ミスラの海

18

の母親は、最後にはまた涙を浮かべながら何度も「ごめんなさい」と繰り返した。のためを思うなら、せめて高校を出るまでは神奈川にいるべきだと思うけれど、何しろ自分は専業主婦だったし、郷里の遠い同士の結婚だったし、これ以上清田家に寄りかかっていられないと言って頭を下げた。

清田はそれをぼんやり聞いていた。やがて話が終わり、ふたりがリビングに戻ると、清田母が三男を手招き、いつかのように両腕を撫で擦った。

「あんたが帰ってくるの、もう少し後だと思ってたから、ちゃん、今ユキと一緒に海に行ってる。前にあんたと一緒に行ったところだって言ってたよ。行っておいで」

清田は力なく頷き、リビングを出ると、部屋で汗をかいてしまった服を着替えた。そして携帯と財布だけポケットに突っ込むと、リビングにいる母親たちには声もかけずに玄関を出た。

1年前、お盆休みで家族全員勢揃い、だけでなく、どこもかしこも休みなものだから、わらわらと色んな人が出入りしていて、それがうざったくなった清田はこんな風にふらりと家を出た。行くあてなどなかったけれど、うるさい家でバカな三男でいるのも面倒くさかった。そして、に出会った。

真夏の空は大きな雲がゆったりと流れていて、日陰と日向にくっきりと別れている。その下をとぼとぼと歩く清田の背中に、真夏にしては涼やかな風が吹き付けた。清田はその風に顔を上げると、小走りになり、やがて速度を上げ、海に向かって走りだした。

風とともに清田は住宅街を走り抜ける。走れば走るほど、風には潮の匂いが混ざり、を思い出す。真夏の海、真冬の海、いつも海にいるは泣いていた。

を大切に想うようになったのはいつからだったんだろう、を好きだと思ったのはいつが最初だったんだろう、けれど思い出すのは海を背に泣いているばかり。

を守るためなら、本当に腕とバスケットを失ってもいいと思った。
を最初に抱いた時は、だぁの気持ちがわかる気がした。
が父を亡くしたと聞いた時は、早く大人になりたいと思った。

清田は全速力で海まで走り、転がるようにして浜に降りた。

真夏の太陽の光に照らされた砂浜は白く反射していて、ユキと並んでそこに佇むの後ろ姿、それを両腕で抱えてどこかへ消えてしまいたかった。家族も学校も全部捨てて、とふたりだけでいられる場所があるなら、そこへ行きたいと思った。

それができるなら、きっとこんな風に苦しい思いはしなかったんだろう。清田は叫んだ。

――!!!」

ゆっくりと振り返るに向かって清田はまたダッシュ。砂を蹴り上げ、速度も落とさずにに飛びついた。はしゃぐユキが後ろ足で立ち上がってどついてくるが、清田は何も言わずにをきつく抱き締めた。

「早くない!? まだ帰って来ないと思うって小母さんが」
――
……もう話、聞いたの」

は頷く清田の背中を撫でて、ゆっくりと息を吐いた。

「私がね、信長にだけは自分で伝えてくれって言ったの。あんたがインターハイ行ってる間、ものすごい喧嘩したんだー。私のために田舎に帰るみたいなことを言い出したから、そんなの、私のためじゃない、お母さんの都合でしょって。一時は本気でひとりでこっちに残ろうかと思ってた」

くっついていたいけれど、何しろ暑い。身を引いたは、生気のない顔をしている清田の頬を撫でる。

「でもそんなの無理だよね。今と変わらないまま高校生やりながらひとりで生活するなんて、まあその、そんなお金、ないからね。実は、小母さん、うちで預かりましょうかって言ってくれたの。あと1年半くらいだし、信長とのことは、間違いがないようにちゃんと目を離さないからって。最後の方は小父さんも離れを建ててもいいんですよなんて言ってくれたんだよ」

母親の郷里と言っても、何も国外に出て行くというわけではないし、遠いけれど陸続きの本州だし、だけのことを考えると、神奈川に残った方がメリットが多いように思える。本人が言うように経済的に裕福であったなら、悩むまでもなくがひとりで神奈川に残っただろう。

「だけどさ、大喧嘩したけど、お母さんと私はふたりだけの家族だし、あんただけひとりで田舎に帰れば、なんて、言えなかった。お母さんの方の親戚、あんまりいないし、私は彼氏の方が好きだからここに残る、お父さんの残したお金でひとり暮らしさせて、なんて、言えなかった――

さわやかな朝の潮風がの髪を浚う。この海で泣いていたは、今は穏やかな表情をしていた。

「ごめんね、信長、彼氏の方を選べなくて。だけど、彼氏とお母さん比べて、彼氏の方を捨てようとか、そんな風には思ってないよ。好きの種類が違うじゃん? まだ一応高校生だし、ぶーちんたちみたいな状況でもないし、私の家族には他に方法がなかった」

は母親と同じことを言って、また清田の頬を撫でた。

「一応向こうに伯父さんがいて、高校の編入試験とか、お母さんの就職とか、色々手伝ってくれてるから、お盆休みが明けたら、向こうに行くことになってて。お祖父ちゃんの家があって、とりあえずはそこに住むことになりそうなんだけど、夏休みの間には、完全に引っ越して――

夏休みの間とは言うが、つまりと清田の期限はあと数日ということだ。地元が近くて、放課後に会おうと思えばすぐに会える、そんな距離の高校生の恋人同士、それはあとほんの数日で終わる。どれだけ心が繋がっていても、どれだけ相手のことを思っていても。

「だから、信長、別れて、欲しい」

清田は驚いて身を引き、一歩下がると無言で首を振った。そんなのは嫌だ。

「今だって信長のこと大好きだけど、大人だって難しい遠恋なんて、高校生の私たち、ちゃんと出来ると思う? みんな、手を伸ばしたら触れる距離にいる相手と付き合ってて、そういう子たちばっかりの中で、声と文字だけの相手のことだけ思っていられる? 私、信長の重荷になりたくない」

穏やかな顔をしていたは初めて表情を崩して首を振った。

「オレは、お前以外の女なんか」
「本当に? 手も繋げない、キスも、エッチも出来ないんだよ、彼女いる友達はしてるんだよ? これから先、信長の近くにもうすっごい超素敵な女の子が現れたらどうするの? その子が真剣に真面目に信長のこと好きになってくれたら、どうするの?」
「そんな女いらねえって!」
「それが永遠に続くかなんてわからないじゃない!」

ふたりともほとんど悲鳴だった。言って、肩で息をしている。

「自分も……そうやって向こうで男出来るかもしれないからかよ」
「まさか。私はずっと信長のこと好きだよ」
「はあ!?」

清田はがっくりと肩を落とす。言ってる意味がわからない。

……こんな急だから、向こうの高校もよく調べてなくて、ただ近いだけの、編入試験とか楽々行かれそうな県立で、だけど、お母さんに着いて行く代わりに、お父さんの遺産と家を売るお金から大学に進学させてくれって頼んだ。短大でもいい、とにかく高卒でそのまま就職じゃなくて、進学させてくれって頼んだ」

は、清田が抱き締めてくれない体を抑えるように、腕をさすっている。

「残りの高校生活、私はもう彼氏も友達もいらない、全部バイトと勉強に使う。それで進学して、ここに帰ってくる。神奈川でひとりで働いて生きていけるようにして、帰ってくる。だけど、それまで信長に、触れもしないのに彼女にしておいてくれなんて言いたくない、何年かかるかわからないのに、そんなこと言いたくない!」

息を切らして叫ぶにまた一歩近付いた清田は、固く握りしめられている手を取って両手でくるむ。真夏の空の下だというのに、の手は冷たくなっていて、少し震えていた。

「オレはそれを待ってたら、ダメなのかよ」
「ダメじゃないよ、待っててくれるなら、嬉しい」
「だったら――
「だけどそれを約束にしないで。私は勝手にそういう目標立てたの。信長関係なく、勝手に決めたの」

清田はまた少しだけ首を傾げた。どういう意味?

「信長にもそうして欲しい。だってそうでしょ、海南の選手なんだよ、1年の時からスタメンなんだよ、どこの大学に呼ばれるかわからない、もしかしたらプロになっちゃうかもしれない、日本代表だってなれるかもしれない、その時に帰ってくるかもしれないからなんてこと、思い出して欲しくないの! どこか遠くでも例えば外国でも、信長が望む道を行く、その邪魔をしたくないの! だからお願い、別れて……

やっと意味がわかった清田は、の体を引き寄せてゆるりと抱き締めた。そうだった。自分は海南のプレイヤーだった。歴代の海南の主将たちは、全員名門と呼ばれるチームのある大学に進んでいった。怪我もせずにこのまま成長していけたら、自分もきっとそうなる。というか、そうなりたい。

清田の知る限りの先輩たちは皆東京の大学だけれど、の言うように、例えば留学が叶うかもしれない、大学を出れば神奈川からは遠いプロチームに所属できるかもしれない。それは清田にもにもあるはずの、可能性という名の未来だ。

例えばに目指すものがあって、それが理由で神奈川に戻れないのだとして、清田との約束があるから諦めると言われたら――。清田はやっとの言いたいことがわかった。の気持ちがわかった。大好きな人の前に開けている大きな世界、その前に立ちはだかるなんてご免だ。

「わかった、、別れよ。友達に戻ろう」
「ごめん、ごめんなさい、本当にごめんね」
「でも、オレも勝手にお前のことずっと待ってるからな。オレはオレで勝手に遠恋してるから、文句言うなよ」
「信長……!」

ずっと我慢していたらしいは声を上げて泣きだした。

「オレの好きな女はなんでか知らねえけど、いつも海で泣いてんだよな。オレ、人が泣いてるのって苦手なんだよ。どんだけキツい目に遭ってんだって思ったら怖くなるじゃん。だからキツい目に合わないようにしてやりてーと思ってたけど、神様ってのはイジワルだよなー、オレたちが何したってんだよなあ」

清田は泣きじゃくるの頭を撫でながら、空を見上げた。塗り潰したような青と、切り抜いたような白が目に痛い。なぜ自分たちは離れ離れにならなければならないんだろう、不確かな拠り所すらなくて、お互いが好きだから約束すらも出来ない、どうしてそんな恋を。

「なあ、、別に付き合ってなくたってオレはお前のこと好きだからそれでいいけどさ、会いに行ったりするのも、ダメなのか。日帰りできない距離でもないだろ」

は鼻を鳴らしながら顔を上げ、無理矢理笑顔を作ってみせる。

「バイトする暇なんかないでしょ、新幹線代、小父さんに出してもらうの?」
「えーっと、出世払い」
……私がここまで来るよ。バイトしまくって、私が」

は清田と両手を繋ぎ、体を引く。

「いつになるかわからないけど、信長、その時はここで会いたい」
……ああ、そうだな」
「これだけ、ひとつだけ約束して、その時はここで、この海で、私――
、愛してるよ」

嗚咽を飲み込みつつ頑張って話していたは息を呑んで止まる。その涙に洗われた頬が白くて、ピンク色が際立つ唇に清田は素早くキスした。風が吹き上げ、波が白く泡だって砂浜に弾ける。

「約束する。この海で待ってる、その時が来たら、ユキと一緒に待ってるから」

その他のことは何にも縛られないままで、ずっとずっと君を愛しているから――

清田はまたを抱き寄せ、背中にの手を感じながら、波の音を聞いていた。もまた、清田の鼓動を肌に感じながら、波の音を聞いていた。約束の海、いつかここで再び会えることを祈りながら。

期限となるお盆休み中、一応別れたはずのふたりは清田家でずっと一緒に過ごしていた。親たちはもう何も言わなかった。は清田の部屋に泊まり、引っ越しや転校の準備に出かけ、夜になるとまた清田家に戻ってくる。尊や頼朝がいても気にならなかったし、まるで嫁にでも来たような気分で過ごしていた。

が遠方へ引っ越すということに、真っ赤になって激怒したのは、ぶーちんである。だが、仮にも安定期前の妊婦である。は清田との時間の合間を縫ってじっくり話をし、いつかが神奈川に帰ってくるようなことがあれば、生まれてくる子供と一緒にディズニーランドへ行くという約束をして落ち着いた。

が、激怒していたのはだぁも同じで、状況はだいぶ違うが、自分たちの過去にと清田を重ね合わせてしまったか、なぜか怒りながら泣いていた。そして、ぶーちんに勢いよく土下座したかと思うと、財布から万札を引き抜き、「ホテル代にしろ!」と叫んで床に叩き付けた。は大笑い、清田はさっさと懐に入れた。

清田父の助力もあって、家は無事に売却が決まり、この家を狙っていた父方の縁者は結局の父親の形見の品だけを手に引き下がることになった。とその母親は、住み慣れた家1軒と少しの遺品を手放しただけで、父と夫が残したものは全て手にしたまま旅立つことになった。

もう新学期からは神奈川にいないので、は地元の友人にも挨拶して回り、途中疲れたので「永源」に立ち寄り、ランチを食べつつ、水戸にも別れを告げてきた。水戸は黙って手を差し出すと、固く握手をし、「国内に留学てことだな、しっかりやって、帰って来いよ」と言って、の頭をグシャグシャと撫でた。

たちが神奈川を発つ日が近くなると、まずは頼朝が我慢できなくなって、弟に断った上での手を取っていつかの誤解を詫びた。そして勉強でわからないことがあったら24時間いつでもメールでも電話でも寄越せと言って、さらに、「お兄ちゃん」と呼んで欲しいと言い出し、末弟に思い切り嫌な顔をされていた。

頼朝が限界突破してしまったので、その次に騒ぎ出したのは清田父母である。ふたりは世が世なら絶対にを嫁にもらって手放さなかったと言って、半泣きになっていた。そして、気が変わったらいつでも連絡を寄越せ、すぐに離れを建てると言ってをぎゅうぎゅう抱き締め、感極まった清田父は抱っこまでして、三男に蹴られた。

そして最後は尊だった。さすがに出発の前夜は清田家に泊まれないので、出発の2日前がが清田家で過ごす最後の夜になった。案の定大宴会状態になった後、清田の部屋でのんびりしていると、相変わらずぼけーっとした顔で尊が入って来て、に新品のMP3プレイヤーを差し出した。

曰く、これならどこにも自分の匂いはついていないし、弟に会いに来るのには時間がかかるから、その時に使って欲しいと言う。別売りのイヤフォンもついていて、金額的には相当高額になるため、は慌てたが、清田はもらっとけという。尊はやっぱりまたきれいな顔で微笑むし、は折れてその贈り物を受け取った。

別れの朝は悲惨なことになるという自覚のあったは、休みでも朝食が朝の6時という清田家のタイムテーブル通りに起床すると、清田に頼み込んでユキの散歩に出かけ、走った。ユキは大喜び、清田は無理をするなと言ったけれど、はとにかく走って走って、フラフラになるまで走った。

清田家に戻ってきた時は足取りも覚束ない状態で、何も食べていないのに吐きそうになっていた。しかしそのおかげで取り乱すこともなく、完全にグロッキー、自宅まで送ってくれた清田母には叱られ、玄関先まで抱きかかえてきてくれた清田が頬にキスした時も、えづいていた。

清田は、バカかお前はと怒ったし呆れたけれど、は今生の別れではないのだからウジウジするなと返し、そして玄関先で笑って別れた。

翌日、とその母親は誰に見送られることもなく、神奈川を後にした。

清田信長と出会ってちょうど1年、清田家からは煙のように消えた。まるで、幻のように。