ミスラの海

16

その日、三兄弟の内で一番早く帰宅したのは頼朝だった。早いと言っても18時頃のことで、たまたまこの時間に帰宅してきた彼は、珍しく家の中に人がいないこと、そしてユキがケージに入れられているのに気付いた。ユキをケージから出してやり、ダイニングに向かった彼は、母親の書き置きを見て何度か頷いた。

「お通夜に行っています、ユキの散歩とごはんをお願い」という書き置きを見た頼朝は、とりあえず着替えてユキの散歩に出た。この清田家における犬の躾担当は頼朝で、マサはともかく、晩年のコマとユキは頼朝の指導のもと躾けられた犬だ。なのでユキも、頼朝と散歩の時は大人しい。

40分ほど近所を歩いてきた頼朝が帰ると、尊が帰宅していた。書き置きはそのままにしておいたので、尊もリビングで寛いでおやつなどもぐもぐやっていた。両親揃って通夜ということは、遅くなるに違いないので、少し腹の足しにしておこうと思ったのだろう。

「なあ、夕飯どうすんのー」
「どうすんのって、その辺にあるもの食べておけよ」
「えー。オレ、カップ麺とか嫌なんだけど」
「じゃあ買ってくればいいだろう。オレは作らないぞ」

ユキに餌をやりながら頼朝はふんと鼻を鳴らす。尊は遠慮せずに甘えるが、頼朝は一切甘やかさない。彼は、自分で出来ることを人にやってもらいたがる人間を認めない。ましてや自分は兄で、父や母ではない。

「じゃ、出前とか」
「オレはいらないよ。後で外で食ってくる」
「えー、じゃあオレも行く。焼肉食べたい」
「ひとりで行くんだよ。もう大人なんだから夕飯くらいどうにかしろ」

頼朝が部屋に行ってしまったので、尊がそのままリビングでだらだらしていると、20時前頃になって清田が帰宅してきた。それを潮に頼朝はひとりで車で出かけ、次男と三男は仕方なくその辺に積まれている菓子パンやらカップ麺やらで空腹を満たすしかなかった。

「てか親父達がお通夜なのはわかったけど、なんでばーちゃんまでいないん?」
「知らな〜い。帰ってきた時は頼朝しかいなかったし」

の件では最悪に険悪な状態だった次男と三男だが、次男の方は事情を知るだぁに延々諭されて落ち着き、三男の方は当人と相思相愛になったことで落ち着き、おそらくお互いにわだかまりはあるはずだが、普段の生活ではそれを持ち出したりしないで過ごせている。どちらも外面はいい方だ。

21時をゆうに過ぎた頃になって頼朝が帰宅、まだ両親が帰らないせいではあるまいが、なんとなく三人兄弟はリビングで喋っていた。ぶーちんとだぁが子作り解禁になっただの、今年の海南の様子だの、話は他愛もない。

そこへやっと両親が帰ってきた。車の音を聞きつけるなりユキが吠える。ユキが暴れるので、首輪を押さえながら頼朝が玄関まで着いて行くと、ちょうど玄関先で喪服の両親が塩を振りまいているところだった。というか、所在の知れなかった祖母も一緒に帰ってきた。

「あたしはもう休みますよ」
「あとでお茶届けるからね」
「ばあちゃんはヘイさんとこ行ってもらってたんだ」
「それも書いておけよ。連絡付かないし、心配したんだぞ」
「すまねえな、慌ててたもんで。……頼朝、尊と信長いるか?」
「リビングにいるけど」

清田父は長男の肩を掴むと、ユキを促してリビングに入る。

「おかえり〜。遅かったね」
「てか、ばーちゃんどうしたよ」

尊と清田の言葉に頷いた父は、頼朝を座らせ、後ろから入って来た清田母に目配せをした。

「信長、ちょっとこっち来い」
「オレなんにもしてないけど」
「いいから来なさい」

リビングのソファの傍らに立った父に呼ばれた清田は、ぴょこんとソファから起き上がると、憔悴している母の前に立った。清田母は三男の両腕を掴み、優しく何度か撫で擦ると、ゆっくり見上げて口を開いた。

「信長、落ち着いて聞いてね。ちゃんのお父さんが、亡くなったの」

清田家のリビングは一瞬で凍りついた。勘のいいユキは頼朝の足元で伏せて、上目遣いに家族を見上げている。三兄弟は声も出ない。清田母の目から涙がポタリと零れ落ち、彼女は音を立てて鼻を啜った。

「今日の昼頃、さんと名乗る方から電話があって、洗面台の工事、中止して欲しいって言うの。だけどもう発注しちゃったし、ヒビは結構深刻だからって言おうとしたら、不幸があってそれどころじゃないって言うのよ。お母さん驚いて、どなたがって聞いたら、ちゃんのお父さんで、事故で」

数日前から地方都市に出張に出かけていたの父親は、そこで事故に巻き込まれた。事故直後はまだ息があったそうだが、3日前の早朝に死亡が確認された。そして昨日の朝に帰宅、本日やっと通夜となったという。

「あんまり話せなかったけど、何でも力になるからって、言ってきた」
「通夜って、家でやんの」
「いや、近所のセレモニーホールだよ」
「それってどこ」
「もうお通夜は終わってる。こういうのは親しくても他人は遠慮しなきゃいかん」
「オレは他人じゃねえ!!!」
「他人だ!!!」

母の手を振り払った清田が吠えると、清田父の猛獣のような怒声が響き渡った。構わずリビングを出ようとした三男を父は取り押さえる。新学期の身体測定にて183センチを記録した清田だが、189センチで100キロ弱の父にはまだ勝てない。腕から逃れようとしたので、父は制服を掴んでソファに投げ飛ばした。

「ガキみてえなこと言ってんじゃねえ、お前がしゃしゃり出て何が出来るっていうんだ」
「何をするとかしないとか、そういうことじゃねえだろ!」
「お前のところに本人から連絡があったか!? なかっただろうが! それが他人の証拠だ!」

清田はソファにひっくり返ったまま黙った。連絡はなかった。

「信長、耐えろ。お前は他人だし、子供だし、何をしてもそれは余計なことだ」
……だけど、はきっと泣いてる」
「そんなの当たり前だ。親亡くしてんだ、泣くに決まってんだろうが」
「ひとりで、泣いてる、オレがいないと、ずっとひとりで泣いてるんだ!」

起き上がって叫んだ清田は父親に横っ面を叩かれて、再度吹っ飛んだ。

「だからお前はガキだって言うんだ。人が死ぬっていうのはそういうことなんだよ。悲しみのどん底で苦しんでる家族が通夜をやり葬式をやり、オレたちのような他人に故人がお世話になりましたと礼を言い、頭を下げなきゃならん。誰よりつらいのに、そうやって我慢しなきゃならない」

清田母がたまらずに声を上げて泣き出す。尊がダイニングに座らせると、また音を立てて鼻を啜った。

ちゃんがひとりで泣いてる? 思い上がるな。あの子にだって母親がいて祖父母がいて、血の繋がった親類縁者がいるんだ。お前がいなくたって、ちゃんは立派に通夜の席に座ってた。それをお前が突っ込んで行ってみろ、母親を支えて頑張ってるちゃんの糸が切れたら、どうなると思う」

清田は両手を強く握りしめて俯く。そうじゃない、ただの支えになりたいだけで――

「お前がちゃんのところに行きたいのは、ひとりで泣いてるかもしれないあの子を慰めて笑わせて、そういうちゃんを見ることで自分が安心したいからだ。ちゃんがこの年で親を送り、お母さんと残されてしまったことはもちろん可哀想だけど、あの子の運命なんだ。今はその入り口なんだよ。信長、ちゃんが連絡を寄越してくれるまで待て。お前をどうでもいいと思ってるから連絡がないわけじゃない、耐えろ」

そうして清田父はまた三男の肩を掴むと、無理矢理ソファに座らせた。

「事が落ち着いたら……うちでちゃん預かれないかしら……
「母さんまで何言ってんだ」
「落ち着いたらって言ってるでしょ。うちなら部屋があるし……庭に増築してもいいじゃない」
「母さん落ち着け、母親がいるのに、そんなことする必要ないだろう」

清田母もあまり冷静ではいられない様子だ。尊に背中を擦ってもらいながら、鼻を鳴らしている。

「あの、ごめん、話見えないんだけど、信長?」
「ああそうか、頼朝たちは知らなかったんだよな。ノブ、ちゃんと付き合ってるんだよ」
「え!?」

尊の方は薄々気付いていたのだろう、驚いた様子はない。だが、本人なりにへの思いがあった頼朝は驚いて声がひっくり返った。しかし、とりあえずそれは後回しだ。頼朝は咳払いを一つして動揺を飲み込む。

「祖父ちゃんの時は、どれくらいで落ち着いたっけ」
「働き盛りの男だからな。隠居の身の年寄りが死んだのと同じようにはいかないよ。もちろん寝る間もないほど忙しいわけじゃないだろうが、諸々全て片付くには1ヶ月位かかるんじゃないか。それだって、残されたちゃんたちが今後どうするのかって話はそこからだ。学校の忌引だって親なら1週間位だしな」
「確かに親父の言うようにオレたちは他人だから、できることにも限りがあるだろうけど、何かないのかな」

頼朝はメガネを押し上げながら、真剣な目をしている。

「そりゃあ、向こうから助けてくれって言い出すまで、耐えることだ。こっちが勝手に想像して頼まれてもいないことをやったらいかん。それは余計なお世話っていうんだ。そうやって我慢して、とうとう力になってほしいと言われたら、全力で応えてやればいいんだ」

冷静に提案したつもりだった頼朝はかくりと頭を落として俯いた。

ちゃんはいい子だ。本当に可哀想だ。だけど、あの子を大事に思うんだったら、我慢するしかないんだ。いいか、絶対に余計な真似をするんじゃないぞ。それがあの子への礼儀だ」

清田父も、髭を震わせて声を詰まらせた。清田家の人間は全員、のことが好きなのだ。

その後一晩かけて父親に懇々と諭された清田は、気持ちが落ち着いたこともあって、に会いに行ったり、しつこく連絡を取ったりしないと父親と約束した。それでもその日の寝る前には、「愛してる」と一言だけメッセージを送った。大げさな言葉という気がしたけれど、それしか思いつかなかった。

更に翌日には、と連絡取れないんだけど、とぶーちんが清田家にやって来たので、息子たちは親に丸投げ、ぶーちんも清田父にくどくどと説教される羽目になった。

「てか、いつの間にぶーとも仲良くなってたんだ」
「色々あったからな」
「色々って……全然話が見えないんだけど」
「見えなくてもいいだろよ、関係ないんだから」
「そんな言い方――

尊がだぁを連れて部屋に引っ込んだので、ぶーちんが清田父にグズグズ文句を言っているのを眺めつつ、長男と三男はお互い顔を合わせずにダイニングでぼそぼそと喋っていた。

のこと気に入ってたんだろ」
「そういうわけじゃ……
「自分好みの女に育てようとした?」
「な、なんてこと言うんだ。勉強見てやってただけだろ」

もちろん事実としてはそうだ。だが、どこかしどろもどろの頼朝の声に、清田は返事をしなかった。水戸の言うように、は単純で世間知らずだ。そんなが自分の言うままに変化していくのは楽しかったに違いない。それはきっと尊も同じだっただろう。

「だからもう関係ないだろ、勉強見てただけだし、去年の期末、ひどかったんだし」
「あれは――
「具合悪くてやつれて、だけどお前のために頑張ってテスト受けたってのに、可哀想に」
「具合悪いって、生理くらいでそんなこと言ってたら何も出来ないだろ」
……が生理だっつったわけ?」
「いやそうじゃないけど、そんな急に具合なんて悪くならないだろ」

頼朝はまるで悪びれない顔で首を傾げている。清田は呆れてため息をついた。

「女性なら誰だってあることなんだし、みんなそれでも頑張ってるんじゃないか。病気じゃないんだし」
「すげーな、典型的か」
「さっきから何だよ、偉そうに」
「そりゃそっちの方だろ。お前生理になったことあんのかよ」

清田は思わず吹き出す。身内では頭脳明晰で通っている頼朝だが、バカで通っている清田でも呆れるほど前時代的な価値観でものを言い出した。というかこんなこと父親でも言わない。一体頼朝はなぜこんな思考を持つに至ったのだろうと気にはなるが、聞いても楽しくなさそうなので、追求するのはやめておく。

「もういいじゃん、期待した結果にはならなかったんだし、オレの女なんだし」
「そ、それはわかったよ。オレなりに心配してるだけじゃないか」
「それ我慢しろ言われただろーが、ぶーちんは粘ってっけど」

ぶーちんは、冠婚葬祭の時は女手がいるものだとぶちぶち文句を言っている。それは間違いではないかもしれないが、とりあえず彼女も故人とは遠い他人である。娘しか面識のない人間が突然混ざっても混乱するだけだ。

「お前がどれだけ役立つか知らんけど、が助けを求めてくるとは思えないね」
……そんなのわからないじゃないか」

7つも年下の弟に割と理屈で返されてしまった頼朝は、渋い顔で不貞腐れた。

かつてないほどに兄を言い負かした清田だったが、父親の読みより一週間ほど早い5月末、とうとうからヘルプが届いた。清田のところにもちらほらと「会いたい」だの「大好き」だのとメッセージが届くようになっていたけれど、彼女が助けを求めてきたのは、清田父母にであった。母親の具合が悪く、親戚ともめているという。

ちゃん、大丈夫だったのか」
「ちょっと待って、お茶飲ませて。尊、お願い」

直接連絡が来たのですっ飛んでいった清田母は、途中から合流した夫とともに帰宅するなり、げっそりしてソファにひっくり返った。尊が淹れてくれたお茶を啜ったふたりは、揃って盛大にため息をついた。

「元々旦那さんの方のご親戚と上手くいってなかったみたいで……
「またこれが、ちょっと性根の悪そうなのが揃ってんだな、ご主人方に」
「小父さんはそんな感じじゃなかったのにな」

三兄弟の中では唯一、の父と言葉を交わしたことのある頼朝がしょんぼりしている。

ちゃんは一応元気そうだったけど、お母さんがものすごく参っちゃっててな」
「いよいよちゃんひとりの手に負えなくなってきてて」
「そりゃあそうだろ、まだ高校生なんだから……

清田父母によれば、元々の母が気に入らない父方の縁者による精神攻撃と、夫の死の後始末と、自分たちの今後を考えなくてはならないのとで、の母はあまり冷静な状態にないという。はそれをどうしたらいいかわからず、しかし身近に頼れる大人の女性がいなかったので、清田母に助けを求めてきたわけだ。

「親戚の件もそうだけど、奥さん、あんまりいい状態じゃないわ。できれば病院にかかった方がいい」
「そんなに?」
「そんなに。今、親戚の対応も後始末も毎日の家事も、ちゃんがひとりでやってるのよ」

三兄弟は一斉に「ハァ!?」と憤慨した声を上げた。それを学校行きながら?

「どうやらあの家を狙ってるらしいんだな、ご主人の親戚連中」
「ちょ、そんな映画やドラマじゃあるまいし、狙っても簡単に手に入るわけでは」
「だけど都合よく相続人が参っちゃってるし、あとは高校生の娘ひとりだ」
ちゃんのお母さんの方のご親戚はどうなの〜」
「遠いのと、少ないのと、やっぱり付き合いが薄いみたいで」

父方の親戚連中は、母子ふたりにこんな広い家はいらないだろう、後始末はやってやるから引っ越せとしつこいのだそうだ。何しろの母は夫の死のショックだけでも相当なもので、げっそりと痩せてしまっているという。は今のところ正気を保っているけれど、如何せんまだ子供の内だ。対抗しきれない。

「一応状況は把握できたから、明日から私、しばらくちゃん家に通うわ」
「頼朝、法学部の知り合いいたら押さえといてくれ。法的なことを聞かれるような」
「わ、わかった」

直接的にも間接的にも役に立ちそうにない清田と尊は返事もせずに黙っていた。確かにこれでは力になれそうもないし、忙しいを支えてやるにしても、今は騒動の渦中なので、のんびり慰めれられている暇もあるまい。案の定、一応彼氏である三男を差し置いて、ぶーちんが招集された。

とは電話でも話さず、文字だけのやりとりのまま、清田は今年も予選を勝ち抜き、無事にインターハイへの切符を手に入れた。に見に来てもらおうと思っていた、神奈川県予選の決勝リーグ、沸き返るスタンドのどこにも、彼女の姿はなかった。