ミスラの海

17

自分は病気じゃないから精神科なんてかかりたくないとごねていたの母親だが、食欲はないし、殆ど眠れないしで、四六時中ぼんやりしているだけになってきた。これが何しろの手に余ったので、清田母は半ば強引に彼女を心療内科に連れて行って受診させた。

私は病気じゃないのにとグズグズ言っていたそうだが、カウンセラーに話を聞いてもらい、このままでは健康を損って本当に病気になってしまうから、まずは緊張を緩めて、眠りやすくなるお薬を飲んでみませんかと言われると、素直に頷いた。

とにかくの母が精神的に安定を取り戻すことが最優先なので、清田母はできるだけユキを連れてきては、散歩に誘ったり、一緒にランチを取ったり、夫の死から少しでも目を逸らせるように務めた。一方で、在宅時に父親方の縁者から電話でもかかってこようものなら、ぶーちんを出させた。

もちろんぶーちんは家の権利だの相続だのという話はちんぷんかんぷん。だが、相手が怒鳴ろうが喚こうが、ゆる〜い舌っ足らずな声で全部スルーしてしまう。そして毎回電話を切ると、楽しそうに「お前ら全員っ、お星様になあれっ」と言ってポーズを取る。は大笑いしつつ、そのメンタルの強さに舌を巻いた。

そのも、清田と電話で話す時間がないほど忙しいわけではなかったのだが、何しろ清田の方が大事な予選の真っ最中だったし、いくら清田母やぶーちんが助けてくれていても、それに母親を預けて会いに行くというわけにもいかなかった。

と清田がやっと会えることになったのは、インターハイ予選が終わり、1学期の期末テストが迫ってきている6月末のことだった。家の問題で長らく開催されていなかった清田家恒例・日曜バーベキューである。

以前から娘がお邪魔していたバーベキューに誘われたの母親は、清田母に誘われると、ぼんやりとした顔で頷いた。自身の身内は遠くにいるし、友人は気を遣ってか敬遠してか連絡を寄越さなくなったし、彼女も今のところ頼れるのは清田家だけで、娘が三男と付き合っていると聞かされても、あまり反応がなかった。

「今日はあんまり人来ないようにしたし、おばあちゃんのところはどうかと思って」
「おばーちゃん派手だけど癒し系だよねー」
「それならちゃんも少しゆっくりできるでしょ」

もちろん清田母もぶーちんもユキもいるので、は安心して連れて行かれると思った。

「ちょーどよかったよねー。ノブ部活忙しくない時で」
「でも、練習しないといけない時期じゃないのかな」
「テストも近いからね、最近は普段より帰りが早いのよ」

清田母の運転する車で、たちは清田家に向かっていた。

「てかあ、も久しぶりなんじゃないの、ノブん家」

清田母の手前、あまりはっきり言えないぶーちんは、ちらちらとに視線を送った。も返事をするだけにとどめ、ぶーちんには苦笑いをしてみせたのだが、運転席から珍しく清田母の低い声が聞こえてきた。

ちゃん、あとでノブと出かけてきたら?」
「えっ、出かけるって……
「それは好きなところでいいけど、ふたりで過ごしてらっしゃいよ。ずっとそんな時間、なかったんだからさ」

そんな話が車中でされていても、助手席の母親はどこか他人ごとのように黙っている。は、ぶーちんが肩を撫でてくれるので、その手を取って繋ぎながら、素直に「はい」と返事をした。

たちがやって来てはしゃいだのは、まずユキである。バーベキューの準備が進む庭から猛ダッシュですっ飛んできて飛びかかり、は久々に吹っ飛んだ。慌ててそれを追いかけてきた頼朝は、とは少し距離を取り、まずは面識のあるの母に頭を下げて弔意を述べた。

「えっと、ちゃんも、大変だったね」
「何言ってんの、は今でも大変なの〜」
「皆さんにご迷惑をかけてすみません」
「いや、なにか力になれることがあったら」

自分の知らないところで弟の彼女になってしまっていたに、頼朝は少し緊張気味だ。だが、ぶーちんは頼朝の件も既に承知しているので、さっさとの手を引いて庭に行ってしまった。

は清田父にも挨拶をし、バーベキューの準備をしている尊にも会釈し、おばあちゃんとは少し話をした。の母もそのおばあちゃんのいる縁側に座らされて、ユキが膝に顎を乗せてくると、少し表情が緩んだ。ついでに尊が飲み物を手渡してにっこり笑いながら挨拶すると、つられて微笑んだ。さすがイケメン。

、こっちこっち」
「ちょっとまって、まだ――

だぁに挨拶してないとは指を差したが、ぶーちんはバーベキューの輪の中からを引っ張りだして、玄関の方へ連れて行く。庭からは少し距離があるので、玄関の辺りはしんとしている。

「ノブ、部屋にいるから、行っておいで。お母さんはあたしたちが見てるから」
「え――
「小母さんはああ言ったけど、部屋にいてもいいんだからね。誰も2階に行かせないから、安心して」
「ぶーちん……ありがとう」

ぶーちんに背中を押されたは、玄関に飛び込むと靴を脱ぎ、階段を駆け上がった。尊とふたりきりになってしまった時以来の清田家、騒がしい庭が少しだけ遠く感じる廊下、清田の部屋のドアが少し開いていた。はそれを確認すると、また走って行って、ドアを開けた。

「の、信長……!」

たちが到着したことに気付いてから、そわそわしながら待っていたのだろう。腰掛けていたベッドから飛び上がった清田は、走ってきたを両腕で受け止めると、またベッドの上に倒れこんだ。

、辛かったろ、近くにいてやれなくてごめん」
「そんなこと、小母さんたちにも迷惑かけてごめん、会いに行かれなくてごめん」
「ほんとはすぐに会いに行きたかったんだけど、親父に止められてて」
「試合、見に行く約束だったのに、ごめんね、だけど応援してたよ」

清田はの髪を指で梳いて、唇を寄せる。静かな部屋の中に、微かなキスの音だけが浮かんでは消えていく。庭の方からは清田母やぶーちんの甲高い笑い声が聞こえてくる。

……オレが大人だったらな、もっとしてやれることがあったんだけど」
「今でも充分だよ、その前だって、いっぱい助けてもらってるのに」
「だけど……心配だろ、これからのこととか」
「それはそうなんだけど、まだ忙しいから実感なくて」

母親は清田母たちの協力で徐々に落ち着きを取り戻し始めているけれど、その先のこととなると問題だらけだ。先日も頼朝がぼそりと漏らしていたが、の進学はいよいよ怪しい。高校は県立なので問題ないとしても、専門や短大すらも難しいかもしれない。

今日に至るまでのことを掻い摘んで説明しているは、清田に擦り寄って深く呼吸をしている。もちろんもずっと張り詰め通しだったし、まだまだ緩んでなどいられないけれど、こうしている間は、全ての煩わしさから解放されている。

「何もしてないって言うけど、信長がいてくれてよかった。なんか今、何も辛くない」
「そんなら、いいけど……
「小母さん、出かけてきてもいいよって言ってたけど、どうする?」
「出かけるって言ってもなあ」

とりあえず現状、生活と両立できないので、はアルバイトを辞めている。清田はもちろんアルバイトなど出来ないから、出かけるにしても、ふたりは予算的に非常に厳しい。

「ぶーちんはここにいてもいいよって言ってた。誰も2階に行かせないからって」
「まあ、どうせバーベキューも夕方頃までやってんだろうしな」
――――する?」

いたずらっぽく笑ったに、清田は眉を下げた。が父を亡くしてなんかいなくて、母親が不安定でもなくて、ただ脳天気に高校生をしていられたのなら、そんなこと言われなくても望んだのに。最後にを抱いたのは、新学期になったばかりの頃で、それからもう2ヶ月以上が経っていた。

ぶーちんはそう言ってくれたかもしれないが、双方の親が勢揃いだし、何しろは父親を亡くしたばかりだし、梅雨の中休みでよく晴れて気持ちのいい真っ昼間のことだし――清田はどんどん出てくる言い訳の中でぐらぐら揺れた。

が、躊躇する清田お構いなしに、は羽織っていた薄手のトップスのボタンを外し始めた。

「お、おい――
「気を遣ってくれるの、嬉しい。でも、そういうの、ない方がいい」
「ない方がいいって……
「こんなことになる前は、したいしたいって、言ってたじゃん」

清田はがくりと頭を仰け反らせた。言ったというか送信したというか、とにかくそういうことはした。

「それが、普通の信長だったんでしょ。私、それがいい」

こんな捻くれた日常なんかいらない、学校は違うけど同い年の彼氏彼女でいられたあの頃のままがいい。はボタンを外し終えると、またするりと抱きついて清田の首筋に頬を寄せた。

「そりゃ、まあ、そう思うけど、好きなんだし」
「だったらそうしててよ。信長との関係まで、壊れてほしくない」

清田はもう何も言わず、をぎゅっと抱き返した。庭に出払っていて誰もいない家の中はしんと静まり返っている。夏の匂いがする風が、細く開けてある窓から吹き込んでくる。明るい午後の日差しが白っぽい部屋の中で、ふたりはゆっくりと、そして静かに肌を重ねた。

夏休みに入る頃には、の母親もかなり落ち着いてきていて、食事はきちんと取れるようになってきたし、薬のお陰で夜もぐっすり眠れている。いよいよ清田の方が合宿やインターハイで家にいないけれど、夏休みのは母と一緒に、避難も兼ねて清田家によくやって来るようになった。

清田家はいつも人が多く、その人種も様々で、の母は清田母やぶーちんにフォローしてもらいつつ、いつかののように驚いたり感心したりを繰り返していた。その中で、清田父も交えて今後のことも相談できるようになってきた。

さらに、8月に入って清田がインターハイに出発したその日、たまたま頼朝も尊もいないというので、はぶーちんと一緒に清田家に泊まることになっていた。の母も夕飯までは一緒。という予定だったのだが、ぶーちんが来ない。連絡もつかないのでどうしたのかと心配していると、2時間ほど遅れて本人がやって来た。

「みんな聞いてえ、赤ちゃん、出来たあ!!!」

この時リビングには女性しかいなくて、一瞬で歓声に包まれた。というか殆ど悲鳴。

「あたし、今度こそ元気な赤ちゃん産むからねえ〜!」

きゃんきゃん騒ぐ娘の隣で、の母は涙ぐんだ。夫は突然いなくなってしまったけれど、こうして新たに生まれてくる命はすぐそこにあって、それも娘と大して年の変わらないぶーちんの体の中にいる。

「小母さんはあ、こんなに痩せてたらあたしのベビー抱っこできないのでえ、もちょっと元気になっといてね」
「そうよさん、この間ユキに引っ張られて転んだでしょう、今からそれじゃ困るわよ」
「こんなほっそい腕じゃあ、あたしと腕相撲したって負けちまうよ」

畳み掛けられた母は、何度も頷き、そしてぶーちんの腹を撫でてまた泣いた。

「実は私もひとり流産してるの」
「え!? そうなの!?」

知らなかったは声がひっくり返る。まさか自分の前に兄か姉がいたとは――

「そのショックで落ち込んでる時に、お父さんが犬をもらってきてくれたの、それがあの子」
「そうだったの……
「だからあんたは本当は3番目なのよ」
「あらあ、じゃあ結局3番目同士なわけね、やっだあ!」

犬が2番目にカウントされてしまっているが、はなんだか嬉しくなった。清田と同じ、3番目だった。

「そうね、私たち、まだ生きてるんだもんね……

ぶーちんの腹を撫でながら、の母は何度も頷いていた。

この年も優勝できなかった海南は、インターハイから帰ると、数日置いてお盆休みに入る。清田とが出会ったのも、ちょうど1年前のお盆休みの時だった。清田は休みに入ってすぐ、夏で引退する先輩数人の送別会と称して、一泊のキャンプに出かけた。そして翌朝帰宅すると、リビングにの母親がちょこんと座っていた。

「あれっ、今日早いっすね」
「おかえりなさい、ごめんなさいね、朝早くから」

リビングには清田母と尊がいたが、なんだかやけに静かだ。というかは? 清田が首を傾げていると、の母親はすっと立ち上がり、清田の近くまで歩いてきた。以前に比べると、だいぶ顔色の良くなってきた彼女は、清田を見上げてぽつりと言った。

「信長くん、ちょっとお話したいことがあるの。いいかな」
「え!? な、なんすか……?」

の母親と差し向かいで話なんて、別れろとか言われるんじゃないだろうな。てかまさか、しくじってないよな。に子供出来たとか言われたらどうすんだオレ――

ビビる清田を促して、の母はリビングを出た。廊下を行き、いつかが強引に入らされたバスルームを通り過ぎ、清田祖母の部屋の前を通り、現在ほぼ物置状態の応接間と来て、その奥が庭に面した和室である。いつもバーベキューの時に人が集まる縁側のあるところだ。

「あ、あの……オレ、何か」
「えっ。ああ、そういうことじゃないの、ごめんね、勘違いさせて」

和室の真ん中辺りで向い合って座ると、の母は正座した膝の上に手を揃え、ゆっくりと頭を下げた。

「最近やっとちゃんと話を聞きました。娘が本当にお世話になったそうですね」
「そ、そんな、お世話だなんて、オレは何も」
「色んなことがあったけど、いつも信長くんが助けてくれたんだって聞いてます」

清田が合宿とインターハイに行っている間に、の母親はかなり表情が戻ってきたようだ。そう言いながら、少しだけ首を傾げて微笑んだ。笑うと口元がに似ている。

「お兄さんたちとも何だか色々あったそうね。そこら辺はあんまり詳しく話してくれなかったけど、は平凡な子なのに、そうやっていろんな経験をさせてもらってありがたく思ってます」

いやいやお母さん、真相を聞いたらあなたたぶん尊を殴るか蹴るか――清田は吹き出すのを堪えた。

「それでなくとも今回の件ではご家族にとてもお世話になって、これも信長くんがと知り合っていなかったら、どうなっていたことか……。感謝してもしきれない。本当にありがとう」

清田はここに来て、はて、とまた首を傾げた。これ、何の話だ? お礼言いたいだけ?

「そんな信長くんに、こんなことを言わなきゃならないのは本当につらいんだけど、私も自分の人生にこんな事態が起こるなんてこれっぽっちも考えてなくて、やがて娘が独立して、結婚して、孫が生まれて、夫とふたり、地味に平凡に老いてゆくのだと思ってて、それを疑ったこともなかったの」

清田のこめかみから一筋汗が流れ落ちる。ちょっと待って、小母さん、何の話?

「だけど、もう夫は帰らないし、だけど私との時間は止まらないし、これからも生きていくためには仕方ないと――これは言い訳だって私もわかってるわ。でもどうか私を許して。今はこれしか方法がないの」

清田は体が冷たくなっていくのを感じていた。小母さん、何だか知らないけど、やめて、言わないで――

とふたりで、私の故郷に帰ります」