ミスラの海

19 - エピローグ

「いつまで寝てんのよ信長ァ! 何時だと思ってんの!!」
「っせーな、何時って7時だよ、しかも日曜じゃねえかクソババア、くっそ背中いてえ」

階下から響き渡る母親の声に毒づいた清田は、ベッドの中で呻いて寝返りを打った。昨夜、ぶーちんとだぁの子供の相手をしていて、散々「お馬さん」をやらされたので、背中が痛む。清田は長く伸ばした髪を後ろで一本に括っていることが多いので、お馬さんには最適なのである。

清田は髭の伸びた顎をぼりぼり掻きながら大欠伸をする。普段、大学の寮にいる時は髭くらい何も気にしないのだが、清田母は整えていない伸ばしただけの髭が大嫌いなのである。それがちらほらあるだけでもすぐに怒る。清田父も伸ばしているが、自分で剃刀を当てて毎日整えている。

面倒臭いが、実家にいる以上は、それに従わねば飯にありつけない。清田は呻きながら起き上がり、ベッドから転がり落ちる。朝とはいえ、既に日は高く、部屋の中が暑い。床に転がった清田は、フローリングに体を冷やす。

まだ引退までは時間がある清田だが、夏休みの間には毎年きちんと実家に帰ってきている。帰ってきて何をするわけではないが、夏休みと正月はちゃんと帰る。一応これが清田のルールになっている。

床が冷たくて気持いいので二度寝をしてしまいそうだけれど、また怒鳴られるのも面倒くさい。清田はゴロゴロ転がりながら立ち上がり、部屋を出る。しんと静まり返った廊下をだらだらと歩き、階段を降りる。

現在清田家の三兄弟は全員家を出ており、三男のように休みに帰ってくることはあっても、基本的には別の場所で生活している。だが、清田家はしょっちゅう他人が出入りしているし、しかも、次男の尊が家を出た後に、家族が増えた。その新たに増えた家族が、寝起きの清田を階段の下で待ち構えていた。

「うーい、おはー、あれ、ユキどうしたよ」

清田を出迎えたのは、赤白黒の三匹の柴犬である。現在推定3歳、三匹とも譲渡会で引き取った犬である。たまたま清田父が知人に誘われて顔を出したところ、この三匹が一列に並んでいて、それが自分の息子たちに見えた。そんなわけでまとめて引き取られてきた三匹は、新たにハル、クロ、ナオと名付けられた。

例によって戦国大好き清田父の命名なので、白いハルと黒いクロは竹中重治と黒田孝高の両兵衛から取られ、雌犬であった赤のナオは井伊直虎から取られた。もう三兄弟関係なし。元気いっぱいの三柴はユキにもすぐなついたが、おかげでユキの方が大人しくなってしまった。

「やっと起きたの? まったくもう、ちゃんと髭剃りなさいよ。あとユキの散歩頼むわよ」
「え、こいつらは?」
「そっちはお父さんが済ませてあるわよ」

ユキは現在7歳、大型犬なので、既にシニアステージである。元気だけれど、もう無闇矢鱈に飛び跳ねて暴れることはないし、ここ2年ばかりの間にかなり朝寝坊になった。まだ3歳の三柴と一緒だと疲れてしまうので、ユキは後からゆっくり散歩することが多い。

清田は三柴のどつき攻撃を食らいながらバスルームに入って身支度を整える。髭さえきれいにしておけば、服が多少だらしなくても母は何も言わない。清田はダイニングで適当に朝食を取ると、また部屋に取って返して着替え、ユキを連れて家を出た。

以前は家を出るなり猛ダッシュのユキだったが、今はきちんと清田の横に並んで歩いている。見上げた空は真っ青で、くっきりとした入道雲が眩しい。清田は目を細めて頬を緩ませた。

、どうしてっかな――

5年前、高校2年生の時に突如遠くへ引っ越してしまった大好きな彼女。お互いの未来の足枷になりたくない――ふたりは束縛をしないために別れを選んだ。しかし清田は自分でも不思議なくらいにずっとのことが好きだった。今でも好きである。

実を言えば、が遠くに行ってしまって以後、微妙な関係になってしまった女の子が3人いた。それでも、もし明日が帰ってきたらどっちがいい? と自問すると、いつもを選んでいた。そう思うと、関係が微妙なだけで、好きなわけではなかった、という結果に落ち着く。

その中で、が神奈川にやってくる「帰郷」は、なかなか実現しなかった。何しろ新幹線の距離だし、清田は忙しいし、それぞれの生活の中で都合を付け合って会えるチャンスはそう簡単に巡って来なかった。が引っ越してから今までの間に、が神奈川にやって来たのが4回、清田がの住む街へ行ったのが1回、5年弱の間にたったそれきりだった。

しかも、高校生の間にはどちらも身動きが取れずに、最初にの「帰郷」が叶ったのは、高校を卒業した後の春休みのことだった。の引っ越しからほぼ2年が経過していたことになる。いつかだぁが床に叩き付けた「ホテル代」がそのまま使われたことは、言うまでもない。

幸い、と言おうか、清田にはバスケットがあったし、それは週1回のレクリエーションとかいうレベルではなかったし、チームメイトにも友人にも恵まれて、清田なりに悩んで苦しんだ時期もあったけれど、遠く離れたへの思いをなんとか守ってこられた。

それに、は本人の宣言通り、引っ越した先での生活のほぼ全てを勉強とバイトに捧げており、1年に1度くらいしか会えなくても、まるで男の匂いのしない女になっていた。むしろ、故郷に帰ったことで生まれ変わってしまったのはの母親である。

それこそが高校生の間は、慣れない仕事や久々の実家の生活に忙しくて、毎日を切り抜けるので精一杯だった。しかし、娘が地元の大学に合格した頃に、中学時代の初恋の相手と再会、その上相手は男手一つで娘を育てているシングルファーザーだった。あと数年で子供が成人するふたりに火がついた。

結局が21歳の時にふたりは再婚、しかしはひとつ年下の再婚相手の娘とあまり折り合いがよろしくないそうで、一旦同居したものの、祖父宅に戻り、姓も改めないままである。曰く、どうせ自分はひとりで神奈川に帰るのだから構わない、とのこと。

夏の空についを思い出した清田は、少しだけ気持ちが落ちた。あの約束の海に着き、波打ち際をユキと歩く。もうダッシュで海に飛び込んだりはしないけれど、ユキは相変わらず水遊びが好きで、今も尻尾を振りながら波を前足で突っついている。

ああ、に会いたい――

特に夏になると清田はを思い出して少し切なくなる。約束の海は何も変わらないけれど、自分たちの未来はどうなるのか、なんだかよくわからなくなってきた。清田はまた大欠伸をすると、ユキを伸縮式のリードに付け替え、自分は浜に腰を下ろした。そうやってぼんやりと海を眺めていた時のことだ。

「何よ、誰かに振られたの?」

頭上から降ってきた声に驚いた清田は、座ったままその場を飛び退いた。ユキの吠え声がこだまする。

!?」
「ユキ、おいで〜。ひゃー、ユキ元気そうでよかったあ、三柴も元気?」

ぽかんとしている清田の目の前で、鮮やかな色のワンピースを着たは、しゃがみこんでユキを抱き締めた。もう飛びかかってをなぎ倒したりしないユキだが、振り回している尻尾が千切れそうだ。

「え、あれ? こっち来るなんて連絡――
「うん、ごめん、してない。時間取れるかどうかギリギリまでわからなくて、急だったから」

そう言っては立ち上がり、清田もつられてよろよろと立ち上がる。まだ状況が飲み込めていないらしい清田がぼーっとしているので、は吹き出した。そして、柔らかな笑顔のままゆっくりと両手を差し出す。

「信長もおいで〜」

はふざけ半分だったろうが、清田は素直に歩み寄ると、ぎゅっと抱きついた。

「ちょうど今、のこと、考えてた」
「ほんとに? 信長、勘がいいからなあ。気配を察した?」

ふたりは抱き合ったまま、ゆるゆると揺れた。誰に話しても遠恋なんか上手くいかない、続かない、飽きる、冷める、浮気してなくても好きでも、距離のせいで駄目になると言われてきた。けれど、ふたりは彼氏彼女ではなかった。勝手にお互いのことを思っていただけの、そういう関係だった。

「どうしたんだよ急に。就活大変なんじゃなかったのか」
「まあまあ、そんな話の前にすることがあるでしょ、はい」

が爪先立つので、清田はまた素直にキスした。

「ああ、なんかやっと帰ってきたって感じ。あのね、内定貰ったの」
「マジか! え、それって……
……信長、私、やったよ、ちゃんと神奈川の会社で内定貰った。こっちに帰ってくる」

清田はまた何も言わずにをきつく抱き締めた。ならきっとやれると信じていたけれど、それが本当に現実になるのだと思ったら、感無量で言葉にならない。

「それでね、こっちで家借りるのとか、小父さんに色々教えてもらえないかなと思って」
……ウチに住めばいいじゃん。頼朝も尊もいないよ」
「そこは一応けじめつけとかないとマズくない?」
「みんな喜ぶと思うけど」

そうかもしれないが、は来春から新社会人である。新たな環境に慣れるまで、生活面で手が行き届かないこともあろう。そうなれば清田母が黙っていないだろうし、彼女にやってもらうのはおかしな話だ。別居中の母親もいい顔はしないだろう。そもそも彼女は本気でが神奈川に帰るとは思っていなかった。

「だけど出来るだけ近いところに住みたいとは思ってる。歩いて行かれる場所がいいなーと」
「ああ、そうだな。真夜中でもすぐに行かれるところにしなよ」

また顔が近付いてきたので、は爪先立って首を伸ばし、キスを受け取る。

「それでね、ちょっといいかな」
「どうした」

は清田の腕から逃れると、拳を口元に当てて、咳払いをひとつ。

「ええと、そんなわけで、宣言通り神奈川に帰ってきます。たぶん年明けには引っ越せると思う。内定貰ったところもよーく吟味したから、転勤とかもないと思う。だからその、ええと、清田信長くん、私、あなたのことがずーっと好きなので、よかったら付き合ってもらえませんか。よろしくお願いします」

そう言ってが頭を下げるので、清田は吹き出した。なんて可愛くない告白だよ。

「そんなの、当たり前だろ。てか――
「あ、ちょ、ちょっと待った、まだまだ。私、彼女、OK?」
「いやなんでカタコトだよ。OKに決まってんだろ」

また抱き締めようとした清田を押し戻して、は斜めがけにしたバッグをゴソゴソやっている。

「清田信長くん、私、バリバリ働くので、今すぐじゃなくていいので結婚して下さい!!!」
「ハァー!?」

は指輪らしき銀色の物体を手に、がばりと頭を下げた。清田は思わず仰け反る。

「頑張って働いて稼ぐので、信長がどれだけ収入なくても大丈夫だから! 急にバスケ出来なくなって仕事とかなくても私が養ってあげるから、だから嫁にもらってください!!!」

あまりといえばあまりなプロポーズに清田は大笑い、人をヒモみたいに言うなとツッコミを入れると、指輪を取り上げ、の目の前で左手の薬指に嵌めた。割とゴツめのデザインリングが清田の大きな手に似合う。

「あのな、逆プロポーズとか、オレはそういうの自分がやりたいタイプだって知ってんだろうが。それをお前、こんな朝っぱらからユキの散歩途中で、ビーサンに普段着で、養ってやるから嫁にもらえとかアホか! ありがたくお受けしますってんだよ、バカ! 後でお前の指輪買いに行くからな!!」

ぶちぶち文句を言う清田には飛びつく。の体を抱き上げた清田は、少しよろめいて波に足を浸した。長い時間を離れて過ごしたけれど、ふたりの時間はまた動き出そうとしている。いや、やっと始まったのだ。

「でもこれお前、ただの婚約だからな。ホントのプロポーズはオレがもう1回やるからそれまで待ってろ!」
「じゃあその時もここでしてよ、ちゃんと跪いてダイヤとプラチナのリングにしてね!」
「おう、任せとけ!」

ふたりは笑い合い、清田はを抱き上げたまま、くるくると回った。そして、ユキの伸縮式リードが足に絡まり、バランスを崩したふたりはそのまま海に突っ込んだ。無事に波打ち際に残されたユキが吠える。

「っはあ! ちょっと、嫌ー! 新幹線のチケット入ってるのに!! バカ! どうすんの、びしょ濡れじゃん!」
「っさいなほんとに、てか他に荷物ないのかよ、まさか日帰りのつもりだったんじゃないだろうな」
「えっ、そのつもりだったけど」
「ふざけんな! 今からウチ帰る! あとで指輪買いに行く! そのままラブホだ覚悟しろ!」
「ちょっと待て最後はいいなんて言ってないぞ!」
「いやお前に拒否権ないから。プロポーズしたんだから責任取れ!」
「何の責任よー!」

いつかのように海に落ちてずぶ濡れになったと清田は、きゃんきゃん言い合いながら、浜を歩いて行く。ユキと一緒に並んで歩きながら、清田家に向かって歩いて行く。そうして清田家に着いたら、はシャワーをもらい、着替えてリビングでお茶をするのだ。今度は清田も一緒に。

大きく2つに別れたふたりの道は、今また少しずつ同じ方向を目指して近付き始めている。やがて道が交差する頃、はもう一度ここでプロポーズをしてもらうのだ。それまでは、のプロポーズという約束を海に預けておく。ふたり揃って飛び込んだ海に、約束と誓いを。

もう二度と引き裂かれず、縛られず、手を取り合って歩いて行かれるように。それを何より大切な君に誓おう。

いつしか遠ざかっていくふたり、海は悠久の昔からそのままに、夏の太陽に白く輝いていた。

END