カサンドラのとなりに

18

車に戻った頼朝はまず先に、とに連絡を入れた。ウサコは恥ずかしがっていたけれど、同居している以上は隠してもいられないし、隠すようなことでもないし、隠せるわけもない。弟たちには本日のプランニングで協力してもらったが、信頼度では遥かに上を行く。兄弟などそんなものだ。

その連絡をキッチンで受けたは携帯の通知を確認するなり驚いて携帯を取り落とし、ガタガタと震える手でメッセージを確認し、それを見ているうちにみるみる涙目になり、疲れて帰ってきてやっと食事を終えたばかりの夫に抱きついてべそべそ泣き出した。

この時既に新九郎と由香里は自室で寛いでおり、子供たちも寝たばかりであり、リビングにはと信長とエンジュ、そして尊しかいなかった。そこに頼朝から「付き合うことになりました。もしかしたら嫁にもらうかも」などと連絡が来たので以外は無言のパニックである。展開はえーな!

しかし、胸が一杯になってしまったは最初の衝撃から立ち直ると、ソファに座っていた尊の前に立ちはだかって腰に手を当てた。

「みこっさん、もし今後ふたりのこと悪ふざけでからかったりしたら、二度とアマナ触らせないから」
「えっ」
「信長」
「えっ」
「そういうことしたら、エンジュを1番目の夫にします。あんた2番目」
「わかりましたしません絶対からかいません約束します」

の目が本気なので、次男と三男はカクカクと頷く。確かにふたりが帰ってきたら囃し立てていたに違いない。正直からかいたい。主に頼朝をイジりたい。しかし、姪っ子を取り上げられるのも、旦那ランクを格下げされるのも絶対に嫌だ。ええ、やりませんとも。

……よかったね、ウサコ」
「ちょっとそんな感じかなあと思ってたんだけど、うまくいくとは思ってなくて……
「家族が増えるかもしれないね」
「うん、そうだね、また、賑やかになるね」

頼朝が帰ってくるまでなら、と弟たちはあれこれ好き放題言っているようだが、キッチンに立つにエンジュはそっと囁きかけた。はまだ涙目で、頷きながら目頭を押さえた。ウサコのことを喜ぶ気持ちはもちろんあるけれど、それ以上に、頼朝が嬉しかった。

長い付き合いのぶーちんを持ってして「毎日少しずつ歪んでいる」と言わしめたほど、専務になってからの頼朝はわざわざ袋小路を選んではまり込むような道を選び続けてきた。おかげでウサコのこともずいぶん小バカにしてきたものだったが、そこから少し道を逸れたのかもしれない。

自分にも覚えがあるからわかる。きっと今、頼朝の体は幸福で満たされているはずだ。

それが嬉しかった。その相手がウサコで、自分まで幸せに満たされたような気がした。

「あ、れ……もう真っ暗、ですね」
「みんな部屋に帰ってるんだろ。尊の部屋もたちの部屋も、ほら」
「あ、ほんとだ」
「気を遣ってるんじゃないか。連絡しておいたから」
「そ、それはそれで……

清田家に帰ってきたふたりが玄関ポーチに入ると、普段なら煌々と明かりが漏れているリビングが真っ暗だった。玄関も明かりが落ちていて、時間にして22時前というところだったが、土曜の夜だし、リビングで酒盛りが行われていてもおかしくない頃合いだ。

だが、頼朝の読みどおり、に追い立てられて全員自室に戻っている様子。

頼朝が玄関の鍵を開けると、その音に反応して犬たちが激しく吠える。

……とりあえず、着替えたり、しようか」
「は、はい。それから、行きます」

買い物もしてきたし、頼まれたケーキもあるし、さあこのまま部屋に、とはいかない。ふたりは無言で玄関を過ぎると、ウサコは足早に部屋に戻り、頼朝はキッチンに行ってケーキを冷蔵庫に入れる。ついでに犬たちを宥めた頼朝は、思い立って両親の部屋のドアをノックした。

「あら、おかえり。ウサコも帰ってるの?」
「ただいま。ああ、帰ってるよ。親父、母さん、あのさ」
「おう? どうした」
「詳しいことはまたいずれ話すけど、オレ、ウサコと付き合うことになったから」

これでもかというほどの真顔、そして淡々と話すその声に、由香里の口からは煎餅がボタリと落ち、新九郎がグラスに注いでいた焼酎はそのままドバドバ溢れた。

「年が年だから結婚も考えてるけど、まあ現状がこんなだしな。じゃ、おやすみ」

この後新九郎と由香里は衝撃から立ち直るのにたっぷり数分はかかり、やがてそれを通り過ぎると、ふたり揃って腕を組み、「もう少し心のこもった言い方ってもんがあるだろう、業務連絡じゃないんだぞ」と憤慨していた。が、最終的には「ウサコが嫁か、いいねえ」で終わった。

親への報告を業務連絡で済ませた頼朝は部屋に戻り、空気清浄機のスイッチを入れる。1日閉め切っていたので空気が籠もっている。その背後でウサコがバタバタと慌ててシャワールームに駆け込む音が聞こえた。まだ夜は冷えるのでゆっくり体を温めてほしいが、慌てているに違いない。

ウサコを招き入れたが最後、朝まで部屋から出したくないという気持ちはある。というかもう明日にでも隣の部屋をまとめ直し、この部屋を「頼朝の部屋」から「頼朝とウサコの部屋」にしたいくらいではある。だが、それらはひとまず措いておかねば。

頼朝はウサコがシャワールームにいることを確認すると、隣のバスルームに入っていく。出入り口が分かれていて、中で一応繋がっているが、シャワールームの方からのみ施錠できる鍵がついており、普段はかけっぱなしになっている。なので、シャワールームが使用中になっていれば、入っても大丈夫。

ザッと体を洗い流すと、浴槽の蓋を開けてみる。ぬるくなった湯にアヒルちゃんがプカプカ浮いていた。子供たちが入った時に湯を沸かしたまま、ということだろう。頼朝はアヒルちゃんを取り出すと身を沈め、少し追い焚きをして温める。

おそらくウサコは万が一のことを考えて大慌てで身支度をしているはずだ。しかし頼朝がさっさと風呂を出て部屋に入った音が聞こえたら、余計に焦る。少し余裕を持たせてやらねば。

のんびり風呂に浸かった頼朝は部屋に戻り、ウォーターサーバーから水を汲んで電気ケトルのスイッチを入れる。清田家のキッチンは巨大だが、巨大が故に毎日と由香里が清潔に保つようにしており、それが転じて些細な用途では逆に使いづらい。そのため、頼朝も尊も、またと信長も、部屋に多少の設備を置いて飲食ができるようにしてある。

毎夜泥酔するほど飲むわけじゃないが、頼朝も清田家の血筋、酒は好きである。ウサコが酒が苦手なのは、酔っ払いを思い出すから。酒自体は嫌いではない。なので頼朝はコーヒーグッズが入っている棚の片隅から紅茶を取り出し、ブランデーを用意しておく。

全体的に痛々しいことで知られる頼朝だが、ティーロワイヤルでロマンチックなムードを演出し……なんていうことはさすがにやらない。紅茶に少し垂らすと香りがいいし、体が温まる。

自分用にはコーヒーを、と手を伸ばしたけれど、頼朝は濃いコーヒーが好きなので、最近コーヒーを飲んだ後にアマナを抱っこすると「くさい」とダイレクトに言われるようになってしまった。それを思い出してそっとコーヒー豆を戻す。臭いのはいかん。キスするんだから。します。いっぱいします。

ちょこまかとお茶の用意をしていたら、ウサコからメッセージが届いた。「今からそちらに行ってもいいですか」という一文に頼朝は吹き出した。人のことを言えた義理ではないが、まったくかわいくない文章ではないか。ハートマークも絵文字もなし。

だが、そんなウサコが好きなのである。頼朝もまたスタンプや顔文字などは使わず、「いいよ」とだけ返し、部屋のドアを開けて待つ。ノックの音が響いてしまうのは気まずかろう。きっとエンジュは寿里とともにたちの部屋に転がり込んでいるだろうが、音もなく移動できるに越したことはない。

すると、部屋からにょきっと顔を出したウサコが首を伸ばして廊下の奥を覗き込み、忍び足で出てきた。頼朝はまた吹き出す。その音に気付いたウサコは忍び足のまま小走りで頼朝の部屋に飛び込む。衣装ケースをひっくり返したであろう見慣れないゆったりした部屋着に、ポーチを手にしていた。

「シャワーだけで寒くないか」
「えっ、だ、大丈夫です」
「顔はピンクだけど……デスクの横の茶色のボックス出してくれる? そうそれ」

ひざ掛けが入っている。ウサコにそれをかけておけと言って、お茶を用意する。

「頼朝さん、紅茶も飲むんですか」
「普段はコーヒーだよ。でもたまにね。少しブランデー入れるけど、いい?」

ソファにかけててもらいたかったのだが、ウサコは頼朝の斜め後ろから紅茶が入るのを眺めている。

「ブランデーって飲んだことないんですけど……高そうなボトルですね」
「お店に置いてなかったの」
「そんな高級なもの飲む人いませんでしたから。ウィスキーはありましたけど、ほぼ焼酎です」
……これは、親父にもらったもので」

頼朝はボトルを持ち上げてウサコに手渡す。

「ちょっと古いんだけどね。少しずつ飲んでるから」
「そんな大事なもの……
……昔、親父が初めて由香里をこの家に連れてきた時、オレの祖父はとても喜んで」

それがまったく顔に出ず、十数人の職人を束ねる親方に相応しい強面のままだった――というのは今でも由香里やおばあちゃんが話の種にしては笑っている。快活なのはいいけれど子供っぽさが抜けなかった新九郎が、いかにも真面目でしっかりした雰囲気の由香里を連れてきたので、彼はひと目で気に入ってしまったのだという。

「その時に祖父が大事に飲んでいたブランデーを振る舞ってくれたそうなんだ」
「昭和の大工の棟梁さんにしては、おしゃれな方だったんですね」
「粋な人だったよ。……だから、今日はブランデーもいいかなって」

2秒ほどかかってその意味がわかったウサコは、ブランデーのボトルを胸に抱いたまま頼朝の背中にもたれかかった。いやいや、そこは前から来なさいよ。頼朝は向き直ってボトルを取り上げ、ひざ掛けでくるんでからゆったりと抱き締める。

「さっき、親父たちにも一応報告しといた」
「な、何かおっしゃってましたか」
「驚きすぎてふたりともポカンとしてた」
「大丈夫かな……
「大丈夫に決まってるでしょ。うちに来てどれだけ経ってると思ってるの」

ウサコがアルバイトとして由香里に連れてこられてからは1年半というところだ。当時のことを思い出すと頼朝は頭が痛い。そう遠いことではないけれど、完全に黒歴史だ。

タイマーが鳴ったので頼朝は紅茶をカップに移し、ブランデーを垂らす。ブランデーの深い香りがふんわりと漂い、それだけでも酔ってしまいそうだ。頼朝は無糖だが、ウサコは蜂蜜を少し。

さて、じゃあソファでゆっくりと話しますか――とウサコを促すと、彼女はふたりがけソファの「座り位置」にきちんと腰を下ろす。いやいやいやいや、そこは真ん中あたりでくっつこうよ。頼朝は腕を引いて抱き寄せると頭を落とす。洗いたての優しい匂いがする。

「そ、そうですよね、すみません……
……本当に誰とも付き合わなかったんだね」
「付き合わなかったと言うか、付き合ってくれる人がいなかったと言うか」
「好きな人もいなかったの」
「それは、ええとたまにいましたけど」

頼朝は突っ込みすぎたことに気付き、頭を撫でて誤魔化す。その先は想像に難くない。

「まあオレも別に尊みたいに元カノだらけってわけじゃないから」
「それもおかしな話ですね」
「そんなこと言うのウサコだけだよ」
「だからそれもおかしいですよ」

頼朝は笑いながらウサコのこめかみに唇を寄せ、そして静かに息を吐く。おかしいことはない。身近な人々にも散々ポンコツだの痛いだのライジングだの言われてきた。実際そういう接し方をしてきたのに、それに疑問を感じていなかったウサコの方も中々に鈍感であったに過ぎない。

……先のことはともかく、こういう関係になったんだし、話しておこうか」
「何をですか」
「ちゃんと説明するので誤解しないでほしいんだけど、オレは昔、のことが好きだった」

ウサコは驚いて顔を上げたが、目を見開いただけで、黙って頷いている。

「もう10年以上前の話で、オレはまだ学生だったし、は高校生だった。当時まだ信長とは付き合ってなくて、あいつは部活が忙しいもんで、知り合い程度の仲でしかなかったんだけど、はどんどんうちの中に入ってきて、バーベキューにもよく来るようになって」

ウサコが笑いながら「社長とゆかりんですね」と言うので、頼朝も何度も頷く。そう、ウサコもも、この清田家に深入りすることになったきっかけは結局どちらも新九郎と由香里なのである。ふたりにしてみればぶーちんなんかと同じ感覚でしかなかった。

「部活で信長はいないっていうのに、尊ともすぐ親しくなって、オレは理系が心許ないって言うから家庭教師することになって、だけどあの頃のは、ものすごくピュアと言うか、何も知らない子だったから、進路相談と一緒に何を教えても信じたんだよな。鵜呑みにしてた」

そうは言っても高校1年生である。無理もない。は難しい問題に直面すると頼朝に意見を仰ぎ、高説を賜っては感心して目を輝かせていた。あの頃のにとって頼朝は、優しくて勉強のできる、だけど子供だと縛り付けてこない都合のいい大人だった。

「その頃オレは学生の時に少しだけ付き合ってた子と別れたあとで、その子がなんていうか、キツい子だったもんだから、何でもすぐに信じて言うことを聞くが可愛くなっちゃったんだ。だけど今思うと23と16、自覚が足りなかった」

学生の身分とはいえ自分は仮にも成人の身、は高校生で未成年だった。それをわきまえていなかった頼朝はがうっとりした目で甘えてくるものだから、状況を顧みることなくエスカレートしていった。特に家庭教師の件での両親から信頼を得ていたことが災いし、盲目になっていった。

「その頃がバイト先で30代の社員に言い寄られてて、それを『まったくバカばっかりだ』なんて憤慨してたんだけど……オレも同じだったんだよな。表面的には善意の家庭教師を演じながら、どこかでこの無知な女の子を自分の理想の女にしようと思ってた。ほら、頭おかしいだろ」

自虐的に笑ってみせる頼朝だったが、ウサコは表情も変えずに首を振る。

「テストを頑張ったらオシャレな店に連れて行ってあげるよ、なんて、今にして思えばバカなことを言ったもんだけど、結局はテストの直前に体調を崩して、それまで教えてきたことを全て棒に振ったんだ。自分の勉強時間を割いても教えてきたのに、とひどく落胆したオレは、を叱りつけた」

正確には体調不良ではなく、尊と一悶着あったから、であるが、そのことを頼朝は未だに知らない。これからも知ることはないだろう。それはと信長が長い時間をかけて飲み込んだ過去だ。エンジュやぶーちんなど事情を知る者も多いが、もう思い出さなくていい過去だ。

「叱るというか、腹立ち紛れに言いたい放題嫌味を言ったんだ。想像付くだろ?」
……少し」
は泣きながら謝って、そしてうちに来なくなった」

それに対する罪悪感は欠片もなかった。一体今まで何を聞いてきたんだ。勉強法だけじゃなくて、学んだことを結果として残さなければ意味がないということは折に触れて何度も教えてきたのに、本番直前に体調不良だなんてたるんでいる。慢心しているからこういうことになるんだ。そう思っていた。

「だけど、はそのうち謝りに来るんじゃないかという気もしてた。何しろ親たちや尊と親しかったし、ユキが大好きだった。でも、気付いたら信長と付き合ってて、しかも父親を亡くして引っ越すことになってた。あの子を可哀想だと思うのと同時に心底女は面倒くさいと思い始めて、まああの子が妹にでもなるなら、そのくらいが気楽だと、途端に気持ちが冷めていったんだよな」

以来、女性とは無縁の生活を送ってきた。実家に帰り家業に入ってからは出会いもないので、それは余計に加速したし、積極的にパートナーを求める気力も年々減少していた。

……がお嫁に来て同じ家にいるの、つらくなかったんですか」
「そりゃ最初は変な感じがしたよ。だけどあの子は日に日に母親に似てきて」
「信長くんよく言いますよね、が怒鳴ると子供の頃を思い出して怖くなるって」
「またカズサが父親のコピーみたいだから、本当に信長と由香里を見てる気がして」

薄着をしているを見ても何も思わなくなっていた。むしろ「そんな薄着をして腹を壊したらどうするんだバカ娘が」と思った。はすっかり「妹」になっていた。は子供が出来てから自己主張をしっかりするようになったので、よく喧嘩もする。余計に「好きだった女」ではなくなった。

頼朝はまたウサコに顔を寄せて、彼女の頬に指を滑らせた。

……そういう、人間なんだけど、いい?」

ウサコは目を伏せ、頬にある頼朝の手に手を重ねる。

「普通はそういうの、キモいって思うんでしょうか。でも、私は、何も。遠い話だし。それに、さっきも言いましたけど、こんな風に私に触れてくれる人がいるとは思ってなかったから、その他のことは。心にもない甘い言葉を並べて奴隷みたいにしようってわけでもないし――

頼朝の手に重なるウサコの手に力がこもる。

自分たちが人と人とのコミュニケーションの輪から外れていることは充分自覚がある。頼朝は半ば望んで、そしてそれを憎んで蔑んで自ら外れていった。戻っておいでよと手招きしてくれる人もいなかった。そんなものいらんとずっと突っぱねてきた。ウサコはどうだったんだろう。

この人と寄り添って生きていきたい。それは衝動というより、欲求だった。

だから、出来うる限り、溶け合いたいと思った。溶け合って、ひとつになりたい。

「全部、話して。土曜の夜だし、オレはどんな君でも、好きだと思うから」