ミスラの海

10

未だにヤンキーが多い湘北にも期末テストはやって来る。そしてそろそろ1年生から中退が出始める季節だ。なぜか真面目に3年間通うヤンキーもいるが、外で遊びを覚えてしまった類は、そろそろ進級が見込めない宣告を受けるので、面倒くさくなってやめていってしまう。

成績は振るわないようだが、それでも毎日ちゃんと登校してくる水戸が不思議でならないは、最近ではもう桜木を見てもバスケットのことが思い浮かばないまでになってしまっていた。確か水戸たちと一緒に国体を見に行ったはずなのに、それも遠い記憶の彼方だ。

テスト前になって部活が出来ないらしい桜木だが、先だってはなんとかいう大きな大会の予選で負けたと言って大層機嫌が悪かった。けれどそれも、海南に負けたのかな、などとも思わなかった。

部活をやっていないはテスト前でもそれほど変化がないが、一応アルバイトは休ませてもらっている。そして頼朝に考えてもらった期末対策プランに沿って勉強するわけだが、中間が終わった後から底上げ計画で勉強してきたは自信があった。

テスト前になって理解できてない箇所があるということもなく、けれど範囲をくまなくおさらいし、苦手な数学や暗記ものは毎日必ず手を付け、得意な教科も今回はちゃんと勉強した。

湘北程度の高校だと、予定が狂って進学校に落ちた優秀な生徒が毎年数人は紛れ込んでいるので、トップ10位内は毎回熾烈な満点争いになっている。だが、そこから100位くらいまではのように近いからとか、楽に過ごしたいからという穏やかなタイプがずらりと似たような点数で並ぶのが常だ。

それをよくわかっている頼朝は、とりあえずは11位から100位までの間の、半分より上に入るのを目標にしようと言っていた。おそらくトップ10内の進学校不合格組は揺るがないだろうし、元々の学力が違うから、ないものと考えて、そこから50位以内くらいをキープ出来る程度には底上げしたいというのが頼朝の計画だった。

ちなみに得意教科が振るわなかった中間は学年で152位。クラスで12位。ただしのクラスに進学校不合格組はひとりしかいないし、その上5位に同点が3人もいたので、実質的には14位だ。なので、学年では55位以内、クラスではせめて5位以内に入りたいというのがの目標にもなった。

さて、明日からテスト開始という日曜のことだった。は例の大きな街を浮き立って歩いていた。ようやく初めてのアルバイト代が出たので、頼朝たちにお礼の品を買おうと思ったからだ。そんなもの、テストが終わってからでいいのだが、父親に来客があったせいで家の中がうるさく、少し外で時間を潰したい意味もあった。

尊にはケーキをご馳走したいと考えていたのでいいとしても、頼朝には何を贈ればいいか、は迷った。専門書が高くて参ると愚痴っていたけれど、図書券じゃ味気なさすぎて嫌だ。かといって頼朝にはわかりやすい趣味もなさそうで、非常に悩ましい。

というか16歳が23歳に何かプレゼントをする時には一体どの程度が相応しいと言うんだろう。

バイト代が出たとはいえ、あまり高いものを贈られても逆に困らせてしまいそうだ。はインテリアショップのショーウィンドウを覗き込みながら、頭の中で舞い躍るネクタイや靴下に辟易していた。それは父の日の定番だ。

なので、ショーウィンドウの向こうに尊の顔が見えた時、は文字通り飛び上がって驚いた。

「また会っちゃったねー。運命の赤い糸でも繋がってるのかな」
「そ、そんな……

尊が照れもせずにそんなことを言うので、は狼狽えた。だが、ちょうどいい。バイト代は出たのだし、頼朝へのプレゼントは決まっていないけれど、それも急ぎじゃない。テストの結果が出る頃までには用意したいというくらいなので、後回しにして構わない。

「尊さん、お時間ありますか?」
「あるよ〜。だからこんなとこウロウロしてたわけだし」
「あの、いつもケーキ頂いているので、今日は私に奢らせてもらえませんか」
「はあ?」

たかだか3つか4つ程度の歳の差でも、19歳から見て16歳はかなり子供に見えるはずだ。それが突然そんなことを言い出したので、尊は珍しくひっくり返った声を上げた。

「みなさんには本当にいつもお世話になってるので……お礼をしたいとずっと思ってて」
「好きでやってんだから、そんなこと気にしなくていいのに。ちゃんは律儀だなあ」
「その、よかったら例のカフェのケーキを」
「ふうん、だけどそれは魅力的だな。年下の女の子に奢ってもらうのはモヤッとするけど、いいね」

尊はボロ布に見えるような色合いに染められた固いコートの腕を組み、かくりと首を傾げた。枯草色の金髪は少し伸びていて、美しい瞳がほとんど隠れてしまっている。はくらりとくる感覚とともに、精一杯笑顔を作る。

「実は明日からテストなんです。糖分補給したいので、付き合ってもらえませんか?」
「そういうことなら仕方ない、喜んでお伴しましょう」
「私ふたつ食べるので、尊さんもふたつオーダーしてくださいね。ひとりじゃ恥ずかしいから」
「了解、お嬢様。それではお手をどうぞ、こんな人混みだからね」

尊はの真横に並ぶと、肘を浮かせて腕を突き出した。は声を立てて笑いながら、その腕に手をかけた。頼朝と手を繋いで歩いた時もドキドキしたし、嬉しかったけれど、やはり尊は王子様だ。まるで自分がお姫様になったような感覚は、もはや快感。

道行く女性が尊の顔を見ては驚き感嘆し、そしてをちらりと羨望の眼差しで見る。それがこんなに気持ちのいいものだとは。そうして見上げる尊の横顔の美しいこと、それに比べて自分は、などと卑屈になる隙すら与えないほどだ。

ふたりはケーキをふたつずつと紅茶をオーダーし、他愛もないことをたくさん話した。家族のこと犬のこと学校のこと友達のこと――。尊はとにかく緩いけれど、長い時間を過ごしていても、会話が滞ったり途切れたりしない。それが「相性がいい」ってことだったらいいのに。はそう願う気持ちに気付いた。

「明日からテストなのに、大丈夫なの?」
「実はちょっと父親にお客様が来ていて……遠い親戚らしいんですが、うるさくて」
「そっかあ。親父がさん家は壁薄いって言ってたもんなあ」
……だから穴開いちゃったんですね」

の両親はどちらも郷里が遠くて、その分親戚づきあいは希薄なのだが、たまにやって来るとひどい騒ぎになる。特に父方の縁者は母のせいで父が地元に帰れなくなったと今でも主張しており、非常に厄介だ。そして今日はその父方の縁者のおでましなのである。声も大きくて、娘が明日からテストだと言っても聞かなかった。

「だけどそれちょっとわかるなあ。うちも常にうるさい家だから。まあでも、頼朝がテストの時はみんな静かにするんだけどね、あいつ怖いからさ。頼朝が高校生の時は信長が小学生で、あいつしょっちゅう殴られてたよ」

なんてわかりやすい。も尊と一緒にけたけたと笑った。

「それじゃあお家が静かになるまでウチに来る? 今日はバーベキューやってないよ」
「えっ、でもきよ、信長くんもテストじゃないんですか」
「あいつはもうすぐ大会だから、部内でテスト対策もやってもらってて、普段通り」

例の桜木が予選で負けたとか言う大会のことだろうか。はそれを思い出したけれど、とりあえずそれはどうでもいい。清田がいないのなら、客が帰るまでお邪魔させてもらえたら助かる。ユキにも会えるし、もし頼朝もいれば最後の仕上げをしてもらえるかもしれない。

そしてまた尊に車で送って行ってもらえたら。そんな甘ったるい気持ちでは頷いた。

また腕を差し出されたは、夢見心地で清田家までやって来た。もう他人の家という気がしないくらいに馴染んだ家だ。とりとめのないアプローチを通って乱雑に靴が並ぶ玄関を上がる。

「なんか静かですね」
「おかしいな、誰もいないのかな」
「ユキもいないんですか」

こんな風に清田家が静まり返っているのは始めてだった。尊も変な顔をしている。清田家は家人でも他人でも、とにかく誰かしら家の中にいるのが普通なのだが、散歩以外では滅多に家を出ないユキですら姿を見せない。

「まさかユキに何かあったんでしょうか」
「だったら連絡が入るはずなんだけど」

だいたいいつもぼんやりしている尊も険しい顔をして携帯を取り出した。家族からの連絡は入っていないようだ。だが、とりあえず家に誰もいないけど大丈夫かと清田母に連絡を入れておく。ちなみに清田父はメールの類は一切不可である。意外なところでは頼朝もガラケー。暇人の相手をしたくないんだそうだ。

少しドキドキしながらとりあえずリビングに腰を据えたふたりだったが、間もなく清田母から連絡が来た。清田母の姪っ子が子供連れで遊びに来たので、ユキも一緒にお出かけしている、とのことだった。子供好きの清田父ももちろん一緒。と尊は盛大にため息を付いてソファにひっくり返った。

「よかった、ユキになにかあったらどうしようかと思いました」
「ほんとに人騒がせだよね。ちゃんも怖い思いさせてごめんね」
「いいえ、何事もなくて安心しました」
「ユキがいなくて残念だったね。どうしようか、なんか映画でも見る?」

またいつものぼんやり顔に戻っている尊は携帯をいじりながらそう言った。

「映画ですか、尊さんどんなの見るんですか?」
「色んなの見るよ。映画はありとあらゆるもののデザインが詰まってるしね」

ふたりは尊の部屋まで移動し、彼の持っているDVDのラインナップを見てああだこうだと喋っていた。映画を見るのが目的じゃなかったから、どれでもよくて選びきれない。というか映画を選ぶはずが、映画を餌にだらだら喋っているだけになってきた。

「そういえば、頼朝さんもおでかけなんですか」
「あー、たぶん。オレが起きた時にはもういなかったから」
「本当に珍しいですね、こんなに誰もいないの」
「オレも久しぶりだよ、こんなの」

映画のDVDがまとめられているファイルを膝に置いたがうんうんと頷くと、その顎に尊の指が伸びてきた。痛むほど跳ねる心臓、は勢いよく顔を上げた。そこにはきれいな尊の顔があった。

「み、尊さん?」
「ふたりっきりになるの、初めてだね」
「そ、そうでしたか?」
「あ、そっか、車ね。だけどあれは走ってたからなあ」

そんなことを言いながら尊に引き寄せられたの頭は真っ白、硬直した体に尊の腕がゆるりと巻きつく。

「あの、みこ、尊さん、どうし――
ちゃん、かわいい」

尊はそう言うと、震えた声を漏らすので精一杯だったの唇に素早くキスしてしまった。の息が止まる。唇もガチガチに固まっていて、ただひたすら激しい心臓の音だけがの五感を覆い尽くしていた。これがのファーストキスだった。奇跡的に誰もいない清田家、はまるで王子様の尊に唇を奪われた。

……緊張してる?」

頷くことはおろか返事もできないに、尊は優しくキスを繰り返す。徐々に解けていく硬直、緩む唇、とろりと溶けそうな心。はゆっくりと戻っていく思考の中で、これまでにない愉悦に浸っていた。尊は自分のことが好きなのか、こんな美しいのに、すれ違う人々が驚くほど美しいのに、自分のような何も持たない女の子を好きになってくれるのか。

自分に自信なんかなかった。だけど、尊が好きになってくれるくらいだ、もっと自分を好きになってあげてもいいんじゃないだろうか。自分ではわからないだけで、本当にすごく可愛いのかもしれない。もっと大人になったら美人になってしまうかもしれない。そうしたら尊と付き合っててもおかしくないかもしれない――

尊のキスにうっとりと酔っていたの耳に、また優しい声が響く。

「大丈夫、怖くないよ。痛くないようにするからね」

一瞬では酔いから覚めた。体が冷たくなる。つま先から恐怖が這い上がってきた。

「あ、の、わた――
「もしかしてキスも初めてだった? まあ、まだ16歳だもんね」

尊は言いながらの首筋に唇を寄せ、そして、右手での左胸にそっと触れた。

怖い。それが今のの全てだった。

もレイプという言葉は知っている。けれど、それが完全に成立するのはおかしいと思っていた。刃物で脅されていたりするならともかく、蹴るとか殴るとか出来るはずだと。足を開いて受け入れるわけがないと思っていた。だが、そう思っていたことを後悔し、そしてその意味がわかった。

怖くて何も出来ない。尊はかわいいよ、好きだよと囁いてくれる。だけど、は合意した覚えはない。突然のキスに蕩けてしまったのは事実だ。だけどそれだけで、キス以上のことなんて想像だにしていなかった。怖くて怖くて、息をするのが精一杯。声も出ない、手も足も動かない、ただ少し震えているだけで、涙も出て来ない。

こんなことはやめてください、そんなつもりないです、そう言いたい。
手で尊の顔を押し返し、足を使ってこの場を逃げ出したい。
それがどうしても出来ない。

誰か助けて、お父さん、お母さん、助けて、ユキ、頼朝さん、小父さん小母さん、助けて、清田くん助けて――

それでも、尊は乱暴には扱わなかった。硬直しているの体をゆっくりと撫で、キスをして、少しだけ照れくさそうに甘い言葉を囁いた。だが、はちっとも緩まないし、なんだか反応がない。それをどう受け取ったかはともかく、尊はの服を脱がせ始めた。胸元が露わになり、尊の唇が吸い付く。

さらに下着をずらし、音を立ててキスをしていく。それでもなおが動かないので、尊はやがての顔色を伺うことをやめた。その時だった。玄関の開く音がして、誰かが帰ってきた。だが、声がしない。清田父母とユキじゃない。だとすれば頼朝か。まだ時間は17時くらいで、清田は帰ってこないはずだ。

尊にもその音は聞こえているはずだ。だが、尊はキスを止めない。ドアはしっかり閉まっているし、そういえば尊の部屋にはずいぶん本格的なスピーカーがある。床に押し倒されたは天井を見上げてスピーカーに目を止めると、防音なのかとぼんやりと考えた。恐怖が過ぎたせいで、思考力が低下している。

私、尊さんの彼女だったっけ? 付き合おうなんて話、したことあったっけ。彼氏彼女になってないのに、こんな風になるのって、普通のことなのかな。ていうか私、尊さんかっこいいって思ってたけど、王子様みたいで誰よりキュンキュン来ると思ってたけど、好きじゃ、なかったんだ――

そこに至っての目から初めて涙が零れ落ちた。

このまま裸に剥かれて抱かれてしまうことも怖いけれど、結局のところ、尊に恋をしていたわけではなかったことがショックだった。本当に尊のことが好きだったら、怖くないはずだ。尊だけに恋焦がれていたのなら、嬉しいことのはずだ。尊が人並み外れて美しい外見をしていたから、それが楽しかっただけなんだ――

唐突に清田の声が聞こえてくる。

オレがいないところで何かあったらどうするんだよ。

水戸の声も聞こえてくる。

あいつには気をつけろよ。あの金髪、関わるとロクなことにならないぞ。

わかってたんだ、清田くんも水戸も、こうなることがわかってたんだ。それを教えてくれてたのに、ちゃんと忠告してくれてたのに、私はそんなこと幼稚なあいつらの嫉妬だって、僻みだって、そんな風に思ってた。ごめん、清田くんも水戸もごめん、だけど、もうどうしたらいいかわからない――

悲しくてがまた涙を一筋零した、その時だった。の頭上でカチャリとドアが開き、なんだかとても久しぶりに聞く声が降ってきた。制服姿の清田だった。

「尊いるか? なんで誰もいねえ――

たちと同じように家に誰もいないことを不審に思った彼は、何のためらいもなく尊の部屋のドアを開いた。そして目の前の光景に驚いて息を呑んだ。清田の足元には床に転がされた、その胸にキスをしている尊、そしてそのは、仰向けの状態で清田を見上げて、恐怖に固まった顔で泣いていた。

尊も驚いたんだろう、それにしてはのんびりしていたけれど、掴んでいたの手を解放して少し体を起こした。その瞬間、は身を捩り、はだけた服をかき合わせながら起き上がると、荷物とコートを抱いて、何度も膝を付きそうになりながら尊の部屋を飛び出した。

そして玄関でコートに無理矢理腕を通すと、そのまま外に転がり出た。

尊はのろのろと起き上がると、静かにため息を付いてベッドに寄りかかった。の去っていった階段を呆然と見ていた清田は、軋む首を捻り、手をかけていたドアノブを力の限りに締め上げた。

「おい、お前、何、したんだよ」
「何って、何もしてないよ。しようとしてたのにお前が邪魔したんだろ」
「何もしてないのに、なんであいつ泣いてたんだ」
「緊張してたんだろ。初めてなんてそんなもんだよ」
「いつの間に付き合ってたんだ」
「付き合ってないけど」

清田は全身に火がついたような気がした。やっぱり何としてでも遠ざけておくべきだった。

……お前だって付き合ってないだろ。オレに怒る権利、ないんじゃないの」
「権利?」
「少なくともオレはちゃん可愛いし、ヤり捨てるつもりなかったし」

それで許されるとでも思っているんだろうか。清田は兄が普段の数倍増しで血縁とは思えなくなって、少し吐き気がした。それが誰ともわからない女ならともかく、湘北で桜木や水戸のクラスメイトで、親父の客の娘のにあんなことをするなんて。

「なんでそんな顔してんだ。ちゃんのこと、そんなに怒るほど好きなの?」
「お前、ふざけんなよ……
「ふざけてないよ。あの子が可愛いから抱きたいと思って何が悪いの」
「お前それ本気で言ってんのかよ」
「当たり前じゃん、てか本当にお前、オレたちのことに口出しする立場にないだろ」
……あるよ」
「なんで」
「少なくともお前よりはあいつのこと大事に思ってるからだ!!!」

清田はそう叫ぶと、踵を返して家を飛び出した。