カサンドラのとなりに

12

魔法使い疑惑がある清田頼朝37歳であるが、それは彼が徹底して家の外でのことを家族には話さないからで、まだ大学にいる頃にひとりだけ、付き合った女性がいた。

が清田家に現れる以前のことで、付き合った期間はかなり短かったけれど、彼女はなかなかに激烈な女性で、ゆえに頼朝はすぐに夢中になったものだったが、おかげで彼の心には今も深い傷跡が残る羽目になってしまった。

彼女は、「人間は平等」をモットーとしていた。

平和主義ではない。むしろ、人間は平等であるという、差別主義者だった。つまり、貧困や無教養は単なる「努力不足」で、病や怪我は「自己管理不足」で、そして努力と自己管理を怠らない「善良なる人々」のために、低俗な人間は社会から一掃されなければならないと考えていた。

人は平等なので、人として一定の水準を満たす義務があるし、一部の怠け者のために高水準の人間に損失が発生することは「不平等」に他ならないと彼女はよく語っていた。簡単に言うと「生活保護は甘やかし」という主義だ。最初は頼朝もそうした彼女の考えに概ね賛成で、だから付き合っていた。

とても近い思想を持ちながら恋愛関係になることで、その「正論」はより高い次元へと昇華していくような気がしていた。社会について世界について熱く語り合った勢いのままに体を重ねると、心まで溶け合うような気がした。

だが頼朝は、実家の後を継ぐという目標だけは失わなかったのである。

彼女の方も頼朝の実家が従業員を何人も抱える大きな工務店だということは承知していたし、頼朝が次期社長ということは「期待してしまう」と正直に話していた。しかし、頼朝の実家の実態を知るほどに、彼女はそれに対して苦言を呈するようになった。

そんなところから徐々に関係にヒビが入り始め、最終的に彼女は頼朝が継ごうとしている工務店で働く人々を、つまり、小山田夫婦のような人々を「害悪」と呼んだ。

頼朝はもっとちゃんと考えられる人だと思ってたけど、育った環境には勝てないみたいね。まあ、戦国武将の名前つけられてる時点でもっと早く気付けって話だから、私もバカだけど。いずれ湘南に引っ込むんでしょ? DQNはあんまり都会に出てこないでね。迷惑だから。

彼女はそう言って去っていった。

それが10年以上経った今でも、頼朝の心を捻じ曲げていた。生まれた町も、家族も、親しい人々も、自分自身も、全て否定された。あんたなんか嫌い、と言われるよりショックだった。

DQNで一括りにするなよ。そりゃ、豪は付き合ったかと思った瞬間桃香を妊娠させて親父たちにボコボコに殴られて、うちで働き始めてからは坊主頭にバリアートを入れるようなヤツだけど、迷惑行為なんかしないぞ。そんなことしたら親父にシメられるの、わかってるから。そうしたら、桃香を守っていかれない。だから豪はDQNに見えても、人迷惑なことは絶対にしないのに。

てか建設作業員だから何だって言うんだよ。お前が住んでる代々木のマンションだって建設作業員が建てたものだし、多摩のお前の実家だって、地元の工務店と繋がりのある下請けが作ったものじゃないか。お前だって、北多摩の保守的な家に育ったままの人間じゃないか。

それに、源頼朝は、「戦国」武将じゃ、ない!

しかし、長く頼朝を苦しめ続けてきたトラウマにも等しい記憶は、ウサコとのんびり過ごすことでいつしか遠く過ぎ去った記憶となり始めていた。

あいつがどれだけ優秀で高尚な人間かは知らないけど、のように5年間誰かのためにひとりで戦ったりはしない。母や祖母のように毎日毎日家族以外の人間のために働いたりもしない。ウサコのように、何も考えずに苦しむ人に手をのばすことなんか、絶対に出来ない。

お前が「害悪」と呼んだ身近な人々の日々の暮らしがつまり、社会だというのに。バカだな。

きっと彼女は今も「正義」を振りかざして生きているに違いない。それはもういい。関わりのないことだ。あんな女の記憶を繰り返し反芻して、そのたびに怒っている、そんな暇があったら、ウサコと回転寿司に行かれるよう努力をすべきだ。そう、思った。

困った時はお互い様です。まるで母や祖母のようなことを平然と言う彼女の、何の下心もなく助けてくれたウサコの、いつか助けになれるような人間にならなければ。

だから、背中に不穏な声を聞いた頼朝は、素早くウサコを背中にかばった。

「あんたアレだろっ、ウサコがバイトしてるっていう会社の専務とかいう」
……清田と申します」

ウサコと呼び捨て、自宅の前まで徒歩でやって来るということは、見ず知らずの他人ではないだろう。年齢は新九郎より少し年上というくらいか。すると知人友人というよりは、付き合いの長いご近所さんとか、また親戚とか、そんなところのはずだ。そういう立場が相手では、名乗らざるを得ない。

「もしかして表に止めてあった車、あんたのかい」
「すぐに移動します」
「あっ、いーのいーの、オレ、おまわりじゃないし」

その男性はふらふらと体を揺らしながらふたりを回り込むと、ひょいと上半身を傾けてウサコに顔を寄せた。頼朝は思わずウサコの肩を引き寄せて遠ざけたが、男性のゲヒッゲヒッという笑い声に固まってしまった。歯がほとんどない。

「なんだよ、いつの間に男出来たんだよ、なんで黙ってたんだよ」
「ち、違、この人はそうじゃなくて……
「それにしても兄ちゃん金持ってそうだなあ。車もピカピカだしよお」
「あの、どちら様でしょうか」

暗い夜道でも充分にわかる蒼白なウサコの顔色に、頼朝はつい間に入った。すると男性はまたゲヒッゲヒッと歯の隙間から空気が抜けた笑い声を上げ、作業着の胸ポケットからタバコを引っ張り出して火を付けた。鼻と口から幾筋もの煙が風に流されていく。

「オレ? オレは、ウサコの叔父さんよ。なあウサコ、お父ちゃん代わりなんだよなあ〜」

深酒をして酔っているとしか思えない口調だが、不思議と酒の匂いはしない。そして、俯いて泣き出しそうな顔をしているウサコに向かって、それはもうニコニコと目尻を下げている。

だがそんな叔父さんの笑顔に、頼朝は背筋を震わせた。

叔父さんが現れた瞬間、「こいつ変だ」と思ったけれど、最初はウサコの身内とは思っていなかったので、最悪また連れて帰ろうと思ったくらいだった。だが、叔父というとても近い親戚、叔父と姪など清田家であれば家族だ。その前からは勝手に連れて帰れない。

たかが職場の上司の自分には、ウサコをここから連れ出すことは出来ない。

どうしたものかと考えあぐねていた頼朝だったが、叔父さんは今度は頼朝の前にフラフラと出てきた。

「あんたっ、オレぁ聞いて知ってんだけどね、専務なんだって話だったね」
……名ばかりですが」
「そんでもってアレだろ、ウサコは正直に言わねんだけども、30万くらい払ってんだろ」
「お、叔父さんやめて」
「給与のことでしょうか。月に30万、ということはありませんが」

ウサコは現在も時給制のアルバイトのため、例の休日出勤手当てを加算しても月30万には到底届かない。狼狽えるウサコを制して頼朝は答えるが、叔父さんは妙なニコニコ顔を崩さない。しかし、ほんの一瞬の間を置いて、叔父さんは突然眉を吊り上げて口をへの字に結んだ。

「専務さんよっ、そりゃちょっと安いんじゃないの」
……そうでしょうか」
「ウサコはね、毎日あんたんとこで頑張って働いてんだよっ。50くらい貰ったっていいくらいだ」

一体何の話だ……頼朝は様々な可能性をいくつも考えては打ち消すが、何も見えない。

「それとも何かい、ウサコには金を払うのは惜しいって、そういう了見かい」
「弊社規定の給与をお支払いしていますが」
「あんたはねえ、もうちょっと感謝ってものを知らなきゃいけないよ。わかる? 気持ちよ、気持ち!」
「叔父さんもうやめて!」

叔父さんが何を言いたいのかさっぱりわからないのでポカンとし始めていた頼朝を押しのけ、ウサコが出てきた。叔父の腕を押し返して頼朝から遠ざけ、いい加減にして、と押し殺した声を出している。

「頼朝さんすみません、大変な失礼を、あの、どうか」
「北見さん、だけど……
「あ、明日は掃除の日ですから、早めに伺いますから、送ってくださってありがとうございました」

清田工務店に「掃除の日」というものはない。頼朝はピンと来た。明日の朝1番で釈明をするから、もう帰ってくれと言いたいのだろう。ウサコの必死な顔を見ていると、さっさとそれに従ってやらねばと思う。思うけれどしかし、頼朝はウサコをひとり残して行きたくなかった。

家はボロボロだし母親の店は下品だし、その上ウサコひとりの家にこんな叔父が尋ねてくるなんて。

ウサコを家に連れて帰りたい。頼朝は強くそう思ったけれど、ウサコは叔父をぐいぐいと押して家の敷地内に押し込んでいる。そのウサコを引き剥がして手を取り走ったところで、今は何も出来ない気がした。ウサコをアルバイトとして雇っている会社の、ただの上司だから。

……明日はいつもより早く来てください。掃除するところが、多いから」
「はい、早めに行きます。明日もよろしくお願いします」

もうウサコは振り返らない。叔父を片手で押さえつけたままポケットをまさぐって家の鍵を探している。頼朝はそれを横目に、その場を立ち去った。早足で車に戻り、エンジンをかけ、急いでその場を離れる。頼朝の全身を異様な無力感と怒りが覆い尽くしていた。

母と違い、普段は徹底して安全運転主義の頼朝は夜の町をスピードを上げて駆け抜けた。

どうしてオレはただの上司なんだろう。どうしてオレは、北見さんを助けられないんだろう。

清田家の朝は早い。基本的に朝食は6時。それにあぶれたら食いっぱぐれるということはないけれど、頼朝の祖父の頃の習慣が今も残っている。

幸いこの家の子供たちは皆遠い学校に通っていたり、熱心に部活をやっていたりで、朝が早いのはむしろ普通のことだったし、現在も例えば尊とエンジュは東京都心部に出勤する都合上、朝が早いに越したことはない。新九郎など現場が遠いと6時では間に合わないこともある。

そんな中、朝6時では早すぎるのが自宅が職場になっている頼朝である。しかし長年続いた習慣なので、例え始業まで1時間以上時間が余るのだとしても、彼は6時には起き出してきてダイニングテーブルについている。今朝も6時15分頃には寝ぼけた目でコーヒーを飲んでいた。

そして簡単に身支度をすると、甥っ子たちが起き出してきて騒ぐのを背に、事務所に入った。

この度のリフォームで事務所は拡張され、応接のために片側をガラス張りにした。事務所を閉めている間はそのガラス張りの部分にはロールスクリーンが降ろされていて、隙間を覗き込まない限り中は見えない。頼朝は入り口のドアを解錠すると、事務所の小さなキッチンで湯を沸かした。

そこへドアが開く音がした。振り返ると、白い息をもうもうと吐き出しているウサコが佇んでいた。

「あ、あのっ、昨日は――
「おはよう」
「えっ、あ、おはようございます」
「今お茶入れるから、そっち、座って」
「で、でも……

おそらくウサコは事務所に入るなり頭を下げて謝ろうと考えていたのだろう。迷惑をかけた頼朝の仕事場の敷居をまたぐ前に、謝罪しなければ。しかし出鼻をくじかれてしまったので、途端に猫背になったウサコはとぼとぼと移動してソファに腰掛けた。

頼朝は清田家お茶担当である尊監修の緑茶を淹れ、自分用のコーヒーも手に戻る。

「はい、どうぞ」
「すっ、すみません」
……隣、座ってもいいかな」
「えっ!? は、はい」
「正面にいると、余計な気を使わなきゃいけないだろ」

湯呑に手を温めているウサコは頼朝の言葉に静かに頷いた。ソファの端と端、それはまるで普段頼朝の運転する車の助手席にウサコが乗っているのと同じ距離感だった。のんびりと他愛もない雑談をして気持ちを緩めている時を思い出させる。

「昨日は……大変失礼をしました」
「オレは何も。北見さんの方が大変だったんじゃないの」
「いえ、その、叔父ですから……
「あの家で一緒に暮らしてるの?」
「い、いいえ、そうでは、ないんですが」

出鼻をくじかれたせいでどこから話していいものやら……と首を捻っていたウサコだったが、熱い緑茶を一口含むと湯呑をテーブルに戻し、大きく息を吸い込んだ。

「祖母が離婚した時、叔父は祖父と残り、母が祖母と家を出ました。その後バイオレットを開店して店の上に住んでいたんですが、私が生まれる直前に祖父が他界したので、叔父が祖母と母を呼び戻しました。それがあの家です。だけど叔父は生活が乱れていて、遠方に長く出稼ぎのような仕事をしたり、またはどこかの寮に入っていたりで、住んでいると言うほどではありませんでした」

ちょこちょこと頼朝が突っ込んでみたところ、叔父は定職につかずにフラフラしているだけのようで、なおかつ遊興費のために借金を繰り返して、存在してはならないことになっているタコ部屋労働のようなところにいたり、それを逃げ出してきたりだの、乱れているというにはだいぶハードな御仁であるようだった。ウサコは濁しているけれど、軽犯罪での逮捕歴もある模様。

「なので、ふらりとどこかへ出かけていっては突然戻ってきたり、という生活を続けているので、昨日はたまたま。私が飲食店とかレジ打ちのバイトではなく、会社員のような仕事に就いていると知ってからは帰ってくる頻度が増していて」

ウサコは状況説明をしているつもりだったんだろうが、頼朝はそこで手を挙げて止めた。

「ちょっと待って、昨日の叔父さんの言い分と合わせると、それは北見さんのお金目当てじゃないのか」
「ええ、はい、そうです」
「そうです、って何言ってるの。まさかタカられてるんじゃないだろうね」
「でも、そんなに大金は渡してません。少し出せば出ていくので」
「北見さん北見さん、それ絶対ダメ」
「えっ!? だけど出さなければいつまでも家にいます」

頼朝は膝に肘をついて手で顔を覆った。確かにあの外から見ただけでも狭い家の中に母子3人で暮らしていて、そこにさらに叔父が転がり込んできたら邪魔だろう。女3人ならまだ気楽だとしても、そこにいきなり男性が交じるのも戸惑うだろう。しかし金を渡してしまうのは絶対ダメだ。

「だから昨日あんなこと言ってきたんだな。北見さん、このままだと一生タカられ続けるぞ」
……そうだと思います」
「思います、ってそれでいいの!?」
「だけど、逃れる手段がありません」

頼朝の脳裏に学生時代の元カノの声が蘇る。

本気で自立したかったら方法なんていくらだってあるはず。バイトして金貯めて部屋借りて。寝る間も惜しんで働けば金なんかすぐ貯まるし、それを繰り返していけばまともな生活なんか簡単に手に入る。そういう努力が嫌だから、あれこれと言い訳をつけて実家にへばりついてるだけ。

彼女は鼻息荒くそう言っていたけれど、ゼロから自立するために、義妹のは100万近く貯金をした。引っ越しや、ひとり暮らしをするためのありとあらゆるものを一から揃えるのには大金がかかった。結果的に100万も必要はなかったわけだが、それでも3ヶ月アルバイトしたからひとり暮らしです、とは行かないことは目の当たりにしてきた。

それに、バイオレットに実際に足を踏み入れた頼朝は、あの店がギリギリの売上しか上げていないことはすぐにわかった。ウサコの祖母と母はもしかしたらもう年金を受給しているかもしれないが、それも微々たる額だろう。あの様子では酒に消えているかもしれない。

ウサコは一体収入の何割を母子3人の生活に充てているんだろうか。だというのに、そこにあの叔父がやって来て金をむしり取っていく。払わなければ、家に居着く。叔父の生活費という出費が増える。

最悪の悪循環だ。頼朝は髪をかきむしる。

だが、ウサコの言うように、可能なら「逃れる」しか手段はないのだ。今にも倒れそうな家や、バイオレットや、叔父から、ウサコが離れるしか方法がない。そこへ至り、頼朝はふいに思いつく。

……北見さん、しばらくうちに来る?」
……えっ?」

顔を見ない方がいいのではと並んで座ったふたりだが、思わず向かい合った。

「いやほら、空き部屋あるし」
「だってそれはカズサくんたちの」
「そうそう、あいつらが大きくなったら個人の部屋にするつもりでいたけど」

しかし当のカズサがまだ4歳。かなり先の話だ。現在空き部屋は2階にふたつ。

「というか社長と由香里が社員はどうかって話してたのは聞いてるよね。ええとその、当時はオレがそれはちょっとどうかなって思ってて、結局妨害してたことになるんだけど、それはちょっと措かせてもらって、だから北見さんに社員になってもらって、社員寮みたいなことなら」

ちょっとした思いつきだったのだが、頼朝は案外悪くない気がしてきた。住み込みというやつだ。

と由香里も喜ぶし、まあその、うちのドタバタに巻き込まれちゃうだろうというのはあるけど、その分お店とか叔父さんとは距離が取れるんじゃないかな。もちろん休日なのに暇なら仕事しろとか、そんなことは言わないので」

最高の思いつきだと思った。楽しそうに喋る頼朝にウサコは目を泳がせていたけれど、リフォームは終わっているから水周りの問題もないし、他人を住まわせるなんてということなら既にエンジュがいるし、現在大人8人子供3人犬4匹。そこにひとり増えたくらい、大差はない。

「だけど、そんな、わざわざ荷物を抱え込むようなことは」
「荷物じゃないよ、従業員。それに、昔はそういう人がうちに何人もいたんだよ」
「でも、結局ご迷惑には変わらないのでは」
「そうかな。と由香里に聞いてご覧。早くおいでって言うから」

頼朝はニコニコと頬を緩ませる。それを出されるとウサコも返しようがない。と由香里は絶対に喜んで両手を広げるからだ。たぶんその後ろで新九郎も腕を広げているに違いない。

この日も歯切れの悪いウサコを送って行くと、頼朝は別れ際にまた声をかけた。

「北見さん、『社員寮』の件、考えておいてね」

頼朝はまた少しスピードを上げる。ウサコに報いることが出来ている、そんな気がして。