ミスラの海

01

肌が焼け焦げるんじゃないかと思うくらいの日差しの下、それでも人で溢れかえる街を清田はだらだらと歩いていた。夏休みであり、お盆休みであり、年がら年中練習ばかりしている部活は、学校自体が閉まるので休みになっていた。週末を含む5日間、学校は閉鎖される。

何も世間と全く同じタイミングで休みにすることないじゃないかと思いながら、清田は額に汗を浮かべて信号待ちをしている。お盆なので学校だけでなく家族も全員休みで、清田家は普段より人が多い。騒がしいのは苦手ではないのだが、清田家において彼は最年少、あまり居心地は良くない。

特に行くあてがあるわけじゃなかった。だけど、家にいても家族がやかましいだけだし、やることもないし、真面目な先輩たちみたいにスイッチを切り替えたみたいに机に向かって勉強もする気になれないし、目的もなく街をぶらつくくらいしか思いつかなかった。

先輩が海に行くだのプールに行くだのと言っていたのを思い出したのは、家を出てからだった。適当に聞き流してしまったけれど、よく聞いて連れて行ってもらえばよかった。午前中いっぱい泳いで疲れて、帰って昼食を取ったら部屋で寝てしまえばいい。そうしたら効率よく時間が潰せたのに。

それにしても暇だ。予算も乏しいし、何しろひとりだし、ゲーセンで延々夜までとはいかない。今のところ彼女もいないし、友達はいるけど別に会ったところで何するんだという話で、やっぱり清田はだらだらと街を歩き続けている。だらだらはいいけれど、適当なところで日陰に入らないと倒れそうだ。

だいぶ頭が熱されて俯いた清田の頭上に突然影が差す。反射的に顔を上げると、面白くないものを見たような顔をしてハーッとため息をつき、だるそうに声を出した。

「なんだよ、お前か」
「よう、野猿」

桜木だった。今のところ、ほぼ10センチの身長差がある桜木を見上げた清田は、またため息をついた。

「何やってんだこんなところで。またパチンコか?」
「いや、洋平のところに行くんだ」
「誰だよヨーヘイって」

桜木も熱いのだろう、お互いギャンギャン騒ぐ気力がないようだった。

「てか湘北も盆休みかよ、どこもおんなじだな」
「休みは4日間だけだけどな」
「ま、うちもそんなもんだ。そういや湘北はもう新体制になったのか?」

桜木は「シンタイセイ?」と言いながら首を傾げた。

「赤木さん引退したんだろ。キャプテン新しくなったのかって」
「ああ、ゴリとメガネ君は引退。新キャプテンはリョーちんがやってる」
「木暮さんも引退か……って三井残るのか!?」
「冬まで残るとか言い張ってるんだよな。すぐヘバるくせによ」

そう言いながら桜木がへらへら笑っていると、その桜木の向こうから女の子の声が飛んできた。

「あれっ、桜木じゃん、どしたのこんなとこで。練習は?」
「ああ? お、なんだか」
――っと、ごめん、友達いたんだ」

桜木の後ろからひょいと声の主が顔を出した。桜木が大きいので、清田の姿が見えていなかったらしい。その女の子は清田に気付くと片手を口元に当てて、気まずそうに会釈をした。だが、友達とは清田も桜木も聞き捨てならない。それは大変な間違いである。

「友達じゃねえよ」
「友達じゃないけど」
「ちょ、そんなふたりしてハモらな――あっ、清田くんだっけ?」
「は?」

おそらく湘北の生徒であろうそのという女の子は清田の顔を見上げると、口元に当てていた手を浮かせて人差し指をピッと立てた。だが、清田はこの女の子に見覚えはなかった。誰だ。

、こいつのこと知ってんのか?」
「ううん、知り合いじゃないけど、中学の時見たことあって。清田くんじゃなかった?」
「いや、確かに清田だけど。ああ、試合見たとか? 女バスだったのか」

清田はもちろん中学もバスケ部だったし、県大会上位に食い込むほどではなかったにせよ、練習と試合で3年間使い切ってきた。そのどこかで名前と顔を覚えられたのだとしても不思議はない。が、高校と違って活動範囲が狭い中学のこと、いくら清田が騒いだところで目立つのにも限度がある。それなのにこの子は覚えていたのか。

淡い緑と黄色のグラデーションのロングワンピースを着ているという女の子は、夏の日差しが白い肌に照り返して、きらきらと輝いて見えた。耳に揺れる小さな赤いピアスが少し色っぽい。けっこう可愛いじゃん、と思った清田は束の間、暑さを忘れた。

「ごめん、そーいうわけでも。友達が追っかけしてたから」
「追っかけ!? こいつのか!?」

ちょっと口元が緩みそうになった清田を桜木が指差す。だが、さんはまたふるふると首を振る。

「ううん、流川の。私富中だったからさ」

清田と桜木、顔を合わせるたびにどうでもいいことでギャンギャン言い合って騒ぐふたりだが、唯一共通してライバル視しているのが流川である。ふたりとも急に面白くなさそうな顔をしてケッとそっぽを向いた。流川の名前なんて休みの日にまで聞きたくなかった。

「いや、そんな顔されても。私が流川の追っかけしてたわけじゃないし」
「でも追いかけてウチに来たんだろーがよ」
「そんなこといつ言ったよ。友達は確かに追いかけてきたけど、私は別に。近いからってだけ」
「それも流川と一緒じゃねーか!」
「知らないよそんなこと!」

それにしてもこのという女の子は、桜木に対しても臆することなく平気で言い返している。桜木が流川と違って女子人気に乏しいのは、ひとえに怖いからだ。だけどこの子は平気なのかと清田は少し感心した。

「あんたよく平気だな、こんな野生児相手に」
「まあ、大きいだけで個人的には害を感じないからね。今クラス一緒だし」

そう言ったさんの額から汗が伝い、頬を通って顎からぽたりと落ちた。

「あーもう、大きな声出したら一気に汗が出たじゃん。桜木、ジュースおごって」
「なんでだ!」
「おー、いいな、オレにもおごれ」
「ああ!?」

そもそもが暇を持て余していた清田はさんに乗っかってにやにやと笑った。都合のいいことにすぐ近くに大きなファストフード店がある。本当に物怖じしないさんが桜木の背中をぐいぐい押すので、清田もまたそれに倣ってファストフード店に押し込んだ。

だが、桜木の方は友人のバイト先に押しかけて昼飯をたかる気でいたらしく、財布の中身は全部で150円だった。しかしファストフード店の店内が涼しいので桜木は機嫌がよくなってしまい、それならここで帰る、という気にはならなかったようだ。

「もー、なんなの。後で水戸に請求するわ。まったくもー」
、オレコーラL」
「図々しいなほんとに。清田くんは?」
「何言ってんだオレはいいよ。てか桜木の分出すのか?」
「しょーがないじゃんここまできたら。後でこいつの友達に出させるからいいよ」
「ポテトもL」
「桜木お前なあ。いいよ、じゃあ、君の分オレが出す。何がいい?」
「えっ、いいよそんなの、大丈夫だよ」

さんは慌てて手をパタパタ振るが、清田はそれには応えずににんまりと笑ってみせた。それにたじろいださんはちょっと首をすくめると、ぼそりと「アイスティー」と呟いた。桜木の方は既に席を探しに行ってしまっている。

「あのバカ。あとでちゃんと代金徴収しなよ」
「うん。なんかごめん、ありがとう」
「気にしない気にしない」

桜木用のドリンクとポテトを買ったさんはオーダーが揃っても清田を待っていた。清田が自分のドリンクとふたつトレイに乗せて戻ってきたところで、またお礼を言って、並んで歩き出した。桜木は既に店の奥の方にどっかりと座っている。夏休みの昼前で店内は人が多いが、その周りだけ空席になっている。

それに少し呆れつつ、清田はこのさんという女の子に対して、いい子だなという印象を受けていた。友達が流川の追っかけというのは気に入らないけれど、あの桜木に対してビビることもなく、自分が言い出しっぺとはいえ、ちゃんと桜木にも買ってやり、清田を置いてさっさと行ってしまったりもしない。

「桜木、これ食べたら水戸のところちゃんと行きなよ」
「はいはい」
「お前な、女の子に出してもらってて何だよその態度は」
「無理無理、こいつにとって女の子は晴子ちゃんだけだから」
「ハルコちゃん?」
「余計なこと言うな!」

桜木が途端に唸りだしたので、さんは黙る。が、清田はなんとなく想像がついていた。試合の時に湘北の制服がいたような。いつも同じ女の子グループだった気がする。からかっていじってやりたいけれど、さんにとばっちりがいってしまっては困るので清田はぐっと耐える。

と、清田が我慢しつつオレンジジュースを啜っていると、桜木の携帯が鳴り出した。

「おー、ワリィ、行こうとしてたんだけどよ。あー、そう、そうしようと思って」

なんだかだらだらと喋っているなと思っていたら、その電話の相手が喋りながらやって来た。

「どーいう組み合わせだよ、海南とって」
「おー、水戸、バイトおつかれー」
「そこでばったりな」
「海南て。名前じゃねーんだけど」
「おーすまんすまん、じいのとこのだよな」
「じいって言うな!」

へらへらと笑いながら、水戸はさんの隣に腰を下ろした。さんはという名前らしい。

「てか桜木の友達ってあんたか? こいつ150円しか持ってなくて彼女に買わせてたぞ」
「マジか! すまん、いくらだ」
「ごめんね。Mサイズ一杯くらいならともかく、LとLだもんで」
「何言ってんだ、悪いのは花道の方だろ。ありがとな」

水戸は慌てて財布を引っ張りだすと、に千円札を押し付け、お釣りを返そうとするのを押しとどめた。

「洋平、飯まだなんだろ。何食う?」
「あー、はいはい、んじゃまたな。海南の野猿もじゃーな」
「野猿って言うな!」

まるでと清田のことなどどうでもいい様子の桜木が腹を鳴らしているので、水戸はさっさと彼を連れて店を出て行った。うるさいのがいなくなってホッとしたと清田だったが、そこで突然ふたりで取り残されたことに気付いた。初対面で、しかも顔を合わせてからまだ1時間も経っていないというのに。

「えーっと、ちょっと儲かっちゃったんだけど、なにか食べる?」
「いいよそんなの。とっときなよ」
「あっ、じゃあさっきのアイスティー代、出すよ!」
「それもいいって。ジュースの一杯くらい、おごられときなよ、女の子なんだから」
……そーいう問題かな」

言いつつ、はまた首をすくめて照れくさそうな顔をした。

「てかほんとに桜木でもあんなヤンキー風でも全然平気なんだな」
「んー、湘北はああいうの多いからね。清田くん今どこなの?」
「海南」
「あっ、さっき水戸が言ってたのそれか! 海南かあ、富中からも何人か行ってるはずなんだけど」
「そうだっけ? あんまし中学の話とかしないからなー」

清田はとぼけてみせたが、富ヶ丘中から海南大学附属高校バスケット部に入部してきた2名はインターハイの予選を待たずに退部している。海南に入ったことで気が大きくなったのか、近所の県立に行った流川をバカにしていたが、2ヶ月ともたなかった。

「流川の追っかけしてた子とは今ちょっと離れてて、バスケのことはよくわかんないんだけど、海南て強いの?」

が無垢な顔をして言うものだから、清田は危うくジュースを吹き出すところだった。

「まーな。一応インターハイ準優勝だから」
「じゅんゆ……嘘!?」
「ほんと」

アイスティーのカップ片手にはぽかんとしている。口もちょっと開いたままだ。こういう反応は何度見ても気分がいい。清田はテーブルに肘をついてにんまりと目を細めた。さて、このちゃんはどんな言葉でオレを褒めてくれるだろう。湘北の子だけど、ファンになってもいいんだぞ。

……ってあれ? じゃあなんで流川が全日本ジュニアに呼ばれてんの?」

今度は清田がぽかんと口を開ける番だった。よりにもよってそれを打ち返してくるなんて!

「そ、それはオレが決めることじゃねーし……
「まあそうだけど。まあまだ1年だもんね、湘北は部員少ないからアレだけど――
「いやオレ今年ずっとスタメンだから!」

だんだん苛々してきた清田は、なんとか笑顔を作りながら、だけど少し強く言ってしまった。

「つか流川の話はいいよもう。ホントはあいつのファンなんじゃねーの?」
「違うって言ってるじゃん」
「にしては詳しいじゃん」
「だからその追っかけしてた子が」
「今はちょっと離れてるんじゃなかったのかよ」

淡々としてはいたけれど、言い合いになってきた。清田も一応、が本当に流川のファンなんだろうとは思ってない。県内の高校バスケット勢力の情報は知らなくても、ミーハーな追っかけの友人であれば、そりゃあ全日本ジュニアは自慢しに来るだろう。それもわかる。だけど悔しいのでつい八つ当たりをしてしまった。

「そりゃ離れるよ。見たことあるでしょ、あの流川楓親衛隊。あれをやれっていうんだもん」
「あの中に友達いんの!? すげーなおい」
「てか桜木といい、なんでそんなに流川が嫌なの?」
「そりゃだって――

モテるからだ。だけど、それを女の子に向かって言いたくない。というか流川の場合、後輩にも好かれまくっていて、中学生の頃対戦した時はそれにも苛々したものだった。

「まあ、負けて悔しいのはわかるけど――
「それは関係ないだろ!」
「そんなに怒らなくたっていいじゃない」
「わかったような口利くからだ」

中学3年の最後の試合、清田は流川が4番を務めるチームに負けた。流川本人は何も言わなかったけれど、流川の後輩は先輩の威を借って「流川先輩に勝てるわけねーだろ」などと不遜なことをこそこそ言っていた。それを咎めない流川や監督にも腹が立って、以来清田は流川と富中を毛嫌いしている。

「なんでそうみんなバスケのことになると熱くなるんだろ」
「当たり前だろ、みんな一生懸命やってるんだから」
「だからそれがバスケじゃなきゃだめな理由って何?」
「バスケが好きだからだ。それしかないだろ」

納得が行かないようで、は難しい顔をしている。

「そっちはそーいうのないのかよ。部活とか、将来やりたいこととか」
「あー、そういうの全然ない。帰宅部だし」
「なんかそれってつまんなくね?」
「それがデフォだもん。いいよねえ、好きなことが得意でそれが人より上手いんだから」
「ま、まーな……

はぼんやりした目でそう言ってアイスティーを啜った。

それを清田もぼんやりとした目で見つめていた。夢中になるものがないよりはマシなのかもしれないけれど、全国2位なのに全日本ジュニアに呼ばれたのは自分じゃなくて流川。試合では湘北に勝ったけれど、自分が流川に勝ったわけじゃない。それは自分が一番よくわかってる。

桜木にしてもそうだ。あんなド素人、同い年というだけで、自分と比べる対象にすらならないはずだった。なのに、あの目立つ頭と奔放なプレイで「湘北の赤頭」はすっかり有名になってしまった。いくら清田がスーパールーキーだと名乗って歩いても、海南にはその遥か上を行く牧という有名人がいるので浸透しづらい。

さっき水戸が「海南」だの「じいのとこの」と言ったように、あくまでも清田は海南の1年だ。対戦したチームや熱心に選手を分析するような人ならともかく、例えば対戦相手の応援に来た生徒や保護者にまで広く名が知れ渡るほどじゃない。何しろ先輩たちの方が強烈過ぎて。

お盆休みで部活からは切り離されているというのに、妙な展開のせいで自身の置かれている立場を再認識させられてしまった清田は柄にもなく凹んだ。しかしそれを表に出すのはプライドが許さない。

「自分に合ってることが見つかってるって、超うらやましい」

へらへらと笑いながらそんなことを言うにも、なんと言い返せばいいかわからなかった。