ミスラの海

06

授業中はだいたい寝ているので、休み時間になったところでは桜木に声をかけてみた。とろりと眠そうな目をした桜木は斜め前のに向かって大あくびをしている。

「国体、どうなのー」
「オレは隠し球で秘密兵器で雑魚に主力は使わねえもんだからよ」
「そんなところで察してやってくれ」

横から入ってきた水戸を見上げては吹き出した。水戸の言うようにだいたいの察しはつく。

「この間の……清田くんも頑張ってるの?」
「野猿か? ふはは、あんなの所詮捨て駒に過ぎんな」

清田が捨て駒で桜木が隠し球ということは、とりあえず初戦は清田がスタメンに入れられる予定なのかもしれない。言葉にしてしまうと桜木の機嫌を損ねるかもしれないから、は心の中で頷いておく。

「水戸は見に行くの?」
「土日にあるようだったらな。神奈川がずっと勝てば見られるかもしれない」
「かもじゃねーだろ、優勝するんだからよ」
「秘密兵器が役に立てばいいけどな」

先日の件で清田のことが気になって仕方なかったは、つまり国体の練習中の彼がどんな様子なのか聞いてみたかったのだが、この様子では聞き出せそうもない。まあそれも仕方あるまい、仲良しのお友達ではないのだから。ふたりを眺めてため息をついただったが、水戸が振り返って首を傾げた。

「お前も見に行くか?」
「へっ?」
「高校入ってから見てないんだろ」

水戸の言葉に含みがあるようには感じられなかった。だが、先日の清田を思い出すと自分なんかが見に行ってはいけないような気がしてくる。それに親衛隊に入っている友人とも会場では顔を合わせたくない。桜木も流川も清田も、応援しに行く理由なんかない。なのに、どうしてだったんだろう。は頷いていた。

「一緒に行くやつがいなかったらまた言えよ、オレらで気にならないなら連れてってやるから」

そんな水戸の言葉にも、は黙って頷いた。

もちろん一緒に国体を観戦しに行く友達などいなかった。中学の時の友人は今日もスタンドで黄色い声を上げているだろうし、誰に聞いても「好きな人が出てるわけでもないのに、交通費かけてまで見に行かない」と言われてしまった。まあ、普通はそんなものだろう。それも仕方ない。

むしろバスケット部に誰か好きな人でもいるのかと返された。いないと答えると、じゃあなんでわざわざ見に行くんだと首を傾げられた。確かに一言で簡単に言い表せられる理由はなかった。

「代表ったって、毎回出してもらえるわけじゃねえんだろ、じいとかセンドーとかもいるんだし」
「昨日は出たって言ってたんだけどな。今日は流川の日かもしれねぇしな」
「出なかったら退場もねえからなあ」

そんなわけで結局桜木軍団にくっついて来てしまったは、桜木がトラブルを起こすことを楽しみにしている水戸たちの後ろでぼんやり歩いていた。他の人たちが言うほど桜木軍団は怖くない。けれど特別に仲がいいわけでもない。話には入りづらい。

今年の国体は東京開催だと聞いて以来気になっていたのは事実だが、さて、私は一体何を見に来たんだろう。

はそんなことを考えながら水戸たちの後ろを歩いていた。その時である。

「やっだあ、ちゃんじゃないのー!」

驚いて顔を上げると、清田の母親が例によって派手な服で小走りに近付いてくるところだった。驚いて足がすくんだに駆け寄りビタンと背中を叩いてくる。つい目を泳がせると、目立つ金髪に目が止まった。尊だ。今日もなんだかだらりとした淡い色の服で、すらりとした体をだるそうに傾けている。

「どうしたの、ひとり? 信長見に来たの? ご飯食べた?」
「えっ、あの、その、友達と一緒に――

清田母の弾丸トークにうろたえながらはぼそぼそと言う。友達とは言ったけれど、果たして水戸たちは友達とは言えないような気がして、なんだか居心地が悪い。その上、尊が微笑みながらやって来る。

ちゃんも来てたのかー」
「こ、こんにちは」
「普段なら尊なんて来ないんだけど、休みだっていうから車出して貰っちゃったのよね」
「暇だったからねー。でもちゃんに会えてよかった」
「ほんとよねー!」

清田母も尊もにこにこしている。先日の清田のことを思うとなんと言ったものかと迷っただが、少し離れた場所から水戸が呼ぶ声がした。

「やっだ、ごめんね、引き止めちゃって! 早く行った方がいいわよ、いい席取らないとね!」
「す、すみません」
……ちゃん、帰りうちの車乗って帰る?」
「あらそうよ! また送ってってあげるわよ」
「え、あの、その」

またにこにこ顔のふたりにどう断ればいいのかわからなくなっていると、すぐ横で水戸の声がして、は勢いよく顔を上げた。最近、ヤンキーの割に常識人というキャラが定着しつつある水戸だが、今も妙に優しげな笑顔で佇んでいる。アルバイトが飲食店だというから、作り笑顔を覚えたのかもしれない。

、席なくなっちゃうぞ」
「ご、ごめん、今行く。あの、ありがとうございます、でも私――
「あらそーお、まあでも会場の中にはいるから、気が変わったら金髪探してね」

また清田母はけたけたと笑いながら尊と連れ立って去って行った。は動悸が激しい胸を押さえながら、安堵のため息をつく。なんとかやり過ごせたが、まだ試合も始まっていないというのに、疲れた。

「誰?」
「清田くんのお母さんとお兄さん」
「清田って野猿か? 何、あいつと仲よかったのか」
「ちょっと色々ありまして……

察してくれたらしい水戸に背中を押されて、はとぼとぼと歩き出す。先を行く和光中3バカを追いかけていると、隣を歩く水戸が初めて聞くような鋭く低い声で呟いた。

……、あいつには気をつけろよ」
「は?」
「おっかさんの方はそうでもないけど、あの金髪、関わるとロクなことにならないぞ」
「な、何それ、どういう意味よ」

水戸が怖い声を出すので、は背中が少し震える。尊に関わるとロクなことにならないって、ロクなことって何? 水戸がそんなに怖い顔をするような、尊さんがそんなことをするっていうの?

……例えばな、ヤンキーという人種ひとつ取ってみても、花道みたいにバカで喧嘩強いだけっていうパターンもあれば、世の中全てを呪ってグレてるようなのもいるだろ。野猿の家族でも、モデルみたいなイケメンでも、中身は悪魔ということもある」

水戸の例えがわからないわけじゃない。が水戸たちを怖がったりしないのもそういう理由からだ。けれど、その例えが尊に当て嵌まるとは思えなくて、はまた怖くなる。一体水戸には尊が何者に見えているんだろう。中身が悪魔だなんて、それは例えだよね?

「私には、悪い人には、思えないんだけど」
「だからだよ。お前が警戒してないからロクなことにならないんだ」

前を行く3人に追いついたので、水戸はやっと怖い顔を解いてへらっと笑う。

「オレたちはお前より少しだけ多く悪い人間を見てるからな」
「そんな……
「ま、気を付けろよ。例えば何かあっても、オレたちは助けてやれない種類だからな」

また意味がわからなくて声を上げそうになっただが、水戸が先に行ってしまったので、言葉を飲み込んだ。助けてやれない種類って、どういうことなんだろう。水戸は一体何を警戒していて、私にはわからないんだろう。なんで私、こんなに怖いんだろう。

国体の試合の翌週、湘北は中間と体育祭の準備で慌ただしい時期になっていた。中間はともかく、体育祭はあまり関係がないは、授業が終わると、さっさと学校を出て街をふらふらと歩いていた。

初めて見た高校バスケットの試合は想像以上に迫力があって、以来、余韻が抜けずに困っていた。残念ながら清田も桜木もその日は出番がなく、その代わり久々に見る流川が大活躍で、親衛隊の絶叫が耳に痛いほどだった。それでもにとっては刺激の強い試合で、未だに名も知らぬ選手のプレイがちらつく。

ちゃんと勝利した神奈川代表はすごくかっこよかった。ユニフォームも全員同じだから、誰がどこの高校かなんてわからなかったけれど、遠目に見てもすごくかっこいい人が何人もいて、ついドキドキしてしまったりもした。

水戸たちは、あっさり勝っちゃってつまんねーな、などと言っていたが、慣れるとあれがつまんねー試合に見えるのかと不思議に思う。清田と桜木の活躍も見たかったなと思うが、次は11月にある大きな大会の予選で湘北と海南が当たらなければ、同時には見られないという。

もちろんあの親衛隊のような騒ぎは御免こうむるが、高校バスケットにハマりそうな気がして、はつい頬が緩む。まだ1年生だし、神奈川では上手い選手にあたる清田や桜木とは知り合いだし、観戦を趣味にするのもいいかもしれないと思い始めていた。

そんなことを考えつつ歩いていたは、真正面から誰かに衝突して「へぶっ」と変な声を上げた。

「ご、ごめんなさい、すみませ――
「大丈夫?」

鼻を押さえながら見上げると、そこには尊がいた。の体は一瞬で熱くなり、そして直後に血の気が引いて冷たくなった。水戸の言葉が耳に蘇って、尊のきれいな顔が恐ろしいような気がしてしまう。

「み、尊さん」
「この間ぶりー。もう学校終ったの?」
「は、はい、今帰りで」
「だけど家、このあたりじゃないよね」
「す、すみません寄り道です」
「オレに謝ってもしょうがないでしょ〜」

清田は近寄るなというし、水戸は気を付けろというけれど、こうして尊の優しい笑顔を見ていると、ふたりの言い分の方がおかしいという気がしてくる。清田の方は家族なので表現がおかしいかもしれないが、嫉妬してるんじゃないの、という気がしてくる。尊があんまりかっこいいから。

「尊さんも学校帰りですか」
「今日は昼前には終わっちゃったんだよね。それでちょっと家具を見たりしてたとこ」
「ほんとにお部屋のデザインが好きなんですね」
「まあね。そうだ、ちゃん、ケーキ食べる?」
「ケーキ!?」
「近くにおいしーところがあるんだよ」

ここは辞退しなきゃいけないんだろうというのはわかっていた。けれど、一緒にケーキ食べて殺されるわけでなし、悪の組織の秘密基地でケーキ食べるわけでなし、危険になりそうもない。は、まあいっかと頷いた。というか美形とケーキなんていうチャンスを逃す女子がいるものか。これは女の子なら当然の反応のはずだ。

「甘いもの結構好きなんだけどさ、やっぱりひとりじゃ入りづらくてさ」
「スイーツ男子なんですか、意外ですね」
「よく言われる〜」

尊はに歩く速度を合わせ、車道側を歩き、歩きスマホが突進してくれば肩を抱いて守ってくれる。その上ケーキを食べるという店は外観からして「おしゃれな人間以外お断り」という雰囲気だ。は頭の奥が痺れてぼんやりしてきた。

美形で背が高くて優しくておしゃれな尊と、こんな素敵な店でケーキを食べる。嬉しい。幸せ。アガる。なんか脳内物質出てる。清田と水戸の言葉など、もう子供の戯言にしか聞こえない。

「どれでも好きなの食べなよ。オレふたつにしよっと」
「ふたつも食べるんですか!?」
「ひとつにしようと思うと迷うけど、ふたつにしておけば悩まなくて済むでしょ」

そういうもんだろうか。まさにおしゃれ以外の何物でもない店内、ケーキもドリンクも基本的に千円前後というメニューにビビるだったが、尊が自分が誘ったんだからお金は気にしなくていい、むしろ自分だけ食べるのは恥ずかしいというので、甘えることにした。

「悪い意味じゃないんですけど、あんまり似合わないですね、ケーキ」

計4つのケーキと紅茶をオーダーした尊に、ついは正直な感想を漏らした。

「それもよく言われる。だけどケーキに限らず、甘くて柔らかいものって、幸せにならない?」

そんなことを言いながらひょいと首を傾げる尊はあまりにきれいで、本当に生きた人間なのか疑わしくなってくる。自分だけに見えてる幻じゃないだろうな。はつられて笑顔を作ってみるけれど、きっと誰が見ても不釣り合いなふたり連れなんだろうなと思う。

一応男女ふたりだけれど、カップルとは思ってもらえないだろうなと思うと、少しだけ胸のあたりがざわつく。こっちは制服だし、似てないけど兄妹と思われるくらいが関の山なんじゃないだろうか。

「そういえば、この間はひとりで帰ったの?」
「国体ですか、いえ一緒にいた友達と」
「なんか怖そうな子たちだったけど、大丈夫なの?」
「はい、確かにいわゆるヤンキーなんですけど、ああいう時は普通の友達って感じで」
「そっか。いいね、ちゃんはそういう意味で人種にこだわらないんだね」

それが高校生であっても、大抵は「どういう種類の人間か」という振り分けがなされる。大まかなカテゴライズでいえば、水戸たちは「ヤンキー」清田なら「体育会系」、今はもう桜木もヤンキーよりは運動系とみなされるかもしれない。さらにそのカテゴリの中で細分化は進むのだが、とりあえずはそうして「人種」を設定されるのが常だ。

そしてが尊の言うように「人種」にこだわっていないのだとすれば、それは自身に明確でわかりやすい「キャラクター」がないからだ。成績はいい方だけれど、それも湘北での話。部活はやっていない、心血を注ぐような趣味もない、我を忘れるほど好きな人がいるわけじゃない、将来の夢も目標も特にない――

水戸も尊に気を付けろなどと言い出した時には「種類」という言葉を使った。もし何かトラブルが起きても、尊という人間は水戸たち「ヤンキー」が力になれない「種類」である、と。

しかしどうだろう、当の尊は明らかにジャンル違いのとでも気さくにお喋りしてくれるし、水戸たちのことも心配しただけで悪く言うつもりはないようだ。の中で清田や水戸の警告がどんどん遠ざかっていく。美味しいケーキと香り高い紅茶と美しい尊に比べたら、雑で荒くて幼い彼らなど。

親衛隊に入っている友人ともうひとり、富中から一緒に進学した仲の良い子がいる。高校生になってすぐ、彼氏ができた。相手は24歳、社会人。ナンパだった。最初はそれに少し違和感を感じただったけれど、しかし友人とその彼氏は大変仲がよく、相手が社会人なのでいつも高校生にしては豪勢なデートをしている。

色々並べて比べてみると、尊や友人の彼氏の方がいいような気がする。特に年上が好みというわけではないだが、だとしてもこの場合は絶対に同い年の清田たちよりも、尊たちの方が勝るとしか思えなかった。

「まあ、関係ないよねえ、そういうのって。そういうのに拘ってたら、永遠に誰かと喧嘩してなきゃならない」

は大きく頷いた。たかだか高校の競技であんなに熱くなって、学校が違うっていうだけで清田と桜木は敵対心むき出しだし、流川に対しては嫉妬でメラメラになっているし、水戸たちなんかその喧嘩が大好きなようなもの。そんなの何の得にもならない、平和が1番だよね。

……喧嘩より、美味しいケーキの方がいいです」
「あはは、いいこと言うね。その通りだよね。ここのケーキ、気に入った?」

それはもう。が頼んだパリ・ブレストとダークチェリーのケーキはものすごく美味しかった。尊が美味しいと勧めるのでオーダーしてみたバニラの香りの紅茶も癖になりそうだった。店はハンパなくおしゃれだし、店員さんも全員おしゃれでかっこよくて美人で、自分が制服の高校生だなんてことを忘れてしまいそうだった。

ぶんぶんと頷いたに尊はまたにっこり笑って返すと、カップを傾けながら言った。

「じゃあまた来ようね。信長には内緒で」

いたずらっぽく笑う尊はまるで宗教画の天使のようだった。この人のどこに悪魔が隠れていると言うんだろう。はもう清田や水戸たちの言葉を思い返すこともない。だってそうでしょ、こんな素敵な人がどうして私みたいなボーっとした高校生とケーキ食べに来たいって思うの?

私のこと、好きなのかもしれないじゃん。