カサンドラのとなりに

17

今日もウサコの実家付近の狭い路地は人通りもなく、薄暗く、しかし居並ぶ傾きそうな家々にはぼんやりと明かりが灯っていた。遠慮するウサコに着いて来た頼朝は、その路地の佇まいに少しだけ恐怖を感じた。傾きそうな家の薄い壁越しに見張られているような感じがする――

「いつも荷物を送る時は自宅で梱包して送り状を書いて、それから発送してたんです」

なのでセイラちゃんの現在地の控えはいつも玄関の真横の居間に置いてあって、長らくそういう習慣だったので携帯や手帳などにコピーしていなかったのだという。引っ越しの際に持ってきたのはかつての現在地で、現在の所在を知らせる手紙だけ置いてきてしまった。

ウサコは寒いから車で待っててくださいと遠慮したけれど、頼朝は勝手に着いてきた。彼女は気にならないのかもしれないが、頼朝はどうしてもあの家が気味悪くて仕方なく、ウサコをひとりで行かせたくなかった。

……家を離れたことがなかったので、帰ってきたって感じがしちゃいますね」

生まれて以来30年以上暮らしてきた場所だ。それはむしろ自然な感情だっただろう。しかし、頼朝の脳内に突然強烈な不安が襲いかかってきた。この薄気味悪い路地が、傾きそうな家が、ウサコを連れ去ってしまうのではないか。このボロ屋の中に入ったら、彼女は二度と戻って来ないんじゃないだろうか。

帰ってきた感じのする家、その方がいいと二度と出てこないんじゃないか。そんな気がして。

「すぐ取ってきますね」

そう言って家の鍵を掲げたウサコの手を、頼朝は返事もせずに掴んだ。

「えっ、頼朝さん?」
……北見さん」
「は、はい?」

当然ウサコは狼狽えて目が泳ぐ。頼朝は何かに突き動かされるようにして、口を開いた。

「北見さん、あなたが好きです」

すっかり冷えた3月の夜風が吹き込み、ウサコの手から鍵が落ちる。薄ぼんやりした玄関灯の明かりの中、白い息がふたりの間を漂い、また風に攫われていく。

頼朝に掴まれたウサコの手が細かく震え出す。

……すみません、いきなり、だけど、家の中に入れたら、戻ってこないような気が、して」

震えるばかりの手、泳ぐことすら忘れた瞳、頼朝はそのまま引き寄せてウサコを抱き締めた。

遠くどこかに置いてきてしまった疼きが胸に広がる。しかし同時に先程まで感じていた不安は全て消えていた。両腕の中に彼女がいる。やっと抱き締めることが出来た。そして、ずっとずっとこうして抱き締めたかったんだとわかった。北見さんを、ウサコを抱き締めたかったんだと気付いた。

このボロ屋のドアを開け、その中にウサコが足を踏み入れたら最後、彼女はもう戻ってこないのではという恐怖に襲われたけれど、ギリギリのところでそれを阻止できた。そんな気がして、頼朝は静かに息を吐いた。だが、その頼朝の胸をウサコの手が押し返した。

「北見さん?」
………………ダメ、です」

まだウサコの手は震えていた。そして、白い息と共にか細い声が漏れ出てくる。

……オレでは、ダメですか」
「違い、ます。私は、ダメです」
「どういう意味、ですか」

押し返しきれないウサコの手は頼朝の胸に添えられたまま、その手のひらを頼朝は包み込んで頭を落とした。ウサコは俯いているので声が聞き取りづらい。

「私は、やめた方が、いいです」
「でも、オレは北見さんがいいんです」
「他に、いくらでも素敵な方が、いらっしゃいます」
「北見さん、ウサコ、あなたより素敵な人は、いないです」
「そんなわけないでしょう」
「オレはそう思ってるんです」
「それは勘違いです」
「違います」
「違いません、大晦日のことを大袈裟に感じてるだけです」
「それの何がダメなんですか、あなたを好きになっちゃダメなんですか」
「そうです、ダメです」
「どうして」
「もうやめてください」
「オレが無理ならそう言ってください、謝ります」
「違、そうじゃありません」
「だったら何なんですか」
「お願いです、離してください」
「ウサコ」
「やめてくださ……
「ウサコ、好きだ」
「やめ、て」
「頼むから、こっち向いてウサコ」
「いい加減にしてください!」

顔を近付けて頬に触れようとした頼朝の手を振り払って、ウサコは一歩下がった。乱れた髪が頬に張り付き、その顔は苦悶に歪み、唇はわなわなと震えていた。息も荒い。

「なんで、頼朝さんのような人が、私を好きになるんですか」
「オレのような人って、どういうことですか」
「わた、私みたいな、こんなのじゃなくて、他に相手がいるでしょう」
「いません」
「嘘」
「嘘じゃない」
「信じられない、何でも持ってるのに、全部持ってるのに、私は何も持ってないのに」
「ウサコ」
「私を好きになって頼朝さんにどんな得があるっていうんですか、ないでしょう」
「損得の話じゃない、ただウサコが好きなだけだよ」
「こんな、こんなのがですか!? いいところなんかひとつもないじゃないですか!」
「そんなこと――

頼朝は一歩足を進め、ウサコの震える両手をそっと包み込む。

……これまで、私を好きになってくれた人は、ひとりもいません」
「えっ?」
「私を気持ち悪いと言った人はたくさんいました。だけど、好きだと言った人は、いません」
「ウサコ」
「私を、好きだと嘘をついて、お金を取ろうとした人なら、いましたけど」
「ウサコ……!」

ウサコの目から一筋の涙がこぼれて、滴り落ちた。

「あなたの目的は、なんなんですか?」

涙が溢れた目は虚ろで、寿司を前にしてキラキラ輝いていたのが嘘のように暗い影を落としていた。そんな目をさせたかったわけじゃない。頼朝は両手に力を込めて、息を吸い込む。

……あなたの、どこが好きなのか、それを言えと言うなら、ひとつずつ言います。あなたがうちにアルバイトで来てから、オレがどんな風に思ってきたか、大晦日の夜に何を思ったか、その後のこと、叔父さんの件も、何でも、全部答えます。それから、あなたをかわいいと思いました。優しい人だなと思いました。あなたに、自分を、オレを、好きになってもらいたいと、思いました」

いつしか頼朝の声も震えていた。

「ただ、あなたに、愛してもらいたかったんです」

それは今やっと見つけた頼朝の、答え、そして「本当に願うこと」だった。

「目的は、それだけです、あなたの、特別な人間に、なりたい、一緒に、いたいだけで」

再度ウサコの手を引き寄せて顔を近付ける。息がかかりそうな距離に、胸が詰まる。

「オレだって、いい年をして愛されたがってるだけの、みっともない男です」
「よ、頼――
「10代の子供みたいに、あなたの彼氏になりたいって、そう思ってるだけの、ことです」
「頼朝さ……
「夜になると、あなたの部屋に行きたいと思うような、そういう、ことを――

気付くと、ウサコの手がすり抜けていて、頬に触れていた。頼朝の思考が白に染まる。

そして、ウサコの体を抱き寄せると、そのまま唇を押し付けた。

頼朝はウサコを抱きかかえたまま、ゆっくりと、2度キスをした。ウサコは動かない。動かないというより、ガチガチに固まっていた。それに気付くと、やっと冷静な思考が戻り始めた。そういえばさっき、好きになってくれた人はひとりもいないって、もしや――

……勝手に、すみません、あの」

何か取り繕わなければと思ったけれど、ちょうどいい言葉が見つからなかった。頼朝は一呼吸置くとまたウサコを抱き締めた。冷たい髪が揺れてふわりと甘い香りが立ち上る。思わずキスしてしまった唇はふんわりと柔らかくて、この香りとともに抱いて眠りたいと思った。

どうでもいい話に心を緩めて眠りにつき、そして目覚めた時に、ウサコの声が聞きたい――

ガチガチに固まっているウサコの背をゆっくりと撫で下ろし、少しだけ揺らしてみる。

よく清田家には小さい子供が遊びに来ていたけれど、弟を除けば、生まれたての子を抱いたのはカズサが初めてだった。強烈な思いが一瞬で湧き上がってくるようなことはなかったけれど、ただ単純に小さく柔らかい赤子は可愛かった。グズるカズサを揺らしているのは、ちょっとだけ幸せだった。

それと同じように、固まっているウサコを揺らしていた。

怖くないよ、大丈夫、嘘なんかついてないよ、全部、本当のことだから。

……驚かせて、すみません。今日、楽しかったんです。一緒にいるの、いいなあって思ったんです」
……よく、考えたんですか」
「あー、いいえ、考えてる余裕がなくて」
……後悔すると思います」
「オレが後悔してるのは、あなたにたくさん失礼なことを言った件です」

だらりと垂れていたウサコの手が頼朝の腹のあたりのコートをそっと掴む。抱き締め返すまでにも至らないんだろう。けれど頼朝はそれが嬉しくなって、腕を組み替えてまた抱き締める。

「それに、オレはしばらくの間、アルバイトで来てるあなたが嫌でしょうがなかった。バイオレットも嫌だった。早くあなたと取り替えられるような人材の面接が来ないかと心待ちにしてました。そういう過去を後悔してます。だから、あなたを好きなことは後悔しません」

ウサコが何を理由に「私はダメ」と言っているかは何となく想像つくが、その辺に関しては既に散々嫌悪してきているのである。それを経てウサコへの思慕を自覚するに至ったのだし、今となっては嫌悪していたことのほとんどは、ウサコ自身のことではなかったのも理解している。

「もっとハイスペックな女性の方が、とか思ってる?」
……はい」
「じゃあウサコも、もっとハイスペックな男の方がいいんじゃないの」
「えっ!? わ、私は」
「どう考えても尊の方がスペック高いよ。身長は同じだけど収入はあっちの方が上だし」
「なっ、そんな」
「オレがあの家で1番なものって、学生時代の偏差値くらいなもんで」
「そんなこと! 尊くんより頼朝さんの方が――

言いかけてウサコは「うぐっ」と喉を鳴らした。勢いで口が滑りそうになった。

……尊より、何?」
「い、いいえ、何でも」
「というか、無理なら早めに教えて欲しいんだけどな」
「えっ!? 無理とかそんな」
「じゃあ、付き合ってくれるんですか」
「ええっ!? そ、それは」
「どっちなの」
「だからその、あの」
「誰がどう思うかはどうでもいいから、ウサコは、どう思ってるの」

ウサコがちらりと見上げてみると、なんと、頼朝は耳を真っ赤にして照れていた。普段仕事をしている時のしかめっ面でもなく、清田家のリビングでぼんやりしている時の緩んだ顔でもなく、恥ずかしそうに目を細めていた。そんな頼朝の姿が、ウサコに「言ってもいいんだろうか」と思わせた全てだ。

頼朝の胸に額を当てると、ウサコは恐る恐る抱き返してみる。

……私のことを好きになってくれる人は、この世にひとりもいないと思ってました。一生誰にも一度も愛されないまま、死ぬんだと、思ってました。でも……いたんです、ね」

学生時代の元カノの件はともかく、その辺りは頼朝も同じことを考えていた。元カノも今となっては自分を愛してくれていたかどうか甚だ疑問だし、以後は鬱陶しがられることはあっても、好かれることはなかった。だからこそ、大晦日の夜に飛んできてくれたウサコが救いだったのだ。

「いたと言っても、オレですが」

ちょっと自虐的なことを言えばはっきり言ってくれるのでは。頼朝がカマをかけると、案の定ウサコは顔を上げてふるふると振った。もう、虚ろな目はしていなかった。

「尊くんより、頼朝さんの方が、かっこいいです」
……はっ?」
「叔父に言い返してくれた時、なんてかっこいい人なんだろうって、思いました」

ウサコも頬を染めているけれど、突然「尊より」という世間一般的にありえない前提がついたので頼朝も顔がカッと熱くなる。叔父さんに言い返すってなんだっけ、ああ、あれか、「嫁に来ないか事件」か。そうか、嫁か……オレが貰うって言ったな……

「引っ越しの時、部屋でひとりで寝るのが初めてと言ったら、頼朝さん、もしひとりが寂しくなったらでも犬でも尊くんでもって言って、笑ってて、だけどその時、それよりも頼朝さんの方がいいなあって、思って、ました……

ウサコも真っ赤だ。頼朝はもうたまらなくなってぎゅうぎゅう抱き締めた。

「じゃあ、付き合ってもらえるんですね」
「は、はい」
「オレがあなたのこと好きでもいいですか」
「はい、もちろん、ありがとうございます」
「あなたも好きになってくれますか」
「あ、あの、はい、好きです」
「もういっそ嫁に来ますか?」
「はい、そうで――は!?」

「嫁に来ないか事件」のことを思い出した頼朝はだいぶ冷静な思考を取り戻していて、いやいや、それいいんじゃないのか? と考えだしたら止まらなくなった。どうせ今でも同じ家に住んでいるんだし、リフォームは終わってるし、職場も同じだし、そこで付き合ってんならそれもう殆ど夫婦じゃん。

だけど部屋は別で、なのに隣にいるとか生殺しじゃないか。

頼朝は額をくっつけて揺れながら、惰性で返事をしかけたウサコにニヤリと笑いかける。

「叔父さんに言ったでしょ、嫁にもらうって」
「あ、あれは売り言葉に買い言葉じゃないですか」
「でも、いいと思うんだけどな。ウサコもうちに馴染んでるじゃん」
「そっ、それはそうなんですけど、そんな軽率に……!」
「ウサコも頑固だな。じゃあとりあえず、結婚を前提としたお付き合いみたいなことで」
「ほ、本気ですか……

まあ今ここでウサコが冷静な判断を下せるわけもなし、頼朝は彼女の目尻に小さくキスをすると体を離した。いつまでもこんな傾きそうな家の玄関にいるわけにはいかない。オレたちにはリフォームしたばかりのピカピカの家があるじゃないか。オレが改築の設計した家が、あるじゃないか。

「とりあえずセイラちゃんの住所の控え取ってきて、帰ろうか」
「あっ、そうでした。今取ってきます」
「ウサコ」
「はい?」
「オレ、今日は部屋にひとりじゃ寂しいから来てくれる?」
「んえっ、ふぁ、は、わ、わかり、ました」

狼狽えるあまりよろけて変な声を出しているウサコを促して、玄関を開けさせる。もう何がなんだか半ばパニックのウサコは急いで居間の壁に引っ掛けてあったハガキを取ってくると、またきちんと施錠した。そのウサコの手を頼朝が取る。

「じゃ、帰ろうか」
……はい」

やっとウサコはいつものようににっこりと微笑んだ。

その手を引いて、ウサコを食ってしまいそうな気がした家から離れていく。頼朝はすぐに手を繋ぎ直して指を絡める。3月の夜に白い息だけが尾を引いて、しかしやがて夜の闇の中にウサコの生家は飲まれていった。もうあの家には帰らない。ウサコはオレと一緒にいるんだから。

ウサコ、それでいいよな?