ミスラの海

05

日曜は18時で学校が閉まるため、部活は遅くとも17時に終了するのが決まりになっている。それは国体へ向けた神奈川代表の合同練習でも同じ。ギリギリまで練習をしたところで代表たちは一斉に体育館から引き上げていく。学校自体が18時で閉まるので、全員急いで帰り支度をしなければならない。

「こーいう時ウチの制服じゃなきゃダメっていうのは面倒っすねえ」
「オレは部ジャーで歩くの好きじゃないからいいけど」
「あーくそ、湘北なんかジャージ羽織れば終わりとか羨ましい」

試合ならともかく、ジャージのまま下校は校則違反、それが海南大附属である。その割には髪型などにはあまり厳しくないのが不思議に思われるところだが、つまりこれは運動部が盛んになってから出来た校則で、運動部ではない生徒にはあまり当てはまらない項目である。

練習着を靴下まで全部脱いでバッグに突っ込み、制服を一揃い着て靴まで履き替えるのが1年生のうちはものすごく手間取る。これが学年が上がるごとにスピードアップしていき、3年生ともなると1年生の半分程度の時間で着替え終わる。清田もだいぶ慣れてきたが、それでも遅い。

「あー腹減った。帰るまで我慢できっかな」
「あんまり買い食いしてると月末またつらいぞ。さっさと帰っちゃえばいいのに」

清田の隣で練習着をきちんと畳んでいる神が鼻で笑う。清田の毎月の小遣いは基本的に部活帰りの買い食いに消える。だが、清田に言わせれば、家が近いチャリ通学の神にはない誘惑が帰り道には多い。それに抗いながら毎日帰宅していると、たまにプツンと理性の糸が切れる。気付くと何かもぐもぐやっているというわけだ。

「てか今日日曜だし、ウチまた人呼んでバーベキューやってんすよね。気が重い」
「そういうの得意なんじゃなかったのか」
「得意だけど楽しいわけじゃないすから」

それでも小学生の頃はまだ楽しかった気がする。お小遣いをもらえたり、この時ばかりは野菜を食べなさいと怒られないからだ。けれど、年齢が上がるに連れて面倒なことが増えてきた。最近ではバーベキューをやっていても、皿にもらってダイニングで食べることも多い。

「お前って要領がいい三男じゃなかったの」
「いやまあそうなんでしょうけど、色々と面倒くさいんですよ」

清田家も例に漏れず、繊細で頑固な長男、自由で奔放な次男と来て、三男である清田は要領がよく愛想もよく、人に愛されるコツというものを熟知していた。だが、それは子供の頃の話で、最近は少し事情が違う。清田家では頭の出来が上から下に向かってきれいに下降していて、誰も長男に口答えできない。

そして次男の尊は規格外の美形に育ち上がった。これは母親が浮気を疑われるほどに親類縁者の中に似た顔がいない突然変異で、自由で奔放な尊だけれど、特に縁者の女性からは特別視されている。つまり、清田が3人の中で飛び抜けているのは運動能力だけで、しかしそれは兄ふたりにとってはどうでもいい能力なのである。

そういう、いわば「格付け」が時間をかけて形成されて、両親はともかく、親類他人の別なく人の出入りが多い清田家において、3番目の信長は「名前の通り暴れん坊で勉強もできない」ということになってしまっている。勉強が出来ないのは間違いではないのだが、それはあくまでも成績優秀な長男に比べての話。比較対象がおかしい。

県下最強を誇る海南大附属バスケット部でスタメンを維持したければ赤点などもっての外、何もトップでなくてもいいから補習なんぞに時間を取られるような真似は出来ない。春からスタメンの座を勝ち取り続けている清田もそれは例外ではないから、彼なりにきちんと成績は維持しているのだ。

けれど無責任な大人は長男と三男を比べて「ちゃんと勉強しろよ」などと言うし、尊と比べて「もう少しきれいにしなよ」などと言う。余計なお世話だ。しかもそれぞれが決して清田をバカにしたり蔑んでいるわけではないからよけいにタチが悪い。可愛い清田家の三男はイジっても怒らないマスコット的存在なのだろう。

16歳の清田にとって、こういう付き合いの面倒臭さはピークに達しているというわけだ。

「犬に育てられた割にはセンシティブなんだな」
「それもうやめてくださいて」

清田母がことあるごとに言う「信長はコマに育てられた」説である。だが、常に慌ただしく騒がしく忙しい清田家で、いつも幼い清田に寄り添って見守ってくれたのは確かにコマだ。しかし清田本人は物心ついた時からマサの方に懐いており、そのせいもあって健気なコマは清田母に愛された。

コマが死んだ時だってもちろん悲しかった。けれど、マサが死んだ時より清田は大きくなっていて、飼い犬の死で泣き喚くのは恥ずかしいことなんじゃないかと思うようになっていた。その上母親がコマの死に取り乱していたので、これまで通り「1番子供」という特権で何でも感情を振りかざせたはずが、調子が狂った。

そこから清田は自分の家が面倒くさく感じるようになっていった。コマの死から時を置かずしてユキが来た時も、また犬かよと言って父親に殴られた。その上ユキは家族の中で1番若く、普段家にいない清田に対しては、懐くのにえらく時間がかかった。子犬の頃は基本的に無視されていたほどだ。

家族は嫌いじゃない、家に出入りしている人たちも嫌いじゃない、ユキだって可愛い。それでも今はどうしても面倒くさい。出来るなら海南の寮に入りたいくらいだ。そうしたら24時間バスケットと仲間と友達と過ごせる。

けれど、そんなことはとりあえず不可能だ。

「しゃーない、帰りますか」
「おう、明日遅刻するなよ」

18時ギリギリで神奈川代表たちは正門を飛び出た。ほぼ全員でぞろぞろと駅に向かい、帰っていく。その道中、清田は前を行く桜木の赤い頭を見ながらのことを思い出していた。親が今日のバーベキューに誘ったのだとにこにこしていたが、来るわけねえだろバカじゃねえのと思った。

友達というほど友達でもない、ましてやみんなが勘繰るように彼女でもない。言葉にしなければならないのなら「知り合い」というくらいが精一杯だ。それがなんで人ん家のバーベキュー来るんだよ、しかも女が。

だから、清田は日が落ちてなお盛り上がっているバーベキューの煙が立ち上る家に帰り着き、母親に声をかけられるとがっくりと肩を落とした。が本当に来ているという。あの女、バカなのか?

「っていねえじゃん。帰ったの?」
「尊の部屋じゃないかしら」
「ハァ!?」

サッと血の気が引いた清田は纏わりつくユキを手で制し、靴を脱ぎ捨てて縁側から家の中に駆け込んだ。

一番多い時で清田の祖父母、父方の叔父、父親の従兄弟、母方の叔母が同居していた清田家は広く、横長というか縦長というか、とにかく長方形をしている。それを貫く長い廊下を靴下の清田は音もなく駆けていく。階段を駆け上がりまた廊下を滑って自室の前も通り過ぎ、一番奥にある尊の部屋へ向かう。ドアが開いていて、中からはの笑い声が聞こえてきた。

「こんな違うんですね、これ持って行って色々試してみます」
「中身は消しちゃっていいからね」
「えっ、もったいないです。取っておきます」

そんな会話が漏れてきたところに清田は滑り込んだ。と尊はイヤホンやらヘッドホンを並べて何やら喋っていたようだ。ふたりは寄り添うように座っていて、今度は頭に血がのぼる。

「おい、何やってんだよ!」
「うわっ、き、清田くん、おかえり」
「おお、早かったな、おかえり」
「おかえりじゃねえだろ、何やってんだこんなところで!」

憤慨する清田だが、と尊は顔を見合わせてきょとんとしている。

「尊さんがいらないMP3プレイヤーくれるっていうから」
「ついでにイヤホン試したり模様替えの相談に乗ってたんだけど」
「な、なんかまずかったかな」

清田はの言う「尊さん」が気持ち悪くて息を飲み込む。そして、ぼんやりした顔の尊には目もくれずに、部屋の中に踏み込むとの手を掴んで引きずりだした。

「ちょ、清田くん!?」
ちゃん、帰る時は声かけなよ、送って行ってあげるから」

やはり優しく微笑む尊はが清田に引きずられていく背中に向かってそう声をかけ、ひらひらと手を振った。

突然のことでうろたえるの手をぐいぐい引いて、清田は階段を降りる。スピードが早いのでは変な悲鳴を上げているが、構わずに進むと、庭ではなくて玄関を出て外に放り出した。の靴は縁側に残してあるので、裸足。けれど、清田にはそれが目に入らなかった。

「お前バカなのか?」
「な、ひどい、なんなのよ」
「そりゃオレの台詞だ! おいでって言われたからって、マジで来るかフツー」
「ちが、私、借りたワンピース返しに来ただけだってば!」
「それがなんであいつの部屋にいるんだ!」

あまり大きな声は立てていない清田だが、その声を聞きつけたか、ユキが小走りにやってきてに纏わりついた。だが、ふたりが険悪になっているのを察したのか、間に入るとちょこんとおすわりをしてちらちらと顔を見上げている。

……先週の件は、事故だろ。お前、オレの友達か? 彼女か? 違うだろ」
「そうだけど……
「服を返しに来ただけならそれだけで帰ればいいじゃないか。なんでホイホイうちに入り込んでるんだ」
「だってそれは、尊さんが――
「だからお前はアイツの彼女かっていうんだよ! 違うだろうが!」

は両手で小さなMP3プレイヤーを握りしめたまま、不機嫌な顔をしている。

「いくらうちが適当な家だからって、ある程度の境界線は守れよ。元々はオレの知り合いじゃねえか。そのオレがいないところで何かあったらどうするんだよ、オレは責任取れないんだぞ、それをわかってて人ん家にズカズカ入り込んでるって言うなら、迷惑だからやめてくれ」

だが、尊と楽しい時間を過ごしていたは清田の言い分が理解できなくて、余計にむくれる。しかも裸足で外に放り出されたことがじわじわと彼女の心に火を付けて、どんどん燃え盛る。

「何かあったらって何? 私、バーベキューごちそうになって、尊さんとお話してただけなんだけど」
「察しの悪い女だなほんとに……もういいよ面倒くせえ、帰れよ」
「だから、清田くん関係なくない?」

上目遣いで睨むを見ているとイライラしてくる。清田はため息を付いて腕を組んだ。

「関係ねえと来たか。そういうことは尊の女になってから言えよ。それまではあくまでもお前は桜木を介して知り合ったオレの知り合いだ。そこで何かあってみろ、迷惑を被るのはオレだけじゃない、桜木もだ。てことは湘北のバスケ部にもとばっちりが来るんだ。あの流川にもだ」

まだは不可解そうな顔をしている。清田が何を言いたいのかわからないのだろう。だが、清田の方もが納得するまで丁寧に説明してやる気はない。あくまでも清田家との間には三男信長という窓口があるべきだったのに、はそれを介さずに飛び込んできてしまった。軽率極まりない。

「今、国体に向けてバリバリ練習してんだ。邪魔するな」
「ちょっと待って、清田くんたちの邪魔なんて私」
「思ってなくても邪魔になるんだよ。今日はオレが送るからもう帰れ」

清田はそう言い捨てると、縁側にあったの靴と荷物を取ってきて投げつけた。その様子にユキがの周りをウロウロしているが、清田はそれも追い払った。そして、が靴を履いたのを確かめると、また手首を掴んで家を出た。

「ちょっと、私まだご挨拶とか――
「うるせえな。おじゃましました、またいつでもおいで、はい来ます、っつってまた来る気かよ」
「そんなこと言ってないでしょ! てかさっきから清田くんの話よくわかんないんだけど」
「わかってくれなんて言ってないだろ。もうなんでもいいからうちに近寄るな」

はバス停に着くまで延々と文句を言っていたが、清田はもう取り合わなかった。痛いと言おうが手も離さなかったし、歩く速度も緩めなかった。おかげでバス停に到着した時には、は文句を言う気力が萎えるほど疲れていたが、それももうどうでもよかった。

「ユキが海に引きずり込んだのは悪かった。それは謝る」
「そんなこと、別に――
「だけどこういうのはこれっきりにしてくれ。頼む」

自分には理解できない理由で理不尽な扱いを受けたと思っていただったが、清田が真剣な顔で頭を下げるので、驚いて身を引いた。思い当たることは何ひとつないはずなのに、自分が悪いことをしていたような気になる。清田に頭を下げさせるようなことをしたんだろうか――

……もしユキと遊びたいんだったら、これ」
「なにこれ」

は突き出されたカード状のものを受け取って顔を近付けた。それはいわば海南バスケット部の名刺であった。海南の校章と校名、海南バスケット部のロゴマーク、清田の名前、そしてメールアドレス。この仕上がりからして清田が個人的に作成したものではなさそうだ。

「ユキと遊びたくなったら連絡しろ。あの浜だったら連れていけるから」

または清田の言う意味がわからなくて混乱してきた。家には近付くな、だけど犬なら会わせてやってもいいということか? しかしそれはなんだかとても失礼な態度に見える。

「べ、別に私ユキにそこまで――
「それならそれでいいよ。ほら、バス来たぞ」

急に清田が穏やかな顔になったので、はまたわけがわからなくなりつつも、バスが来てしまったので大人しく乗り込む。手を振るようなことはしなかったけれど、横目でちらりと見ると難しい顔をした清田がじっと見上げていて、は慌てて目を逸らした。

バスが走り去るまでを見上げていた清田も、やがて振り返ると背中を丸めてバス停を去って行った。

「あれ、ずいぶん早かったな」
「すぐバスが来たからな」
「家から呼び戻されて帰ったことにしておいたけど」
「好きにすれば」

バス停から戻った清田は、玄関先でユキを撫でていた尊の言葉に低い声で返しながら靴を脱ぎ、家の中に上がる。そろそろ20時になるが、バーベキューはまだ終わる気配がないし、腹は減っているがの話になるのは嫌なので、庭には行きたくない。

「ノブ、ちゃんのこと好きなの?」
「別に。だけど手は出すなよ、友達の友達みたいなものなんだから」
「それって理由になるわけ?」
……もうすぐ国体なんだよ、邪魔するな」
「それも理由にならないよ」

尊はに向けていたような優しい微笑みでユキを撫でている。苛ついた清田はすらりとした尊の後ろ姿を睨みつけ、精一杯低い声を出す。

「そうかよ。じゃあ、好きだから手を出すな」

友達というほどでもない、強いて言えば知り合い、そんなには何の義理もない。今のところ特別な感情もない。それでも尊だけはダメだ。友達なんかじゃないけれど、正直湘北がどうなろうと知ったことじゃないけれど、桜木や湘北の部員たちのためにもそれは認められない。

そして、愛犬を失って泣いていたのためにも、尊だけはダメだ。

そんな弟の低い声に尊は振り返り、にっこりと笑う。

「それも理由にならないね」

清田はもう何も言わずに踵を返し、どたどたと足音を立ててキッチンに入り、目についた食べ物を引っ掴むと自室へ駆け上がった。正直足りる気はしなかったけれど、それは後でまた補充すればいい。今はとにかく家族と顔を合わせたくなかった。

乱暴に制服を脱いで放り出し、下着だけでベッドに飛び込む。本人が不在の間にいつも母親が開けておく窓から夏の名残の風が静かに吹き込み、庭の喧騒を伝えている。それすら鬱陶しかった。

もうすぐ国体なんだ。神奈川代表なんだよ、オレ。神奈川の全ての高校生の中から選ばれたんだ、1年生では3人だけなんだ、その中のひとりなんだよ、オレ。だから邪魔するなよ、家族のことに構ってる暇なんてねえんだよ、邪魔するなよ、オレの領域に入り込んでくるんじゃねえよ――

どうにかしてを罵倒しようとした。色んな思いが渦巻く頭の中、言葉では出来るような気がした。けれど、ユキに引きずり込まれてびしょ濡れになりながら笑っていたしか思い出せなくて、清田は呻いた。朝日に照らされたピンク色の唇の記憶が襲い掛かってくる。

海水に洗われて白い頬、ピンク色の唇、額に張り付く髪、夏休みの街、桜木に水戸、淡い緑と黄色のグラデーションのロングワンピース、きらりと揺れる赤いピアス、尊の隣で嬉しそうに笑っていた、あの顔――

けれどもうこんなことは二度とないはずだ。迷惑だと断言したし、それは態度にも出したし、さすがにひとりでこの家にやってくることなんてないだろう。ないはずだ。尊の笑顔も今だけのはずだ。理由にならなくてももうには関わることは出来ないはずだ。

清田は祈るような気持ちでそれを願った。頼むから、もうこの家のことは忘れてくれ。