カサンドラのとなりに

2

新しいアルバイトの北見さんがやって来て数日、金曜の深夜である。

外に女を十数人持っているにも関わらず、家族が大好きで甥っ子姪っ子も溺愛しまくっている尊が、珍しく早めに帰宅したので弟夫婦である信長とを飲みに連れ出していた。この弟夫婦は毎日忙しく過ごしていて、遊ぶ暇がないからだ。

幸い清田家次世代を溺愛しているのは尊だけではなく、元々が子供好きの新九郎と由香里も同じであり、お父さんとお母さんがお出かけならジジババと一緒に寝る、という甘美な餌にホイホイ食いついてくれた。特にお祖父ちゃんは昼間孫たちと会えないので、風呂も飯も任せとけとウハウハしていた。

それに、清田家の中でもこの3人は「外飲み」が好きなタイプだった。新九郎は仕事を終えて帰ってきたら息子と風呂に入り、その後は延々晩酌という生活をもう何十年という人だったし、そういう都合で由香里も家飲み派だったし、それを長く見ていた頼朝も家で飲む方が好きというタイプ。

なので尊は弟夫婦もストレスが溜まるだろうと考えてふたりを連れ出していた。3人で訪れることも多い地元のダイニングバーである。特に最近アマナがほとんど母乳を必要としなくなったので、は久々に飲み放題である。しかも尊のおごり。タダ酒ほど美味いものはない。

だが、飲み始めて20分、3人は神妙な顔をしている。

「色々込みで最悪のパターンだと思う」
「まあ、ゆかりんが見つけてきたくらいだし、地元民のフリーターだし」
「やっぱりダメか……

アルバイトの北見さんである。は肩を落とす。

「でもすごくいい人なんだよ。明るくて元気だし、話しやすいし。仕事の方も問題ないんだけど、人種というかキャラクターというか、そういうのがちょっとお兄ちゃんには合わなかったというか……私とゆかりんは好きな感じの女の子なんだけど」

うんうんと腕組みで頷く尊に、信長も肩を落とす。

「きつい『女アピール』がないタイプって言えばいいんかな。ざっくばらんていうか。わかりやすい地元の人って感じなんだけど。だから親父も『いい子が来てくれたなあ』って喜んでたわけだし」

新九郎からしてみたら娘感覚だし、こんなその場凌ぎみたいなアルバイトに来てくれて、気立ての良いお嬢さんだなあという喜び方をしていた。清田家に出入りする職人さんたちともまったく問題なし。

「それが頼朝の『意識高い』感じに障るんだろ?」
「たぶんね……
「若干トロいけど、問題があるわけじゃないんだよ。ただ何となく気に入らんというか」
「あはは〜ほんとに頼朝って何様なの〜」

尊はヘラヘラと笑っているが、笑いごとじゃない。北見さんは清田家にとっては貴重な人材なのである。頼朝が気に入らないなどというふざけた理由で彼女を失うのは惜しい。

「オレはまだほとんど話してないけど、確かに頼朝の好きそうな感じではないよね〜」
「しかもホッとしたゆかりんが北見さんのお母さんがやってるお店にお兄ちゃん連れてっちゃって」
「とにかくあれがマズかったよな……
「親の店? なんだっけ、飲食店だっけ」
「スナックだったんだよ」

由香里も知らなかったらしい。北見さんの母親は祖母とふたりでスナックを切り盛りしていて、創業は北見さんが生まれる前。夫と離婚した祖母が娘である北見さんの母親とふたりで始めた店だ。店の名は「バイオレット」。昭和のヒット曲から取ったそうだ。

「それがその、だいぶ場末のスナックって感じだったらしくて」
「客の年齢層も高くて、北見さんのお母さんとお祖母ちゃんも派手な感じだったらしくて」
「なんとなく想像つくね。頼朝なんか地獄だったろうな」
「オレや尊ならまだ何とかスルーできたと思うけど……

気まずそうな由香里とともに帰宅した頼朝は不機嫌を隠そうともせず、職業に貴賎はないが、自分はああいう世界とは関わり合いになりたくない、金輪際アルバイトのプライベートには関与しないと言い捨てて部屋に入ってしまった。

「そりゃあねえ、にテストでいい点取ったら自分の師匠筋の作ったオサレカフェ連れてってあげるとか言い出すような人だからね〜。そんなどぎついスナックは拒否反応出るのは当然だけど」

古い話を蒸し返されたは苦笑いだ。まあその尊自身も日常がオサレカフェ系であることは間違いない。そういう意味では場末のスナックでも1番難なく乗り切れるのは信長であるかもしれない。でも何とかなっただろう。だが頼朝は1番不向きだ。

「しかもお母さんとお祖母ちゃんがこう、いかにもな水商売の人だったみたいで」
「さらに北見さん、父親知らなくて、どうやらあの店の客だったとかで」

常連さんに囲まれた由香里と頼朝は恐縮する北見さんに酒を出されながら、そんな話を延々聞かされてきたそうだ。日々大量の他人と接することそろそろ40年になろうかという由香里でも、疲れた顔をしていた。由香里は何しろ派手な濃い目美人、じいさんたちが気持ち悪かったと肩を落としていた。

「それで北見さんがヤンキー崩れみたいなのだったらわかりやすいんだけど」
「そうそう。でも見た感じは普通なんだよな」
「しかもその……北見さんて、ほっそりしたタイプじゃないでしょ」

今度は信長と尊が揃ってため息をついた。

何しろ頼朝は以前、「好みのタイプは細い女、自己管理できてない人間は嫌い」と公言していたくらいだ。北見さんはお祖母ちゃんもお母さんもでっぷりしていて、由香里に言わせれば食生活のほとんどが酒と店の料理だな、というのがわかる体型だったそうだ。

今でこそモッサリしてきている頼朝だが、20代前半の頃はぶーちんの言うようにすらっとしていたのだ。いつでもかっちりした服を着て、銀縁のメガネをかけ、髪もきっちり整えていた。そういう頼朝にときめいたことがあるも、ため息とともに吐き出す。

「北見さんはちゃんとやってくれてるんだけど、彼女がどういう人かっていう以前に、家庭環境とかそういうのも含めてシャットアウトしちゃってる気がする」

信長とは由香里に話を聞いただけだし、そのスナックを頼朝がどんな風に感じたのかは本人も語らない。しかし、由香里の話だけでも弟たちには充分だった。

「頼朝はさ〜例えば社会を5層に分けたとして、自分が上から2層目にいるって思うような人なんだよね」

そもそもは客観的な自己分析は出来ている方だった。しかし、頭脳の程度で振り分けられた環境で10代後半から20代前半を過ごしてしまった結果、尊の言うように、1層目であるはずはないけれど、まあ2層目くらいだろ、と考えるようになってしまった。当然北見さんは最下層と思うだろう。

「市井の人間なんてみんな3層目以下だと思うけどね〜」
「いくら専務ったって、有限会社の工務店でモソモソやってんのが2層目はないわな」
「私たちなんか4層目に引っかかってりゃいい方だよね」

現在清田家の中で1番行動範囲が広いのは尊だ。信長も現役の頃は試合で各地を飛び回っていた。も働いていた頃は日本全国と取引のある会社だったため、遠方の人と触れ合う機会は多かった。だが、頼朝の世界は神奈川、そしてあっても東京千葉埼玉くらいに限られる。意識は広いが世界は狭い。

「アユルとは違う意味で都市信仰みたいなのがあるよな」
「アユルちゃんが関東に生まれてたら頼朝みたいになっただろうね」
「かと言ってアユルとお兄ちゃんが似てるわけではないんだけど……変なの」

の義妹であるアユルも都市、特に東京にこだわる人物であった。父親の束縛というぬるま湯にどっぷり浸かった結果地元を出ることなく家庭に入ったが、同様に都市に憧れを持つタイプのの母と仲良くやっているらしい。

「北見さんの方はどうなの。そんな頼朝とふたりで仕事平気なの?」
「今のところゆかりんがちょくちょく顔出してるし、目に見えてつらそうな感じはないかな」
「ただ頼朝の態度がだいぶ失礼な感じになってる、ってのが問題」

嫁一筋で来た上に、娘が生まれた信長はそういう頼朝の態度がとにかく気に入らない様子だ。アマナがもしアルバイト先で上司からそんな扱いを受けていたら……と思うだけで腹が立つ。

「最初はさ、馴染んでもらいたいから私もゆかりんも雑談をいっぱいしようとしたんだよね。好きなものは? 嫌いなものは? みたいにさ。ゆかりん、時間あるならお茶飲んでいきなよって言ったりもしたんだけど、北見さんが遠慮するし、お兄ちゃんが嫌そうな顔するもんだから」

アルバイトはアルバイト、誰でもすぐに家ん中に入れたがるの、いい加減にやめろと頼朝は小言を言っていた。だったらあんたもリビングでそっくり返ってないで犬の散歩くらい行ってきなさいよと由香里は怒鳴っていたが、頼朝は返事をしなかった。

「そっかあ。一度北見さんと話してみたいな〜」
「え、みこっさんやめてよ、北見さんに辞められたら困る」
「別に手は出さないって。そういう目で見るのやめて」
「ごめんそこは信用できない」
「そうじゃなくて、オレは同い年だし、じゃあオレより女の子に詳しい人うちにいるの?」

そう言われると確かに尊は清田家の誰よりも女性に詳しいことになろう。は黙る。

「北見さんがうちにとってすごく助かる存在なのはオレだってわかってるし、だけど頼朝のこじらせには確かに最悪のパターンな人だと思うし、でもそれって北見さん自身のことじゃないはずでしょ。本人がどういう人なのか、少し気になるんだよね」

それをスルスル聞き出せる人物といえば尊を置いて他にはいない。

現在北見さんは週5日でアルバイトに入っており、しかし土日は例え清田家恒例行事のバーベキューが開催されても頼朝がいる以上は呼べそうにない。尊は平日は帰宅が遅く、北見さんが清田家にいる間はほぼ100パーセント不在。これはなかなか難しい。

「まあ焦ることはないけど、、悪いんだけど」
「うん、話せるタイミングみたいなのあるかどうか、見てるね」
「よし、じゃあこの話は終わり! ねえねえところでふたりって子供の横でヤッてんの?」

と信長は、そんな尊の言葉に揃って酒を吹き出した。

水面下でじわじわと進行する北見さん問題が小規模爆発を起こしたのは、北見さんがアルバイトに入って一ヶ月の頃のことだった。北見さん、初給料のタイミングだ。

北見さんは、まだ業務に慣れていないことや、そのせいで由香里やが手を出すことが多い事情もあって、1日6時間勤務である。これは由香里と相談した新九郎の決定で、昼休憩分も差し引かないという温情待遇であった。

当然頼朝はいい顔をしなかったし、まだひとりで仕事ができないレベルの人間に時給900円も出すのはどうなんだと渋っていたが、信長から「仕事ができるなら払う、ってんなら、これまでがタダ働きしてきた分、いますぐ支払え」と言われて引き下がった。仮にも夫の言い分、これは分が悪い。

さておき、そこで発覚したのが、北見さんの「本当の名前」である。北見さん、名前を偽っていた。

「えっ、まじで?」
「ほんと。本名は、北見宇佐子。ウサコさん」

就業の際、北見さんは「北見伊佐子」と名乗った。いくら家族経営の工務店とはいえ、そんな風に入ってきたアルバイトをいきなり名前にちゃん付けで呼んだりはしないわけで、彼女の下の名前など誰も気にしたことがなかった。

だが、初の給料を手渡しされた北見さん、ウサコは帰りがけに支払い関係を済ませると言って、手にコンビニの払込用紙を束で握りしめていた。それを見た由香里がそんなに払ったらなくなっちゃうじゃないと笑ってウサコをべちっと叩いた。ウサコの手から紙が落ちる。

「その中に、はがきを開くタイプの払込用紙があったの。宛名が、伊佐子じゃなかった」

また運悪く目ざとい頼朝が拾ってしまった。宛名は「北見宇佐子」。

ウサコは最初、母親の名だと誤魔化そうとしたそうなのだが、まさか名前を偽っていたのかと頼朝に詰め寄られて白状した。ウサコという名前が恥ずかしくて、公的書類の提出が必要ない関係の人には誰でも「伊佐子」と名乗っていたと言う。

日中は犬を相手に暴れまくる長男と、おっとりタイプの長女がスヤスヤと眠る横で、信長はあぐらをかいて腕組みをし、もっともらしく唸った。

「北見宇佐子……惜しい!」
「何がよ」
「なんかもう少しいじったら北条政子になりそうな名前だから」
「そんなこと言ってる場合か」

寝支度を終えたも信長に向かい合って胡座をかいた。尊の下卑た質問はともかく、信長夫婦と子供ふたりの現在の寝床は、川の字ならぬ、田の字である。ふたりの頭の上に子供ふたり。夫婦は隣り合わせ。これでも仲の良い夫婦なので、間に子供を挟むことより並んで休む方を取った。

「また頼朝が嫌いそうな話だよな、いくら給料手渡しのバイトだからって、って」
「ゆかりんが間に入ってひとまずおさめたんだけど……
「頼朝の北見さんに対する心証がさらに悪化、と」
「みこっさんともまだ話できてないしね」

尊は今後のためにも北見さん――ウサコの人となりを知っておきたいと考えたが、何しろ双方すれ違い状態で、しかし土日にわざわざ席を設けるほどにはも由香里も親しくなれないでいる。その点は信長も同様。強いて言えば彼は土日に不在のことが多いので、平日にチャンスがあるというくらい。

「これ以上悪化したら、ウサコさんが辛い思いするんじゃないかって忍びなくて」
「もうウサコ呼びかよ。まあな、気を付けないとパワハラみたいになりそうだもんな」
「ただその……私の考え過ぎでしかないんだけど……
「何が」

腕組みが疲れたのか、信長はごろりと横になって布団をポフポフと叩く。さんここに横におなりなさい、というジェスチャーだ。は部屋の明かりを落とし、髪をかき回しながら夫の隣にころりと横たわった。信長はの髪を撫でながら、大きなあくびをひとつ。眠気は急に来る。

「すごく上から目線だとは思うんだけど、ウサコさんて、お兄ちゃんの亡霊のような感じがするの」
「ウエメセの亡霊?」
「この家で仕事をしているというのに、お兄ちゃんが捨てられない見栄とか、高い意識とか、そういうものがある限り、きっとウサコさんみたいな人をバカにする人のままだと思うのね」

信長がそんなの今更だろ、という顔をしたので、は苦笑いで咳払いを挟む。

「お兄ちゃんが、ウサコさんのような人にもきちんと敬意を払える人になれたなら、お兄ちゃん自身ももっと楽になるんじゃないかって、思うんだよね。なんか今すごくこじらせてる感じあるけど、きっとそういう辛さも和らぐんじゃないかって」

は優しいなあと言って信長は妻を抱き締めた。はあははと笑う。

「そりゃまあ、兄、なので」
「出来た妹だなほんとに」
……みこっさんじゃないけど、家族だと、思ってるから、幸せになって欲しいの」

仕事は出来るし稼ぎもいいけど、お兄ちゃんはなんだかたまに、すごくつらそうだから――

「あなたのお兄さんで、カズサとアマナの伯父さんで、お義父さんとゆかりんの、子供だから」

もしかしたら、ウサコはそのきっかけになってくれるんじゃないか。はそんな風に考えていた。ウサコのような人を、ウサコのような人がいる社会を受け入れられるようになれば、あるいは。その弟である信長は、押し寄せる眠気に目を閉じ、ぼそりと呟いた。

「そうなればいいな」

ウサコの本名詐称については「社会人としてのモラルを疑う」と言っていた頼朝だったが、社長である新九郎が不問に付すと結論づけたことに加え、久々に面接が入ったものの、女性ひとり男性ひとり、それぞれご縁がありませんでしたで終わってしまったため、やっぱりウサコに頼るしかない状況に。

また、結果的にウサコと清田家で一番最初に親しくなったが隙あらば仕事を教えたので、徐々に「使えない人間に時給900円なんて」とも言えなくなってきた。ウサコが仕事を覚えるスピードは、言わば人並み。得意不得意はあるにせよ、頼朝がイラつくほどには無能ではなかった。

それを経てウサコは週5日のフルタイム勤務になり、一般的な試用期間である3ヶ月を過ぎた頃に新九郎は昇給を断行。依然アルバイトのままなので時給だが、元々事務方には年2回のボーナスも出していた清田工務店なので、頼朝はまだ渋い顔をしがちだったけれど、これでようやくミエさんがいた頃に近い状態まで戻すことが出来た。というかミエさんに比べて馬力があるので、むしろちょっと良くなった。

頼朝のツッコミどころが減るにつれて、それを虎視眈々と狙っていたと由香里がウサコを囲い込み出し、これもそもそもの清田家では当然だったように、ウサコは事務所だけでなく家の方にも顔を出すようになった。

何しろ毎日てんてこまいのと由香里である。お茶でも飲みながら犬と子供と1時間過ごしてくれるだけでも助かったし、そこに仕事終わりの新九郎でも現れようものなら、まあまあ一杯やってご飯でも食べていきなさいよ、といつもの癖が出る。

ひとり面白くなさそうな頼朝だけを残して、ウサコはじわりじわりと清田家の中に入り込みつつあった。しかもそれが本人が強引に顔を突っ込んできてのことではないので、頼朝は劣勢になるばかり。面接も来ない。ウサコはどんどん仕事に慣れていく。というか元々清田工務店の事務のパート・アルバイトはそれほど難解な仕事ではなかったのである。最初から。

専務には何の相談もなく、社長とその妻はウサコを正社員にしたらどうかと考え始めていた。何しろ地元生まれ地元育ち、親と同居で地元住まいの32歳、結婚の予定もないと言うし、出来ればミエさんのように長く勤めてほしかった。そうすれば事務方はしばらく安泰のはずだ。

まあ、そういう下心もあって新九郎と由香里はウサコを引き込んだわけだが、次世代を担う、信長、尊もそれには賛成で、特にはウサコに事務方を任せられれば子育てと家事に専念できるので、願ったり叶ったり。あとは頼朝との関係さえ友好的になれれば、というところだ。

そういう日々の積み重ねが約1年続いた。

ウサコが事務のアルバイトとして勤務を始めた翌年、清田家は思いがけない変化を迎えていた。と信長の友人である遠藤寿一とその息子寿里を同居人として迎え、なおかつ既に限界を迎えていた水周りの改善のため、大幅なリフォームに突入した。

そういうわけでこの頃は、とにかく激動の毎日だったのである。