ミスラの海

04

「名前、なんだっけ」
「あ、です」
ちゃんね、ほんとに信長と付き合ってないの?」

心地よいエアコンの涼しい風に火照った顔を冷やしていたは、清田兄の静かな声に勢いよくむせた。

「親が相手じゃ言いにくかったでしょ。あ、別にチクったりしないから安心して」
「あの、本当に付き合ってません。というか、まだ2回しか会ったことないんです」
「それがなんでうちに遊びに来たの?」

は少しげんなりしつつ、本日3回目のざっくりした説明を繰り返した。

「それであんなに盛り上がってたのか。うちはみんな犬好きだからなあ」
「お兄さんも犬好きなんですか」
「まあそりゃ生まれた時から犬のいる生活だったしね〜。てかちゃん、オレ、尊」
「はい?」

清田兄は前を向いて運転しながら左手の人差し指で自分の胸をトントンと叩いた。人差し指には分厚いシルバーの指輪、胸元にもくすんだシルバーのペンダントが下がっていて、はそれを見つめながら間の抜けた声を上げた。みこと?

「名前。清田尊。信長のお兄ちゃん。2番目」
「はあ」

このやけにきれいな顔をしているお兄さんは「みこと」という名で、清田家の次男らしい。

「清田くん、みんな武将の名前なんだって言ってましたけど、お兄さんは――
「お兄さんじゃなくて、尊ね。ちなみに『みこと』は『尊』と書いて、ネタ元は足利尊氏です」
――ああ!」

教科書で見た騎馬武者の図が頭をよぎる。あれと尊が一緒にならない。だけどあれは足利尊氏を描いたものじゃないらしいと先生が言っていた。こんなきれいなお兄さんが馬に乗っていたらさぞかしかっこいいだろうな、と妄想したは、また少し頬が熱くなった。

「ヤマトタケルノミコトかと思いました」
……あれってね、やまとの国の強い男っていう意味の呼び名で、名前じゃないんだよ」
「そうなんですか!?」

本気で驚いたは声が裏返り、尊はそれを聞いて初めてゆるりと微笑んだ。なんてイケメン。

「よく言われるんで子供の頃に調べたんだよね。あの人本当はヲウスさんて言うの」
「お、おうす……
「それに、みことって付く人は他にもいっぱいいるでしょ」

厳密に言えばみことが付く人のほとんどは一応神様だ。まあそれはそれとして、日本武尊に美少年というイメージがあるは、足利尊氏より日本武尊の方がいいのにと思いつつ、尊のきれいな横顔に見惚れた。清田とはあまり似ていない。清田の方がワイルドな感じだ。尊はもう少し丸い輪郭をしていたら女性でも通りそうだ。

「お父さん本当に戦国武将がお好きなんですね」
「祖父さんが好きだったからね、親父本人も新九郎だし」
……すみません、それは誰ですか」

中学時代、成績は悪くなかった。けれど、遠くの学校に通うのが嫌で湘北に入った。おかげで今は良い成績をキープし続けている。なのに、知らないことばかりで少し恥ずかしくなってきた。確か新九郎なんて教科書には出てきてなかった気がするんだけどな……

「斎藤道三」
「えっ?」
「美濃の蝮、斎藤道三。まあ、名前をころころ変えた人だから新九郎もそのうちのひとつだけど」

斎藤道三なら聞いたことがある。聞いたことがあるが、正直何をした人かはまったく思い出せない。だが、大きな歴史のターニングポイントには関係のない人だったんじゃないか。でなければテストに出てくるはずだ。

「誰だっけって顔してるね」
「す、すみません、日本史は詳しくなくて」
「簡単に言うと、織田の方の信長の、嫁の、お父さん」
「へえええ」

本当に簡単な説明が出てきたので、は思わず感心して声を上げた。尊はまた微笑む。美しい。だが、ははたと止まる。ていうかなんでこんな話してるんだっけ。尊さんと話していると日本史に詳しくなるかもしれないが、ええと一体。

がこんがらがっているのに気付いた尊は、信号で止まるとまた優しい笑顔を浮かべての顔をのぞき込んだ。の心臓がどきんと跳ね上がる。なんてきれいな人なんだろう。

ちゃんて面白い子だねえ。信長にはもったいないなあ」
「付き合ってませんてば」
「あっ、そうだっけ。じゃあオレと付き合う?」

は頭の中で何かがドカンと音を立てて爆発したような気がした。

「あはは、冗談だよ。ごめんごめん」

こんなに心臓に悪い冗談は生まれて初めてだった。があまりにもうろたえるので、尊はあまり笑顔を振りまかず、それからは当り障りのない話をしてくれた。

19歳、大学生で、デザインの勉強をしている。デザインと言っても、工業デザインの方で、おしゃれにはあまり興味がない。髪型や服やアクセサリーは女友達が見繕ってくれるので、それを言う通りに着ているだけ。弓道は高校で誘われて入部し、県大会で上位に入ったことがあるけど、続けたいとは思わなかった。

「信長みたいに夢中になれなくてね。好きなことも全部広く浅くだし」
「わ、私もそんな感じです。やりたいこともよくわからなくて」
「オレが高1の頃なんて生きてるか死んでるかわからないくらいボーッとしてたよ」

徐々に自宅に近付いて来て、窓の外の景色が見慣れたものになっていく中、その景色の中に尊がいることが不思議で、しかしは終始ぼんやりしている尊に親近感を感じていた。こんなにきれいな人でも、私と同じように夢中になるものがないんだ――

一週間後、は少し酔っ払ったような浮遊感を感じながら、清田家のたくさん車の並んだ駐車場の前に佇んでいた。手には清田母から借りたワンピースと、お礼代わりのお菓子が入った紙袋がぶら下がっている。は言われた通りにバーベキューをしているという日曜の清田家にやって来た。

清田に先日のことを報告しなければならないかとも思ったが、あの様子では両親から事細かく聞かされているだろうし、そもそも清田の連絡先を知らなかった。海南に知り合いはいないし、手元にあるのは粗品のタオルだけ。桜木に聞いてみようかとも思ったが、連絡先を知っている可能性は低そうだ。

それに、もしかしたら、また尊に会えるかもしれないという期待もあった。ユキにも会いたい。

そうして一週間が経過する頃には、だいぶ清田のことを忘れていた。

「あれ、ほんとに来たの」
「あっ、こ、こんにちは」

庭で開催されているらしいバーベキューだが、そうするとインターホンを鳴らしても気付かれないので、どうやって入っていこうかとウロウロしていたの背後から、尊のぼんやりした声が降ってきた。勢いよく振り返ると、今日もかっこいい尊がだらりと傾いて立っていた。手にはコンビニのビニール袋。

「お借りした服を返そうと思って。だけど、お家の中に誰もいらっしゃらないんじゃと……
「コンビニ行く前ならオレがいたんだけどねえ」

今日の尊はノースリーブのインナーに、透けてヒラヒラした布が幾重にも重なるプルオーバーをだらりと着ている。髪もぼさぼさだ。だが、それがなんでこんなにファッショナブルに見えるんだろう。足元なんかヨレた雪駄だ。なのに、とんでもないオシャレ上級者に見えてくる。

「信長いないけど、いいの?」

無表情の尊が首を傾げてぼそりと言う。その瞬間はここが清田の家で、自分はそもそもは清田の知り合いなのだということを思い出して顔が熱くなった。何しろ清田と過ごした時間より、彼の両親と兄と過ごした時間の方が長い。喋った量など比べ物にならない。

清田に連絡をした方がいいんじゃないかと思ったのは、週明け2日くらいなものだった。連絡がつかないなと思った瞬間から清田のことはどうでもよくなっていた。今日ここに来たのも、服を返さなければいけないというよりは、また尊や清田の両親とユキを挟んでわいわい話をしてみたかったからだ。

「服、返しに来ただけなので、大丈夫です、すぐに帰ります」

清田の都合なんか一切考えてなかった。それに思い至るとはものすごく恥ずかしくなって、また顔が熱くなってきた。だが、そう言ったの肩に尊の手が静かに触れた。

「少しくらい食べていけばいいのに。ユキもいるよ」
「え?」
「よかったね、オレが酒飲む前で。また送って行ってあげるよ」

は素っ頓狂な声を上げて肩をすくめた。尊は一体何が言いたいんだろう。弟の知り合いという前提があるのに本人がいなくても来ちゃうんだ、と呆れられているのかと思ったのに。ぼんやりした顔の尊はそのままの背を押して歩き出した。はわけがわからなくなりつつも、黙って着いていった。

「あらー! 何よ、迎えに行くって言ったじゃないの。歩いてきたの?」
「こ、こんにちは、バスで来ました。あの、お洋服、ありがとうございました」
「まー、律儀ねえ。お父さん、ちゃん!」

まだ尊の手が背中にあるは緊張で声が上ずる。清田の両親と兄に囲まれたは撫でられたり質問攻めにされたりしているうちに、また緊張が解けてきた。ここが清田信長の家だという意識がどんどん薄らいでいく。自分は清田夫妻と清田尊の知り合いなのだという感覚になっていく。

はエンドレスで撫でてくれる人間、という認識らしいユキも尻尾をブンブン振り回して擦り寄ってくるし、よちよち歩きの子供がいたり、例の派手な清田の祖母がいたり、いかついバリアート坊主のお兄さんがいたり、オレンジの筋盛りのギャルがいたり、なんだか人のテーマパークのような気がしてきた。

ごくごく一般的な会社勤めの父と専業主婦の母の間に生まれ、ひとりっ子、祖父も小さな会社勤め、祖母は典型的な昭和の主婦、叔父や叔母も同様でいとこは軒並み自分と同じような特筆すべき何かがない中高生。そんな中で育ったにとって、このバーベキューパーティーは刺激が強い。

世は嫌煙ブームのはずだが、バーベキューの煙より煙草の煙の方が多い。小さな子供もいるが、誰も彼もバンバン吸っているし、それに老若男女は関係ない。総白髪に紫ラインの清田祖母もスパスパふかしている。聞こえてくる言葉遣いは乱暴だし、話の内容は実に低俗だ。

本音を言えば、慣れない世界は少し肌に気持ち悪い。チクチクと細かい棘が刺さるような怖さもある。けれど、なぜかそれが気持ちよくなってくるのだ。はそんな感覚が癖になり始めていた。そしてそれは、背中にある尊の手も同じで、緊張はいつしか快感に変わる。

「尊まだ飲んでなかったわよね、ちゃん帰りはまた送って行ってもらいな」
「そんじゃ尊は今日はノンアルだな。ちゃんはイケるクチか?」

そしてはもちろん尊もギリギリ未成年だというのに飲酒が当然のこの空気。一応家では冠婚葬祭でもない限り飲酒は許してもらえないことになっているので、は清田父の突き出したビールを辞退した。すると割り箸と紙皿とジュースが次々と出てきて、紙皿はあっという間に肉やら野菜やらで山盛りになった。

「肉、ユキに取られないように気をつけなよ」
「あの、私今日は帰れるのでお酒、飲んで下さい」
「大丈夫大丈夫、別にオレ飲みたいのを我慢してるわけじゃないから」

人が多いので清田父母はすぐにの側を離れてしまったが、尊はそのまま残ってくれた。というか背中にあった手が離れただけで、なんだか距離が近くてはドキドキしっぱなしだ。右側に尊、左側にユキで、はせっかく盛ってもらった肉も野菜も箸が進まない。

その上、オレンジの筋盛りが鼻にかかった甘ったるい声を上げてふたりのところに寄って来た。どうやら清田家の営む工務店の従業員の嫁らしいが、尊と仲がいいようだ。露出の多いドレスのような服に盛りヘア、ピンヒールとココナッツの濃厚な匂いには目眩がする。

かと思えば今度は強面の小父さんが寄ってきて尊の彼女かとからかい始めた。これは清田父の友人で尊たちを小さい頃からよく知る人物だそうで、一応信長の方の友達なのだとは言ったが、今度は信長の彼女として記憶されてしまったらしい。

ちゃん、こういうの、慣れないんじゃないの」
「は、はい、すみません」
「謝ることないけど……つらくない?」
「いえ、平気ですけど」
「そっか、そんならいいけど。慣れないと怖いだろ」

言いながら、なんとか山盛りバーベキューを突付いていたの唇の端を、尊は指でちょんとつまむ。

「ついてる」

はまた頭が爆発したような気がしてぐらりと傾く。一体この尊は自分をどうしたいというのだろう。家がこんな様子だから、人馴れしているのはわかる。それは清田も同じだ。だが、バスケットが上手いことを除けば清田は普通の高校生という気がするけれど、尊はなんだか普通の大学生とは思えない。

ぼんやりしていて、美しい顔は表情に乏しく、次に何をするのか行動が読めない感じだ。そのくせ言葉だけを拾い上げれば、とても優しくてずっとを気遣ってくれているようにも見える。

爆発した脳内をなんとか宥め、は尊とのんびり喋りながら清田家の縁側に座っていた。ユキがたまにやって来ては紙皿の匂いを嗅ぎ、尊に怒られる。そのユキを撫でてやり、また話す。

話はやがて尊が大学で学んでいるという工業デザインの話になってきた。難しいことには触れず、尊は部屋の中にあるもののデザインが悪いと気分が悪いのだと言って微笑んだ。

「日本では一般的じゃないんだろうけど、オレはモノだけじゃなくて部屋の中もやりたいんだよね」
「お部屋の中をデザインするんですか」
「極端な話なんだけど、ティッシュの箱のデザイン、あれなんか最低だと思うんだ」

天使のような顔でティッシュの箱だなどと言うので、はつい吹き出した。

「笑ったな。だけど、どんな部屋ならあの箱のデザインが馴染むと思う?」
「どんな部屋でも馴染むように考えられてるんだと思ってました」
「君の部屋には馴染んでるの?」
「いえその、元々統一性もないですし……
「そこなんだよね。日本人はプライベートルームを蔑ろにしすぎてるよ」

尊はまたゆったりと微笑み、枯草色の前髪を指で払いながらをちらりと見る。

「小学生の時、誕生日にMP3プレイヤーを買ってもらったんだ。ピカピカの黒の。嬉しくて嬉しくて、自分の机の一角を片付けて、そこに置くことにしたんだ。だけど、その真横にティッシュの箱、漢字ドリル、キャラクターものの置き時計。なんだかものすごくイラッとしたんだ」

以来尊はそのMP3プレイヤーが殺されないデザインを求めて部屋を改造し始めた。まだ小学生だったので一気にとはいかなかったが、とりあえずカバーが出来るものは1つずつ同系色のものをかけてまわり、MP3プレイヤーのデザインを邪魔しない空間を作っていった。

「中2の終わりくらいかな、やっとカーテンを取り替えた時は嬉しかったな。それこそ小学生の時に付けたペンギンのシルエットのカーテンだったもんだからね」

少々病的だなという気はしたが、顔がいいので嫌悪感はなかった。むしろこの顔で汚部屋だったら悲惨だ。は尊の美学に触れたような気がして、胸のあたりがキュンと疼く。同級生の男の子とはこんな話出来ないだろうなと思うと、余計に。

「そう言われてみると、部屋を快適に過ごせる空間にしようとか、考えたことありませんでした」

尊ほどこだわるつもりはないけれど、確かに中1の時に架け替えたピンク地に赤ドットのカーテンは子供っぽい気がしてくる。ベッドのファブリックもクッションもラグも、どれもそのものだけのデザインを見て買ってもらった。統一性はまるでない。

「自分が一番自分らしく過ごせる部屋じゃなかったら、ストレス溜まると思うんだよ」
「ほんと……そうですよね。わー、模様替えしたくなって来ちゃいました」
「善は急げ、出来ることからすぐ始めるのをお勧めするよ」
「何かポイントってあります?」

思えば部屋の模様替えなどしたことがない。小学校入学の時に買ってもらった学習机も現役、ベッドを大人用のものに買い替えた時に、少し配置をずらした記憶があるだけで、は首を傾げた。すると尊はまた優しく微笑んでちらりとを覗きこんだ。

「オレの部屋、見てみる?」