カサンドラのとなりに

20

頼朝は本気で結婚を望んだのだが、それ自体は結局見送られることになった。我に返ったウサコが「自分の家族と姻戚関係になってほしくない」と言ったからだ。頼朝はウサコの希望を最優先するとし、ふたりの関係は当分の間「事実婚」にとどまることになった。

それを新九郎は「ふたりが決めたようにすればいい。オレたちが文句を言うとしたら、頼朝がウサコを傷つけて悲しませた時くらいなものだろ」と、予想通りのことを言った。そしてまた嬉しそうな顔で「でも、お義父さんて呼んでね」と言っていた。

とはいえ頼朝はウサコを「伴侶」とすることだけは譲らず、指輪も用意し、公にはウサコを妻として扱ったし、誰もそれを疑うものはなかった。ただ、実は籍が入っていないというだけで、ふたりはすぐに夫婦として暮らし始めた。

さっそく頼朝の部屋は「頼朝とウサコの部屋」に改装され、いつかカズサたちのひとり部屋にと空けてある部屋をひとつ、しばし収納として使うことにして、ふたりが寛げる空間に生まれ変わった。リフォームと同時に新調されていた頼朝のベッドはさっさと処分され、クイーンサイズのベッドが入った。

「結局結婚式はどうしたん」
「呼べなくてごめんね……
「いやそんなこと気にしてないから。それよりドレスどうしたの」
「ウサコはそこまでしなくていいってずっと言ってたんだけど、お兄ちゃんが押し切った」
「まじか! 全部合わせると相当金使ったんじゃないの」
「使った。外からのご祝儀もないし、相当消えたはず」
「頼朝ちゃんもそういうところ頑固だからなあ〜ウケる〜」

頼朝とウサコが「夫婦」になってから半年、はぶーちんと駅前のカフェで喋っていた。土曜で夫と息子は留守だし、エンジュは寿里と遊びに出かけているし、そんならアマナはオレと出かけよ、と尊が連れ出したし、そこにジジババがくっついていってしまったので、これ幸いとぶーちんを誘った。

ウサコはウェディングドレスなどとんでもない、自分が着られるドレスなんかあるわけないと言ったのだが、甘い。妊婦や体の大きな女にはドレスを着る資格なんかないという時代ではないのである。需要と供給、ニッチでも確実なマッチングこそ商売の本質。頼朝はドレスを買ってしまった。

「ドレスは買って、和装はレンタルだったんだけど、ごめん、写真は本人がまだ抵抗あるみたいで」
「だからそんなのいいって! 話聞きたいだけだから。じゃあ清田家だけでやったの?」
「一応ウサコのお母さんとお祖母ちゃんも来たよ。なんかずっとポカンとしてたけど」

そもそも結婚式自体、ウサコは願望もなかったし考えてもいなかったのだが、頼朝がどうしてもやりたいと言い張って、ドレスやプライベート挙式ができるプランなどをしつこくプレゼンしたのでウサコが折れた形になる。頼朝いわく、今は恥ずかしくても年寄りになったら気にならなくなる、らしい。

「でも可愛かったよ〜。メルヘンな絵本に出てくるお姫様みたいで。アマナが見入ってた」
……てかどうなん、頼朝ちゃん。うちらには見せないけど、だいぶデレたって?」
……デレたとかいうレベルじゃない」
「マジか」

頼朝はウサコと気持ちが通じて以来、何かと言うとウサコウサコ、職場でも家の中でもウサコを追いかけ回す日々である。由香里はそんな頼朝の様子を見て「あの子もやっぱりお父さんの子だったわねえ」と遠い目をしていた。

「ていうか清田家の男ってみんなそんなんじゃん」
「じいじも新婚の頃はゆかりん追いかけ回しててひどかったらしい」
「まあ頼朝ちゃんはそういうの見て育ってたりもするわけだしね」
「本人はあんなにひどくないって主張してるけど、ゆかりんは似たようなもんだって」
「それウサコも平気なん? 男性経験なかったんでしょ」
「だから未だにオロオロしてる」
「そりゃそうだよね……

ぶーちんはご愁傷様という顔をしている。

「まーさ、あたしも子供の頃ははっきりとわかってなかったけど、頼朝ちゃんてさ、勉強はすごい出来るんだけど、やっぱりあの家で育った子じゃん? どんだけいい高校行っても大学行っても、家に帰るとあたしとかだぁみたいな大人しかいない生活でさ、だけどそれをウザいとか思わない程度には、いい子だったんだよね、頼朝ちゃんも。だから、イキってかっこつけたくても、本当の頼朝ちゃんには意識高い世界って、意外としんどかったのかもしれないね」

みこっちゃんは流れに逆らわない人だから平気だけどお、とぶーちんは笑った。

「だからウサコと一緒にいるのって、すごく楽なんじゃない?」
「それはあると思う。ただウサコがちょっとオロオロしてるだけで」
「でもぉ、頼朝ちゃんて人前でベタベタしたりしないでしょ?」
「そういうのはないんだけど、ウサコに何か困ったらすぐ言ってねって言ってて……

付き合い始めた途端結婚の話まで出てきてしまったので、ウサコはとにかく気持ちがついていかれなくて目を回しそうな日々だった。そんな中、ある日彼女は「困った」とに相談してきた。

「部屋で映画見ようってなって、そしたらずっと後ろからお兄ちゃんに抱きつかれてたとかで」
「それが何で困るん?」
「動けなかったと」
「ごめん、わかんねえ」
「私もわかんなくなっちゃってさ、ウサコの方からチューでもしてやればって言ったの」
「おお、いいねえ」
「ウサコ素直だからほんとにやったんだな。そしたらお兄ちゃんスイッチ入っちゃった」
「頼朝ちゃんもやべーな。確かにずっと女っ気なかったけどお……
「で、なんか私に隠れてみこっさんが突っついたらしいのね」

絶対に頼朝を茶化すなとと由香里が厳しく指導してきたのだが、ふたりの耳がないところで尊は頼朝に囁きかけた。頼朝、ウサコはどーよ? どんな感じ?

「みこっちゃん……
「まあ、お兄ちゃんもみこっさんのニヤニヤ顔を見れば察しはつくじゃない?」

頼朝は実に呆れているという顔で「赤ちゃんみたいで可愛いよ。あのぷにぷには癖になるから寝不足で困る」と答えた。そんな正直に答えるとは思っていなかった尊の方が目を丸くし、頼朝に「お前が知りたいのはそういうことだろうが」と突っ込まれていた。おっしゃる通り。

「でもみこっさんも『頼朝もやっと女の子のマシュマロ肌の良さがわかるようになったか』と」
「みこっちゃんのそれはもはや病気なんだけどね」
「だからまあ、そういうくらいには仲がいいから、その点はすごくいいことなんだけどね」

そして頼朝は積極的にウサコを旅行に連れ出すようになった。この週末も東北に旅をしていて留守だ。金曜の夜に出発し、2泊して日曜の夕方には帰る。頼朝は「新婚旅行は1回じゃないとダメという決まりはない」としている。

「で、は女も人手も増えてウハウハ、と」
「そうなのお〜ウサコ優しいから〜」
「その顔腹立つ」
「カズサが幼稚園行ってる間はいいんだけどさ、最近友達が遊びに来るようになったから」
「清田家、庭が広いからね……気を付けないと集会所にされるよ〜」
「それが……この間お迎えのママがたくさんいた時に、たまたまみこっさんがいて……
「あっ、地獄はじまった」

とぶーちんは声を殺して笑った。期せずして頼朝がウサコに陥落、すっかり所帯持ち状態に落ち着いてしまったので、尊ひとりが気楽な独身として残った。ふたりともそれを案じる気持ちはあるが、ひとまず頼朝とウサコが仲睦まじく過ごしていられることが嬉しい。

「なんかね、ウサコウサコってお兄ちゃんにまとわりつかれてるウサコがね、たまに本当に幸せそうな顔で笑うの。私から見るとお兄ちゃんマジで鬱陶しいレベルのこともあるんだけど、ウサコはなんていうか……すごく愛おしそうな顔をする時があって、それが嬉しくてね」

もちろん頼朝なので家族の前でベタベタとウサコに触れたりはしない。だが、そういうウサコの表情に全てが込められているようには感じた。

「付き合うとか恋愛とか、そういうこと以上に、いいパートナーを見つけたんだなって」
……みこっちゃんにもそういう人、いないかなあ」
「まだ心配?」
「そりゃ、ね。今はまだいいけど、将来的にはいてほしいのがあたしの本音〜」

同じ幼馴染でもだぁはもう諦めている。もぶーちんほど希望を持っていない。けれど、尊を案じているという点では同じだ。それは襟首をとっ捕まえて説教を食らわすということではなくて、エンジュのように、頼朝とウサコのように、自分らしく生きていかれることを祈る、ただそれだけだ。

「でも、ひとまず頼朝ちゃんが幸せならそれでいいや〜。やっぱね、愛に勝るものはないよ!」

はその言葉に大きく頷いた。

エンジュからそろそろ帰宅すると連絡があったので、はカフェを出た。新九郎と由香里が漁港近くのショッピングセンターで爆買いをしたらしいのでぶーちんに後で取りにおいでと言いながら駅前で別れる。この分では今日は小山田家も来て酒盛りかもしれない。

は冷蔵庫と備蓄収納の中の記憶を引っ張り出す。海鮮祭にウサコが不在なのは可哀想だが、まあ寿司ではないのでいいだろう。酒はあるし、子供たちもシーフードは好きだし、副菜になる材料はまだ残っているし、買い物をして帰らなくても大丈夫そうだ。

順番から行くと本日のノンアル担当は由香里なので、それも問題なし。それぞれ幼い子供と出かけている都合上、どんなに遅くとも日暮れ頃には帰宅してくる。それまでにザッと準備を済ませておきたい。

と、そんなことを考えながらバス停に向かって歩いていたの背を何かが突っついた。

じゃーん! まじおひさー!」

ミチカだった。両側に巨大なトートバッグをぶら下げたベビーカーを押している。

彼女は結婚を機にトレードマークであったコーンロウをやめ、現在はかなり明るいブラウンのロングヘアを風になびかせていた。相変わらずジャンプスーツが好きなようで、コーンロウはやめても、化粧やネイルやヒールの高い靴などは以前のままだ。

だが、はぎくりと肩を強張らせた。ちょっとひとりで会いたくない相手だ。なぜなら、

「今のってもしかして薮内? ってか薮内また肥えたんじゃない? 服とかどこで買ってくんの」

ミチカは2年ほど前からずっとこんな調子だからだ。幸い彼女は出産後もスリムで引き締まった体型を難なく維持しており、それが余計にこんなことを言わせているのだろうが、はそれには答える気はない。さて、どうしたものか。正直、話すことはないのだが。

……今日はみんないないからお茶しよって話になって。それでこれから帰るところ」
「えー! みんないないって子供は!?」
「上の子はバスケ教室で、下の子はみこっさんが遊びに行きたいって言って」
「あー、あいつ姪っ子溺愛してるもんねえ。そんなに子供好きなら結婚すりゃいいのにね」

本当に無意味な雑談だ。は少し腹の底が気持ち悪くなってきた。

「チュカのところはみんな元気? 旦那ちゃん変わりない?」
「いやもうあいつほんと全っ然変わんねーから。少し変われよって話なんだけど」
「あはは、この年になると中々難しいよね」

下手に同意をすると愚痴が始まってしまう。エンジュが戻るまでにはまだ時間があるが、ミチカの愚痴に付き合う時間はないし、付き合いたくない。そういうの生返事感が伝わってしまったんだろうか、ミチカは少し頭を反らし、ちろりと見下ろすような視線を投げて寄越した。

……てか尊のフェイスブック見たんだけど、あのメガネの兄貴結婚したの?」
「え、ああ、うん。そういえば投稿してたね」
「結婚式なのに尊の自撮りしか載ってなくて変なのーと思ったらコメ欄にさ」

本当に家族だけの挙式、写真はたくさん撮ったけれど、ウサコがSNSなどは絶対NGということで、尊は珍しく会場を背景にした自撮りだけでポストし、投稿コメントには「うちの専務がまさかの結婚、気付いたらオレ、ザ・ラスト・シングルになってたー!」とだけ記した。

しかし顔の広い尊のこと、コメント欄にはいつにもまして美しい彼のスーツ姿を褒めそやす女性の書き込みに混じって、地元の友人たちの驚きの声が散らばることになった。専務ってあの兄貴だろ!?

そのやり取りの中で、尊は専務、つまり兄である頼朝の結婚相手が「うちの事務員さん」であることを返信していた。尊の、また清田家の事情を知るような人々はやはり、人手が増えてよかったね、と笑いを示す絵文字やスラングなどを交えて祝福していた。

だが、その「事務員さん」がウサコであることを、ミチカは知っているのである。

「マジでアレと結婚しちゃったの?」
「そうだけど……
「そりゃ兄貴もずいぶんモッサリしてきてたけどさ、それでも基本ハイスペだったじゃん」
「どういう……
「あの兄弟みんなそこそこイケメンなのに、なんであんなのにしたの。もしかしてデブ専だった?」

その瞬間、の意識は学生時代に戻っていった。

信長と離れ、ひとり学生生活を送りながら必死になって働き、神奈川に帰るための貯金をしていた頃のことだ。無駄な金は一円でも使いたくないだったが、どうしても断れない飲み会が出来てしまい、渋々参加したことがあった。

近隣の大学の学生ばかり数十人、合コンではなかったけれど、学生同士の飲み会、中身は推して知るべしと言ったところか。そんな喧騒には関わりたくなくて、は大きな座敷の片隅でウーロン茶を啜っていた。周囲には同じ境遇の消極的な学生が数人。その中に、心理学部の学生がいた。

昭和の苦学生を思わせる、分厚いレンズのメガネに痩せた体の彼はしかしとても話し上手で、バカ騒ぎに混ざりたくないたちに色んな話をしてくれた。恋愛にまつわる心理から犯罪心理、果ては夢分析にいたるまで、彼はあれこれと素人が興味を引きそうなネタを披露してくれた。

その中に「カサンドラ症候群」というものがあった。

発達障害者のパートナーや家族が、発達障害であることを知らずに相手とスムーズな関係を築けないことに思い悩み、またそれを周囲に理解してもらえないことで孤立していくなどの現象のことを言う。自信を喪失し、時に自己の愛情を疑い、自分を責めてしまう。

カサンドラ症候群の定義はそれに限るわけだが、はミチカの言葉に押し出されるようにしてその話を思い出した。うまくやれないのは誰のせいでもないことだし、適切な診断と専門家の指導や支援が必要なケースであろう。だが、いつでも理解を得られずに苦悩するのはカサンドラなのである。

うまくやれないのは努力が足りないから、怠けているから。いかなる災難も不運も自業自得、うまくやれない人間など邪魔なだけだから、消え去るがよい。社会のゴミは排除せねば、清浄な世が実現することはない。そんな風に人は言うから。

自分の目で自分の顔を見られない以上、社会は自分を映す鏡だ。どれだけ耳に心地よい言葉を並べ立てたところで、自分がいかな人間であるかは身近な人々の顔色でしか伺うことは出来ないのである。それを跳ね除け、修行僧よろしく自己を見つめ直すことは出来る。けれど、結局「他人の中の自分」を決めるのは自分ではない。

ウサコとの「結婚」を決意した頼朝から、には簡単に知っておいて欲しい、とウサコの過去について少し説明があった。まだ駆け出しとは言え、ふたりの子供を持つ親としては激しい頭痛にも似た怒りに包まれた。改めて彼女がこの家に来てくれてよかったと思った。

人は言う。人を愛しなさい、自己を捨てて隣人を思いやり愛することで、人はよりよく成長できる。

は思う。バカを言うな、愛されたことのない人間が人を愛せるわけがないじゃないか。

エンジュが連れてきた寿里もそうだ。彼はいきなり見知らぬ大人だらけの家に連れてこられてもすぐに馴染んだ驚異の「人見知らず」だったが、アマナ以外の人間にも屈託なく笑うようになるまでには時間がかかった。清田家総出で愛情を注ぎまくった結果、今ではよく笑う温和な子になった。笑い顔を見たことがない人間は、笑い方を知らない。人が笑えるのは、幼い時に笑顔が傍にあったからだ。

ウサコの中には、愛情がほとんどなかったのである。ほんのささやかな愛情に似た何かを必死に溜め込みながら、他者に愛されない人間は異常であるという攻撃に体を丸めて息を潜めていた。

むしろそれだけ愛が枯渇していたというのに、他者への思いやりを失くさなかったウサコは褒められこそすれ、無関係な点について難癖をつけられるいわれはないはずなのである。

はそういうウサコと寄り添って生きていきたいと決意した頼朝を、家族として誇りに思った。頼朝がウサコと真正面から向き合うことを選ばなければ、ウサコの朝は永遠に生きていることへの絶望でしかなかった。しかし、ウサコの朝は頼朝のぬくもりに包まれる時間へと変わったのである。

ある意味では頼朝もまた、愛に飢えていたカサンドラであったかもしれない。育った家とはかけ離れた環境で学ぶ中で、家族も同然の人々を「害悪」と呼び、排除されて然るべきと信じて疑わない人に囲まれ、どちらにも馴染めずに袋小路にはまり込んでいった。

には、プライドがあった。10代から20代の学生時代を全て戦うことに費やし、愛する人のもとに帰りたいという夢は今自分の手の中にある。苦しみもがきながら、優しい人々の手に助けられながら、勝ち取ったものだ。頼朝は長男で、その嫁はウサコだが、由香里の跡継ぎは私だ。

あの家を、家族を守ることも、私が勝ち取った夢のうちだ。それを侵害するものは許さない。

……そういう風に言うの、やめてくれない?」
「えっ?」
「私の姉のことを悪く言うのはやめて。チュカに姉をバカにする権利なんかないでしょ」

ミチカはバツの悪そうな表情をしたが、引き下がらない。

「バ、バカになんてしてないでしょ。事実じゃん」
「兄は優しくて真面目な姉を愛してるだけ、それの何が悪いの。見た目って何か関係があるの?」
「いや、兄と姉ってあんたそれどっちも義理じゃん。てか逆ギレかよ」
「逆ギレじゃない。私は家族を侮辱されたから抗議してるだけ」
「侮辱って、逆に失礼じゃない? 雑談にマジギレとか」
「失礼なのはチュカの方だよ。家族を貶されたから怒ってるだけ。私にはその権利があると思うけど」
「ちょ、何マジになってんの、おかしいんですけど」

元々論理が破綻しているミチカは言い返す言葉に詰まり始めた。家族など陰口を叩いて当たり前、ムカつくことは外に放流してスカッとすればいい、貯め込むよりよっぽど健全! というのは勝手だが、そのサンドバッグになる義理はない。

「てか権利って。あんたただの専業じゃん。働きもしないで――
「私は朝6時から夜の21時頃まで働き詰め、人間12人と犬4匹を面倒見てるけど」
「そういうのは仕事って言わないでしょ。経済活動にも参加できてないし、外に出て輝かないと」
「子育てをしている人間はくすんでるの? 労働に加わらないと人は輝けないの?」
「そっ、そうでしょ、そんなの当たり前じゃん、あんた大卒でしょ、そんなこともわかんないの」

大卒だろうがなんだろうが、そんな寄せ集めで綻びだらけの「当たり前」には迎合しない。が一歩も引かないので、ミチカは表情が歪み始めた。

「てかまじ大卒で専業とか図々しくない? あんたんちはそんだけ金持ってんだろうけど、信長なんか今ただのリーマン程度でしょ、尊がいなかったらそんな余裕な生活できないじゃん。そこで楽して子育てしてる人に権利とか言われたくないんだけど。普通はもっと大変な思いしながら子育てしてるもんなの。こんな土曜に薮内と喋ってる暇とかないんだからね?」

人は私をリア充というかもしれない。贅沢な暮らしをする恵まれた人と言うかもしれない。それは否定しない。私には世界で一番愛する素敵な夫がいて、子供がいて、親友もいて、義理でも共に暮らす家族は気安い人ばかりで、食うに困るわけでもない。それは事実だ。

けれどそれを「私が享受するに相応しい当然の権利」とは思わない。

家族全員が毎日を頑張って生きていることがうまく重なり合っている結果だ。

は一歩前に踏み出し、ミチカの顔がよく見えるようにしっかりと目を開く。彼女と過ごした日々には楽しい思い出しかないが、それは過去のものだし、彼女がウサコや自分を否定するのは勝手だが、それに関わる気はない。

だから、私はミチカの理屈を否定する。家族の一員として、絶対に認めない。

「それが何? そういうことはSNSにでも書いておけば? 私の家のことに口出ししないで」

あれは私の家。

私はそこで、カサンドラのとなりで、生きていくのだから。