まだ父方の親戚が帰らないというので、は行くあてもなくて街へ戻った。コートの下は尊に荒らされたまま、涙もろくに拭いていなかった。だが、ずっと俯いていたので、すれ違う人々にそれを気付かれることはなかった。そんな風にとぼとぼと歩いていたは、自分の名を呼ぶ甘ったるい声に足を止めて顔を上げた。
「なんだっけ、ノブの彼女だっけ? ぐーぜんだねー」
初めて清田家のバーベキューに行った時にいたオレンジのスジ盛りだった。今はピンクブラウンのハーフアップで、やはり細いピンヒールを履いていた。どこからどうみても夜のお仕事のお姉さんという雰囲気だが、それにしてはぬいぐるみにストラップの付いたポシェットが異様である。
「い、いいえ、私、清田くんは」
「あれえ、そうだっけ。あたしバカだから覚えてないかもー。みこっちゃんてことはないだろしー」
彼女は舌っ足らずな声で喋っていたが、「みこっちゃん」という言葉にが反応したのに気付くと、ぐっと顔を寄せてきた。ブルーグレーのカラーコンタクトが迫ってきたは、つい身を引いた。ココナッツの濃厚な香りが鼻につく。
「……泣いた跡があるね。もしかして、みこっちゃんに何かされた?」
言葉は出なかった。何か言うつもりもなかった。だが、涙が溢れてきた。
「やだマジでー。んもー、ちょっとおいでー」
強く手を引かれたは、よろよろと引きずられていく。ココナッツの香りの彼女は携帯を取り出すとどこかに電話をかけ、その甘ったるい声でなんだか怒っている。
「もっしもーし、ねー、みこっちゃん捕まえといてえ。うん、またやったー。ほら、バーベキューん時にいた子ー。あたしが送って帰るから、だぁはみこっちゃんお願いねえ」
はその言葉をぼんやりと聞きながら引きずられていく。またやった――尊さん、あなたは一体――
駅から続くメインストリートをしばらく引きずられ、一本横道に入ったところにある喫茶店には連れ込まれた。喫茶店と看板に書いてあるけれど、見た感じはカフェチェーンのようだし、中は女性でいっぱいだ。店員も女性、内装はガーリー趣味、もしかしたら彼女の行きつけなのかもしれない。
「ロフト席借りたいんですけどお」
店の奥には中二階があり、ソファが設えられた暗い席になっていた。そこに押し込まれたは、コートを着たまま体を縮めた。中は色々はだけたりしたままで、脱ぎたくなかったのだ。
オーダーが決まったら呼ぶから少し待って欲しいと頼むと、彼女は自分のことを「ぶーちん」と名乗った。言いながら、鼻の頭をゴテゴテのネイルの人差し指で突く。言われてみれば確かに少し鼻が上向きになっているかもしれない。それに、足は細いけれど、上半身はふくよかで胸も巨大、その上色白で、そんなあだ名になってしまうのもわかるような気がした。
「ぶ、ぶーちんさん」
「はいだめー、やりなおしー。敬語もだめー」
「だ、だけど、私」
「甘いの飲もうか。何か食べられる?」
は忙しなく首を振った。とてもじゃないが何かを食べられそうにない。
「だーよーねー。なんでもいいー? 牛乳アレとかある〜?」
が微かに首を振ると、ぶーちんは階下を覗き込み、キャラメルミルクをふたつ、と声をかけた。
「えっとお、こんなこと聞いてごめんだけど、最後までしちゃった?」
「い、いいえ」
「てかちゃんて処女?」
「え、あの、はい」
「途中で逃げられたの〜?」
「きよ――信長くんが帰ってきて、それで」
清田のことを思い出すと涙が出てくる。あんな姿を見られて恥ずかしい、せっかくの忠告を無視してしまって申し訳ない、彼のプライベートを騒がせてしまって申し訳ない。ぶーちんはぬいぐるみポシェットからピンクラメのポーチを取り出すと、たばこを引き抜いて火を付けた。
「ノブにも見られちゃったのかあ〜。それは可哀想だったね」
だが、ぶーちんはあまりを哀れんでいる様子には見えなくて、はぎゅっとコートを掻き合せる。
「えっとお、あたしねえ、みこっちゃんとは幼馴染なのね。だぁも同じで、小学校からずっと仲良しなの」
ぶーちんは携帯をいじり、写真を見せてくれた。金髪のぶーちんと、いかついバリアートのお兄さんが顔をくっつけて写っている。「だぁ」というのが彼のことらしい。いわゆる「ダーリン」のことだろうか。
「それでぇ、だぁが今小父さんとこでお仕事してて、だから清田の家とはすごく近くて」
はこのぶーちんを「従業員の嫁」と紹介されたことを思い出した。ということは、ぶーちんとだぁは尊と同じ19歳だが、既に結婚しているということか。そう考えてははたと止まる。ぶーちん、一応まだたばこはだめじゃないの……
「でね、こんな時だから言っちゃうけど、実はぶーちんもみこっちゃんにやられたことがあるのです」
鼻から勢いよく煙を吹き出したぶーちんの言葉には顔を跳ね上げた。何だって!?
そこへキャラメルミルクが届いたので、ぶーちんは言葉を切る。白地に金とピンクのやたらとロココなカップに入ったキャラメルミルクから湯気が立ち上っている。ぶーちんは一口飲み込むと、ゆるりと微笑んだ。
「まあ、あたしは初めてじゃなかったし、ちゃんほどショックじゃなかったし、ふつーに最後までしちゃったけど、ほら、みこっちゃんて、顔はちょーかっこいいし。だけどさ、特にあたしの場合はだけど、ノリっていうか勢いっていうか。これがね、どんな風なのかなって思ってたんだって」
そう言ってぶーちんは両手で巨大な胸をゆさゆさと揺らした。
「だけどあたしは、みこっちゃんはあたしのこと好きで、付き合ってくれるんだと思ってたの。でも、なんかそんな風にならなくて、おかしいなーって思ってたら、みこっちゃんふつーに別の女連れ込んでて。あっれ、なにこれ、あたしみこっちゃんのはけ口にされただけーってなってさ」
の顔色が悪くなったのを見て、ぶーちんは苦笑いをする。
「ねえちゃん、ポリガミーって知ってる?」
「ポ……いいえ」
「外国でさ、奥さん何人もいる人とかいるじゃない、ああいうのらしいんだけど、あたしも頼朝ちゃんに教えてもらったんだけどね、それでね、ポリガミーてのはそういう結婚のことで、恋愛だとポリアモリーって言うんだって。つまりね、みこっちゃんて、それなの」
はまた頭が真っ白になった。それなの、って、そんなこと許されることじゃないじゃないか。ここは一夫多妻が許された国じゃない、そうせざるを得ない社会状況にもない、というかそれは「浮気」とか言うんであって、ポリガミーだかポリアモリーだか知らないが、とんでもない話だ。重篤なモラルの欠如じゃないか。
「オカシイんじゃないのって思ってる?」
「あ、当たり前じゃないですか……そんなの、そんな非常識な」
「ちゃん、世の中には色んな人がいるんだよ」
「はあ?」
「みこっちゃんはさ、あーいうボンヤリした子だから、小さい時からいつもポツンとしててさ」
優秀な頼朝、明るく人懐っこい信長、その間で尊は静かにじっとしている子だったとぶーちんは言う。
「顔はきれーだけど、だけどそれだけでさ、みこっちゃん、あんまり構ってもらえなかったんだよね。だからポリになっちゃったんだろうと思うんだけど、だからね、ちゃんにはわからないかもしれないけど、みこっちゃん、それはそれで、あたしのこともちゃんのことも本気で好きだったんだよ」
キャラメルミルクにも手を付けず、コートを掴んだままのは首を傾げた。意味がわからない。
「あたしたちはさあ、誰かひとりの彼氏がいたら、それでペアで、それが付き合うってことで、恋愛じゃない? だけど、ポリのみこっちゃんは、その『ペアの恋愛』を同時にいくつも出来る人なの。だから、例えば5人の女の子と付き合ってたとしても、その中にランクとか区別とかなくって、全員同じだけ大好きな彼女になっちゃうの」
――無理だ。理解の及ぶ世界じゃない。は目眩がした。
そして、尊の言葉が耳に蘇る。
ひとつにしようと思うと迷うけど、ふたつにしておけば悩まなくて済むでしょ。
甘くて柔らかいものって、幸せにならない?
そういうのに拘ってたら、永遠に誰かと喧嘩してなきゃならない。
全て尊の中では同じことだったのだ。
「ねえねえ、じゃあさ、なんでぶーちんとだぁは今でもみこっちゃんと仲がいいんでしょうかー?」
にんまり笑って煙を吐き出すぶーちんを見上げたは、確かに、と思って目を丸くした。尊が少し珍しい性癖であることをぶーちんに教えたのも頼朝のようだし、一体にとっては異常とも思える尊と、今でもわだかまりなく付き合えるのにはなにか理由があるというのか。
「つまりね、みこっちゃんはポリなのでえ、あたしとやっちゃっても、それで何か変わったりしないのね。だけどさ、当時のあたしはけっこうガッカリしてて、みこっちゃん見損なったとか思ってて。そんな時に、まあその勢いもあって、だぁと付き合い始めたの。したら出来ちゃってさ」
ふんふんと頷きながら聞いていたは、ぶーちんが腹を撫でるので、思わずむせた。てかそれいつの話!? それに子供いるのになんでひとりでこんなところウロウロしてんだ!
「あたしたち全員17の時で、まあ怒られたよね。堕ろせー言われたし、だぁはあたしのパパにもみこっちゃんとこの小父さんにも殴られてた。その上頼朝ちゃんにも延々説教されてさあ、これが1番キツかったらしいんだけど」
ぶーちんは面白そうにけたけた笑っているが、は身震いがする。笑い話じゃない。
「けどさ、だぁはね、あたしのこと本当に好きになってくれてて、高校やめて働くから、結婚しよって言ってくれたの。お腹の子を殺したくない、ぶーちんが家の中のことなーんもしなくたって文句言わないから、一緒に暮らそうって言ってくれたの。マジ泣いたよねー」
そりゃあいい話に聞こえるが……17歳ですよね?
「だけどやっぱりみんな大反対で、まただぁは怒られた。それをね、ずーっとかばってくれて、ずーっと助けてくれたのがみこっちゃんなの。みこっちゃんも、ぶーちんとだぁの子供を殺すなんて絶対嫌だってすごく怒って、みんなが反対し続けるなら自分も高校辞めて働いて、あたしたちの子を育てるって言い出して」
またいい話っぽく聞こえるけど、未成年ですよね?
「つまりね、みこっちゃんはポリなので、あたしともちょっとエッチしちゃおうとか思っちゃう人なんだけど、『幼馴染のぶーちんとだぁ』への友情っていうか愛情っていうか、そーいうのは絶対にブレない人なの。みこっちゃんはね、愛してくれる人を愛してるだけなの。あたしたちとは、愛の大きさが違うだけなの」
大きさとか言う問題だろうかとは思うが、ぶーちんの言いたいことはわかるような気がしてきた。おそらく、が尊へ一切興味を示さなかったら、尊もに優しく接してケーキ奢ってくれたりなんかはしなかったんだろう。女の子がにこにこしながら寄ってくるから、それを受け入れただけだったんだろう。
そこではまた止まり、顔を上げた。17の時に妊娠したなら、まだ子供は1歳位じゃないのか。
「結局許してもらって、だぁの18の誕生日に結婚したんだけどね、ぶーちんとだぁのベビーは、ぶーちんのお腹の中で天使になっちゃったの。その時もね、あたしよりだぁとみこっちゃんの方がわんわん泣いてさあ」
血の気が引いたはしかし、未成年がたばこなんか吸ってるからそんなことになるんじゃないかと考え、直後にそう思ったことに自分で悲しくなった。それでもぶーちんとだぁが子供を亡くしたことには変わらない。それを蔑むようなことを一瞬で考える自分は、果たして尊のことを悪し様に言えるのだろうか。
「だぁはともかくさあ、みこっちゃん、あたしが子供産むのすっごい楽しみにしてて、男の子だったら一緒に遊んでいい? ってだぁに何度も聞いてて、女の子だったら一緒にディズニーランド行きたいってはしゃいでて、そのためにバイトまで始めちゃって、すぐ辞めたけど、まだ産まれてないだろって頼朝ちゃんが呆れるくらい」
つまり、ぶーちんは高校生の時に妊娠してしまい、だぁは結婚を決めて清田父の元で働き出したのだ。そしてだぁが18になり、入籍したと思ったら死産になってしまったということらしい。は自分の常識というものの脆さを感じ始めていた。本当に自分は完全なる常識の中にいるんだろうか。
「だってさ〜、ねえ、みこっちゃん、乱暴に襲い掛かってきたりした?」
「い、いいえ」
「好きだよー、かわいいよー、って言ってくれたでしょ」
「……はい」
「可哀想なんだけどさ、それって本気で、だけど他の女の子にも本気でそれが出来るんだよね」
は、行き場のなかった気持ちがやっと心の中で居場所を見つけたような気がした。
「だけど……私は本気じゃなかった。尊さんのこと、好きだと思ってたけど、違ったみたいで」
「あはは、わかるー! あたしも別にみこっちゃんが好きでやっちゃったわけじゃないし」
「……でも、抵抗しなかったんですよね?」
「それはほらー、その時はだぁと付き合ってなかったし、みこっちゃんに迫られたらさあ」
ぶーちんに関しては完全に合意の上だっただけだ。はつい疑問に思ったことを口にした。
「もし今また迫られたらどうするんですか」
「なくはないよー。みこっちゃん寂しいメーターがマックスになると誰でもよくなっちゃうから」
「し、しちゃうんですか、結婚してるのに」
「そんなこと言ってないでしょ、今はだぁ一筋です」
ぶーちんが厳しい顔をしたので、は驚いて竦み上がった。
「うっかりそういう時にふたりになったりしたこと、何度かあって。だけどあたしはもうだぁのお嫁ちゃんなので、そういうことはしないと決めたから。みこっちゃんが寂しいオーラ出してきても、一発殴って終わり。あとはだぁに預けて、なんとかしてもらってる。今もそうだよ。だぁがみこっちゃん捕まえてるはず」
のように不慣れだったりして拒否されてしまい、気持ちの行き場をなくした尊はそれはそれはセクシーなのだとぶーちんは言う。そんな状態で夜の街をフラフラしていると、すぐにナンパされて、すぐにどこかへしけこんでしまうのだという。だぁはそれを察知しては追いかけて捕まえて宥め続けている。
「だぁはそんなの無理なんじゃって言うんだけど、あたしはね、いつかみこっちゃんを本気で愛してくれる人が現れると思ってるの。そうしたらね、みこっちゃんのポリはなくなるんじゃないかと思ってて。その時のためにね、それまでみこっちゃんを守ろうって決めてるの」
自分たちの生まれてこなかった子供を愛してくれた尊のために。
「ちゃんは可哀想だったけど、みこっちゃんのこと、恨まないでほしいな。付き合ってない、エッチしてもいいよって言わないのに手を出しちゃったことは、今だぁが怒ってくれてるから」
は頷いた。あまりにショックだったけれど、尊を恨む気持ちはなかった。美形の王子様だと思っていた尊が手の早い寂しん坊だと知って、がっかりしただけだ。それも、勝手に尊を人格者の大人の男性と思い込んでいたからだ。やっとキャラメルミルクに手を伸ばすと、すっかり冷たくなっていた。
するとぶーちんの携帯に着信が来た。だぁかららしい。
「ちゃん、なんかもう片付いたみたいだから、だぁが送ってってくれるって」
すぐ着くというので、キャラメルミルクを飲み干したふたりは、表の通りでだぁの車を待った。やがてダッシュボードにフェイクファーが敷き詰められたわかりやすい軽ワゴンが滑りこんで来て停車した。だぁがものすごいスピードで運転席から降りてきて、驚くに向かって体をふたつに曲げ、膝に付くほど頭を下げる。バリアートの後頭部がネオンに輝く。
「ほんっとにマジすいませんっした!」
「いやあの、やめてください、あの、ぶーちんさん止めてください!」
「ぶーちんだっつってんでしょ、頭固いなあ」
ペコペコと頭を下げるだぁを押しとどめるを、ぶーちんはにやにやしながら見ている。が後部座席に乗り込むと、これまたキツいココナッツの香りが充満していた。そして車の中はワンピースグッズとダンスグループの音楽で溢れかえっている。
「ちゃんだっけ、その、大丈夫なの?」
「一応ね、未遂だったの。ノブ帰ってきたんで逃げられたみたいで」
「だからあいつあんなに荒れてたのか」
「荒れてた……?」
「君のこと追いかけたらしいんだけど、見つからなくて帰ってきたところに鉢合わせてさ」
とにかく尊を捕獲しようとやってきただぁは、部屋で抜け殻のようになっている尊を説教していた。が、頼朝が帰宅したので、だということは伏せた上で簡単に説明をし、尊を預けた。暇を告げ、ぶーちんと合流すべく清田家を出ようとしたところへ、三男が帰ってきたという。
「頼朝さんにはちゃんだってこと言わないでおいたし、ノブにもそれは言ったし、ぶーちんが一緒にいることも伝えたら、なんかホッとしてたよ。だけど、頼朝さんがみこっちゃん説教してる声が聞こえてまた機嫌悪くなっちゃって。まあしょうがないけどね、友達が怖い目にあったんだし」
は尊のことをハイセンスな大人のように感じていたけれど、この夫婦の話を聞いていると、尊などてんで子供のように思えてきた。わかりやすいデコレーションの車の中で、はまた自分の常識がぐらぐらと揺らいでいるのを感じていた。
「だけど、親方と女将さんいない時でよかったよ」
「頼朝ちゃん、ちゃんとみこっちゃん宥めてくれたかな」
「たぶんな。オレはノブの方が心配なんだけど……なあちゃん、本当にノブの彼女じゃないの?」
ふたりの声を聞きながらぼんやり車窓を眺めていたは、急に名を呼ばれてがばと身を起こした。
「はい、違います。友達というか……友達というのもちょっと違うような……」
「だけど最初はノブの友達だったんじゃないの」
「は、はい――」
がかいつまんで説明すると、だぁは途端に呆れた声で笑った。それに少しカチンと来ただったが、それでも優しいだぁの言葉に俯いて、そしてずきずきと痛み出した頭を手で強く押さえつけた。
「なのにノブを放ったらかしてみこっちゃんと仲良くしちゃったんだろ、そりゃあみこっちゃん勘違いするよ」
尊だけじゃない。は清田を顧みずに頼朝とも親しくなっていた。清田のことなど、何も考えてなかった。