は清田にもらった海南バスケット部の名刺というか、ネームカードのようなものを、どこにしまったのかすっかり忘れていて、20分も部屋をひっくり返していた。結局ネームカードは財布の中のポイントカードの束に埋もれていて、は恥ずかしくなった。
校章に海南の校名と、清田の名と、海南大ドメインのメールアドレス。学校支給のアドレスかと舌打ちしただったが、カードをひっくり返すと、例の雑な字で携帯のメールアドレスが記されていた。それに今まで気付かなかったことにもは恥じた。どれだけ清田のことを軽んじていたんだろう。
は何度も推敲した文面で清田にメールを送った。
清田からは、気を使うなという旨の返信が来たけれど、どうしても会って話したいのだと返した。直接会って話したいから、明日の朝、あの浜まで来て欲しい。ユキにも会いたいから、よかったら一緒にお願い。何度か気を使うな、気にするな、自分は大丈夫だと清田も粘ったが、結局折れた。
日時は12月25日の朝、湘北も海南も、もう冬休み。清田はこの日は部活がないと言うし、は母に、担任がクラスの生徒向けに早朝補講をしてくれるというので学校に行くと嘘をついた。
よく晴れていたけれど、12月の冷たい朝、は制服で家を出た。まだまだ本調子とはいえない娘を案じた母親は、マフラーをきつく巻かせ、学校の駐輪場まで着ていけとダウンまで羽織らせた。
は自転車に跨がり、静かに漕ぎだす。清田と遭遇した浜へは、本当なら自宅の近くから海方面を通るバスが出ている。だが、早朝補講だと嘘をついた手前、自転車で出ない訳にはいかない。バス停の近くに自転車を止め、それをうっかり母親に目撃されるようなこともあってはならない。
は湘北まで乗り付け、学校の近くのコンビニに自転車を止めると、そこから歩いて湘北の最寄り駅まで向かった。数駅乗り、さらにバスに乗れば、海まで行かれる。途中で乗り換えれば清田の家にも行かれる。
清田に会うのは、少し怖かった。先日の件を考えても、怒鳴られたりするわけがないのはわかっている。だけど、調子に乗って、招かれるままに彼の家にずかずか入り込み、部活で忙しい彼にも不愉快な思いをさせてしまったと思うと、恥ずかしい上に申し訳なくて、合わせる顔がない。
けれど、水戸の言うように、謝って礼を言いたかった。そして、それこそとんでもないところを見られてしまったけれど、それは自分も悪かったのだから、出来れば気にしないで、忘れてくれたらと思っていた。清田のバスケット生活の邪魔になるようなことはしたくない。
早朝の海は美しいけれど、何しろ吹き付ける海風が冷たい。はダウンを着てきてよかったと思いながら、通学用のバッグの中からニットの手袋を取り出して嵌める。あまり変わらないが、ないよりはマシだ。
あの日、愛犬を亡くしたことが悲しくて悲しくて、だけどそれはが生まれる前から一緒だった両親も同じで、が悲しがっていても、両親は慰めてくれなかった。身近な命を亡くしたことのないにとって愛犬の死はあまりに苦痛で、だけどそれをどう処理したらいいのかもわからなかった。
海へ行ってみようと思ったのは、まず誰もいないと思ったということと、海ほど大きな場所に出れば、ちっぽけなの悲しみくらい、飲み込んでくれるのじゃないかと思ったからだ。
まあ結局、悲しみどころか、はユキごと海に飲み込まれたわけだが、その時には憎悪にも似た「死」というものに対しての憤りや恐れがだいぶ減っていた。そして清田家へ連れて行かれ、清田母に捕まってリビングでお茶を出された頃には、すっかり落ち着いていた。
あの日、愛犬を亡くして泣いていたを助けてくれたのは、清田だ。
そんなことを忘れていた自分が情けない。それを忘れて尊や頼朝にふらふらと擦り寄り甘えて、好かれているのかもなどと考えていた自分が恥ずかしい。だから、怖くても恥ずかしくても、清田に会いたかった。
そうして待つこと数分、の背後からユキの吠え声が聞こえてきた。最後にユキと会ったのはもう何週間も前のことだ。清田家の男の中でも、ユキとは楽しい思い出しかないし、一晩一緒に過ごした仲だし、その声には胸が弾む。今すぐ走って行って、彼に抱きつきたい。しかし、今日はそうはいかない。
寒いせいもあって、はゆっくりと振り返った。
清田はのところへ行きたがるユキをリードで押さえながら、むず痒そうな顔で立ち竦んでいた。冬の海風が吹き付けているというのに、首にマフラーを巻いただけで、制服のジャケットがはためいている。ほんの5、6メートル位の距離を置いた場所から、清田は動かない。
「お、おはよう」
「おは。……あ、それ以上こっち来んな」
もう少し歩み寄ろうと思ったを、清田は手で制して首を振った。
「ご、ごめん、なさい」
「あわ、違う、そうじゃなくて! 嫌だろ、その、あんなことがあったのに、一応、兄弟だし」
清田は尊の弟である自分に近寄られたくないのでは、と考えていたらしい。は慌てて否定する。あんなことがあったけれど、特に男性不信に陥るということもなかったし、人に触れられても怖くなったりはしなかった。なので、もう少し距離を縮める。ユキはまだ届かない距離だ。
「ほんとに、すまん」
「え!? あ、違う、そうじゃなくて、私が、謝ろうと思って」
「はあ!? なんでだ!」
「だって、清田くん近寄るなって、ちゃんと教えてくれたのに、私そんなこと忘れて」
「てかすまん、話の途中で悪いんだけど先にユキを、こいつもう限界」
「ふぁっ!? わ、わかった、ユキ、おいでー!」
清田の手に伸縮式リードがあるのを見つけたは、その場でしゃがんで両手を広げた。解放されたユキが猛ダッシュで飛び込んでくる。案の定はその場で転倒、砂まみれの顔をベロンベロン舐め回された。
「ちょ、お前少しは加減しろバカ! 大丈夫か、ユキ、この――座れ!!!」
ユキの勢いと清田の声が可笑しくて、は舐められながら悲鳴を上げて笑った。こんな風に声を上げて笑ったのは久しぶり――またあの日のことを思い出す。海に飲まれて、束の間絶望的な悲しみを忘れたは、可笑しくて可笑しくて、清田に海から引き上げてもらいながらずっと笑っていた。
ようやく身を起こしたは、ユキにぎゅうっと抱きついて手袋を外すと、その大きな背中を力を入れて撫でた。が飼っていたのは中型だったし、もう老犬だったから、優しく撫でてやるのが当たり前だったけれど、大型のオスでまだ2歳のユキは少し力を入れてやらないと、伝わりにくい。
そうしてユキもやっと満足したのか、の傍らにちょこんとお座りをして清田を見上げた。兄ちゃん、だよとでも言いたげに尻尾を振っている。それに気付いた清田は、の正面に同じようにしゃがみ込んだ。
「お、おい、また砂とヨダレだらけだけど大丈夫かそれ」
「平気平気、ちゃんと持ってきた」
はバッグの中からウェットティッシュを取り出すと、顔を拭いて、制服についた砂をバタバタと払った。
「ありがとう、ユキに会いたかったから嬉しい。てか制服? 今日部活ないって……」
「だからだよ。部活ないのにこんな時間に起きる理由がないから」
「そ、そうか、ごめん」
「それはも同じだろ。もう冬休みなのに」
確か、以前ここで遭遇した時、清田は「ちゃん」と呼んでくれていたはずだ。だが、いつのまにやら「」になっていた。はそれが胸に刺さる。最初は清田の友達のようなものだったはずなのに、一番遠い人になってしまった。
「……、痩せたな」
「あ、うん、なんかダイエットになっちゃった」
「笑い事かよ。あんな――ひどいこと、オレが連れて帰ったりしなければ」
「清田くんのせいじゃないよ。水戸にも言われてたの、気を付けろって。なのにそんなこと聞きもしないで、浮かれて調子に乗って、清田くんの家の中に土足で入り込んで、だからあんなことになったんだよ」
はウェットティッシュをしまうと、傍らに投げ出してしまった小さな紙袋を砂浜の上にちょこんと置いた。
「だけど、清田くんには本当にごめんなんだけど、私、ずっと楽しかった。あんな風にたくさんの人がいるお宅は知らなかったし、お兄さんたちにも良くしてもらって、嬉しかった。だからこれ、渡してもらえないかな」
清田が難しい顔をしているので、は紙袋に手を入れて、中身を取り出す。
「これ、尊さんにもらったMP3プレイヤー。ぶーちんさんから少し聞いたけど、私は尊さんのことちゃんと理解できなさそうだし、やっぱりショックだったから、これを返すことで察してもらえたら、と」
そして次にピンク色の封筒を取り出す。
「これは頼朝さんに。テスト、最悪の結果になっちゃったけど、忙しいのに時間をたくさんかけてもらったお礼に」
「だけどそれは――」
「うん。だけど、テスト前だっていうのに、街をフラフラしてた私も悪いから。少ないけど、図書券」
次に犬用オヤツ。国産鶏肉のジャーキーだ。大型でも齧り付けるハードタイプ。
「これはユキね。壁に穴空いてた時、助けてもらったお礼。あとこっちは映画の鑑賞券。小父さんと小母さんに」
「なあ、――」
「それと、清田くんにはすごく迷って、でもまさか現金てわけにもいかないし」
「、こんなこと――」
「だから、ヘアバンド。確か試合の時付けてたよね」
「なんでこんなことするんだよ!」
清田はしゃがんだ膝の上に腕を置いて、がくりと頭を落とした。
「お前にひどいことしたのはこっちだろ。あんな、乱暴なことして、泣かせて、具合悪くなったのだってあのせいだろ、こんなに痩せて、しかもそのせいで具合悪くなってテストちゃんと出来なかったのに、たかが体調不良みたいな言い方――」
の体調不良が尊の件だと知るのは清田との母親だけだ。頼朝はのテストがひどい結果に終わったことを、そんな風に彼に漏らしていたのか。知らぬこととはいえ、頼朝はずいぶんなことを言ったものだ。
「……、もう、例えば尊や頼朝がいなくても、うちには来られないよな」
「え?」
「ああ、こんなことオレが言えたことじゃないんだけど、親父もお袋も、お前のこと好きなんだよ」
は息が詰まって、思わず口元を両手で覆った。
「女の子がひとりくらいいたらねえ、ウチの男どもは可愛くないから、って、お前が来ると本当にふたりとも喜ぶんだよ。ユキもそうだし、ばーちゃんも『誰かあの子嫁にもらったらいいじゃないの』とか言い出すし、さっきのぶーちんたちだってそうだ。連絡先聞きそびれたって言ってた。またお茶したいって」
の目からぽろぽろと涙が零れる。だって同じだ。小父さんも小母さんもユキもおばあちゃんも、ぶーちんとだぁ夫婦も、好きだ。出来ることなら離れたくない。またバーベキューでわいわい楽しんだりしたいし、あの奇妙なロココガーリーな喫茶店も行ってみたい。
「だけど、もう嫌だよな。こんな、もう最期の別れみたいな――って、何泣いてんだ!」
「わた、私もみんなのこと好きだよ、だけど、無理じゃん、出来ないじゃん」
もしかしたら尊あたりはけろっとしてを歓迎してくれるかもしれない。けれど、頼朝はの結果を怠慢の裏切りと受け取ったようだし、どんな顔して遊びに行けばいいというのだ。尊も頼朝もいない時ならいいかもしれないけれど、それをどう清田夫婦に言えばいいというのだ。
「泣くなよ、悪かった、なあ」
「どうしたらいい? 私もまた小父さん小母さんたちとお喋りしたい、だけど、どうやったらいいの?」
「、泣かないでくれよ、頼む、なんでいっつも泣いてるお前としか」
清田も頭を抱えた。愛犬を亡くした時、尊の部屋で、そして今。たった3度でも、の涙を目の当たりにしている清田は呻き、そして思わず膝を抱えるの手を取った。海風に晒されて、冷たくなっている。清田はユキのリードを足で踏みつけると、もう一方の手での頭を撫でた。
「き、清田くん」
「ウチのことはオレがなんとかするし、ユキに会いたい時はここで会えばいいし、ぶーちんたちはがいいなら連絡先教えておくし、だから、無理しないでいいから。あんな、怖い思いした家になんか、来なくていいから」
は自分の気持ちを的確に表す言葉が見つからなくて、けれどそんな風に言ってくれる清田の気持ちが嬉しくて、彼の手を握り返した。清田の手もまたつめたく冷えていたけれど、なぜだか今は寒さを感じなかった。そんなの頬をまたユキがベロンと舐める。
「なんで、清田くん、どうして、あの時も」
「あの時? ああ、最初にここで会った時のことか?」
は頭の片隅にちらりと顔を覗かせた水戸の言葉を思い出していた。男は理由もないのに優しくしたりしない、真っ当な理由が育つには時間がかかる。それならば、清田は一体――
「……前に、言ったよな。年上の犬、亡くしたことあるって」
「マサとコマ?」
「そう。特にマサだな。オレはあいつのことが大好きで、いつか死ぬなんて考えたことなくて」
しかもマサが亡くなったのは、清田が7歳の時。まだまだ小さい子供の内だ。
「冷たくてカチカチになって、薄目開いてるマサを見るだけで泣き喚いてた。親父になんとかして生き返らせろって言って、だけどそんなこと出来るわけないから、親父やお袋のこと殴ったり蹴ったりして、当時中学生の頼朝が泣いてるところを見せなかったもんだから、それも腹が立って殴りかかって」
マサを亡くしたショックで暴れる清田を、この時ばかりは家族全員何も言わずに受け止め続けた。こんな風に発散しないままでいたら、幼い彼が壊れてしまうんじゃないかと思ったからだ。
「お袋が言うように、コマがちゃんと側にいてくれたっていうのに、その頃コマとどんな風に過ごしてたのかなんてオレは全く覚えてないくらい、悲しくて辛くて、もうどうにもならなかった。まだそんな長い人生でもねえけど……あんなに辛かったことはないんだ。あれより悲しかったことも、ない」
何を察したのか、ユキが今度は清田の頬をベロンと舐める。も繋ぐ手に力を込めた。
「だから、犬死んじゃったんだって泣いてたから、ああいうキツい思いしてんのかと思ったら、放っとけなくて。オレはマサの死から立ち直るのにすごい時間かかったし、あの時のオレと同じだと思ったら、こりゃ大変だと思って」
マサを失って絶望した自分とを重ねていた。その後にコマを亡くした時はそこまで落ち込まなかったけれど、あの時は母親が正気を失うほど悲しんだので、悲しみを飲み込む方法を見つけてしまった。だけど、はまだ見つけていないかもしれないから――
「そのあとすぐ尊と仲良くなってたから、ヤバい、大変なことになると思って……それで迷惑だっつって遠ざけようとしたんだけど、なんかお前楽しそうだし、親も楽しそうだし、尊のことはちょっと心配だったけど、ユキにも触れるし、それであのキツいのが消えるなら、まいっか、って――」
はまたいつかの言葉を思い出す。ユキを借りた翌朝のことだ。清田父にトイレを貸している間、ユキと一緒に眠れて嬉しかったというに、朝練前の清田は眠そうな顔で「よかった」と言って微笑んだ。
その時と同じように、の胸が痛んだ。清田はそうやって、の中にあった「愛犬を亡くした悲しみ」をずっと気にかけていたのだ。自分が経験した苦痛を感じているかもしれないの中から、早くそれが消えるようにと。
「だけど、お前が可哀想だからなんとかしてやんなきゃとかそういう、なんか親切みたいなことじゃなかった。あんなキッツいのが近くにあるんだと思ったら、早く消えろって、あんなものなくなれよ、って、ただそれだけで」
は頷いて、繋いだ手を揺らした。それはわかる。清田は優しくしたつもりはないんだろう。
「でも私は救われたんだよ、ユキと一緒に一晩過ごせて本当に幸せだった。結果はちょっとアレだけど、お兄さんたちと過ごした時間も楽しかった。夢みたいな時間だった。だから、感謝してるから、これ、届けて欲しい。もし怪しまれたりしたら、テスト酷かったから、外出禁止令出てるとでも言ってもらえたら」
そうやって時間をかけて、いつかまたバーベキューに行かれる日が来ることをは願った。
「わかった。約束する。ちゃんと全員に届ける」
「ありがとう。……それから、ひとつ、お願いがあるんだけど」
「おお、なんだよ、オレに出来ることなら」
「私のこと、名前で、呼んで」
「は?」
清田が目を丸くしたので、は吹き出し、そしてまた目が涙に滲んだ。
「あの時、ユキをモフる? って言ってくれた時、確か清田くん私のこと『ちゃん』て言ってくれてた。清田くんの家族にもそう言われるようになって、だけど清田くんはいつの間にか、、になってて、なんかそれが、ごめん、つらくて――」
再度清田の大きな手がの頭を撫でた。わしゃわしゃと、まるで犬にするみたいに。
「わかったよ、じゃあお前もオレのこと名前で呼べよな」
「いいの?」
「いいじゃん別に。……友達だろ」
ずっとしかめっ面をしていた清田だが、そう言うと、照れくさそうに唇を尖らせた。
「そっか。じゃあいいか。よろしく、信長!」
「おう、早く元気になれよ!」
ふたりは繋いでいた手を解くと、拳をぶつけ合い、そして声を立てて笑った。