ミスラの海

14

清田と海で会ったその日の午後からの食欲は戻った。むしろほぼ絶食状態だった日々のせいで、急に飢餓感が湧いてきて、けれど急に刺激の強いものを食べられる状態ではないから、はその飢餓感と戦うのに必死だった。

そしてその日の夜にはぶーちんからメールが届いた。清田が連絡先を伝えてくれたらしい。絵文字がびっしり入っていて、文字の方が少ないんじゃないかというような状態だったが、の心と体を案じていて、まただぁが尊をしつこく怒ってるからと結ばれていて、なんだか嬉しかった。

清田家に関しては、毎年年末年始は息つく間もないほど忙しいとかで、が急に顔を見せなくなったことも気にしている暇がなかったようだ。大晦日に餅つきをする習慣だそうだが、まだ具合が悪いらしいとぶーちんが言うので、清田夫婦はそれをころりと信じていたそうだ。

尊と頼朝の様子については触れなかった清田だが、ユキがオヤツの袋をズタズタにしてしまったこと、映画の鑑賞券は年明けに落ち着いたら渡すということをメールで報せて寄越した。

の方も体調が回復するに従って母親が落ち着きを取り戻し、初詣は友達と出かけられるまでになった。また、ぶーちんたちに関しては清田家の遠縁だということにして、しかも夫婦揃って迎えに来てくれたので、ふたりのところへ遊びに行くのも許してもらえた。

ぶーちんとだぁは清田家にも程近い場所のアパートに暮らしており、決して広くない部屋の中は清田家同様もので溢れかえっており、しかもまた濃厚なココナッツの香りが充満していた。

その上、車の中で流れていた男性ダンスグループはだぁの趣味であり、ぶーちんは女性テクノユニットの大ファンで、居間にあたる場所はくっきりふたつのグループのポスターやらグッズやらで分かれていて、はつい笑った。仕切りもない寝室の方はこれまたワンピースだらけで、は少しだけ尊を思い出した。こんな部屋、彼は耐えられないに違いない。けれど、彼がこのふたりの友人を大好きなことには変わりないのだ。

が遊びに来るとだぁは家を追い出されることになっているらしく、送り迎え以外では殆ど顔を見せない。なので、は思う存分ぶーちんとガールズトークに花を咲かせて帰る。

聞けばふたりが20歳になった今年はもう一度子供を作ろうと考えているらしく、ぶーちんはそれまで好きなだけ髪を染めタバコを吸い、昼夜問わずに遊びまわることになっているのだそうだ。ちなみにだぁの方は一足先にタバコをやめたそうで、スパスパ吸うぶーちんの横で毎日地獄だという。

愛犬の死を除けば、まだ他に亡くした人もないだが、赤ちゃんと近しくなったこともなかった。無事に生まれたら抱っこさせてほしいと言うと、ぶーちんはむしろ自分の代わりに面倒見てと言ってカラカラと笑った。

一方で、大きな大会もなければ、3年生が引退して人数が減った状態の清田は少し余裕が出来て、がユキに会いたくなると、割といつでも都合をつけてやれるようになってきた。ただ、冬の海は寒すぎると言うので、とユキのデートは清田家の近くにあるドッグランになった。

ドッグランは自宅兼店舗と言ったようなカフェが併設されており、は細々と続けているアルバイトで得た小遣いをここで使うことが多くなった。ちなみにに言い寄ってきていた社員は新しく入って来たバイトの女の子に鞍替え、しかし完全に拒絶された上に店長に訴えられて、現在は大人しくしている。

また、年が明けてから、いつかのように街中で桜木に遭遇したは、水戸がバイトしているという居酒屋に連れて行ってもらった。居酒屋と言っても、昼はノンアルコールのランチ営業で、高校生だけで入店しても大丈夫なのだという。しかもランチが安い。はぶーちんとだぁ、そして清田も連れてくるようになった。

そんな風にしてが「尊と頼朝のいない」生活で心のリハビリをしていた頃のことだ。バレンタインが近付いていたので、は色々悩んでいた。本命不在ではあるが、友チョコ感謝チョコがハンパない数になっていた。しかし、どれも外せない人ばかりで、その配分に悩む。

とりあえずユキは最優先で牛の骨を送ることに決めている。それにかけるリボンも既に購入済みだ。それに、直接会えないけれど、清田父母も外したくない。ぶーちんとだぁも。さらに今年は水戸にも渡そうと考えていて、しかしれっきとした感謝チョコなので、彼が困らないよう、バイト先で渡すことに決めた。

チョコレートやら骨やらの準備に奔走していただったが、最後まで悩んだのが清田だ。普通にチョコレートで構わないのだが、なんとなくそれでは安い気がして、納得がいかなかった。だからと言って高級チョコにすればいいかということではなくて、なんだかチョコレートでは小さい、もっと大きなものがいいと思ったのだ。

とはいえ何か手元に残るようなものは迷惑になってしまうかもしれないから、できれば食べ物がいいと考えていたけれど、まさか牛の骨というわけにもいかない。自分の気持ちが満足して、なおかつ清田が喜んでくれるものをはずっと考えていた。

清田と「友達」になってから少しは彼のことを知るようになったけれど、とにかくバスケット漬けで趣味らしい趣味もなし、ファッションや音楽には好みがあるようだが、それでも忙しいので、尊のようにこだわってはいないらしい。そんな清田だから、例えば好物を腹いっぱい、なんていう方がいいような気がしていた。

そこに至って、は「食べ放題」という選択肢に行き着いた。確か水戸のバイト先の近くにファミリー向けの食べ放題をやっている店があったはずだ。しかも年齢性別で料金が細かく分かれていて、飲み放題を付けられない高校生なら、それほど高額ではなかった気がした。の頬が緩む。

割とギリギリだったけれど、はバレンタインの前日にあたる日曜に会えないかと連絡を取った。バレンタインという発想があまりなかった様子の清田だが、遠慮しつつも素直に喜んだ。部活が昼で引けるから、午後でも大丈夫だというので、ランチ時を避けて予約も取った。

さてその当日である。

待ち合わせ場所に現れた清田はにこにこと上機嫌で、午前中は練習だったけど、水分補給だけで何も口にしていないと言って笑った。そして全種類食べるんだと言ってはまたにこにこしていた。だが、テーブルに付いた途端、でっかい牛の骨を差し出された清田は腹を抱えて笑った。

「なにこれこんなん売ってんのかよ!? てか重っ!」
「ちゃんと国産なんだよ、これならいくらユキでもしばらくかじれるでしょ」
「だろうなあ! すげえ、犬ってこんなん食っちゃうんか」

続いて清田父用に日本酒の入ったチョコレート、清田母にも可愛らしいラッピングのホワイトチョコを用意しておいた。おばあちゃんは血糖値が高いそうなので、ギフトラッピングした緑茶。

「てかお前またこんなに金使って……もったいない」
「えー。でもこんなの予算のうちの4分の1くらいだけど」
「ハァ!?」
「だってー。家族もあるし、女の子の友達とかぶーちんたちにもあげるし、水戸にもあげるし、ていうかひとりあたりの予算で言ったら一番高いのって信長だけど」

食べ放題という思いつきは悪くなかったけれど、奢りで食わせてやるよほれ! という感が拭えなくなってきたは、結局チョコレートも用意した。なので、予算トップは清田。次がユキである。国産の骨は結構高い。清田は途端にしおしおと首をすくめ、ロクなお返しもできないのにと言ってそっぽを向いた。

「別に期待してないからいいってそんなの。私がやりたくてやってるだけなんだし」
「てか女同士の友チョコとかってお返しとかどーすんの」
「もらい合ったらしないね。用意してない子からもらっちゃったらすると思う」
「うええ、面倒くせえ〜」
「だからいいんだって、そんなこと気にしなくて。さーほら、じゃあ食べよ!」

真冬だというのにやけに薄着な清田は、本人の宣言通りよく食べた。本人曰く「伸びが遅い」らしい身長も、ちょこまか保健室に通って確かめたところによると、2学期の終業式には無事に182センチに到達、1年間で約4センチの伸びだが、高校生の間に190センチまで伸びたら、は肩車をしてもらうことになっている。

「てかお前食べ放題でその量は逆に嫌味じゃねえか?」
「だってさ〜、せっかく痩せたのにもったいないじゃん」
「具合悪くて痩せたのと減量は別だろ! あんな不健康な痩せ方、オレは嫌だね」
「あんたの好みどうでもいいでしょ」
「いやいや、オレの好みじゃなくて世の男子はだいたいそんなもんだって!」

清田は熱弁を振るっているが、その兄の頼朝は細い女が好きというようなことを漏らしていた。というか、自己管理ができていない人間とは関わり合いになりたくないのだそうだ。一方の尊はぶーちんの巨乳にフラフラと吸い寄せられてしまうくらいにはおっぱい星人である。はそれを思い出して鼻で笑った。

「ってアレ? いやいや、ご飯減らしたってアイスにケーキにそんだけ食ってたら一緒だろ」
「ご飯増やしてさらに食べるよりいいじゃん!」
「女ってほんと甘いもの好きだよな〜」
「そんなに甘いものダメだったっけ?」
「まあ甘いかしょっぱいかっつったら、しょっぱい方だな」
「そーかそーか、んじゃ信長用のチョコは私が食べようっと」
「いや、ちょ、マジすんませんした! オレが悪いです食べます甘いもの大好き」

食べ放題だけでなくチョコももらえると知って、清田は上機嫌だ。というか清田が尊のように甘いものが得意でないことは知っている。だからチョコと言っても、ナッツ多めのビターである。

ちなみに、明日届けに行く予定の水戸用は、桜木に襲撃されることを前提に、おまけで激安スーパーのチョコ大袋を5つ付けてある。何故なら5袋で1000円というセールをやっていたからだ。というか、なんなら桜木軍団みんなで食べてもらっても構わない。一応世話になった水戸に感謝チョコとして渡したいだけだ。

清田本人はモテないなどと愚痴っているけれど、兄ふたりに比べたら誰でもモテないことになる。きっと明日は「モテないと思ってたけどおかしいな」とわかるはずだ。はそんなことを考えて、少し寂しくなった。もし清田に彼女ができたら、こんな風に遊んだりできなくなる。ユキとも会えなくなるだろう。

「ホワイトデーって普通何? 飴だっけ」
「だからいらないって」
「いやもう少し考えろよ。この骨、親、何も返ってこないわけねえだろが」

それもそうだ。しかし、特に欲しいものがあるわけでもないし、飴を大量にもらっても困る。

「んー、なんでもいいんだけどなあ。今あんまりどれって決まってなくない?」
「お袋が親父と結婚した頃はマシュマロだったとか聞いたことあるぜ」
「えー、私マシュマロ嫌いー」
「へえ。あんなん特に味もないのにな」
「だからマズいんじゃん」

清田母の独断でマシュマロが大量に来ても困る。の母もマシュマロが苦手だ。は出来るだけ簡単に済ませられるよう誘導できる案はないものかと考え始めた。食べ物じゃなくたっていいけれど、後に残らないものの方がいいのはホワイトデーも同じだ。

食べ放題90分の間に軽くの3倍は食べた清田だったが、店を出ても満腹で動けないという風ではなく、は呆れた。いくらスポーツをやっているからって、よくもまああれだけ胃の中に入るものだ。

「ごちそうさま。悪かったな、気を遣わせて」
「気を遣ったんじゃないから気にしないで。てかユキのムービーよろしくね」
「おう。このチョコ隠しとかないと、とられそうだな」
「あはは、大したものじゃないよ。気にならなければみんなで食べて」
「んなわけいくかバカ。オレが全部食べます」
「明日ももらうんだから、そんなにがっつかなくたって」

へらへら笑いながら言っただったが、清田はそっぽを向いてふんと鼻を鳴らした。

「ま、お袋はくれるだろうけどな」
「えー。学校でももらうでしょ」
「もらわねーよ」
「大丈夫大丈夫、ちゃんともらえるって」
「別にいらねーし」
「嘘だあ。もらえなかったら寂しいぞ」
「いいよもう、1個もらったから」
「慎ましいな!」

日が傾いて薄暗い街の中で、は突然清田に手を取られて立ち止まった。取ると言っても、そっと下からすくい上げて支えている程度だったけれど、は何が起こったのかと目を丸くした。

「どうし――
「チョコはこれだけでいい」
「信長?」
にもらったから、それでいいよ」
「いいって――
「見ぃ――っけ!」
「はい?」

人混みの中で手を取り合い、静かに言葉を交わしていたふたりの真横から、野太い声が聞こえてきた。思わず顔を横に向けたふたりの視界に、リーゼントが3つ飛び込んできた。3人の内ふたりは日曜だというのに学ラン、ひとりは咥えたばこで和彫り柄のシャツにスカジャンをひっかけていた。

「ええと、何か」
「お前、水戸の女だろ」
「はあ?」
「しょっちゅう『永源』に来てるだろーがよ」

「永源」は確かに水戸がアルバイトしている居酒屋だ。だがそこに出入りしているからといって――

「水戸は学校で同じクラスなだけで、彼女じゃないですけど」
「んなわけねーだろうが! テキトーなこと言ってんじゃねーっつーんだよクソビッチが!」
「おいおい、やめろよ。違うって言ってんだろ」

3人は清田と比べてもそれほど身長に差はない。ただし清田より横に広いし、全体的にがっちりしている。それがの肩をどついたので、清田が割って入った。

「ああ? 誰だよてめぇ、てか水戸と二股かよいいご身分じゃねえかその程度の顔でよ!」
「だからこの子は水戸の女じゃないって。ただのクラスメイト」
「っせーな何がクラスメイトだボケ、すっこんでろや邪魔なんだよ」
「いやいや、勘違いで乱暴されても」

水戸の彼女なんかではないというのに、彼らは聞く耳を持たない。は清田の手をきつく握り締めて震えていた。ああここに清田父がいたら、水戸がいたら、いや、桜木がいたら! だが、そう考えて慌てて訂正する。だめだめ、もう桜木は喧嘩なんか一切してはならない立場にある。

そこでは今さらながら、清田も国体で神奈川代表に選ばれるほどの選手だったことを思い出す。マズい、怪我なんかしたら、海南のスタメンが怪我なんかしたら――

だが、血の気が引いたの目の前で、清田はデコピンを食らった。デコピンと言えばなんだか可愛らしいけれど、バチンと大きな音がして、清田は顔を背けた。ああ、目に当たったらどうするの、やめてよ!

「ウゼェなああおいい、そんなにボコられてーんか」
「だ、だめ、やめて、お願い、水戸に確かめてよ、違うから!」

は慌てて口を挟んだ。というか例え水戸の女だったとしても、こんな風に絡まれる意味がわからない。

「嫌ですうー精神的被害を受けたので慰謝料代わりに発散しないと無理ですうー」
、逃げろ、ぶーちんに連絡してくれ」
「や、やだ、嫌だよ、だめだって、怪我したらバスケ出来なくな――

清田が慌てての口を塞ごうとしたが、遅かった。

「へえ、バスケ。バスケねえ、バスケって、車椅子バスケとかあるよなあー」
「嘘、やめてよ、なんでこんなこと、ねえ、今水戸呼ぶから」

清田がを後ろに庇ったまま動かないので、リーゼント3人は距離を縮めて詰め寄った。

「車椅子バスケはあっても、腕が使えなかったらそれも出来ねえよなあ?」
……そうだな」
「おい、土下座しろよ、んで女置いてどっか行け。そしたら腕は勘弁してやっから」
「そんなことできるか」
「うーわ、女のために腕でも何でも差し上げますってか」
「そうだよ」

の震える手を固く握りしめ、清田はきっぱりと言うと、深呼吸をした。

「腕でも何でもやるから、それで手打ちにしてくれ。この子には何もしないでくれ」

斜め後ろから清田を見上げたの両目から、ぼたぼたと涙が零れた。清田の言葉が信じられないのと、そんな風になるのは嫌だという恐怖、そして強く繋がれた手が暖かくて、息が詰まる。スカジャンが清田の手首を掴み、にやにや笑いながら持ち上げる。清田は相手をじっと見つめたまま、顔を逸らさない。

「そりゃあ保証できねえけど、これは折ったるわ。右腕にさよならしろや」

あまりの恐怖での喉がヒュッと鳴った、その時である。真横から何やら黒い物体が飛んできて、リーゼント3人はまとめてひっくり返った。手を解放された清田は素早く身を引いてを抱きかかえる。

「お客さ〜ん、ハブんないでよ〜。オレも仲間に入れてくれなきゃ〜」
「水戸!」

上下黒で学ランとさして変わらない出で立ちの水戸だった。真横から飛び蹴りで3人なぎ倒した水戸は、ふたりの前に立ちはだかると、少しだけ首を傾けて低い声を出した。

「すまねえ、オレのせいだ。後で埋め合わせすっから、今は逃げてくれ」
「何言ってんだ、お前ひとりで――
「お前にいなくなられたら困るんだよ、神奈川最強を倒すって目標がなくなったら、つまんねえからな」

肩に置かれた清田の手を、水戸はさらりと払い落とした。そして振り返り、にやりと笑う。

「こういうのはオレの仕事だ。――今度こそ守ってやんな」

ゆらりと起き上がるリーゼント3人を迎え撃つべく、水戸は指を鳴らしている。声にならない声でダメだと言い続けているの手をしっかり取ると、清田は「すまん」と言って走りだした。は恐怖に足がすくんでいたが、清田が上手に誘導してくれるので、ぜいぜい言いながら泣きながら、暮れゆく街を走り抜けていった。