ミスラの海

02

新学期とは言っても、清田の場合は夏休みの間中部活に励んでいたので、久しぶりの学校という気がしない。むしろ静かな校内に人が急に戻ってきたので、少しウザい。なおかつ朝から夕方までずっと部活をしていられた休み中と違って、授業がある。ダルい。

その上、新学期になってすぐ今年の国体が選抜になったと発表があり、そのせいで9月最初の日曜であるこの日、練習の開始時間がいつもより遅れている。代表メンバーである陵南、翔陽、湘北の選手たちがまとめて海南までやってくるからだ。

一応清田も国体出場メンバーには選出されたが、案の定湘北の桜木と流川も入っていて、ちょっと面白くない。

学校に行くまではまだ少し時間がある清田は、制服のまま学校とは反対方面にぶらぶらと歩いていた。海南大学附属の場合、試合の行き帰り以外ではジャージなどで行動してはいけないことになっている。いちいち全身着替えるのも荷物が多いのも面倒臭いが、校則なのでいかんともしがたい。

まあまさか、牧さん海には行ってねーよな。

波乗りが趣味である現在の海南の主将だが、一応集合は10時だし、今は7時ちょっと過ぎだし、仮にも彼は国体神奈川代表の主将でもあるし、もしかしたらひとりだけ早めに呼ばれてるかもしれないし、それはないと思いつつ、清田は海に向かって歩き出した。清田の自宅から海までは歩いて行ける距離だ。

集合が10時ならそれに間に合うように家を出ればいいだけの話なのだが、清田家は日曜でも関係なく朝が早くて、日曜なので家族が全員揃っていて、お盆休みの時のようにあまり居心地がよくない。思春期反抗期なんていうものはだいぶ落ち着いたと思っている清田だが、それとは関係がない。清田家は騒がしい。

8歳の時にあてがわれたひとりの部屋も当然鍵はなく、そして清田家の人間は例外なくノックもせずに突然入ってくる。部屋のドアが内開きなら防御のしようもあるが、不幸にも外開きだった。せめてもの抵抗として暖簾をかけたが、襲撃から1秒余裕があるというだけだ。

なので、家にいるより海に行った方が気持ちがリラックスできる。家の中で家族のうるさい声に晒されたまま部活に行くと余計疲れる。そのせいもあって清田は中学から部活に熱心になったとも言える。家にいるより部活でバスケしてる方がよっぽど楽しいし、疲れない。自宅は食事と睡眠以外ではあまり使いたくない。

のんびり歩いて海まで来た清田は、靴に砂が入らないように気をつけながら砂浜に降りる。ちらほらと犬の散歩や波乗りの人がいるが、やはり部長は来ていないようだ。またなんとなく浜を歩いていた清田は、なんとなく見覚えのある後ろ姿を目にして足を止めた。

この女の子見たことある。誰だっけ。

そっと背後から近寄ると、潮風が吹き付けて女の子の髪をなびかせた。髪が翻ったことで見えた耳に、小さな赤いピアスがぶら下がっていた。途端に記憶が蘇る。確か、そう、湘北の

「よー、久しぶり! どーしたんだよこんなところで」

桜木でも水戸でも全く平気、知り合ったばかりの清田とも30分ばかりお茶をしても大丈夫というのこと、なんの遠慮もなく声をかけた。だが、その声に振り返ったの顔を見て清田はウッと喉を詰まらせた。は真っ赤な目と鼻をしていて、頬には涙が伝っていた。

しかしの方も、急に声をかけられて反射的に顔を向けてしまっただけなので、相手が清田だとわかるとすぐに顔を背けて目をこすった。洟をすすり上げては手の甲で抑えている。

「ごめん、なんでもない、びっくりさせてごめん」
「いやそんな謝ることないだろ……大丈夫か、具合悪いとかじゃないよな」

清田は声を落として少し屈み込む。清田は女の子の涙が苦手だった。まあ、得意という人はいないだろうが、清田の場合、面倒くさいとかウザいとかではなくて、少し怖かった。自分がそう簡単に泣いたりしないたちなので、いくら女の子と言えど、泣くほどのことが起こっているのかと思うと、少し緊張してしまう。

「平気、大丈夫、ありがとう、ごめん」
「だから謝ることないだろ。てか何もなくて平気なのになんでこんなとこでひとりで泣いてるんだよ」

大丈夫と言いながら、の涙は止まらない。じわじわと不安が押し寄せてきた清田は、それを振り払いたくての背中に手をそっと当てた。白地にビビッドな色の刺繍が施されたチュニック越しに、の背中の感触が伝わってくる。少し震えていた。

「なんだよ、誰かにフラれたかあ?」

努めて明るく、だけど優しく聞こえるように気を付けて言ってみた。そのくらいであってくれと願っていたのだが、はぐずぐずいいながら首を振る。そして横に並んだ清田の顔を見上げると、無理矢理笑ってみせた。

「飼ってた犬がね、昨日、死んじゃって」

言い終わると、両手で顔を覆ってまた泣きだした。清田はまるで想定外の展開に一瞬虚を突かれて苦笑いの顔になったが、の背中においていた手を少し浮かせて、ゆっくりとさすってやった。それはつらいだろう、しんどいだろう。何しろ清田家にも犬がいる。というか飼い犬が切れたことがない家だ。気持ちはよくわかる。

「そりゃ……つらいよな。茶化してごめん。我慢しないで泣いとけ」
「ミックス犬だったんだけどさ、私よりひとつ年上でさ、ずっと一緒だったから」
「あー、それはなあ、キツいよな。家族だもんなあ、よしよし」

同じように年上の犬に死なれた経験がある清田はたまらなくなって、の頭を撫でた。は余計に泣きだし、清田の言葉に頷きながら目をこすり続けている。

「あれか、この浜によく散歩に来たんだろ」
「うん、最近は歩けなくなっちゃって、来られなかったんだけど、前はしょっちゅう来てた」
「ひとつ年上ってことは17歳か。長生きだったな」
「うん」
「でも、妹がこんなに泣いてくれるんだから、幸せだったんだと思うぜ」

はまたうわーっと泣き出す。これは清田にとって、初めて経験する「怖くない女の涙」だった。むしろ、飼い犬を偲んで泣きじゃくるの涙は「幸せの涙」だという気がした。16年間一緒にいい時間を過ごしてきたからはこうして泣いているのだと思うと、怖くなかった。

それに、同じ犬飼い同士としては、これは捨てておけない気もした。ペットロスはなかなかに深刻な傷を残すし、それを一瞬で拭い去る方法はない。しかし既に年上の犬に先立たれること2回の清田は、これを少し緩和させる方法を知っている。犬の場合そう簡単に実践しづらいが、今の清田なら力になってやれる。

「えーっと、、ちゃん、うちにも犬いるんだけど、気晴らしにモフるか?」

そう、失恋の傷は新しい恋で、ペットロスは新しいペットで。薄情なようだがこれが一番早い。

を浜に待たせたまま、清田は自宅に走って戻り、彼にとっては3匹目の、そして初めての年下の犬を連れてまた走りだした。ついモフると言ったがイエローのラブラドールで、現在2歳。しつけ云々以前に、陽気で元気、少々暴れん坊の気があるオスだ。名前はユキ。清田の父命名で、真田幸村に由来する。

「おまたせー」

人見知りというものを知らないらしいユキは、飼い主が止めないので躍り上がってに突進した。

「ちょ、お前少し加減しろバカ、ちゃん、服汚れたらすまん!」
「へ、平気、すご、超元気、かわいい、かわいいね」

言いながらまたは涙ぐんでいる。ユキはが延々と撫でてくれるものだから、早々にデレデレしだし、何度も頭突きを繰り返した挙句にごろりとひっくり返って腹を出した。泣いてはいるが、も嬉しそうだ。

「へえ、お父さん日本史好きなんだ」
「日本史っていうか、戦国武将とかが好きなんだよな。ユキの前はコマ、その前はマサ」

一代前はメスだったのでコマ、小松殿に由来。マサは加藤清正と真田昌幸の両方だそうだ。

「犬と同じ感覚で息子の名前付けんなって話だけどな」
「あ、ごめん、下の名前知らない」
「おお、名乗ってねえもんな。オレ、信長」
「ほんとに!?」

ユキを撫でくりまわしつつ、は目を丸くしている。

「てか本当は信繁ってつけるつもりだったらしいんだけど、予定が変わったもんで、こいつに行ったらしい」
「あー、お母さんのおっぱい噛んだんでしょ」
「なんでわかるんだよ!」

織田信長は授乳中に乳母の乳を噛み破ったとされる。もちろん本当に噛み破るほどではないけれど、生まれたばかりだというのにあんまり強く吸うので清田の母は授乳を痛がったらしい。そんな息子に対して、父は予定を変更して信長の名を与えた。照れくさそうな清田に、はやっと笑う。

「いいじゃん、日本で一番人気のある歴史上の人物だよね」
「その看板が重いこともあるわけだよ」
「あはは、清田くんでもそんな風に思うことあるんだね」

おお、あるともよ。清田はちらりと子供の頃からのことを思い出す。小学生の時は幼稚園から一緒に入学した男子が多かったので、「キョータ」と呼ばれていた。清田の崩れたやつだ。だが、それが高学年になって日本史をやるようになったところで一変する。「キョータ」はいつしか「うつけ」とか「本能寺」とか呼ばれるようになった。

さらにそれが中学になると「ゼッヒー」とか「お館様」などとバリエーションが増え、ますます名前では呼ばれなくなってきた。しかも運が悪いことに、当時同じクラスに柴田くんと森くんと前田くんがいた。特別仲がいいわけではなかったけれど、4人まとめて織田家と呼ばれていた。ちなみに「ゼッヒー」は「是非に及ばず」から来ている。

さすがに高校に入ってからはそんな風にいじられることもないけれど、「うつけなの?」とはよく言われる。

「亡くなった子の代わりにはならないけど、ちょっと元気出たか?」
「すごい出た。ほんとにありがとう。ユキもありがとねぇ〜」

はユキの頬をこねくり回して鼻をくっつけた。そのの顔をユキがベロンベロンと舐めまわす。すっかり仲良くなったようで、清田も見ているだけで微笑ましくなってくる。いやあ、犬っていいですよね。

「リード持ってみるか? こいつ海好きだから、波打ち際とか平気だぞ」
「ほんと? うちの子は水が苦手で入らなかったからな〜」

は赤い目を輝かせてリードを受け取ると、手首にグルグルと2回巻き付けて掴む。散歩し慣れている人の動作で、清田はそれもちょっと嬉しくなる。犬飼いあるあるだな。ただし、ユキは少々元気で力が強いので清田はのすぐ近くを追いかけて波打ち際まで歩いてきた。ユキは波に飛び込みたくてうずうずしている。

「いやー、やっぱりまだ若いから力強いね! 引きが違う!」
「釣りみてえだな」

はすっかり笑顔だ。愛犬を亡くした悲しみがきれいさっぱりなくなるわけじゃないが、それでも少しは気が晴れるだろう。清田自身も最初の兄犬・マサを亡くした時はずっと泣いていた。あの思いは風化しない。思い出すだけでキツい。それがわかるから、が笑っているのを見ると、なんだかとても安心できた。

だが、それは安心であると同時に油断でもあった。

「普段清田くんが散歩してるの?」
「毎日ってことはないんだけど、時間が合えばな」
「いいねーユキー、おにーちゃんと散歩いくんだー、よかっ――

よかったね、と言おうとしたは、散歩というワードに過剰反応したユキに引っ張られて前のめりにぐらりと傾いた。危ない、と清田が腕を伸ばしたが間に合わなかった。足に波が触れたユキはこの日一番の引きで海に突撃、はその道連れにされた。

バッシャーンという派手な音と共に、は波の中に倒れた。ユキは大はしゃぎ、手首にリードがしっかり巻き付いているはそのまま海の中に引きずり込まれた。

「ユキ、何やってんだコラァ!!! ちゃん、大丈夫か、手、どこだ!」

慌てた清田は制服のまま海に飛び込み、なんとかの手を探り当てると巻き付いたリードごと引き上げた。急に首を引かれたユキが波間でコロンとひっくり返る。リードをの手から巻き取り、今度はの体を抱きかかえて引っ張りあげた。はずぶ濡れである。

「だ、大丈夫か、あああ、ごめん、ほんとにごめん」

まだ暴れているユキをリードでコントロールしながら、清田はを抱きかかえたまま波打ち際から離れる。は水を飲んでしまったらしく、ゲホゲホと咳き込んでいる。その上、砂が髪と言わず顔と言わずべったりと張り付いていて、大惨事だ。白のチュニックも砂だらけ。

だが、大いに焦る清田をよそに、は咳き込みながら楽しそうに吹き出した。顔にくっついた髪を払いのけ、砂を落としながら、笑った。背中を支えてくれている清田の腕にすがって、笑い出した。腕にの手のひらを感じて、一瞬清田の心臓が跳ねる。

「私、初めてこの海に散歩に来た時、同じことやられたの」
「え? その、死んじゃった子か?」
「まだ幼稚園の頃で、あの子は私より大きくて、引っ張って無理矢理海に入れようとしたら逆に振り回されて」

それを思い出したのだろう、はまだ笑っている。

……清田くんありがとう、なんか色々思い出したし、けっこうキツいの取れた」
「そ、そんならいいけど、服――

笑いながら頬の砂を払っていたが清田を見上げた。やっぱり赤い目をしているが、楽しそうに微笑んでいて、その笑顔に清田はぎくりと肩を強張らせた。赤いピアスが揺れ、海水に洗われた頬が白くて、ピンク色の唇が際立つ。ああ、やばい、可愛い、その唇は反則――

「海の砂だから大丈夫だよ、乾かしてから払って、洗えば平気」
「乾かすったって、家、近いのか?」
「まあそこそこ。でも大丈夫、帰れるよ。清田くんこれから部活なんでしょ、制服だし」
「あ! てかオレも制服これじゃダメじゃん!! ちょ、とりあえずウチ行こう」
「え!?」

海に反射した朝日にきらきらと輝くが可愛く見えて、うわ、チューしてみてえ、なんて思っていた清田だったが、自分も制服のまま海に飛び込んだことを忘れていた。マズい、このままでは行かれない。

「オレも着替えなきゃだし、ちゃんはウチで服乾かして行けよ」
「そ、そんな、いいよ悪いって」
「でもオレ部活だし置いていくのもやだし」

遠慮するだったが、清田は手首を掴んでぐいぐいと引っ張る。人ふたりに犬一匹、辛うじて乾いているのは清田の背中くらいという状況なので手段は選んでいられない。しかも気付けばタイムリミットが迫っていた。急がなければ遅刻する。国体代表の合同練習初日に遅刻はマズい。

「置いていっても平気だって! 乾いたら帰るよ! 日曜なんだし、ご家族いるんでしょ!」
「うちの家あんましそーいうの気にしないから大丈夫!」
「私が気にするって!」
「今日は我慢しろ!!」

びしょ濡れのは清田に手を掴まれたまま、まだ遊び足りなさそうなユキと一緒に引きずられて行った。