ミスラの海

07

清田や水戸の警告などすっかり忘れたの自宅にトラブルが起こったのは、尊とケーキを食べた翌週のことだった。トラブルと言っても、家族問題ではない。家がちょっとばかり壊れた。

家はが生まれる前に建てられた家である。似たような作りの分譲住宅で、ローンを抱えるなら早い方がいいと判断したの両親は結婚してすぐに家を買い、犬を飼い、そしてが生まれた。そんなわけでまだまだローンは残っているけれど築18年である。

汚くはないけれど、建築のことに関してはド素人であるの両親は買った家をメンテナンスもせずにそのまま住み続けた。特に家の外側に関しては何もしていない。結果として、値段の割に安普請であったらしい外壁がかなり傷んでいた。そこに近所に住む奥さんの運転するSUV車が突っ込んできた。

ちょうど家のガレージにきれいに突っ込み、小さな庭をかすめて居間の壁にあたる場所に当たって止まった。

だが全方向に不運なことに、突っ込んできた奥さんはまだ50代だったが、救急車が到着した時には息がなかった。クモ膜下出血で意識を失って家に60キロのスピードで突っ込んできたということだった。

唯一幸いだったとすれば、ベッコリ凹んだ壁の内側は生前の飼い犬の定位置で、生きていたら犬が犠牲になっていたという点くらいだろうか。家族を突然失った上に人様の家の壁を破壊してしまった近所の一家は見るも無残に憔悴しており、の両親は修繕費の相談に来る彼らに全額出せと言えなかった。

これには後で母親がヘソを曲げて、は少し嫌な思いをした。こんな不幸な事故、防ぎようはなかったし、お金がかかるのはわかるけど、そんな風に喚かないでよ――

しかし一応事故を起こした奥さんの家族からはまとまった金をもらっているし、とにかく家は壁を直すことになった。それにしてもどこで頼めばいいかわからなくなったの父親は、そのことを職場で漏らしたところ、部下に伝手があるというので、紹介してもらうことになった。

の父が土日しか家にいられないことも伝えてくれたらしく、親切にも日曜に見積もりを取りに来てくれることになった。午前10時、なぜか家族総出で工務店を迎え出た家は、見積もりに来た職人さんと娘が知り合いという超展開に見舞われた。見積もりにやって来たのは、誰であろう、清田父だった。

「いえね、住所がこの辺りでさんだって言うもんだから、もしやと思いましてね」

後で聞いたところによると、普段清田父はひとりで見積もりに出かけたりはしないそうなのだが、もし本当にの家だったとしたら失礼のないようにしなくてはと思って、名乗りを上げてくれたそうだ。これにはの母が食いついた。学校は違えど要するに保護者同士だ。割引かなんかしてもらえないだろうかと浮き立った。

だが、壊れた壁と一緒に家の外を見ていた清田父は難しい顔をしている。

「かなり外壁が傷んでますね。リフォームの予定はありますか」
「リフォーム!? いえその、まだローンも残ってますし――
「そうですか、買ってから塗り替えなどされました?」
「い、いいえ、一度も」
「18年でしたか、厳しいですね」

難しい顔をしている清田父の横での両親は青い顔をしている。壊れた壁だけ直してもらえばいいと思っていたのに、なんでそんな話になってるんだ。そんな予算、うちにはない。

「ぐるっと見てみたんですが、かなりヒビが入ってます。目で見えたところだけで言っても、1階2階関係なく全体に入ってます。あと、2階のあの窓、見えますか? 上にかなりしっかりヒビが入っちゃってる」
「壁が落ちてきたりしないのであれば――
「まあそういったことは滅多にないでしょうけど、雨が入って来ますよ。雨漏りですね」

清田父によれば、少なくとも10年程度のところで補強しておくともちがいいとのことだが、既にその倍近くの年数が経過している。の両親は返す言葉がなくてしょげた。

「ヒビも応急処置で補強出来ないことはないですが、リフォームや住み替えのご予定がないんでしたら、ある程度は手を入れておいた方が――とは思います。もちろん放っといたって家が倒壊するなんてことはないけれど、18年じゃそろそろ洗面台やお風呂も傷んできますでしょう」

の両親は完全に図星で、ふたり揃って俯いた。実は家で1番深刻な「ヒビ」は洗面台である。というか既に一度水漏れして直してもらっている。その次がキッチン。これは傷むというより汚れが落ちなくなってきたので、の母が新調したがっていた。

そして家電類が限界を迎えていた。清田父の言うように少しずつメンテナンスをして寿命をずらしておけばよかったのに、何もせずに来たせいで、家の中の物が一気にダメになってきたというわけだ。

清田父はまとめとして、壁の修繕と周辺のヒビの補強だけで済ます見積もりと、ローンが終わるまで住み続けることを考えた補強補修プランの両方の見積もりを出すと言ってくれた。明らかに最低限コースで済ます気でいたの両親だが、去り際に清田父がまたバーベーキューにおいで、と言ったことで目の色が変わった。

「だからって値引きしてくれるわけじゃないじゃん」
「そんなのわかんないでしょ、子供の友達の親からふんだくろうとは思わないもの」
「それでなくとも余計な商売気を出されたら困るんだよ」

気持ちはわかるが、清田の父はそんなことしないとは思う。途端に自分の両親がとても汚らしく見えてきた。清田父が帰った途端、は親ふたりからバーベーキューに行って来いと言われたのである。正直、三男の手前、清田宅には近寄りたくなかったのだが――

「でも今度の日曜なんでしょ、どっちにしても私いないんだし」
「オレも研修旅行だからいないよ」
「値引きの件はともかく、行ってくれると助かるんだけど」

母は自分の郷里で法要、父は週末を全て潰して研修旅行。娘は返事をしなかったのだが、数日後に見積もりを清田父が届けに来た際に、母親が行きますと言ってしまった。それを聞いて喜んだ清田父は、日曜の朝に迎えに来るという。は頭を抱えた。

どうしよう、また清田に怒られる。そう考えて気落ちしたのだが、そんなの脳裏にふんわりと尊の笑顔が浮かび上がってきた。いやいや、どうせ清田は部活なんだし、また前回のようになっては困るから早く帰りたいと尊さんに言っておけばいいじゃないか。

清田が帰ってくる時間はだいたいわかるだろうから、その前に清田家を出て、例えばそう、尊と車でどこかへ出かけたっていいじゃないか。ケーキを食べに行ってもいいじゃないか。の心は弾む。

値引き交渉してこいみたいに送り出されて困りました、なんてこと、清田父母には言えないが、尊なら言える。そして尊から親がそんな状態なので適当にやっちゃってくださいって言ってもらえたら。部屋で不貞腐れていたは、気持ちが上昇してきて思わず頬が緩んだ。バレなきゃいいんだからね!

次の日曜、本当に清田父が迎えに来た。だけでなく、清田母とユキも一緒に来た。

「うちは男の子ばっかりだから、ちゃんが来てくれると本当に楽しいのよ」
「息子共はそっけなくてねえ、あいつらよりちゃんがいた方が楽しいんですわ」

清田父母はにこにこしながらそんなことを言っていたが、の母はユキに夢中だ。何しろ彼女も17年連れ添った愛犬を亡くしてまだ1月程度。ちょっと目が潤んでいる。

「暗くなる前に送り届けますからね」
「ああいえ、私も今日は帰りませんので、そちらのご都合でよろしくお願いいたします」

母の出身地は新幹線の距離だ。これからそのまま出かけて、一泊の予定らしい。清田家の車に乗り込み、ユキとイチャイチャしていたに、清田母は心配そうな声をかけてきた。

「それじゃあ今夜はご両親いらっしゃらないの?」
「はい、母は明日の昼頃帰ってくると思います。父はどうだったかな」
「ひとりで大丈夫?」
「壁に穴開いてるしなあ……ちょっと不用心だな」

厳密には穴が開きそう、であって空洞があるわけじゃない。が、壊そうと思えば人力でもなんとかなりそうなくらいには脆くなっている。言われて初めてはそのことに気付き、ちょっと怖くなってきた。

「うーん、ご両親も前から入ってた予定を変えられないのはわかるけど」
「ユキを貸してやろうか」
「えっ!? だけどそれじゃユキが可哀想です、まだ匂いが残ってるだろうし」

というか生前の愛犬が使っていたものは、殆どがそのまま残っている。

「ユキなら大丈夫だと思うんだけど……だってうちで預かって無人にするわけにもいかないし」
「母さんがお邪魔するのもなあ」
「だ、大丈夫ですよ、今、壁の内側に色々積んであるし、私の部屋、鍵かかるし」

これは清田家三兄弟が三姉妹だったら即・お泊りコースだったなと考えて、はこっそり笑った。ユキを一晩借りられたら違う意味で嬉しいけれど、突然慣れない家で一泊させられる方が可哀想だ。ユキは元気いっぱい暴れん坊なのだし、朝の散歩もしっかり付き合ってやれる気がしない。

話が有耶無耶になったところで、清田家に到着した。尊に会えると思ってうきうきしていたは、ユキと一緒に庭に飛び込み、直後にふたり揃ってビシッと固まった。

「どちら様?」
「は、あ、あの、私――

ユキは背筋を伸ばしてお座り。の目の前には厳しい顔つきをした背の高い男性がいて、腕組みで睨み下ろしている。清田家の雑なバーベキューにおおよそ不似合いなかっちりした服装、銀縁のメガネ、真っ黒で乱れのない髪、固く引き結ばれた唇が怖い。

「あら、おにーちゃん帰ってたの?」
……誰、これ」
「お客様のお嬢さんよ、その前にも色々あるけど説明が長いから勘弁して〜!」
ちゃん、一番上の兄貴だよ」

は恐る恐る見上げてみる。言われてみればなんとなく清田に似ているような気がする。が、それこそまったく異世界の人種といった感じで、清田家長男はやたらと厳しく怖い印象を持っていた。その証拠にユキは尻尾をぶん回しながらも、背筋を伸ばしたおすわりを解かない。お兄ちゃんは怖いらしい。

「あんた今日出かけるの?」
「16時には出るよ」
「じゃあそのついでに、ちゃん送ってってくれない?」
「ふぁっ!?」

のことを心配したかと思えばすぐこれだ。清田家は本当に突拍子もなくては驚いてばかりいる。というかこんな怖いお兄さんと車内でふたりきりというのもつらい。尊はどこだ。

「だ、大丈夫ですよ、バスでも帰れるんだし、ところで尊さんは」
「ああ、今日はいないのよ〜。帰ってくるかどうかもわからなくてねえ」

は血の気が引いた。尊がいなかったら計画の大半がふいになる。だけでなく、尊がいない状態でこのバーベキューを乗りきれる気がしない。ユキだけが頼りになってしまうが、そのユキも長男の前でおすわりしたまま動かない。一体私はどうしたら。

だが、清田父母がバーベキューの準備に行ってしまうと、清田家長男はため息を付いて組んでいた腕を解き、ユキの頭をひと撫で。ユキはやっと立ち上がると、の足に纏わりついた。

「長くてもいいから説明してくれる?」
「は、はい、あの、私――
「そんなに萎縮しなくてもいいよ。座って」

言葉はだいぶ緩んだけれど、まだ顔が怖い。は促されるままに縁側に腰を下ろした。またユキが膝に顎を乗せてくるので、忙しなく撫でる。そうでもしないと自分の方が落ち着かない。

「いくらなんでもユキが懐き過ぎてる。来るのは今日が初めてじゃないね?」
「はい、あの、3度目、です」
「もうそんなに」

怖い顔の長男は一転、眉を下げて呆れた。

「両親には困っててね。昔から人が多い家だから気にしないんだろうけど、最近は少し見境がない」
「あのっ、私、無理矢理とかそういうわけじゃ」
「まあ、簡単でいいので経緯を教えてもらえるかな」
「はい、わた、私、といいます。湘北高校の1年生で――

前回と同じような顔ぶれのバーベキューが行われている清田家の庭の片隅で、は隣に清田家長男を置いて夏休みのことから説明しなおした。初めてこの家に来た時は何度も同じ話を繰り返すのにうんざりしたが、この長男相手ではきちんと話さなければという緊張が先立って、それどころじゃなかった。

「なるほどね、じゃあまあ、信長のお友達というくらいにしておこうか」
「友達というほどでもないんですが……
「それにしてもお宅は災難だったね。今日の夜も確かにそれでは不用心だ」

まだビビっているなどお構いなしで、長男は足を組み、指を顎に添えて考え込んでいる。

「今から頼んで泊まりに行かれるような友達はいないの?」
「いえその、それこそ壁がアレなので家を空けるのは……
……今日が日曜でなければね」
「はあ」

がきょとんとしているので、長男は少し笑った。笑うとちょうど清田と尊を混ぜて清田母で割ったような顔になる。真っ黒な髪がさらりと揺れて、は思わずどきりとする。清田とも尊とも違うタイプだが、これはこれでかっこいい。怖いと思っていたけれど、それは怒っているからではなさそうだ。

「今日が土曜なら信長でも尊でも、お宅のガレージに車を置いて車中泊でもさせればいいかと思ってね」
「そ、そんな! 工事費をケチってるような家ですし……
「それは仕方ないよ。始めからわかっててやらなかったんならともかく、こんな急では余計な出費に感じる」
「そうでしょうか」
「まあ、君が生まれる前に買ってしまったと言うんだから、ご両親もまだお若かっただろうし」

長男は難しい顔だが、フォローしてくれているようだ。はこの人が怖いのは生まれつきそういう顔なだけで、中身はそうでもないんじゃないだろうかと思い始めた。というかうっかりすると忘れそうになるが、あの清田父母の元で育てられているわけだから、怖いだけであるはずがない。

「やっぱりユキを連れて行ったらどうだろう。防犯面において犬は存外有効なんだよ。大型だし」
「だけどそれじゃあユキが……急に知らない家になんて」
「ペットホテルで腹出して爆睡するような子だから、平気だと思うけど」

それは初耳だった。は思わずブハッと吹き出し、膝にあるユキの頭をぐりぐりと撫でた。なんていい子なの。うちの子なんてシャンプーで2時間預けられただけで吐いたことがあるのに。

「トイレのしつけは出来てるし、うちは朝が早いから、明日の朝1番に迎えに行く。どう?」
「ユキが平気なら……それなら、はい、助かります。心強いです」

母親が戻るのは昼頃なのだし、自分の部屋に泊めてしまえば問題はないように思える。もしバレてもユキなら怒らない気がする。むしろ羨ましがられるんじゃないだろうか。はユキがまだ膝に顎を乗せて尻尾を振っているので、嬉しくなってきた。一緒にベッドで寝られるかな?

「じゃあ後で支度をしよう。ええと、なにちゃんだったかな」
「あ、すみません、といいます。
「よし、ユキ、今日はちゃんの護衛をするんだぞ、いいな」

長男に頭を撫でられたユキはしかし、了解とでも言いたげな、キリッとした顔をしている。

「そうそう、オレの方こそ失礼を。信長の兄で頼朝といいます」
「え、ほ、ほんとですか!?」
「意外だった? 信長、尊氏、その前とくればわかりやすいところだよね」

地元神奈川に幕府を開いた源頼朝である。歴史の授業では多めにエピソードを習った気がする。

「ふたりともジュース出してきてえ〜!」
「客じゃないのか、まったく……
「いえ、お手伝いさせてください、ご迷惑ばかりかけているので」

頼朝はメガネの下の目を細めてにっこりと笑う。の心臓がまたどきんと跳ねた。