ミスラの海

08

その日の晩、は本当にユキを借りてしまった。飼い主たちが絶対に大丈夫だと太鼓判を押すのでその気になったものの、やっぱり夜中に不安がって鳴いたらどうしよう、なんて思っていた。だが、そんな心配は杞憂に終わった。ユキは21時頃にはうとうとし始め、のベッドで腹を出して寝てしまった。

「ユキ〜、マジで? ほんとに平気なの? てか既に白目だし……

可笑しくなってしまったはすうすう寝息を立てているユキの腹を撫でながら、声を殺して笑った。

はユキのために部屋を暗くし、翌日の準備をしながら、本日のバーベキューのことを思い返していた。結局最初から最後まで頼朝に一緒にいてもらい、それこそ3度目なので客という意識が薄れたのか、清田父母がにあれこれ頼むので、それをフォローしつつ、ずっと手伝ってくれた。

本当に清田家の三兄弟は全員性格もタイプもまるで被りなし、なんてバラエティに飛んだ兄弟だろうとは内心ひどく感心した。今日初めて顔を合わせた頼朝はこれでもかというくらいのインテリ臭さで、それも何だか面白かった。清田と尊に似ていないのはもちろん、両親にも似ていないのが何とも言えず可笑しい。

清田頼朝は現在23歳、大学の修士課程で、一級建築士を目指しているという。そんなわかりやすいインテリキャラの頼朝だが、一級建築士を目指しているのは家業を継ぐためであり、頭脳労働向きだと自覚してからは目標がぶれたことがないという。両親に呆れているけれど、自分の家のことは大事に考えているらしい。

しかも中学高校は地元の進学校、剣道は県大会で上位入賞、現在通っている大学も、誰でも知っている有名な私大で、は少し目眩がした。尊ほどではないけれど充分にかっこいいし、一体清田家の男子はどうなってるんだ。

その上、これも尊ほどではないにせよ、とても優しかった。将来の目標がないというに対して、興味の向く方向すらわからないなら、まずは手当たり次第にどこかの世界を覗いてみればいいとアドバイスしてくれた。本を読む、ネットで調べる、手段はなんでも。セレクトすらできないなら、最初は他人の夢でいい。

夢がないなら嫁に行けばいいと言い出した清田父に対しては、そういう前時代的な考えは自分たちの世代だけにしておけと突っ込み、結婚と出産に囚われて自分を無理に押し込めてはいけないよと言ってくれた。

中学生の頃、立候補者がいないので、部活などてんでやる気のなかったは生徒会に入らされた。が2年生当時、会長だった先輩を思い出す。頼朝のように頭が良くて、何事にも明確なビジョンがあって、彼の言う通りにしておけば万事間違いがなかった。

素行の悪い生徒からはもちろん不興を買い、独裁者だと陰口を叩かれていたが、それでも結局会長の計画通りに進めれば成功したし、それを少しでも違えればトラブルを起こして失敗した。頼朝もきっとそんな人物なんじゃないだろうかとは考えていた。

一応親である清田父母も、頼朝に突っ込まれると殆ど言い返せない。可愛くないでしょ、と清田母は顔をしかめていたが、もちろん本気で嫌悪している風ではなかった。きっと幼い頃から頼朝はこうなんだろうな、そんな様子が垣間見える親子の風景だった。

は支度を終えるとユキの隣に潜り込み、ゆっくりと息を吐く。犬だがこれも清田家の男だ。そう思うと笑いがこみ上げてくる。ユキとはもうキスもしたし、こうして一緒のベッドで寝るまでになってしまった。プスーと漏れる鼻息ですら愛しい。

そして頼朝の言葉を思い出す。数学が少し苦手で、授業だけでは理解が追いつかなくなっていると言ったに、彼は教えてあげようかと言い出した。頼朝の言うことなので、清田家ではない。外で会って教えてもらうことになるはずだ。勉強とはいえ、それはなんだかデートみたいで頬が緩む。

「向上心があるのはいいことだね。夢にこだわって成長が阻害されるくらいなら、多少浅くても幅広くスキルアップすべきだと思う。ちゃんにそういうやる気があるなら、応援するよ」

頼朝は真剣な目でそう言った。それはにとって少しばかり新しい考え方だった。子供の頃から「将来」という言葉には「夢」がセットされていて、それはだいたい一言で業種がわかる職業であるのが普通だった。たまに公務員や会社員になりたいなんて言い出す子供がいると、ちょっとオカシイんじゃないかと言われるほどに。

は小学校高学年くらいになると、普通に会社勤めをしていずれ結婚でも出来ればと思うようになったのだが、周囲はそんな「夢のない将来像」はいかんという雰囲気だった。しかも卒業のセレモニーでそれぞれ将来の夢を発表しなくてはならなくなった。は頭を抱えた。私アイドルもパティシエもショップ店員も嫌だよ。

困ったはうんうん考えこみ、はたと思いついて「キャリアウーマンになりたい」と言った。これなら一応会社勤めと意味は変わらないし、出世欲があるとしてプラスに受け取ってもらえるはずだ。案の定、友達の親からはかっこいいわねぇ、なんて言ってもらえた。

そうしてアイドルやパティシエやショップ店員や弁護士や医者やアナウンサーの間で卒業したわけだが、知る限りでは誰一人としてその「夢」を実際に目指している人はいない。弁護士になりたいと言っていた子は中学でグレて最近は駅前でたばこを吸っているし、パティシエ志望の子は薬学部を目指しているという。

それを思うと、頼朝の言うことはとても正しいような気がしてきた。

夢のない自分はどんな大人になったらいいんだろうと思っていたけれど、頼朝の言うように、目指すものがひとつでなければいけない理由はない。例えば特に興味のない業界の会社に就職して事務職にでもなったとして、即ちそれが成長を止めることではない。業界に関係ない資格を取って悪いこともない。

そうやって世界を広げていけばいくだけ、には可能性が生まれる。いつかこれという道も見つかるかもしれない。そのために必要なのは何より「向上心」だ。

ユキに寄り添いながら、は重たくなる瞼の中でそんなことを考えていた。

もっと頼朝さんの話が聞きたいな。私が成長していくためのアドバイス、たくさんしてもらえるかもしれない。

翌朝、清田家の「朝一番」が6時だというので、は眠い目をこすりながらユキと一緒に迎えを待っていた。というか、普段5時起きらしいユキはきっかりその頃にの顔をベロベロ舐めまわして起こしてくれた。

湘北へは近いからという理由で進学したので、いつもならは8時15分頃にならないと家を出ない。そんなわけで、起きるのも遅い。疲れている時など7時50分くらいになってようやくベッドから這い出るくらいだ。それが5時起きなので、食欲もないし、今すぐにでも二度寝が出来そうなほどだ。

6時5分に清田家のバンが到着した。運転席の清田父ににっこり笑って手を振り、そして後部座席の人物に目を留めては竦み上がった。清田が乗っていたからだ。彼もまた眠そうな顔でぶすっとしており、は初めてバーベキューに行った時のことを思い出して青くなった。

「おはようさん、ユキはいい子にしてたかい」
「は、はい、もちろん! 本当にいい子でした。ありがとうございました」

ユキは大はしゃぎで車から降りてきた清田父に飛びついた。びょんびょん飛び上がっては清田父の顎を舐めている。は車内に残る清田の視線が怖くて目を逸らした。やましいことは何もないはずだが、迷惑だから自分の家には近付かないでくれと言っていた彼の声が頭の中で鳴り響く。

「悪ィちゃん、ちょっとトイレ借りてもいいか?」
「は、はいどうぞ! 入ってすぐ左です」
「申し訳ない! ユキ、ほらノブんとこ入れ」

バンの後部ドアを勢いよく開いた清田父はユキを押し込むと、小走りで家の玄関に飛び込んだ。は少し膝が震えているような気がしたが、家に壁に穴が開いたことと、父の部下が清田の家に伝手があったことは自分の責任じゃない。そう言い聞かせて息を吸い込む。

「お、おはよう……
「おは。……壁、すげえな」
「うん、だから、ユキがいてくれて助かった。ありがとう」
「粗相しなかったか」
「何も。お腹出して寝てた。一緒にベッドで寝ちゃった。嬉しかった」

それは本当だった。先だって亡くした愛犬は、晩年自分の定位置から動くのを嫌い、が部屋に連れて行こうとすると嫌がった。なので、犬を近くに感じながら眠ったのは本当に久しぶりだった。

というか、生まれた時には自分の部屋が用意されていたは9歳からひとりで就寝しており、例えそれが犬でも、誰かがすぐそばにいる夜というのは滅多にないことで、それがちょっとだけ嬉しかった。

それを聞いた清田は、眠そうな目のまま、柔らかく微笑んだ。

「そっか。亡くなった子の代わりにゃならねえだろうけど、よかった」

開け放してある玄関の向こうから、清田父がトイレから出てきた音が聞こえてくる。それを背後に聞いていたは、胸を刃物で突かれたかと思うほどの痛みを感じて息を呑んだ。ずきんと痛む胸、早鐘を打つ心臓、爽やかな朝なのに、冷や汗が出そうだ。

なぜこんなに胸が痛むんだろう、清田の笑顔が悲しく見えるのはなぜなんだろう、どうして苦しいんだろう。

「き、清田くん、ご、ごめん」
「はあ?」
「いやー、ちゃんありがとなあ。てかほんとにトイレもちょっと危なそうだね」

思わずごめんなどと言い出したに清田が驚いていると、清田父がまた小走りで戻ってきた。は慌てて身を引いて、清田父には笑顔を作ってみせた。

ちゃん学校は? もし駅まで行くんなら乗って行きなよ」
「え!? 私自転車で20分なので、ちょっと早すぎます!」
「アッハッハ、そうかそうだよな、ノブが朝練なだけだもんな、いやー、悪い悪い」

さすがに海南ともなると、こんな早くから練習するのかとは感心した。自身の通う湘北のバスケット部も早朝から練習しているが、それを知らないは素直に清田をすごいと思った。

「そんじゃまたな、防犯のこともあるから、うちでやるなら早めにね」
「はい、伝えておきます。ありがとうございました」

バンに乗り込む清田父に頭を下げると、は手を伸ばしてユキを撫で、ドアに手をかけた。そして清田父がエンジンをかけている音に隠れて、もう一度「ごめん」と呟き、清田の顔など見ずにドアを勢いよく閉めた。

そして後部座席を見ないようにして手を振り、すぐに家の中に戻る。鍵を閉め、階段を駆け上がって部屋に飛び込み、ユキと一緒に眠ったベッドに倒れ込む。静まり返った家の中にひとりきり、まだ痛む胸をぎゅっと抱え込んで、は頭の中に渦巻く清田三兄弟の面影に押し潰されそうになっていた。

ユキを一晩借りた翌々日、火曜日。見積書の金額にげんなりしていたの両親だったが、凹んだ壁の一部が剥がれ落ち、とうとう小さな穴が開いてしまった。それに気付いたふたりは慌てて清田父に助けを求め、他のことはとりあえず、まずは壁を直してくれと泣きついた。

だが、それを受けた清田父はトイレや洗面台や風呂のパンフレット片手にやってきて、の両親が1番聞きたかった「勉強させてもらいますよ」という言葉をとうとう口にした。しかも、最新の住設カタログにの母はうっとり、一気には無理でも、少しずつ直していこうかという気になってきた。

そんなわけで暫くの間、が学校から帰ると、清田父が壁を直しているという日々が続いた。商売気を出されては困るとの両親は言うが、清田家にとってこれは商売である。何を思ったか、清田父はの母の許可を得た上で、ユキ同伴で工事にやって来るようになった。母もどんどん絆される。

ただし、清田父はあくまでも問題がありそうな箇所を補修補強することを勧めているのであって、の母が1番乗り気になっているキッチンはまだ大丈夫、変えるならレンジ部分だけで充分だと言って本人を落胆させた。清田父の見立てでは、窓周辺のヒビと洗面台が一番危ないそうだ。

そうして、やっと壁の穴が塞がる頃、は少し気落ちして道草を食っていた。学校を出たあと自転車で駅まで向かい、少し電車で移動して大きな街まで出る。夏休みに清田と桜木と遭遇した街だ。

は駅から続くメインストリートをため息をつきながら歩く。中間の結果が振るわなかったからだ。

何もは成績至上主義というわけではない。まだ1年生だし、そもそも近いから湘北でいいと決めるくらいだ。だが、今回はちゃんと勉強したつもりだったのだ。ちゃんと勉強して臨んだはずだったのに、結果が散々だったので落ち込んでいる。その上頼朝の言葉が蘇ってきて、余計に凹む。

少し前に尊とケーキを食べに行ったのもこの街だ。あのおしゃれな雰囲気が恋しいけれど、制服だし、ひとりでは入れそうにない。というか尊はふたりで行こうねなんて言っていたけれど、よく考えたら連絡先を交換していなかった。リップ・サービスだったのかと思うとまた凹んだ。

だが、7階建ての大型書店の前を通りかかったは、急ブレーキをかけて足を止めた。2階から続くエスカレーターに乗って降りてくる人物に見覚えがあった。頼朝だ。はこわばる足を一振りして、書店に飛び込んだ。頼朝さん、助けて!

「ペース配分も間違えてたんじゃないか? 得意教科の勉強時間をかなり減らしたとか」
「その通りです……

10分後、は頼朝とカフェで差向いになっていた。返ってきたテストと順位表をテーブルの上に広げたは、しょんぼりしている。そう、得意教科でまったく点数を稼げなくて、それが余計にショックだったのだ。

「夢がないって言ってたけど、ちゃんは進学を考えてるの?」
「ええと、出来ればそうしたいと思うんですが……
「湘北くらいだと、女の子は推薦で短大とか、専門が多いのかな」
「たぶん……

頼朝は塾、と言いかけて言葉を切った。家の修繕費をケチっているようじゃ、塾費用は出ないかもしれないと思ったのだろう。頼朝の読みは正しい。は両親から受験は無理だと早々に宣告を食らっている。進学したいなら何とかして成績をキープし、推薦で行けということだ。

ちなみに万が一4年制の大学に行きたいなら、国公立でなければ無理とも言われている。こちらは現状の成績で予備校なしでは到底行かれない。もちろん推薦も不可能だ。つまり、進学と言っても、頼朝の言うように短大か専門くらいが関の山。

「だけど、目指す分野が決まってないのに専門は無理だよね」
「はい……
「意欲はあるのに、もったいないな」

そんな風に言ってもらうほど意欲がある自覚のないは少し後ろめたい。だが、親が受験もOK、どんな大学でもいいよと言ってくれたら、もっともっと積極的に進学を考えたんじゃないかとは思う。具体的な夢なんかないけれど、選択肢が少ないから余計に気力が失せるのが正直なところでもあった。

それに、の母は4年制の大学を出ているというのに、就職して2年で寿退社している。なんて贅沢なと思うが、それを母親に言ってもどうにもならない。時代が違う。

「だけどまだ1年の時でよかった。効率的な勉強法を身につけておいて損はないし、状況は変わるかもしれない」

頼朝は少し困ったように笑った。望みがなくても一応勉強しておけば、状況が変わった時に後悔しなくて済む。意欲はあるのだから、現状出来ることはやっておいた方がいい。頼朝の意見はあまりに建設的で、さすがに工務店の息子、とは内心吹き出した。

「実はオレ文系はちょっと苦手なんだけど、それ以外なら助けてあげられるよ」
「ほ、ほんとですか……
「どうも清田家は理系というか、3人揃って現文とか古典とか苦手でね」

それは想像に難くなくて、は声を立てて笑った。

「それじゃあ、都合のつく時に勉強しよう。こういうカフェでも平気かな?」
「はい、大丈夫です」

むしろその方がいい。図書館なんかの静かなところで頼朝とふたりきりなど、たぶん勉強にならない。

「よし、じゃあ頑張ろう。まずは期末で結果が残せるようにしようね」
「は、はい、よろしくお願いします!」
「ははは、オレも頑張ります」

頼朝は笑み崩れながら、の頭をくしゃくしゃと撫でた。また、の心臓が跳ねた。