ミスラの海

12

疲れていたので、完全に油断していたのだ。結局20時過ぎまで居座ったという父方の親戚が帰ったと連絡を受けたは、だぁに家の近くまで行ってもらい、そそくさと自宅に戻った。さっさと着替えてしまおうと部屋に飛び込んだだったが、コートを脱いだところで母親が部屋に入って来てしまった。

コートを脱ぎかけた娘の胸元は大きく開いて乱れており、下着から胸がはみ出し、その真ん中にはキスマークがたくさんついていた。慌ててそれを隠しただったが、母親がばっちり見てしまったからさあ大変。

親戚の相手で疲れたから外食しようかと声をかけに来たら、娘が何だかひどい有様になっていて、の母は狼狽えた。しかもよく見れば頬には涙の跡がある。これを、幸せな初体験をしてしまった娘とは思わない。母は真っ青になり、ガタガタ震えながら何があったのかと詰め寄った。

「お母さん聞いて、これだけ、本当にこれだけで、私無事だから」
「これだけ、って、この時点でもう無事じゃないでしょう、誰にこんなことされたの」
「お願い、友達が関係してることなの、私も悪かったの、だから騒がないで」

上ずる母親の声を聞きながら、はまた清田の言葉を思い出していた。オレだけじゃなくて湘北にも迷惑がかかる――これはこういうことだったんだ。親でなくとも、もしこんな風に誰かに知られ、これがもっと大きな騒ぎになってしまっていたら、元を辿って海南湘北両校のバスケット部へと行き着く。

これが本当に理不尽なレイプだったのだとしたら、無論そんなことは関係ない。だが、一応未遂に終わったのだし、は尊に好意を寄せているような素振りをずっと見せていたし、尊がちょっと珍しい性癖であることが不運だっただけだ。それに、清田に迷惑がかかることは何としてでも避けなければならない。

「みんなで一緒に勉強してたの、だけど、かっこいい子がいて、前から仲もよくて、勘違いさせちゃったの」
「だけどこんな、やめてって言えば済んだことでしょう」
「まさかこんなことになると思わなくて、ビビっちゃって、抵抗できなかったの」
――
「だけど別の友達が戻ってきたから、逃げてきた、ここだけ、ここだけなの」

は胸に手を当てて必死に食い下がった。ここで母に火をつけてはならない。

「お母さんごめん、軽率だったって反省してる。びっくりさせてごめん。私が、もっとちゃんとみんなの言うこと聞いて、みんなのこと信用してたら、こんなことにならなかっただけなの、だから、そういう人たちのためにもお願い、ここだけの話にして、お母さん、お願い」

同じ言葉を何度も繰り返し、母を宥めたは、30分ほどかかってようやく解放された。だが、食欲はないし、母は親戚の襲来と娘のトラブルで疲弊しきっていた。父親にはも疲れて食欲ないと説明し、ひとり蚊帳の外の父はそれなら近所の居酒屋で一杯やって来るといそいそと出かけていった。

そうして服を着替え、リビングで母と少し話をしたは、やっと部屋で人心地ついたところで思い出した。

明日から期末テストだった。

もちろんかなり前から準備万端しっかり勉強してきたのだから、前日の夜に勉強できなかっただけで、それほど影響があるとは思えなかった。だが、それはあくまでも理屈の上での話。はもう勉強などさっぱり頭に入らなかったし、眠れなかったし、おまけに夜中に熱を出した。

の体調はどんどん悪化した。だけどテストを休みたくないと学校に行った時点で吐き気がして、保健室で嘔吐、その上下痢もし、だがが帰るのは嫌だと言い張るので、急遽保健室でテストを受けることを認めてもらった。だが、頭痛も熱も吐き気も下痢も治まらなかった。

結果、あれだけ頼朝に尽力してもらったテストは惨敗、得意不得意関係なくひどい点数を取った。順位は学年213位、クラスで26位。惨憺たる数字だ。だがもちろん担任始め各教科の先生たちも、の体調がひどかったことは承知しているし、まだ1年の間でよかったなと健闘を讃えてくれた。

だが問題はそんなことではない。こんな最悪の結末、頼朝になんて言えばいいんだろう。尊の件だってすっきりさっぱり消えたわけじゃない。自分と尊に限って言えば、自分にも非があったのかもしれない。けれど、せめて言葉で許可と同意を求めるくらいは尊もすべきだったと思っている。

は清田三兄弟それぞれとの間に種類の全く違う関係を抱えていて、だけど彼らの両親や飼い犬には今でも好意を寄せていて、苦しい。どうやって頼朝に伝えよう、清田もあのままにしておいていいはずがない、急に連絡を断てば清田父母にも怪しまれてしまうんじゃないか――

そんな堂々巡りで煩悶していたの元に頼朝から着信があったのは、テストが返ってきた数日後のことだった。また吐き気がこみ上げてきただったが、食欲がずっとないので、胃の中には戻すものがなかった。嗚咽だけを飲み込んだは着信に出た。

「久しぶり! テストはどうだったかなと思って」
「よ、頼朝さん、あの」
「例の設計事務所とカフェの相談もしたいなと思ってるんだけど、湘北ってテスト休み、あったかな」

の成績が上がらないはずがないという口ぶりだ。は血の気が引いて目の前が暗くなる。だが、嘘をついても仕方ない。それなら次の期末へ向けて対策を取ろう、今回のテストの結果見せてね、なんていうことになればどうせバレる。は覚悟を決めた。

「県立ってテスト休みないんだっけ、冬休みは――
「頼朝さん」
「ん? どうした?」
「テスト前に、体調を、崩しました」

の固い声に頼朝は黙る。

「あんまりひどいので、保健室でテストを受けましたが、1時間座っていられませんでした」

これも一応事実だ。その上、あまり症状がひどくなるとストップをかけられて、机から引き剥がされた。

「頼朝さんにはあんなにお世話になったのに、結果を残せませんでした。ごめんなさい」
……体はもう大丈夫なの」
「いえ、まだ少し。授業が短縮されているので、今は自宅で寝ています」

母親が神経質になっているので、は学校からまっすぐ帰ると、基本的には家から一歩も出ずに過ごしている。体調不良がなかなか落ち着かないのも事実だし、今はもうあまり余計なことを考えたくもなかった。

「勉強、無理をしちゃったのかな」
「わかりません、急に、色々出てきてしまって、病院も行きましたが、異常はありませんでした」

それはそうだ。全てストレスによるもので、熱以外の数値に異常は見られなかった。は携帯の向こうの沈黙が怖いのと同時に、体調不良という不可抗力だったというのに、それを案ずる言葉ひとつ出て来ない頼朝を嫌悪し始めていた。あんたの弟のせいなんだけど、私、遊んでたわけじゃないんだけど。

「それはまたずいぶんタイミングよく不運だったね」
……は、い?」
ちゃん、体調管理も大事なことだよ。これが1年の期末だったからよかったようなものの、もしこれが受験本番だったら、それだけで全てを棒に振ることになってしまうんだ。何かを目指して頑張るということは、そういうことなんだよ。もう少し、自己管理を覚えた方がいいね」

溢れる涙で視界が曇った。あんなに怖かったのに、あんなに辛かったのに、それでも頼朝の尽力を無駄にしたくなくて、吐きながらテスト受けたのに、なんでこんなこと言われるんだろう。ぼろぼろと涙がこぼれて枕を濡らす。

「ごめんな、さい」
「オレに謝ってもしかたないだろう。泣いても時間は戻らないんだよ。大事に使わなきゃ」

頼朝の声は優しかった。優しくて優しくて、のことを考えて言っているのだということがわかる声音だった。だけどその声が語る言葉は尖った刃物のようで、は涙を止められなかった。

「それじゃあ、お大事に。のんびりしてるところ、ごめんね」

そう言って電話は切れた。には、強烈な嫌味に聞こえた。

頼朝はもちろん私立、尊は県立だが、地元では有名な進学校、清田もスポーツ推薦だが私立。荒れ気味でも平凡な県立である湘北は、当然テスト休みなどない。一応短縮授業になっているけれど、はどうにも体が本調子にならないまま、食欲がないせいで体力が戻らず、毎日登校しては疲れて帰ってきている。

そんな、あともう数日で2学期が終わるという頃のことだ。昼前に授業が終わったがのろのろと帰り支度をしていると、水戸に声をかけられた。国体を一緒に見に行って以来会話らしい会話もしていなかったが、は謝らなくてはならないような気がして言葉に詰まった。

「まだ具合悪いのか」
「う、うん、あんまり食べられなくて」
……かなり痩せたよな。大変な病気とかじゃないんだよな?」
「それは大丈夫。ちゃんと病院行ったけど、精神的なものらしくて」

近所のクリニックでは心療内科の受診を勧められたけれど、そうすれば未遂事件のことを話さなくてはならなくなると考えたの母は、そんなものにかからなくていいと頑なになっている。自身も出来れば薬は飲みたくなかった。薬より他に、このひどい状況を打破する方法がある気もしていた。

水戸はの言葉に何度か頷いて、そして顔を背けると何やら少し考えていた。

「どうかした?」
「いや、もし精神的に不安定なら、話さない方がいいかと思ってな」
「そんな怖い話なの?」
「怖いってこたないと思うけど、何が負担になるかなんて人それぞれだろ」

本当に水戸はヤンキーという種類の人間なんだろうか。は改めて首を傾げる。

「平気だと思うけど、水戸は嫌な話だって思う?」
「嫌な話ってこともないと思うけど、楽しくて嬉しいような話でもない」
「あはは、よくわかんないなあ。だけど、発作起こしたりとかはないよ。治りが遅いだけで」
「そっか。じゃあ触りだけ。――海南の野猿、清田、大丈夫か?」

水戸の目がきらりと光ったような気がした。は束の間息を止め、そしてゆっくりと吐き出した。

「本人?」
「そう」
「たぶん平気。……水戸、私、水戸の言うこと信じてなかった」
「あの金髪か?」
「うん」
「やっぱりな」

水戸はの前の席にどかりと腰を下ろすと、ハーッと大きくため息をついた。

「それが原因で精神的に参ってるのか」
「私、水戸の忠告なんかすっかり忘れて深入りしたの」
「はは、お前、まるで警戒してなかったもんな。だけどそれは兄貴だかなんだかだよな」

水戸の横顔に向かってはしっかりと頷いた。清田本人じゃない。

「じゃ、ちょっと付き合ってくれ。時間、かからないから」

また顔も見ずに言うので、は大人しく水戸の後についていった。階段を降りて校舎の2階まで移動し、昇降口の真上に当たる廊下までやって来た水戸は、正面アプローチに面した窓を開けてを手招いた。何のことかと水戸に近付いたは、彼の指す方を見て息を呑んだ。

「清田くん……
「ここからでいいっていうから」

清田は制服姿のまま、正門の外に立っていた。そして、と水戸に気付くと、先日のだぁのように、体を半分に折り曲げて頭を下げた。ぼさぼさの髪がばさりと垂れ下がる。

「な、ちょ、やめてそんなこと!」
「あとこれ、渡してくれって」

慌てたに、水戸は何やら紙切れとスティック包装の飴を差し出した。紙切れを開くと、雑な字で一言だけ「ごめんなさい」と書かれていた。は顔を跳ね上げる。

「帰ろうとしたら表の通りで捕まってよ。頭下げられちまったもんだからさ。呼び出してくれ、だけど具合悪いのは知ってるから近くに来なくていい、ただ頭下げたいだけなんだ、つってコレをな」

水戸の説明を聞きながら、は目に涙が滲んでいた。清田は悪くないのに。何もしてないのに。

下げた頭を起こした清田は、の姿を確認するように上を見上げ、そしてもう一度ペコリと頭を下げると、水戸に向かって軽く手を上げて去っていった。湘北の正門の前を低い前傾姿勢の清田が走り去っていく。

「お前とトラブったのは兄貴なんだろ。なんであいつが来たんだ?」
「わかんない、わかんないよ」
「てかオレまで謝られたんだよな。お前、そんなヒデェことされたん?」
「そ、そういうわけじゃ」

水戸はクラスメイトとしては親しい方に入るだろうし、だけど仲良しの友達という程でもないし、は躊躇った。清田は学校も違うし、あらましを話したところで問題にはならないはずだ。確か湘北は海南に勝てたことがないらしいはずだし、バスケット部にも影響はないだろう。だけど、話してもいいんだろうか。

手の中にあるスティック包装の飴と「ごめんなさい」。はじわじわと目が熱くなる。

……ま、あの金髪、作り物みたいにきれいな顔してたもんな。女の子がそれにクラッとくるのはしょうがないっちゃ、そうなのかもしれねえけど。流川だってそうだよな。男から見るとまあまあいい造作の顔くらいにしか思わねぇけど、女の子には超かっこよく思える、そういうもんだけど」

窓の桟に腕をついた水戸は、ふうと息を吐き、呆れたように笑った。

「男は何の理由もなく優しくしたり、しねえよ?」
……誰でも?」
「まあ、少なくともオレが生きてきた中で知ってる男はだいたいそうだ」

優しくしてくれるからには、理由がある。それが女の子にとって嬉しいものとは限らない。

「優しくしたら女の子は機嫌が良くなる、だから優しくするんだよ。おだててんのと同じだな。特に理由もないのに女の子を労って支えてあげたい、そんなこと考えてる男なんか、滅多にいねえよ。その理由もまあ、大概がヨコシマな願望からだ。真っ当な理由が出てくるのには時間がかかるもんだ」

水戸の理屈もわからないでもない。だが、そうでないことを信じたいのが女だ。

「じゃあさ、例えばさ、勉強教えてくれたりするのは、どういうことなんだと思う?」
「ずいぶんアバウトだな。お前がどうしようもねえバカならわかるけど」
「どうしようもないバカだったら勉強教えたいと思う?」
「そりゃあな。話も通じねえようなバカと一緒にいたって楽しくねえだろ。レベルってもんがある」

は窓の桟に手をつき、その上に額を押し当てて呻いた。

頼朝の頭脳に比べたら、など「どうしようもないバカ」とそれほど変わりなかったんじゃないだろうか。学力も将来の展望も、レベルという点で言うならは頼朝になど到底追いつけない。あの金髪に勉強を教わってたのかと水戸が聞くので、はゆるゆると首を振った。

「理由もなく……優しくしてくれるから、私のこと好きなのかも、だから色々良くしてくれるのかも、そう、思っちゃったんだ。だけど、私の方も好きだったわけじゃなくて、かっこいい人が色々してくれるから、楽しくて嬉しくて、舞い上がってた。そういう、中も外も完璧な、人なんだって」

水戸はへらへらと笑って、顔の前で手をパタパタと振った。

「そーいうのは普通、中も外も完璧に見える女がいるもんだよ。しかも中学くらいから常にな」
「ほんと、そうだね。そんなこと、考えてもみなかった」
……オレが言うことじゃねえけど、

窓を閉めた水戸は、の方に向き直ると厳しい表情になった。

「さっきの清田は、その兄貴の件でここまで来てくれたんじゃないのか」
「そうだと思う」
「だけどあいつは直接関係ねえんだろ」
「うん」
「だったらちゃんとお前も謝って、それで礼も言っておけよ」

は大きく頷いて、スティック包装の飴を胸元で強く握りしめた。

「うん、そうする。水戸もごめん、ありがとう。本当にありがとう」

ぺこりと頭を下げたに、水戸は照れて、そして鼻で笑うと両手でリーゼントを撫で付けた。