カサンドラのとなりに

9

「本当にごめんなさい、エンジュがマッサージしてあげるって言い出して、それで信長はやらないのとか焚き付けたもんだから私ふたりがかりでマッサージしてもらってて、それで気がついたら涎垂らして爆睡してて、信長とエンジュも子供たちがいないからってガバガバ飲んでて」

1月3日の午前10時、ウサコがやって来るなりは涙目で謝り倒した。

子供たちはジジババの部屋にいたし、そういう事情で死んだように熟睡していたは結局朝まで目覚めず、それをいいことに好き放題飲んでいた信長とエンジュは割と泥酔状態だったし、頼朝からの着信があったことにやっと気付いたのは1日の昼近くだった。

よろず合理的であることを優先する頼朝だし、新九郎や由香里ならともかく、文字連絡なしにいきなり着信ということは考えにくい。しかも着信は1回だけで、その後は何の連絡もなし。は緊急事態を疑った。だが、最初頼朝の親と弟はあまり真剣に受け止めておらず、結局回り回ってウサコに連絡がついたのは午後になってからだった。

頼朝がひとりでノロウイルスを発症し、尊は逃げ、やむを得ずウサコが出動してくれたと聞いて弟はつい笑った。直後にエンジュに叩かれるわけだが、まあ兄弟などそんなものだ。

ウサコが一旦自宅へ戻っていて迂闊に通話できないというので、文字だけでのやり取りだったが、はそれを受けて真っ青な顔になっていた。由香里も危機を脱したことにホッとしつつ、やっぱり慣れないことするもんじゃないわ、と梶原さんと同じことを言っていた。

ウサコの報告によると、頼朝の症状は時間が経つにつれて軽くなっていき、午後の段階では下痢もほぼ止まったという。ただ、苦痛が続いたせいで眠れていないし、嘔吐と下痢の疲労でぐったりしているし、食欲もないとのことだった。

そういう状況だが尊は連絡が取れないし、ひとまず犬の世話をして、また頼朝用のスポーツドリンクを補充ついでに一度自宅に帰って着替えたり風呂に入ったりしている――という連絡だった。

あれこれと相談を続けた結果、ウサコは元日の夜も清田家に泊まることになり、頼朝の様子を見て2日の午前中には帰る、という取り決めがなされた。それが明けて3日、お年賀とお年玉を手にやって来たウサコはに抱擁をもって迎えられたというわけだ。

「でもごめんなさい、ウイルスを残しちゃいけないと思って、あちこち漂白剤で拭いちゃった」
「いいのいいの。私たちも帰ってからみんなで掃除したけど、どこもおかしくなってないよ」

希釈したものとはいえ塩素系漂白剤である。万が一内装が剥げたり変色したり、という事態が起こった時は尊が全額負担でまた直すらしい。家長で社長の新九郎の決定だそうだ。ウサコはつい吹き出した。

「ウサコがいてくれてよかった。本当にありがとう」
「そんな、とんでもない。店から逃げられたから、かえってラッキーだったかも」
「そういえば『休日出勤手当』出たんだって?」
……頼朝さん頭大丈夫かな。一応手を付けずに置いてあるけど」
「もし万が一間違いだったって言い出したらみこっさんに払わせるから気にしなくていいよ」

ウサコはまた可笑しそうに笑った。2日の午前中、まだヨロヨロ歩きの頼朝は事務所に入ると、封筒を手に戻ってきた。表にはヨロヨロの字で「休日出勤手当」と書かれていて、その場ではありがたく受け取ったウサコだったが、帰宅してから中身を出してみると、なんと5万円入っていた。

ウサコはそれを、多すぎる、朦朧とした頼朝が間違えたのではないかと慌てたのだが、も新九郎ももらっておけと言う。ので、一応手はつけていないけれど、お年賀を少し奮発してきた。のお気に入りだというブランドのケーキと、正月で飲みっぱなしであろう大人たち用に生ハムとチーズ。

「世話になったのはこっちなんだから、こんなにいらなかったのに」
「ごめん、それはそれで心苦しいから受け取って」
「じゃあ今日はのんびりして行ってくれるの?」
「え、ええと、いいのかな」
「お兄ちゃんまだくたばってるし、いいじゃない。あとでぶーちんも来るし、一緒に飲も!」

すっかり激しい嘔吐や下痢や発熱は落ち着いたのだが、むしろそれらの疲労がなかなか回復しない頼朝は部屋で大人しくしているという。ついでに1週間ほどはノロウイルスを排出している可能性があるとのことで、2階のトイレは使用禁止。

ウサコがリビングに顔を出すと犬たちが待ち構えており、それに混じってカズサがぴょんぴょん飛び跳ねているし、ダイニングには由香里とエンジュ、新しくなったソファセットには信長と新九郎と尊がいて、わいわいと飲んでいた。ああ、いつもの清田家だ。歓迎されたウサコも自然と笑顔になる。

「ウサコ〜ごめんねえ〜本当にごめんね、申し訳なかったわ、ありがとね」
「い、いえいえ、とんでもないです」
「ほんとにすまんかったな。おいほら、尊!」
「ウサコあけおめー! 大変だったね」
「そこは謝るところでしょうが!」

由香里はまた怒鳴っているが、ウサコはいいんですいいんですと繰り返してダイニングに行き、お年賀をエンジュに差し出した。数年間テーブルウェアの販売員をやっていただけあって、彼は盛り付けが上手い。生ハムとチーズはお任せしたい。

「あけましておめでと。年越しから大変だったね」
「あけましておめでとう。いえいえ、むしろ1日なんかゆっくり出来たくらいで」
「今日もゆっくりして行ってね。帰りはオレが送るから」
「えっ、エンジュくん飲まないの?」
「この間の件もあるし、交代でノンアル担当を作ろうって話になってさ」

大晦日は爆睡するをよそに信長とふたりでベロベロに酔っ払い、翌1日を強烈な二日酔いで過ごしたというエンジュはだいぶ反省しているらしく、今日は1日一滴も飲まないと決めているとのこと。

ウサコは子供たちにお年玉をあげるとと並んで座り、可愛らしいピンク色をしたシャンパンをグラスに注がれた。ボトルからして高そうなデザインなので、ちょっと手が震える。

「じいじに怒られてみこっさんが買ってきたものだから、ウサコが飲んでね」
「えっえっ、でもこんな高そうな」
「いいからいいから」
「あっ、でも私頼朝さんにご挨拶まだで」
「そんなの乾杯してからでいいから」

いつもの癖で遠慮しまくるウサコの肩をガッチリと抱きかかえて、は自分のグラスを差し出す。

「あけましておめでとー!」
「おっ、おめでとう!」

普段ならキッチンとリビングを忙しなく往復しているだが、今日はウサコを接待する担当らしい。やがて反対側にはエンジュも来て、由香里も混じり、ガールズトーク状態に持ち込みたいようだ。

しかし対岸では信長と尊と新九郎がそれぞれ好きな酒の瓶を抱えて飲んでおり、子供たちと犬は好きなようにウロウロしていて、またウサコは柔らかく微笑んだ。だが、ついちらりと目が動いてしまう。いつもいるはずの頼朝が欠けている。

こんなわいわいと楽しいリビングから離れてひとり、部屋でぐったりしているのは寂しいんじゃないのかな。いつもみんな一緒だから、余計に人恋しくなったり、しないのかな――

リフォーム完了祝い、頼朝のノロ事件、それらはまた少し清田家に変化をもたらしたけれど、その他はいつも通り、何も変わらない日々が続くはずだった。まだ気が早いけど、去年の春は雨で花見が出来なかったから今年は出来るといいね、なんて話をしていた。

が、清田家には別の意味でとんでもない変化が起こった。

年明け早々、仕事始めだぞと意気込んでいた新九郎たちをよそに、神奈川県南部は雨に見舞われた。真冬のそぼ降る雨はとても寒い。みんな正月で胃が疲れてるし、薄味のおでんにしたから食べていきなよというの誘いに居残ったウサコを、頼朝が送っていくと言い出した。

当然ウサコは遠慮したし、時間もさして遅いわけではなかったのだが、彼女がそろそろ帰ると言い出した途端、頼朝は送っていくと行ってコートを取りに行ってしまった。リビングにいた大人たちはしばしポカンとしていた。おい、公私混同しない意識高い系が一体どうした。

その上、と次のお茶はいつにしようかという話が始まってしまったウサコを追い立てるでもなく、彼女のペースで家を出ると、本当に自分の車で送っていった。

……で? 本当に送っていってくれてんの?」
「う、うん……

1月半ば、月イチのお茶である。駅前のカフェの奥まった席でとぶーちんは身を乗り出し、ウサコは逆に縮こまって肩をすくめた。頼朝が最初にウサコを送っていくと言い出してから10日ほどが経つ。その間、頼朝は4回もウサコを送っていったのである。

「駅前あたりでポイッと降ろすわけじゃなくて?」
「バス停で降ろされたとかじゃなくて?」
「ま、まさか、ちゃんと、その、家の近くまで」

とぶーちんはいっそしかめっ面である。

「ていうか、この間はスーパー寄らなきゃいけないのでって言ったら、寄ってくれて……

悲鳴。

「待たせるのも悪いし、あそこのスーパーちょっと歩けばバス停だし、そこでいいって言ったんだけど、結局、その、買い物にも付き合ってくれて、荷物まで持ってくれて」

ドラッグストアにも寄らなきゃいけないのだと口を滑らせていたウサコだが、頼朝はそれも回り道して立ち寄り、しかしドラッグストアは迂闊に随伴してはいけないと思うと言って、車で待っていた。

「何それこわい!」
「めっちゃこわい!」
「私もこわい!」

3人とも恐怖で震え上がっている。

「いやその、何考えてるのかわかんないっていうのもあるけど」
「そうなの、なんかもう帰り道何が何やら怖くて」
「えっ、、家ん中ではどうなん」
「いや、うん、確かに前みたいに家の中に入れるなって言わなくなったんだけど」

以前までの頼朝であれば、ノロウイルスの件は例の「休日出勤手当」でイーブンになっているはずなのである。働きに対して報酬を、しかも過分に支払ったのだから、はいそこまで。ルールはルール、アルバイトは家ん中入れんな――というのが清田頼朝という人……だったのだ。

「まあ、だからウサコがご飯食べていったりするわけだしね」
「ぶーちん、実はそれだけじゃないの……

は背を丸め、ちょっと上目遣いでぶーちんを見上げた。

「実はね、つい一昨日のことなんだけど、ウサコ生理中で死ぬほど眠くて、お昼用意してくるの忘れたの。だから昼休みにコンビニに買いに行こうとしたの。そしたら! ゆかりんに! なにか作ってもらえば? って!!! 結局ウサコ私たちと一緒にご飯食べたんだよ、リビングで!」

ぶーちんが白目を剥いて掠れた悲鳴を上げる。

「しかも……ねえ、あれ多分ウサコが生理中だって気付いてたよね?」
「それはゆかりんの声が大きいから」
「うわ、それはごめん。でもお昼終わった後も休んでれば? とか言い出してさ」
「こわいよ〜それ頼朝ちゃんに化けた妖怪かなんかだよ〜そのうちみんな食われるよ〜」

ぶーちんはとうとう瞳が潤んできた。それだけ頼朝の行いは「豹変」としか言いようがなかった。

「まあ、普通に考えるとノロの件で感謝してるからだってことになるけどおー」
「お兄ちゃんがそんな簡単にコロッと……っていう事例が過去にないからね」
……いやいや、あるじゃん! のお父さん亡くなった時!」
「えっ」

つい過去の話に発展してしまったとぶーちんの間で顔をキョロキョロさせていたウサコは、つい声を上げて背筋を伸ばした。ウサコ自身が自分のプライベートなことを話したがらないのもあって、とぶーちんの高校時代の話も詳しく話す機会には恵まれなかった。

「あれっ、話してなかったっけ」
「あ、いや、その」
「もう10年以上前の話だからね。平気平気。それほど熱心に娘に関わろうとした人でもなかったし」

だが、ぶーちんの言うように、頼朝がコロッと態度を一変させたのはその時くらいなものだ。父親の死によって転居を余儀なくされ、信長と引き離されることになったを案じ、そしてに対してやってしまった非礼を詫びて「お兄ちゃんと呼んで欲しい」と言い出し、気持ち悪がられていた。

「だいたい頼朝ちゃんて頭固いでしょ。一度決めたことは曲げないじゃない」
「うーん、清田家の人ってみんなそんな感じがするけど……
「あー、そういうんでなくて、これが正しいって思ったらもう変えられないっていうか」

頼朝のガチガチの石頭と頑固は母親譲りだが、母親より酷い。そしてまた彼は幸か不幸か頭を使うのが得意なタイプなので、物事を脳内で捏ね繰り回し、それなりに社会と都合をつけて出てきた「結論」は「正義」となりがち。基本的にはルール厳守に基づくため、一応正しいことがほとんど。

だがそれは法や規則に触れでもしない限りはあくまで個人の意見である。なので母親である由香里はいつでもハイハイと聞き流して相手にしないし、弟たちも突っ込んだ話はしないようにしている。

……ねえウサコ、大晦日の夜、何か変わったことあった?」
「変わったことって言っても、緊急事態だったし」
「まあ、ノロってすっげえつらいから正気じゃなかったかもしれんけどねえ」
……確かにすごく弱ってたから、いつもの頼朝さんではなかったけど」

ウサコも腕組みをしながら眉間に皺を寄せた。確かに頼朝は激しい症状でのたうち回っており、それが落ち着き始めてからは今度は疲労でぐったり、ウサコに嫌味を言っている暇などなかった。しかしウサコにしてみれば、掃除して病院に一緒に行っただけである。何かあったっけ?

「ただその……よっぽど心細かったのか、帰ろうとしたら引き止められて」
「心細い?」
「と思うんだけど。誰もいなかったし。それで、ここにいて欲しいって、そんなことを」
「うーん、それも頼朝ちゃんらしくないと言えばそうなんだけど」

つられて腕組みのぶーちんも眉間に皺を寄せ、声を潜めた。

「でも、今気付いたんだけど、あたしが7歳の時から知ってる頼朝ちゃんて、本物かどうか」
……えっ、どういう意味?」
「だってさ、頼朝ちゃんて色んな『決まり』を自分で作って生きてる気がしない?」

ぶーちんは小学校に上がって以来、夫であるだぁと尊とずっと仲良しで来た人だ。ふたりと仲良くなってすぐに清田家に遊びに来るようになり、バーベキューもしょっちゅう来ていた。そういうわけで彼女も頼朝とは20年以上の付き合いとなるわけだが……

「その頼朝ちゃんの『決まり』と、本当に頼朝ちゃんが望んでることって、一緒なのかな?」

しかしそれではまるで――はつい首を傾げた。

「じゃあ、今回の件で言うと、本当はウサコと仲良くなりたかったってこと?」
「うーん、それはちょっとわかんないけど、そういうものに、ウサコがちょっと触れたのかなって」

この社会で生きていくため、自らに課した『決まり』と、本当に望むこと――

真剣な顔つきで頷きながら話しているふたりを眺めつつ、ウサコはその言葉を噛み締めた。その乖離の隙間に落ち込む浮遊感には覚えがある。とても気持ち悪くて居心地が悪くて抜け出したいと思うのだが、どちらに転ぶのも本意ではない気がしてしまう。

どちらもバランスが取れているのが一番いいのだろうが、果たしてそんなことをみんな何食わぬ顔をしてやっているんだろうか。相反するふたつが程よく混ざりあって自分の中にあるとでも言うんだろうか。そんなこと、みんな本当に出来てるの――

「そういえばウサコ、31日と1日の夜、どこにいたの?」
「どこって?」
「だから、泊まったんでしょ。布団とかどうしたの」

たちが旅行から帰ってきた時は、清田家は徹底的に掃除され、たちが出発する前と同じように何ひとつ散らかった形跡はなかった。キッチンすらそのまま。しかし8LDKとなった清田家には常にベッドが設えてあるゲストルームなどないのである。どこで寝たの?

「ああ、それは頼朝さんの部屋で」
「は!?」
「えっ、ソファに横にならせてもらってただけだよ」

ウサコはこともなげに言うが、とぶーちんはまた身を寄せ合い手を繋いで息を呑む。

頼朝に一体何があったというのだ。