウサコは、自分の人生を取り戻さなきゃいけないのよ」
……昔のこと、思い出してる?」

由香里はお茶を飲みながら頷き、ソファにもたれてため息を付いた。

「環境が変わる時はあちこち痛むのよね。だけど、取り戻す価値のあるものだから」

バイオレット上陸作戦は、来店していた馴染み客が新九郎の幼馴染で、しかもガキ大将同士の派閥争いで戦った中であり、その上新九郎の方が若干年下ながらもその抗争に勝利していたとかで、店は一瞬にして、ママさんこの人が言うんだから聞いとかなきゃいけないよ! という空気になった。

さらに、思わぬ展開にウサコがポカンとしていると、ふたり連れの男性客が現れ、方やこの地域の町会長、方や新九郎とは組合で顔見知りの仲という、もはや尊とエンジュの出番がない展開になってきた。

新九郎はこれ幸いと「うちの事務員ですごくいい子だから、下宿させて面倒を見たい」と言って回った。幼馴染、町会長、組合の知り合い、全員が口を揃えてウサコの母に「ありがたく預けときなさい」と言ってくれた。「下宿」という新九郎の申し出に疑問を感じない世代で助かった。

しかし、ウサコ自身から「そういうわけで家を出ます」と母親と祖母に告げる際は、両脇をガッチリと尊とエンジュが固め、余計な茶々が入りそうになるとその度に全部潰していった。

だが、最終的に「ウサコに家を出られると生活できない」というようなことを言い出したので、尊がカチンと来てしまい、彼はカウンターに腕をついて身を乗り出した。

「いいですよ、ウサコちゃんを預かる代わりにいくらかの持参金みたいなのをお渡ししてもいい。うちは彼女にそれだけの価値があると思ってるから。だけどそしたらそこまで、口減らしの身売りみたいな真似をしたらそれっきり、縁切りですよ。それでもよければ後日お持ちしましょう。日銭が足りないなら禁煙でもしてみたらどうです。かなり浮きますよ。お肌もきれいになります」

ウサコはアレルギーのせいで肌荒れと縁が切れないのだが、それを挟むエンジュは異様な美肌だし、尊も年齢にしてはつるりとした顔をしていて説得力があるし、タバコの箱をカウンターに積み上げてスパスパやりながら「生活できない」は言い訳にはならないだろう。

そういう尊の、エンジュいわく「きれいな恫喝」が効いたか、結局ウサコは金品その他のやり取りなく実家を出ることになった。さしもの母と祖母も縁切りという言葉には怯んでしまい、渋々といった表情ではあったけれど、いつでも帰ってらっしゃいと送り出してもらえた。

こうしてウサコは清田家の新たな住人となったのである。

最初は生活に入り用なものを揃えなければならないのだから、と「家賃」は3ヶ月おまけとなり、その分は頼朝がこっそり負担することになった。ウサコはあれこれと必要なものを買い揃え、少しずつ由香里の言うように「人生を取り戻し」始めていた。

尊にバーに連れて行ってもらったり、信長のチームのファンイベントに行ってみたり、エンジュの紹介で低刺激コスメに詳しい人を紹介してもらったり、休日にはとぶーちんと朝から晩まで遊んできたりもした。最初はこれでいいんだろうかと戸惑っていたウサコだったが、由香里に「取り上げられていたものを取り返しただけなのよ」とビシッと言われると、何も考えずに頷いていた。

そんな風にドタバタと過ごしていたら、気付けば梶原さんちの桜はすっかり開花していて、新九郎は焦って花見の準備をし始めた。1年前、エンジュが突然寿里を連れて現れた時は雨続きで花見ができないまま桜が散ってしまった。リベンジをせねば。

しかしいつぞやのリフォーム完了記念パーティーで懲りた新九郎は、今回は内々に済ませよう、と広く門戸を開くことをやめた。なので、今年清田家の外から参加するのは小山田家のみ。それでも大人11人に子供5人の大宴会である。

花見と言っても場所は庭であり、眺める桜はお向かいの梶原さんちの桜だが、由香里ととウサコは朝から大量の料理を用意して花見に挑んだ。今日のノンアル担当は頼朝で、彼はまた例のディスカウントストアで酒を沢山仕込んできた。

日曜のことだったので信長は途中からの参加だったけれど、それでも清田家はウサコという新たな住人を迎え、2年ぶりの花見に沸いた。幸い好天に恵まれた庭は春目前の暖かい日差しが差し込み、犬と子供たちがはしゃぎ、大人たちは暗くなっても明かりを灯して飲んでいた。

そんな中、たまたま入れ替わりで尊、信長、そしてエンジュと4人で固まっていた頼朝は、酒を一滴も飲んでいない状態の完全なる真顔でぼそりと呟いた。

「もう1回、北見さんを食事に誘ってみようと思ってるんだけど」

一滴も飲んでいないので酔った勢いではない。ウサコは離れた場所でやぶーちんと女子会状態だし、エンジュに嫌味を言われて反省した弟ふたりは目を丸くしつつも、真面目な顔で首を突き出した。そういや前にオサレカフェかなんかに連れて行こうとして断られてたな。

「どういう所がいいんだろう。やっぱり回転寿司か?」

頼朝の表情は動かない。純粋な疑問らしい。

「頼朝さんの希望は? 少し、ロマンチックな方がいい?」

全てを察して優しく問いかけるエンジュに、頼朝はそのまま頷いた。

「そう……そういう方が、いいかな。この辺りで心当たり、あるか?」

3人はピンク色の頬をしていたが、一斉に無言でグッと親指を突き出した。任せとけ!